かつて彼女は騎士だった

悠鶴

プロローグ 4年前、東京某所にて

 長い学会を終えて、野辺栄作は帰路についていた。

 正確には、学会が長いのではなく、その後の宴会が長引いていたのだ。この年になると皆人恋しくなるようで、昔を懐かしんでは話に花が咲いた。


 野辺が腕時計を見ると、時刻は0時を指している。傘から零れた雨粒が、文字盤にぽたりと落ちた。息を吐くと白く、肌寒さが身に徹える。

 暗がりの中を街灯を頼りにして歩いていると、野辺家の近くまで着いた。自分の帰りを待つ人は既にいない。一人で住む大きな家は、当然のように明かりは消えている。

 ただよく見ると、家の門の前に人がぽつんと立っていた。野辺は「こんな時間に?」と訝しんだが、なるほど、どうやら門の屋根で雨宿りをしているように見える。街灯の明かりが届かなく、影になっていたその人に、野辺はゆっくり近付いた。


「もしもし、こんな夜分遅くにどうされました?」

 声をかけると、人はこちらを向いた。そして野辺は、息を吞み、思わず立ち止まった。

 金の長い髪を後ろで一つに束ねた、目の碧い女性。顔立ちはくっきりしていて、背は野辺より少し高い。暗がりでも、異様な存在感を放っていた。しかし、野辺の目を引いたのはそれだけではない。

 肩と胸部に付けられた西洋風の銀甲冑、籠手、長いマント、そして背負われている大剣。そのどれもが雨に濡れて、銀に光っている。

 明らかにこの場にそぐわない格好の外国人に出くわして、野辺は面食らった。しかし、彼女の格好は、今流行のアニメの仮装ではないのか、という考えが頭に過る。職業柄、若い学生の趣味は何となくではあるが把握していた。

 大方、何かの催しでやってきた外国人が、ホテルに辿り着けず困っているのだろう。そう踏んだ野辺の予想を、彼女はいとも簡単に裏切った。


「──」

 彼女は濡れた髪を揺らしながら、震える声で何かを言った。その鮮やかな瞳は何かを訴えている。


 野辺は最初、この年を取った耳が言葉を捉えることに失敗したのかと思っていた。常日頃から、耄碌した身体を不便に思っていたのである。しかし、繰り返す彼女の言葉を聞くうちに、彼女が話しているのは日本語でも英語でもないことを悟った。

 それならば、と他の言語である可能性を探ってみる。しかし、彼女の話すそれは、全く聞き及んだことのないものであるらしかった。それは、多言語話者である野辺にとって、本当にあり得ないほど珍しいことである。

 野辺は、80年以上生きてきて初めて知る言語を目の前に高揚した。彼女の風貌も相まって、詳しく話を聞いてみたい、という気になっていた。幸い、その行動を咎める人間など一人もいなかった。


 野辺は、ジェスチャーを使って意思疎通を図った。なんとも珍妙な動きだったが、どうにか伝わったようで、彼女を家に招き入れることに成功した。それと同時に、他言語研究をしている大学の知り合いに連絡を取っていた。その人であれば、彼女の話す言葉を多少なりとも理解できるのではないかと思った。


 しかし、その後に野辺は知ることとなる。


 ──彼女の話す言語は、この世界に存在しなかったのだ。

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