第6話 鏡が映すカタチ

 視界の端を通り過ぎたそれは、細いロープのようだった。


 だけど、ロープにしては波打って動いたのは不思議だ。


 するっとベンチの下に消えていったそれを、座ったままのぞき込む。


 さかさまの視界に映ったのは、ベンチの下で首を持ち上げる小さな蛇だった。


「あ」


 思わず声を出すと、蛇はしゅるしゅるとどこかへと消えていこうとした。


 私はそれを見送ろうとして――なぜか立ち上がっていた。


 あれ? と思う暇もなく、ふらりと体が揺れ、足が動く。視線が蛇が消えていった方向に固定されている。


 ふわふわした視界のまま体が蛇を追っていく。どんどん奥へ奥へと進み、狭い隙間を通り、なんだか不思議な感触のあるカーテンを突っ切る。


 そして、次にハッと意識がはっきりすると、私はだだっ広くてやけに寒い部屋に立っていた。


「……?」


 部屋の奥には、大人一人でも余裕で写すことができるほど大きな丸鏡が置いてある。


 あ。ここ、鏡の間だ。


 するとこれが雲外鏡なのだろうか。


 吸い寄せられるように足を進めると、まるで石を歩いているかのような硬い足音が響く。


「…………」


 鏡の表面をのぞき込む。本来ならこちらを反射するはずの鏡は、最初に絵巻屋に見せられた鏡のように、ぐるぐると曇っていた。


 じっとそのまま鏡と見つめあう。


 すると、曇っていた鏡面は、徐々に何かの形を作り始めた。


「………?」


 それは、最初は小さな人影に見えた。どうやら女の子が動いているようだ。


 彼女は体を伸ばしたり縮めたり、たまに飛び跳ねたりしている。


 徐々にはっきりしてくる輪郭を見つめていると、彼女がきらきらした衣装を着ていることがわかってきた。


 女の子はぐるぐると回っている。なんだか見覚えがある。


 そう思いながらさらに見ていると、彼女はばっと両腕を上げて天を仰いだ。そこで、ようやく私は、彼女が何をしているのかに気が付いた。


 そうだ。これ、私がさっき化身に見せた踊りだ。


 少女の姿が鮮明になってくる。くるくると踊っている。彼女の着ている服がしゃんしゃんと音を立てる。そうして動き回りながら楽しそうに笑っている彼女の顔は――やはり私と同じだった。


 ちりん、という音。


 鈴の音が一度響くと、楽しそうな彼女の姿はかききえ、彼女は鏡に向かって座っていた。


 その手には金属でできた小さなコップが握られていて、指が細かく震えている。


 彼女は鏡をじっと見ながら、口を動かす。


「私の――をあげます」


 聞き取れず、ぐらりと体が傾く。


「ぜんぶ、持っていって」


 コップを持つ彼女の手が持ち上げられる。


 中身の液体を一気にあおる。


 のどが動く。飲み干す。


 ぎゅっと目を閉じると、脱力し、肩を落とす。


 ぶるりと体が震える。


 手からコップが離れ、床に転がる。


 両手が胸をかきむしる。


 ごぼりと赤黒い液体が口からこぼれる。


 ひゅーひゅーとのどを鳴らしながら、彼女が床に倒れる。


 彼女は、鏡の中の私は、何かを願うようにこちらをじっと見つめていた。


「………ぁ」


 鏡の中の姿が掻き消え、私は胸を押さえて体をぐらつかせた。


 口を開け、浅く呼吸を繰り返す。服の胸元を握りしめる。


 あれは私だ。思い出せないけれど、あれが私だということははっきりとわかる。


 あれは私だ。今、目の前で血を吐いて倒れたのは、踊っていたのは、何かを飲んだのは全部、私だ。


 胸の服を握りしめる手に力が入る。爪が痛いほど布に食い込む。その下には心臓があるはずだ。鼓動を刻む、私の、心臓が。


 でも――この心臓は、本当に動いているのか?


 よろめく。鏡を見つめたまま後ずさる。嫌だ。これ以上ここにいたくない。この鏡を見ていたくない。


 私は踵を返し、足を縺れさせながら走り始めた。


 ダメだ。ここはダメだ。逃げないと。見たくない。逃げないと。でも、どこに?


