第2話 ここは絵巻屋

化身ケシン雲外鏡うんがいきょうを」


「ハイハイ、っと」


 咄嗟に反応できずに立ち尽くしていると、絵巻屋エマキヤは振り返りもせずに化身に指示を出した。それを不満に思った様子もなく、化身は店の奥にふよふよ浮かんで向かっていってしまう。


 その様子を目で追ってから視線を戻すと、絵巻屋は私のことをじっと睨み付けていた。悲鳴をあげることもできず、慌てて目を伏せる。


 まるで、私のことを品定めしているような目だ。実際されたことはないが、蛇に睨まれるとはこういうものなのだろうか。


 うつむいたまま指をきゅっと握っていると、調子はずれの声がゆらゆらと近づいてきた。


「持ってきたヨォ」


 視界の端に朱色の裾が見え、ちらりと視線を上げる。化身はふよふよ浮かんだまま、顔ほどの大きさの鏡を絵巻屋に手渡していた。


「まったくモノ遣いが荒いんだかラ」


 化身はやれやれと肩をすくめる。絵巻屋はタバコを口にはさんで、それを両手で受け取った。


 絵巻屋は文机の下から一枚のお札を取り出して、その表面に貼った。すると、そのお札はするっと鏡の表面に溶けていった。


「お嬢さん、これを」


 手渡されたそれを私はあわてて受け取る。鏡は見た目よりもずっと重くて、落としてしまいそうになった。


 しかし手から離れた鏡は落ちることなく、そのまま私の目の前に浮かび上がった。


「ぇ……」


 驚いて鏡と向き合う。鏡の表面は、まるで水面のように波打っている。


「何が映っていますか?」


 鏡面はぐるぐるとうずまき、迷ったように数秒ためらった後、一人の少女の顔を映し出した。


 ぼさぼさに長く伸びた白い髪に、赤い目。肌は不健康なほど青白く、一切日に焼けていない。そして何よりその表情が異様なものに見えた。


 私は自分の顔をぺたぺたと触る。鏡の中の少女も顔を触っている。私の内心は困惑でいっぱいだ。だけど、鏡の中の私の表情は、まったく動いていなかった。


 唇や頬を軽く引っ張ったりしてみたが、まったく感情というものを表すことができていない。まるで顔の筋肉が死滅してしまっているかのようだ。


「自分の顔がわかっていませんでしたか」


 静かに告げられた絵巻屋の声に、私はハッと気づいて鏡から遠ざかった。


「一応聞きますが」


 絵巻屋の冷静な目が私を射抜く。


「お嬢さん、自分の名前はわかりますか?」


 当たり前で簡単な質問だ。私はすぐに答えようとし――言葉が出てこなくて、喉を押さえた。


 鏡の中の自分と向かい合う。口をぱくぱくと開け閉めしている。見覚えがない。自分の名前も、どこにいたのかも、どんなふうに暮らしていたのかも、一切思い出せない。


「……あ、う」


 震える声のまま絵巻屋へと視線をやる。彼は軽くタバコの煙を吐き出した。


「まあ、そうでしょうね」


 一切動揺した様子もなく、絵巻屋は一人で納得していた。


 それが心細くて、鏡の中の自分を見ているのが不安で、私は化身に目を向ける。顔を覆う白い布のせいで、彼の表情も読み取れない。


「雲外鏡、こちらへ」


 絵巻屋が手招くと、鏡は、彼と化身にも見えるような位置へと移動した。


「ふむ……」


 顎に手を置いて、絵巻屋は考え込む。何をしているのかわからず視線をさまよわせていると、化身がふよふよと私の後ろへとやってきた。


「こいつは君のような子の『カタチ』を映すための鏡なンだヨ」


「ただの模造品ですがね。本物はもっとはっきりと『カタチ』――君の正体が映るはずですから」


 『カタチ』。二人の口から出た言葉にはやはり聞き覚えがなかった。


 そもそも私は今何をされているのだろうか。このお店は何なのだろう。鏡を見ている絵巻屋に、意を決して私は尋ねてみることにした。


「……な、あ、ここは、ええと」


 たどたどしく問いかける。絵巻屋は言葉足らずの私の質問をわかってくれたようで、こちらを見ようともせずに「ああ」と納得の声を上げた。


「ここは絵巻屋。アナタのような存在が不安定な『アヤシ』の『カタチ』を描き、安定した『モノ』として定義する場所ですよ」


「定義……?」


「まあ、分からなくてもよろしいですよ。定義はすぐに済みますから」


 説明されたのに訳が分からなかった。相変わらず絵巻屋は鏡を見ている。私の後ろに浮いていた化身も、私の頭に顎を乗せて鏡を眺めているようだった。


「やっぱり、人間かねェ?」


「いや」


 絵巻屋は一度否定した。しかし、すぐに次の言葉を続けず、その代わりに鏡を険しい目でにらみつけている。


「……いや」


 彼は、今度は慎重に否定する。言っている意味がわからず、置いてけぼりにされている私は、それでもされるがままになるしかない。


「何なんだィ?」


 化身の問いかけに、絵巻屋は深く考え込んだようだった。


「確かに人なのですが……人ではない、気もします」


 人だけど人ではない?


 自分の『カタチ』というものがどういうことなのかはわからない。だけど、彼らの言葉から察するに、『カタチ』とは私の正体なのだろう。


 私は、人ではなかったんだろうか。……思い出せない。


「んー。確かに違う気もするンだよなァ」


 頭上で、化身も同意した。


「何だっけ。まるでイワシの骨が引っかかってるみたいだヨ」


 宙でごろりと寝返りを打ち、化身は私の横にやってくる。絵巻屋はタバコを挟んだ指をひょいっと動かし、鏡を自分の手元に戻した。


「手早く終わると思っていたのですが、まったく厄介なことですね」


 化身はううんと考え込み、絵巻屋は相変わらず眉間にしわを刻んでいる。


 私は――急に怖くなった。


「わた、私……」


 震える声で彼らに問いかける。


 二人はこちらを振り向き、その視線を受けて私はぐっとうつむいた。


「邪魔、なの、か……?」


 言葉にすると、それは本当に恐ろしいことのように思えた。


 理由はよくわからない。


 だけど、とても不安で、怖くて、恐ろしい。


 そのまま顔を伏せていると、突然横からわざとらしい声が聞こえてきた。


「あーあー絵巻屋が女の子泣かせたァー」


 びっくりして私は自分の顔に手をやった。目元をぺたぺた触っても、水滴らしきものは手につかない。


「あの、涙、出てない」


「話を合わせなッテ。ほら、泣き真似シテ」


 私はなんだか楽しそうな化身と不機嫌な絵巻屋を交互に見た後、手を目元に当てて泣き真似をした。


「え、えーんえーん」


 数秒の沈黙。


 ちらっと絵巻屋を伺う。効果があったのだろうか。隣で化身が「ほら続けて!」とせかしてくる。


 絵巻屋はそんな私たちを見て、大きく、本当に大きく、タバコの煙を吐き出した。


「………よろしいでしょう。アナタの『カタチ』を探しに行きましょうか」


「良かったねェ。お兄ちゃんがおうち探してくれるッテよ」


 私は戸惑いながら彼を見る。化身は私の頭に手を置いて、ぐしゃぐしゃと髪をかき回してきた。

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