赤いブランコ

 西暦2080年.


 多発する重犯罪と自殺者、ならびに心的障碍者に先進国は悩まされ、世界はひとつの選択を選んだ。


『記憶改善装置による記憶の上書き』


 満十八歳を迎えた人々は、政府によって定められた保健機関に赴き、そこで記憶改善装置により、過去の記憶を抹消し、新たな記憶を受け継ぐ。六百億の記憶パターンの中から、その人に適した記憶を授ける。

 

 トラウマも、破壊的衝動も、躁鬱な思い出も何もかもが消され、国が定めた安全で健全な記憶が刷り込まれる。これにより先進国での犯罪や自殺者は大幅に減り、治安は安定していった。


 やがて製造された記憶を植え付けられ、人々は国が定めた人生のレールを歩き始める。

 国が作った記憶の経験を活かして大学に進学し、企業に就職し、そして転職する。そして記憶の中にある通りの飲食店に赴き、過去に美味と認識した食事を注文する。そして、記憶にある好みの異性に恋をし、失恋し、立ち直り、結婚するのだ。

 

 ――――――

 

 私、染谷そめや晴子はるこは今年で二十歳になる。

 新たな記憶の中に両親はおらず、私は施設で暮らしていた。これが与えられた記憶なのかどうかはわからないが、不幸とは感じない。戸籍の情報を見ても、私の両親は確かに八歳の時に存在していない。


 私はこれ以上の探索をしない。過去の記憶の資料の探求は、自身で裁判所に申請を通すか、犯罪を起こした時に警察が問い合わせをする時しかできないのだ。なぜそれが出来るかといえば、この措置はまだ完璧ではなく、人によっては過去のトラウマが蘇ってしまったり、与えられた記憶のせいで精神疾患を起こす人が少なくないからだ。


 記憶にあるとおりの住んでいたアパートに住み、与えられた記憶通りの工場へと出社する。私の最終学歴は高卒。でも、普通の高校ではなく、定時制の高校。記憶を呼び起こすと、様々な年代の人たちと楽しく過ごした風景が浮かぶ。夜の学校で受けた授業も中々悪くない。


『ハル、今日はどこでご飯食べる?』


 ふと思い出す。女の声だ。でも、誰だろう? 記憶の中で私のことを『ハル』と呼ぶ友人はいたのだろうか?


 記憶というのはどこか朧気で、作られたものでも軟弱な部分はある。

 私は思い出すのを止め、せっかくの休日を有意義に使おうと思い、一つとなり町へと出発した。


  ―――――


 市民が利用できるオートタクシーを呼び出し、隣の新北橋町へ出発する。数十年前から完全無人と化したこのオートタクシーのおかげで、運転手と無用な会話をせずに済む。後部座席に座り、運転席の後部シートに設置されたモニターに目を落とす。


 モニターには企業CMが流れ、美しく鮮麗された女性がウエディングドレスに身を包み、真っ白で清潔なタイル張りの階段をゆっくりと降りていく。

『永遠の幸せの誓い。あなたの一生の、最高の思い出を! 小西ブライダル』


 結婚。いずれ、私もするのだろう。だがこの作られた記憶と、矛盾することなく辻褄が合う様に設定された経験で、私はどのような男性を好きになるのだろうか? 皆目見当もつかない。


『ねぇ、ハル。私たち、いつかお互いの事を忘れて、誰か知らない人と結婚するのかな?』


 閃光が走るかのように誰かの言葉が頭を過ぎる。

 誰だっけ?

 ここ最近、頻繁に彼女の言葉ばかりが蘇る。思い出そうとしても、記憶にモヤが掛かって呼び起こすことが出来ない。


 これは誰の記憶? 書き染められて埋もれてしまった私の記憶なのだろうか? それとも、モデルになった人間の記憶の漂う断片の一部なのだろうか?


