第10話 カタチをなぞる
紗綾は私を引き連れて、ようやく絵巻屋の前へと帰ってきた。店の中をのぞきこみ、私はハッとなる。
ここまでお金のことばかりに気を取られて忘れてしまっていたが、途中で別の場所に行くなんて。これではお店番失格だ。
私は慌てて店内に駆け込むと、お客様の紗綾を出迎える言葉を口にした。
「いらっしゃいませ、ます」
「ふふ、変な子ね」
お店番として改めて挨拶しただけだというのに、紗綾はくすくす笑っている。
いまいち真剣にとられていない気がして内心しょんぼりしていると、紗綾は頬に手を当てて困った顔をした。
「それにしても絵巻屋さん、まだ帰ってきてないのね……」
はぁ、とため息をつく紗綾に、私は手をぱたぱたと動かして主張する。
「一日中いない」
「え?」
「一日中、いない、ます」
最初に店に来た時にも伝えたことを繰り返すと、紗綾はだんだん目を丸くして、あちゃーと言いながら額を押さえた。
「本当に一日中いなかったのね……」
「だからそう言ってるます」
ようやく納得してもらえて、ホッと息を吐く。
紗綾は深くため息をついた。
「今日はこの後デートの予定だったの」
デート。恋人と出かけるあれか。
「あーあ。新しい服にしたかったなあ……」
なるほど。紗綾はそのために新しい服を求めてこの店にやってきたということか。
私は納得する。
そして、しょんぼりと肩を落とす紗綾を見て、私は考え始める。
自分の服を見る。紗綾に買ってもらった上等な服だ。清潔だし、動きやすい。だから、新しい服を着るのがうれしいというのは、なんとなく、わかる。
私はしたことはないが、デートというやつが特別なのは知っている。特別な時に特別な服を着られなかったのは、悲しいことだろう。
視線を落とし、自分の手を見る。なぜか持ち出してしまった筆が握られている。
紗綾は絵巻屋に新しい服にしてもらうと言っていた。
……絵巻屋のようにこれを使えば、紗綾を慰められるだろうか。
「おい」
声をかける。彼女は顔を上げる。
「描く」
こちらに向いた彼女の目をまっすぐ見る。
「私が、服描くます」
ふんすと鼻息荒く宣言すると、紗綾は目をまんまるにして尋ね返してきた。
「お嬢さんが?」
「そうだます」
深くうなずく。しかし紗綾は、優しく微笑みかけてきた。
「ふふっ、気持ちはうれしいけれど、あなたは絵を描くのも初めての初心者でしょう?」
「む……」
言われたとおりだ。私はきっとまともに絵を描いたこともなくて、紗綾の期待にこたえるような作品が描けるとも思えない。
それでも、一緒に街を回ってくれたお礼はしたいと思った。
デパートでは目が回ったし、おだんごは美味しかった。無茶苦茶だったけれど、たぶん楽しかったのだ。
私もしょんぼりした気分になりながら顔を伏せようとしたその時、ふわっと落ちてきた何かによって、私の視界は遮られた。
「わぶっ」
「あら?」
顔に張り付いたそれを取る。それは、一枚の紙だった。
「あらあら? それって絵巻屋さんがお仕事で使う紙じゃない?」
覗き込んできた紗綾が言う。
「それに描くと存在定義? を上書きできるのよ! へぇ、あなたも使えるのね!」
感激した様子の彼女を置いて、私は考える。
絵巻屋と同じ紙。それなら、少しは彼女を満足させられるかもしれない。
「……よし」
筆を持ち上げ、その先を目の前に掲げた紙に向ける。ちらりと紗綾を見る。
スッ……と、頭の奥が冷える感覚がした。
「描くます」
筆先が紙に触れる。墨が紙にじわりとにじむ。
――カタチをなぞる。
不思議とそんな言葉が頭に浮かぶ。
まるで誰かに導かれているかのように筆がすらすらと紙の表面を動いていく。止まり、曲がり、彼女のための服を形作っていく。
やがて、一枚の絵が完成した。
ふわふわと浮かんでいるような感覚が解け、私は紙から筆を離す。できあがった絵は、とても自分が描いたとは思えないほどしっかりとした線で描かれていた。
「紗綾」
名前を呼び、彼女に絵を手渡そうとする。
その時、絵が描かれた紙はふわりと浮かび上がり、彼女の体に張り付いた。
「きゃっ」
「!」
絵は一瞬でしゅるりと彼女に溶ける。すると次の瞬間、彼女の服装は全く違うものに変わっていた。
「えっ、この服……」
彼女が新しく身に着けていたのはロリータ服だった。デパートで私たちが見つけて、自分には似合わないと彼女が言ったあの服だ。
「どうして……?」
一体何が起こったのか全く把握できていなかったが、その問いの答えだけは持っていた私は口を開いた。
「紗綾、私にこの服、着せようとした、ます」
とぎれとぎれになりながら、なんとか説明しようとする。
「私をかわいくしようとした。なら。この服、かわいいと思ってた、ます」
本当にただ不思議な服だと思っていたのなら、かわいくしようとしていた私に着せようとはしないはずだ。だから――
「本当は自分も着たかった。違うか?」
小さく、紗綾が息をのむ音がした。
私は彼女が何度も繰り返していたことを、堂々と言う。
「乙女は着たい服を着るものます」
