第9話 不思議な筆
勢いで買わされた動きやすい洋服を着て、上機嫌に歩く紗綾の後ろをついていく。
紗綾は服でパンパンになった袋を軽々と持っている。細い腕なのにすごい力だ。
「んーちょっと疲れたわね。茶屋にでも寄りましょうか」
くるりと振り向くと、紗綾はさっさと道向こうの茶屋へと入っていってしまった。
「む……」
仕方ない。帰り道もわからないから従うしかない。
私は小走りでその背中を追いかけた。
「好きなのを頼んでいいのよ。お姉さんがおごってあげちゃう!」
隅の席に腰かけた紗綾が、お品書きを手渡してくる。私は顔をしかめた。
どうやら文字が書いてあるようだが、達筆すぎて私には読めない。
私はちらりと紗綾を見たが、にこにこと笑うばかりでこちらの苦悩には気づいていないようだ。
それに――ここで彼女に聞くのはなんとなくいやだ。私は一人でできるのだ。一人でなんとかしなければ。
きょろきょろと周囲をうかがう。すぐ近くの席の男性が、おだんごを食べているのが目に入った。
私は向かいに座る紗綾を見上げた。
「おだんご」
「ん。お団子ね。おじさーん! お団子二個お願い!」
「あいよー」
気が抜ける返事の後、ちょっと待っているとお団子がやってきた。腕が四本ある男性が皿を運んでくるのを、内心ぎょっとしながら迎える。
「いっただっきまーす」
紗綾は串をつまんで、みたらしだんごを口に運ぶ。私はそれをじっと観察した後、串を握っておだんごに噛みついた。
もちもちのおだんごがぐにっと伸び、表面にかけてある茶色のたれが口の中に広がる。その甘味が全身に染み渡るような気がして、ふと私は気が付いた。
そういえばこの異界に来てから、まともに食事を取るのも初めてかもしれない。
絵巻屋も化身も私に食事をさせようとしなかったから、気が付かなかった。
もう一口、おだんごにかぶりつく。
「美味しい?」
もぐもぐと口を動かしながら、私はこくりとうなずいた。
口に物が入っているときにしゃべってはいけないのは知っている。
もう一つおだんごを口の中に入れ、最後にんくっと飲み込む。ふう、と満足した息を吐いていると、紗綾はくすくすと笑いながら私に手を伸ばしてきた。
「たれがついちゃってるわよ」
手ぬぐいの端で口元を拭われる。
自分がうまく食べられなかったことにがっかりして、私は目を伏せた。
「ごめんなさい」
やけに滑らかに出た謝罪の言葉。
それを受けた紗綾は小さく笑った。
「そういう時はね、『ありがとう』って言うのよ」
顔を上げる。紗綾には怒っている様子も、失望している様子もない。
私はちょっと言葉に迷った後、教えられたとおりに言ってみた。
「ありがとう、ます」
「ふふっ、変なの」
慣れないおだんごと格闘し終わり、べたべたになった手と口を手ぬぐいで拭かれる。
食後のお茶にふーふーっと息を吹きかけていると、紗綾は私の髪に優しく触れてきた。
「ふふ、可愛いわあ。やっぱり乙女は着飾るのが一番ね」
白い髪を一房持ち上げられ、不思議な思いで彼女の手を見る。
紗綾は私の髪を指先でふわふわと遊ばせながら、ふっと剣呑な目になった。
「それなのにもう、あの男ったら、こんな小さくてかわいい子に粗末な服を着せるなんて。すぐ隣にあーんなに煌びやかな服着た男がいるっていうのにまったく……」
ぶつぶつと小声で紗綾は言う。口からあふれるのは絵巻屋たちを責める言葉ばかりだ。
それがなんだか気に入らなくて、私は声を上げていた。
「おい」
ハッと気づいた顔の彼女を私は正面から見る。
「絵巻屋たちを、悪く言うな、ます」
紗綾は目をぱちくりとさせた後、すぐに申し訳なさそうな顔をしながら私の頭をなでてきた。
「ごめんなさい、あなたにとってはいい上司なのよね」
いい上司。なるほど、たぶんそうだ。
私がいてもいい場所をくれているし、お仕事もさせてもらっている。今日なんて店番を任されたのだ。
絵巻屋も、化身も、とてもいい上司だ。
「あなた、絵巻屋さんにお世話になっているのよね?」
こくりとうなずく。
紗綾の目がきらりと輝いた。
「じゃあ絵を描いてごらんなさいな! 特別に私の服を描くことを許可してあげるわ!」
胸を張る彼女を、私は困惑しながら見る。
「絵、描けないます」
試したことはないが人並には描けるかもしれない。でも、絵巻屋のように上手に描けるはずがない。
しかし紗綾はきょとんと首をかしげた。
「え? そんなに立派な筆、ちゃんと持ってるじゃない」
彼女が指さした先を見る。そこには、見るからに上質な筆が一本置かれていた。
その筆に見覚えがあって、私は目をぱちくりさせる。
これは、絵巻屋に開けるなと言われていた箱に入っていたはずのものだ。しっかりあの時、箱にしまいなおしたはずなのに。