 擦り切れた運動靴が床を蹴る。息を切らせる。喉と胸が痛い。痛いはずだ。息をしているはずだ。


 前を向いていられなくなって、俯いたまま駆けていく。部屋は広くて、その向こうにある廊下も長い。


 戻りたい。戻りたい。戻りたい。


 下を向いたまま、角を曲がる。その時、頭が何かにぶつかって、私は派手に尻餅をついた。


 見上げると、私がぶつかったのは長身の男性のようだった。ずるずると裾を引き摺った彼は、糸目をさらに細めた。


「うん? 変なところで迷子に会ったな」


 謝罪を口にしようとした。でも、喉がすっかり乾いてしまって、うまく言葉が出せない。


 男性はお辞儀をするように腰を折り、私に顔を近づけてきた。


「迷子さん、ここは入っちゃいけないところだぞ」

「いけないんだ」「いけない子だ」「悪い子だぞ」


 男の声に重なるように、ざわざわと子供の声が響く。ギョッとしてきょろきょろと首を動かす。彼以外の人影はない。


 彼はそんな私にさらに顔を近づけ、舌をちろりと出した。その舌はやけに細くて二股に分かれている。


「いい匂いがするなあ」


 今更になって、ねっとりと言う彼の頭の横に、一枚の紙が貼ってあるのに気が付く。とぐろを巻いた蛇の絵だった。


 この人、蛇だ。


「美味そうだなあ」

「美味そうだ」「甘そうだ」「きっと肉も血も美味い」


 蛇の男性はじりじりと近づいてくる。その長い裾から、紐のようなものがぞわぞわとあふれ出てくる。私はそれをちらりと見て、後悔した。


 小さな蛇の群れだ。見覚えがある。これは、私をここに誘ったあの蛇だ。


「僕は足をもらおう」「じゃあ私は右腕を」「臓腑はみんなで分けよう」「山分けだ」「なかよく山分けだ」


 腰を抜かしたまま後ずさろうとするも、うまくいかない。見下ろしてくる男性の顔には鱗がぞわっと浮かび、口は裂け、巨大な蛇の顔へと変わっていく。


 小さな蛇たちが私の体に絡みつく。蛇の男性が口を大きく開ける。


 もうダメだ。食べられる。目をつぶることもできずそれを見上げる。


 そのまま蛇は私に覆いかぶさろうとし――その男の眼前に、突然、一本の筆が突き付けられた。


「うわばみの御仁。ここは私の顔を立てて、退いてはもらえませんか」


 体を動かせないまま首だけで見上げる。しっかりと和服を着こんだ男性が、蛇の正面に険しい顔で立っている。絵巻屋だ。


 蛇の男性は無言で絵巻屋と見つめあった後、にいっと笑みを浮かべた。


「なんだ絵巻屋さんのところの子か。それじゃあ食うわけにはいかないな」

「そうだ」「絵巻屋にはお世話になってる」

「惜しいなあ」「惜しいなあ」


 幾重にも重なる声が引いていき、蛇の男性の顔は人間の形へと戻ってくる。そして、そのまま闇に溶けるように彼は静かに去っていった。


「目を離してすみません」


「うわばみの御仁はいつもあの辺りでアヤシの釣りをしてるンだヨ。蛇で誘ってパクって食べちゃうのサ」


 いまだに立ち上がれないでいる私を、絵巻屋と化身がのぞき込む。動揺に揺れる私の目と目が合って、何かを思ったのか二人は合点がいったという顔をした。


「アー、なるほどネェ」


「……そういうことですか」


 顔を見合わせ納得しあう二人に、置いてけぼりにされた私は視線を二人の間にさまよわせる。


「ここ百年は見なかったので、気づくのが遅れました」


「ホントにネ、こんなことあるンだネェ」


 どんな言葉を返せばいいかわからずに口を開けることもできない。絵巻屋はそんな私の前に膝をついた。


「お嬢さん」


 彼のまっすぐな目が私を見据える。静かに私に告げる。


「あなたは、神にささげられた生贄イケニエです」


 いけにえ、と口の中で言葉を転がす。


 生贄。神様に、捧げられた。私が?


「問題はどこの神様にささげられたかわからないことなんだよネェ」


 頭上の化身の声が、まるで他人事のように聞こえる。


「生贄は基本的にささげられた神様の所有物になるんだヨ。だから普通はすぐに神様のところに召し上げられるはずなンだけド……」


 私が捧げられた。生贄として。あんな風に毒を飲んで。倒れて。


 じわじわと二人の言葉の意味が、全身に浸み込んできた。


「私」


 久々に声が出て、体が現実に戻ってきた心地がする。


 私は絵巻屋を見て、息をなんとか吸い込んで、その言葉を口にした。


「……死んじゃった、のか」


 言ってしまった。絵巻屋も化身も答えなかった。その代わりに、痛ましいものを見るような目を向けている。


 自覚した。自覚するしかなかった。詳しいことはまだ思い出せない。でも、私は死んだのだ。その確信だけがはっきりとある。


 悲しいはずなのに、恐ろしいはずなのに、どうしても涙は出ない。顔の筋肉も動かない。


 その代わりに、私の口からは途方に暮れた声が出た。


「私、どこに行けば、いい」


 目を伏せる。自分の体が見える。死んだはずなのに体が動いていて、どんな神様のために死んだのかも、どんな思いで死んだのかもわからず、神様のところにもいけなかった。


 私は、なんのためにここにいるんだ。


 キーンと耳に響くほどの沈黙。存在しえないはずだった呼吸音。それがまた恐ろしくて、さらに下を見る。


 涙は出ない。こんなに苦しい気持ちなのに。


 そんな私の視界の端に、立ち上がった絵巻屋の草履が映った。


「……いいでしょう。一旦、あなたの身柄は私が預かりましょう」


 顔を上げる。見下ろしてくる絵巻屋と目が合う。


「あなたの本当の『カタチ』が見つかるまでです」


 突き放すような言い方だった。でも、その内容は決して冷たいものではない。


 ぽかんと口を開けた後、問いかける。


「私、いていいのか」


 むすっとした顔の無言が答えだった。でも今はそれがうれしくて、胸の中にあたたかいものが落ちてきたような気がする。


「ホラ、立ちなッて」


 化身に手を差し出され、少し迷った後、彼の袖をつかんで立ち上がる。


「ですがタダで養う気はありません。世話になる分、しっかり仕事はしてもらいますよ」


 絵巻屋は、手にしていた筆でぱしんと自分の手のひらをたたいた。


 ぐっと気が引き締まる思いがした。急に自分が息を吹き返したような気分になって、体に力が入る。


 私は強くうなずいた。


「わかった。働く」


 絵巻屋は私の視線を受け止める。化身もその隣でふわふわ浮いている。


 そして、絵巻屋は軽くため息を吐くと、くるりと筆を回して、その柄で私をこつんと軽く叩いてきた。


「うちで働くなら、まずは敬語からですね」

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