そう言い放つと、紗綾は何度もまばたきをし、それからとても穏やかな顔になった。
「ありがと。おかげで目が覚めたわ」
思ったよりも静かに感謝され、私は内心首をかしげる。しかし、次の瞬間には紗綾はいつものテンションを取り戻していた。
「そうよね。服は好きな服を着るのが一番だものね! 私は好きなものを好きなだけ着ることにするわ!」
そう言って嬉しそうにくるりとターンする彼女に、私はほっと胸をなでおろす。
よかった。何がどうなったのかまだ理解できていないけれど、お礼をすることはできたみたいだ。
きゃっきゃっと笑いながら彼女がスカートの裾を遊ばせているのを眺めていると、店の表のほうから草履で土を踏む音が聞こえてきた。
視線を向ける。入ってきたのは、予想通り絵巻屋と化身だった。
「あら、お帰りなさい! 遅かったじゃない!」
満面の笑みで彼らを迎えた紗綾に、絵巻屋は面食らった顔をしている。化身も顔は見えないが、びっくりしているようだ。なんだかおもしろい。
絵巻屋はちょっとのけぞった後、コホンと咳払いをして気を取り直した。
「いらっしゃいませ、紗綾さん。今日は一日いないと伝えたはずでしたが」
「そんなことよりどういうことよ、絵巻屋さん! こんなかわいい子に粗末な服を着せるだなんて!」
すごい勢いで、紗綾は絵巻屋に詰め寄っていく。
「あんまりにもあんまりだったから、『路異』さんに連れていって服を見繕ってもらったわ! 本当はもっとキラキラしたものにするつもりだったのだけど、彼女がこれがいいって言うからね! やっぱり乙女は好きな服を着るのが一番じゃない? あ、代金は絵巻屋さんにツケておいたからよろしく!」
知っている。これはマシンガントークというやつだ。
それを正面から食らった絵巻屋といえば、頭痛をこらえるようにこめかみに手を当てて顔をしかめていた。
「……服装を変えるのもこの子の『カタチ』に影響が出るかもしれなかったんですよ」
「ふうん、事情があったのね。だからって乙女の服をないがしろにするなんてひどい男ね!」
「話聞いちゃくれないナァ、コリャ」
ちょっと離れた場所に浮く化身が、半笑いの声を上げる。
「ああ、そうだ。茶屋で一緒にお団子も食べたの! おいしそうに食べてくれて私のほうが幸せになっちゃったわぁ!」
「ヨモツヘグイまで……」
「アチャー……」
二人して額に手を当ててうつむいている。
なんだか知らないがまずいことをしてしまったのだろうか。
絵巻屋はひとしきりそうしていたあと、一度大きくため息をつき、紗綾が着ている服に目をやった。
「それより紗綾さん。そちらの服はどうされたんですか」
紗綾は目を輝かせた。待ってました! という顔だ。
「聞いて、すごいのよ! この子、私が本当にほしいものを当てて描いてくれたの!」
絵巻屋の視線が私に向く。私は身を縮こまらせて何を言うべきかちょっと迷った後、実際にあった通りのことを答えた。
「見えた、から、描いたます」
その答えがお気に召さなかったのかもしれない。絵巻屋の視線はさらに険しくなった。
そんな私たちに気づいていないのか、紗綾は明るい声を上げた。
「あっ、もうこんな時間ね。私、デートに行かなきゃ! お代はここに置いておくわね!」
文机の上にお金らしき紙が数枚置かれる。
「ありがとう、お嬢さん! また来るわね!」
大きく手を振りながら、最後まで騒がしく紗綾は去っていった。
残されたのは、険しい目つきのまま沈黙する絵巻屋と私たちだけだ。
ちらりと絵巻屋を見たが、やはり黙りこくっている。ふわふわと近づいてくる化身はどこか心配そうだ。
何を怒っているのだろうか。
私はちょっと考え、すぐに心当たりにたどり着いた。
そうだ。私はお店番をほったらかしにして街に行ってしまっていた。
慌てて私は頭を下げる。
「……ごめんなさい。お店番、できなかった」
「なぜその筆をアナタが持っているんです」
予想外の内容で、硬い声が降ってくる。
私は顔を上げ、睨みつけてくる彼の目と目があい、手に握ったままの筆に視線を戻した。
そうだ。これは開けてはいけない箱に入っていたものだった。そんなものを持っているなんて、悪いことだ。
ぶるりと体が震える。
「勝手に」
怖くてひきつってしまいそうになる喉で、なんとか声を発する。
「勝手にあった、ます」
こんなことを言っても言い訳にしか聞こえない。
きっと叱られる。たたかれる。ううん。それより、もうここにいられないかもしれない。
私にはもう、行く場所はないのに。
筆をぎゅっと握りしめる。悪いことをしてしまった。泣いてしまいそうな気分なのに、視界は涙でゆがまない。
数秒なのか、それとも数分だったのか。
長い長い沈黙の後、絵巻屋は頭上ではぁーーーっと深く息を吐いた。
「……まさか筆に気に入られるとは」
きょとんとして彼を見上げる。怒鳴られなかった。どういうことだろう。
私の疑問に答えることなく、絵巻屋はこめかみを何度か揉むと、やけに真剣な顔でこちらを見下ろしてきた。
「お嬢さん。アナタは絵を描きたいですか?」
絵を?