「なぜ?」
疑問を口にするも、筆が返事をしてくれるわけもない。
「ほらほら、描いてごらんなさい!」
紗綾にせかされ、筆を取る。でも私の手は筆の握り方すらおぼつかなくて、こうやって筆を握るのも初めてだということを察した。
「絵、描いたことない」
ぽつりと言う。紗綾は目をぱちくりとさせた。
「一度も?」
「たぶん一度も」
「絵巻屋さんに教えられたことないの?」
こくりとうなずく。紗綾は額に手を当てて天井を仰いだ。
「弟子ってわけじゃなかったのね……」
「違うます」
ふるふると首を横に振る。
紗綾は「うー」とか「あー」とかうなった後、私の持つ筆に目をやって、こちらに身を乗り出してきた。
「ねえお嬢ちゃん。アナタ、お絵描きしてみたい?」
お絵描き。自分の手の中にある筆を見る。
絵巻屋が依頼で絵を描くのは遠目で見てきた。店の中に飾ってある絵もすごく上手なものばかりだ。
あんな風に絵を描けたらかっこいいな、と思わないといえば嘘になる。
「……ちょっとは」
小さく答える。紗綾はパッと表情を明るくした。
「じゃあ、お姉さんと一緒に絵の練習しましょ! それがいいわ!」
勢いに押されて、こくりとうなずく。紗綾は満面の笑みで手を振り上げた。
「おじさん、書き損じた紙とかないー? この子に絵を教えたくて!」
「おう、何枚かあるぞ。好きに使ってくれ」
四本腕の店員に紙を三枚渡される。紗綾はそれを裏返し、私の前に置いた。
絵を描くなら真剣にしなければ。私は絵巻屋がしていたように、ぴんと背筋を伸ばして紙に向かう。
「なんでも好きなものを描いてごらんなさい。そうね、最初だしここから見えるものがいいかも」
好きなもの、と言われてもいまいちピンと来ない。紗綾に助けを求めようとしたが、こちらに笑顔を向けるばかりだ。
私は店の外にうろうろと視線をさまよわせたあと、自分でも描けそうなものが歩いているのを見つけた。
震える手で筆を持ち上げ、紙に下ろす。不思議なことに、筆には墨をつけていないのに紙の上に黒い線を引くことができた。
筆の先をぺたぺたと動かし、耳を描き、しっぽを描く。
じっくり時間をかけて描き上げたそれを、私はばっと紗綾に掲げてみせた。
「……これは?」
「犬だ」
「犬……」
紗綾は何か言いたそうな顔をした後、紙の余白を私に差し出してきた。
「次にいきましょ、次!」
こくりとうなずき、再び筆を取る。
「んーこれは何?」
「鳥だ」
「うーん……」
紗綾は言葉を濁す。私はまた筆を取る。
「これは?」
「おだんご」
「お団子かぁ……」
紗綾はううむと腕を組む。
なんとなく微妙な反応に内心首をかしげながら、私は次の獲物を探した。
店の外ではパラパラと小雨が降りだしていた。空は晴れているのに不思議なこともあるものだ。
雨を避けて軒下に逃げていく人々の向こう側。店の屋根に、何かが座っているのが見える。
――手が勝手に動いた気がした。
「あら?」
紗綾にのぞき込まれ、ハッと私は顔を上げる。かなり集中していたらしい。
目の前の紙には、二本足の生き物らしきものがはっきりとした筆跡で書かれていた。
「これはすごく上手ね。何を描いたの?」
私は向かいの屋根の上を指さす。
「あいつ」
紗綾はそちらに目をやり、首を傾げた。
「何もないわよ?」
内心きょとんとしながら再びそちらに目を向ける。しかしそこには、ついさっきまでいたはずの誰かの姿はなかった。
見間違えだったのだろうか。
「でもかなり上達してきたわね! これは近いうちに誰かに描いてあげる出来栄えになるかも!」
その言葉に紗綾に振り向く。
誰かに描く、か。それはいい考えかもしれない。
「紗綾は何を描かれたい」
手始めに紗綾にそう聞くと、彼女は大声で堂々と宣言した。
「そりゃあ服よ! 私は着せ替え人形! 乙女が好きな服を着られないなんてありえないもの!」
彼女の言葉が店中に響き渡る。
とてつもない熱気だ。その勢いに圧倒され、私はちょっとのけぞった。
「乙女、すごいな」
「ええ。乙女はすごいのよ!」
すごい熱意だ。
胸を張る彼女に思わず小さく拍手する。
紗綾は本当に服が好きで、服のためなら暴走するぐらいなんだろう。
――でも、なんだか何かがズレてる気がする。
そんなことを考えている私に気づかず、紗綾は立ち上がった。
「そろそろ戻ろうかしら! 素敵な服を見せて絵巻屋さんたちをびっくりさせてあげましょ!」
「お、お金……」
思い出した服の代金について頭を抱えたくなりながら、私は彼女の手を握った。
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