第1話 異界へ

 空を覆い隠すようにぐーんと伸びる真っ赤な建物に囲まれて、私は途方に暮れていた。


 周囲にある建物は三階建てぐらいで、全部木でできているようだ。


 木につやのある赤い塗料が塗ってあって、まるで神社や鳥居みたいだった。


 なぜここにいるのかはわからない。自分を見下ろすと、灰色の粗末な服を着ているようだった。手首は細くて、今にも折れてしまいそうだ。


 自分の指を握ったり開いたりしていると、ざっざっと足音が聞こえてきた。振り返ると、狭い道の奥から、一人の男性がこちらにやってくるところだった。


 そのまま通り過ぎようとする彼に向かって、私は口を開いて、息を吸い込んだ。


「……お、いっ!」


 カラカラになった喉が絞られるような音がして、ほとんど声にならないまま口から出た。私の声が聞こえなかったのか、その男性は歩いていってしまう。


 濃い鼠色の服のその背中を見送りながら、なんだか変だな、と思った。


 ここに来るまで私が何をしていたかは思い出せないが、あんな服を着ている人を見たことはない気がする。もしかしてあれは和服なのだろうか。


 私はぐるりとあたりを見回した後、静かな路地にぶるっと肌を震わせて、男性のあとを追いかけることにした。


 頭上に飛び出た屋根の端が、私に覆いかぶさって影を落としている。その光の隙間を縫うように足を動かす。サイズの合っていない運動靴が地面に触れて、体が前に進んでいき――突然、私は開けた場所に出た。


「っ……!」


 急に目に入った光がまぶしくて目をつむる。それと同時に、今の今までせき止められていたかのようなざわめきが耳に入ってきた。


 肌に降り注ぐ暖かい光、人間の声、足音。私はそっと瞼を持ち上げ、思わず声を漏らした。


「わ……」


 目の前に広がっていたのは、ついさっきまでいた路地とは真逆の大通りだった。右に左にたくさんの人々が行き交い、私はそれを目で追うことしかできない。


 ぽかんと口をあけながら私はそれを見ていたが、ふとあることに気づいてしまった。


 あれ、今通り過ぎた男性の額につのがあったような? こっちから来た女性の腰あたりから伸びているのは尻尾では? 見間違えでなければ羽を背負っている人も?


 はてなと思いながら、私は人波に紛れることにした。


 てくてくと歩いて周囲を見回す。やはり、通りを歩いている人々は奇妙だった。まるで人間ではないかのようだ。


 私はきょろきょろと彼らを観察し、みんな顔や服に、絵が描かれた紙をつけていることに気づいた。


 何のための紙なんだろう。そういうオシャレがはやっているのだろうか。


 不思議に思いながらさらに歩いていくと、ふととある店の前で私の足は止まった。


 店の入口の上にかけられた看板の文字を、私はゆっくりと読み上げる。


「えまきや?」


 えまき、というと博物館とかにある昔の絵が描かれたもののことだろうか。乏しい知識を総動員して考えたが、具体的にどういうものなのかは全くわからない。


 看板を見上げながらぼんやりと店の前に立っていると、店内からぬっと人影が出てきた。


「素晴らしい絵をありがとうございました、絵巻屋さん」


「ばいばーい!」


 店から出ていったのは、ぐるっと巻いた角が生えた親子だ。二人とも私に気づいていない様子で、大通りに消えていってしまった。


 私は『絵巻屋』に振り返り、なぜか、ここに入らなければならないという気分になった。


 入口にかけられたのれんを片手で持ち上げ、店の中を覗き込む。店内にこもった紙と墨のにおいが鼻をくすぐった。


 薄暗い店の中は、巻物だらけだった。棚の中にぎっしりと詰められ、そこらにある机の上にも山のように積み上げられている。


 私は不安から指を軽く組みながら、店内に一歩踏み込もうとした。


「……おやァ? お客さんカィ?」


 突然店の奥から聞こえてきた男性の声に、私はびくりと動きを止める。


 どことなく怪しいその声の持ち主は、店の奥にある文机ふみづくえの近くに『浮かんで』いた。


 顔を白い布で隠し、女物の鮮やかな和服の裾を遊ばせて、彼はぷかぷかと宙に浮かんでいたのだ。


 人間ならありえない。私は固まったまま動けなくなった。


 急に、外を歩いていた人々の異様さが現実のように思えてきた。


 角も尻尾も羽も、全部全部本物? もしかして私はとんでもないところに迷い込んでしまったのか?


 私は動くことができないまま身震いをする。幸いにもふわふわ浮かぶ彼と私とは、視線がずれているようだった。


 とにかく、このままゆっくり後ずさって逃げるべきだろう。そう思って足を動かしかけ――


「お嬢さん」


 ――別の男性の声に呼び止められて動きが止まった。


 恐怖で喉の奥が震えそうになりながら、文机の向こう側に腰かけた彼を見る。暗い色の和服姿にタバコを手にした若い男の人。


 筆のマークが書かれた羽織りをはおった彼は、隣に浮かぶ男性とは違い、しっかりとこちらを見ていた。


「こちらにおいでなさい、お嬢さん」


 くいくいと右手で招かれては、逃げるわけにもいかない。私は震えながら店の奥に足を進める。入口が遠ざかり、文机の近くに置かれた光の中に入る。


 畳の端に置かれた文机の前で立ち止まると、彼の不機嫌そうなジト目ににらみつけられた。


 がくがく震えながら、私はうつむこうとする。しかしそんな私の顔に、男性はフーッとタバコの煙を吹き付けてきた。


「うえっ、ごほ」


「やあ、これはかわいいお客さンだ」


 突然ひどいことをされてむせていると、浮かぶ男性が私の顔を至近距離で覗き込んできた。今度は、ちゃんとこちらを見ている。


「ひっ」


「あーわー、脅かしてごめんネ。怖いものじゃなイよ」


 胡散臭い雰囲気がぬぐえない彼は、わたわたと手を動かして弁明してきた。それに戸惑っていると、もう一人の男性の指が文机をトントンとたたいた。


化身ケシン


「なァに、絵巻屋エマキヤ


 名前らしきものを呼ばれて、浮かぶ男性は振り返る。文机の男性は苛立たし気にトンッともう一度指で机をたたいた。


「はいはい、ゴメンゴメン」


 化身というらしい男は肩をすくめて私から離れていった。自然と、文机の向こうに座る絵巻屋と私の目が合う。


「いらっしゃいませ、絵巻屋へ」


 丁寧な口調なのに眉間にしわを寄せたままの彼は、やっぱり不機嫌そうに見えた。

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