どういう意味の質問なのかわからない。だけど、意表を突かれてしまった私は、つい素直にそれに答えてしまってた。
「楽しかったます」
言ってしまってから、まずい、と口を押さえる。
しかし絵巻屋は私をとがめることなく、まじめなかおで真正面から、私に問いかけてきた。
「――私の弟子になってみますか?」
絵巻屋の、弟子?
私がその言葉の意味を飲み込む前に、ぎょっとした動きをしたのは化身のほうだった。
「な、何言ってンダヨ、絵巻屋! この子は神様に帰すって話じゃないカ!」
化身はかなり慌てているようで、ばたばたと大げさに身振りをしている。
「神様から横取りしたなんてバレたら面倒ダッテ!」
「彼女の神様が見つかるまでの話ですよ」
「でもヨォ……もし見つからなかったらこの子は……」
言葉を濁し、化身はちらりと私に視線を向ける動きをした。
何が何なのかわからず、私は彼に首をかしげる。彼は私から顔をそらした。
「いいのかイ、絵巻屋……?」
「筆が選んだんですよ。彼女にはその資格があります」
情けない声を上げる化身に、かたくなな声で絵巻屋は返す。
私は耐えきれなくなって、二人の会話に割り込んだ。
「お、おい! 私を……怒らないのか」
「怒りませんよ。……いえ、店番を放置したのはいただけませんが」
しゅんとして小声で「ごめんなさい」と言う。だが、絵巻屋は「そんなことより」と話をつづけた。
「今は、あなたが私の弟子になるのかという話のほうが重要です」
私は目をぱちくりとさせながら、オウム返しに彼に尋ね返す。
「弟子?」
「私の下について絵の勉強をしないか、ということです」
絵の勉強。絵巻屋の下で?
ちょっと考えて、私は問い返した。
「お絵描きするのか」
「まあそうですね」
「イヤイヤ、お絵描きってレベルじゃないんだけどネェ」
化身が苦笑いをこぼす。
まだ完全に事態を把握はできていない。だけど、絵巻屋が不思議な絵を描いているのは知っている。
もし、私にもそれができるようになれば。
「それをしたら」
確かめるように慎重に声を発する。
「お前たちの、役に立てるか」
絵巻屋をじっと見上げる。
役に立ちたい。手助けをしたい。ここにいさせてほしい。そんな思いばかりがぐるぐると頭の中で渦巻いている。
絵巻屋はそんな私を見下ろし、どこか疲れたような顔でふっと笑った。
「そうですね。役に立つと思いますよ」
とたんに胸の中に満ちたのは、きっと安心だ。ここにいていい。二人はそれを許してくれる。
私は迷わず、大きくうなずいた。
「やる」
絵巻屋は安堵したように息を吐くと、筆を取り出して、一振りした。
どこからともなく紙が現れ、そこからさらに一枚の服が現れる。黒色のそれはふわっと私の肩にかけられた。
首を動かしてぶかぶかのそれの背中を見ようとする。絵巻屋が羽織っている羽織と同じ色で、彼と同じようなマークがついていた。
「お前とおなじ?」
「仮で差し上げます」
余ってしまっている袖を握りながら、私は絵巻屋に視線を戻す。
「見習いの証です」
「見習い」
特別なものを与えられたのだと知って、私は何度も体をひねって羽織を確認する。
うれしい。すごく、うれしい。
「絵巻屋の見習いになるのなら名前も必要ですね」
顔には出せないまま浮かれている私に、絵巻屋は一枚の紙をかざした。
「絵巻屋の仕事は本質を描くこと。幸いにもアナタには、『見る』才能があるようです」
彼を見上げる。紙の隙間から見える彼の目は、私の顔とは違う輪郭をなぞっているように見えた。
「カタチを見て、モノを写し取る存在に」
筆が走る。薄い紙に、二つの漢字が描かれる。紙が飛来して、ふわっと掻き消える。
「今日からアナタは『
――突然、世界がはっきりとした気がした。
今までは違和感がなかったのに、まるで今まで夢の中にいたかのような不思議な感覚だ。
急に足が地面について、体重が体にかかる。ふらついてしまいそうになるのをなんとかこらえる。
「これでアナタは私の弟子です」
鮮明になった視界で絵巻屋をとらえる。彼はこれまでの印象と同じように、むすっとした顔をしていた。
「いいですね、
私は深くうなずいた。
「うん」
絵巻屋の眉間のしわが深くなり、筆をくるんと回した。
ぺちんと筆の柄が頭に当たる。
「敬語」
「ハイ」
「よろしい」
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