第三章 街にかかる天気雨
第11話 生きた線
畳の上に敷き布を置き、和紙を重ねて文鎮で留める。
私は覆いかぶさるように腕をつき、筆を紙に下ろした。
べとんと筆先がつく。ぐぐぐっと縦に線を引く。紙がうねり筆を妨げる。力づくで動かしていく。
そうやって五本目の線を引き終わって、私は体勢を戻した。
「できた」
ぺたんと座り、満足して息を吐く。与えられた練習用の筆を、すずりに戻した。
絵巻屋の弟子になった私は、お店の手伝いの合間に絵の練習をするようになっていた。
今日の課題は、一枚の紙に線をまっすぐに五本引くだけのものだ。
馬鹿にされているのだろうかと思いながらやってみたが、これがなかなか難しい。
筆先はすぐに斜めに逸れてしまうし、墨はかすれてしまう。同じように力をこめつづけるのも大変だ。
だが、練習用に渡された和紙に全部線を引き終えた今では、最初よりかなり上達している気がする。
紙を取りながら顔を上げると、見守っていた化身とたぶん目があった。
「墨ついてるよォ」
「む」
布巾で鼻をごしごしとこすられる。ちょっと痛くて顔を振ろうとすると、化身はまた声を上げて笑った。
内心むっとしながらできあがった課題を持って、店の表のほうへと出る。
いつも通りの文机の前に、絵巻屋は座っていた。唇には細長い形のたばこがくわえられていて、今日も煙がゆらゆらと揺れている。
「おい」
声をかけ、隣に腰を下ろす。資料らしき巻物を見ていた絵巻屋はこちらにちらりと視線を向けた。
「できたぞ」
両手で作品を彼に突き出す。彼はそれを片手で受け取ると、ただでさえしわが寄っている眉間にさらに力をこめた。
「
「なんだ」
「ミミズがのたくった跡のほうが幾分かマシですね」
言い放たれた言葉の意味がわからず首をかしげる。ふよふよとやってきた化身がそっと耳打ちした。
「まだまだすごく歪んでるってことだヨォ」
「……そうか」
どうやらあまりいい意味ではなかったようだ。上達したと思っていたのが少し恥ずかしい。
そんな私に、絵巻屋は練習用紙を突き返してきた。
「せめて蛇が通った跡ぐらいにはなるように努力しなさい」
蛇が通った跡?
いまいちピンとこない。私はこてんと首を傾げた。
「蛇?」
「こう、ニョロニョロってやつサ」
化身が人差し指を立てて、宙にぐねぐねと曲がりくねった線を描いてみせる。
「ニョロニョロ……」
「こういうものですよ」
絵巻屋は置いてあった一枚の紙にさらっと一筆で何かを描いて、私に手渡してきた。
受け取った私は目を見開く。
そこに描かれていたのはたった一本の線だった。三回だけ緩やかに曲がりくねった黒い線。その太さはなめらかに変わっていて、勢いに満ちている。
単純な線なのにまるで生きているみたいだ。
「すごい」
素直な誉め言葉が口からこぼれる。
私はバッと顔を上げて絵巻屋を見た。
「私もこれぐらい描けるようになるか」
絵巻屋の眉間にしわが刻まれる。
「敬語」
「描けるようになるますか」
尊敬のまなざしを絵巻屋に向けていると、彼はむずがゆそうに眼を泳がせた後、ふいっと机に向き合ってしまった。
「アナタの努力次第ですね」
ぶっきらぼうな言い方だったが、希望がないというわけではない。
期待されている気分になった私は、蛇の紙をぎゅっと握りしめながら首を縦に振った。
「わかった。努力するます」
「その意気ダヨォ」
すぐに隣の空中に寝転がっていた化身が、頭をぐりぐりと撫でまわしてくる。力が強すぎて私は顔をしかめた。
絵巻屋は短くなったたばこを指で挟んで灰皿に押し付けた。筆をひょいっと動かして新しいたばこを取り出し、それに火をつける。
「今日はそのあたりにして店の手伝いに戻ってください」
「はいます」
うなずいてから、貰った蛇を丁寧にたたむ。絵巻屋はそんな私に視線だけを向けた。
「とりあえず顔を洗ってきなさい」
きょとんと首をかしげる。絵巻屋はくるんと回した筆の柄で私の顔を指してきた。
「顔に墨がついていますよ。拭ったせいで余計広がっています」
内心驚きながら右手でぺたんと顔を触ったあと、化身にじとっとした目を向ける。
「お前のせいか」
「アー、ゴメンゴメン。そんなつもりじゃなくてサ」
「なぜ黙ってた」
化身はアハハと乾いた笑いを浮かべながら、くるりと身をひるがえした。
「待て」
「ハハ、ゴメンってバ」
笑うのをやめようとしない化身を捕まえようと、バタバタと追いかける。
ひらひらと翻る着物の裾を掴もうとしているうちに、私は店裏の水がめに案内されてしまっていた。
仕方なくひしゃくで水をくんで顔を洗う。ぴちゃぴちゃと水を顔にかけていると、化身がまた布巾を差し出してきた。
まだ楽しそうな雰囲気の化身を、私はジト目で見上げる。
「あとで覚えていろ」
「フフ、じゃあ覚えてることにするネェ」
いまいち相手にされていない気がする。内心さらにムッとしながら、足音荒く店へと戻る。
すると、ちょうどお客様が絵巻屋を訪ねてきたところのようだった。
「お邪魔します」
入ってきたのは緑色の和服に前掛けをした男性だ。前掛けに書かれている字は読めないが、どこかのお店の人だろうか。
「いらっしゃいませ、ます」
男性は私を見て「えっ」という顔をした後、私が着ている羽織をちらりと見て何かを納得した様子だった。
「いらっしゃいませ。ご用件は何でしょうか」
そうやって絵巻屋が尋ねると、男性は真剣な面持ちで口を開いた。
「実は、絵巻屋さんに描いてほしいアヤシが出たんです」
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