 少し柔く作られたシートに背を預け、記憶をどこか無理矢理に探ってみる。が、曖昧な思い出に消される。

 発言した人間を思い出そうとしても、それらしい人間が言ったように改修してしまう。


 だけど、私にはわかる。さっきからちらつく台詞は与えられた記憶の中にいる人物ではない。だが、上書きされた記憶を無理やり思い出すのは至難の業だ。


 ふと、運転席からベルが鳴り、目的地周辺まで来た事を告げた。私もそれを合図に記憶の巻き戻しを止め、後部シートに埋め込まれたデジタルパネルにICカードをかざし、支払いを済ます。


 タクシーは速度を落とし、揺れもなく路肩に停車する。自動で開かれたドアと同時にインターロッキングブロックで舗装された歩道に躍り出る。


 降り立った隣町は都市計画がかなり進み、八十年前に失敗した壁面緑化計画を成功させた緑とコンクリートビルの綺麗な森となっていた。壁面から伸びた品種改良された蔓の伸びた草と、緑に埋もれないように立つビルや商業施設は、まるで映画で見るSFのような街並みだ。それでも、この周辺に住む人々には目新しいものでもないが。


 降り注ぐ燦々たる太陽から逃げるように早足で歩き、通りから逸れて目的の店がある商店街を歩く。一年ぶりくらいに来た時と変わらず、赤いレンガブロックが敷き詰められ、通りは車が速度を出せないように湾曲した車道になっている。それでも、数年前から歩行者天国となったこの商店街には搬入業者以外の車が通ることはない。あれ、なんでこんな事を私は知っているんだろう?


『ねぇ、帰りはあのラーメン屋寄ろうよ! 今日は寒いから暖かいもの食べたーい』


 またあの声が脳内で響いた。今日は一段と酷い。その甘えるような無邪気な声が鮮明に聞こえるのだ。私はトリートメントのCMでモデルがよく見せるように軽く頭を振り、思考を振り払う。


 商店街を歩くたびにどこかデジャヴがちらつき、私の思考をとっ散らかす。あまり来ない商店街のはずなのに、毎日のように通っていたという錯覚のような不思議な感覚。地面につけたつま先も、どこかふわりと浮いているような妙な高揚感。そうだ、私は過去にずっとここを歩いていたのだ。そしてそれが失われてしまった思い出なのだと気付く。


 亡霊のように蘇る記憶につき纏われている私に、見慣れない雑貨屋が飛び込んできた。街の景観に溶け込むようにくすんだ木目張り風の木板に絡まったツタ。ショーウインドウにはアンティーク系の小物が並んでいた。アンティークとはいっても、2000年台初頭の小物で、もっぱらモダンアンティークといわれる代物だが。店内に目を配ると外と同じように焦げ茶色に塗られた集成材のカウンターの上に様々な小物が並び、一人の若い女の店員の姿がチラリと見えた。


 私の好奇心はこの雑貨屋から引き剥がせなくなった。自問しても、明確な答えは見つからない。欲望に負けてつま先をその雑貨屋に向ける。まるで誰かに操られているような気分だ。動かす足は私の奥底にある何かを原動力にしていて、理性をも押し返してしまうほどだ。


 モザイクガラスがはめられた扉に手を掛ける。扉を開く瞬間、緊張して汗がじんわりと出たが、扉は軽く力を押しただけで難なく空いた。カランカランとドアに付けられた。


「いらっしゃいませー」と反射的に出たであろう声と同時に店内にいた女性が振り返る。店員の女性は薄手の裾の長いカットソーの下にジーンズのショートパンツといういで立ちで、長いアッシュの髪を後頭部で一縛りにしている。ラメ入りのマスカラが彼女のパッチリとした瞳をひときわ綺麗に映している。


 互いに目が合った途端、私たちは身動きできず、吸い引き寄せられるように眼差しをぶつけあった。私は彼女を知っており、彼女も私を知っているのだ。まるで世界を動かす歯車が突然止まり、私たち二人を別の世界に飲み込んだようだ。

 数秒ほど凍り付いたように見つめ合い、先に口を開いたのは私だった。


「あの……失礼ですが…あなた、どこかで……?」


「実は私も……そう思ったのですが……。でも、一体どこで?」


 目を合わしたまま、互いに困惑したまま動けずにいた。だが、私の脳内では何かが騒いでいる。呼び起こすべきはずの記憶が、じわじわと湧きあがろうとしているのだ。


 これは過去の消された私の記憶のものなのか? いや、もしかしたら、上書きされた記憶の断片だろうか? 与えられた記憶に消去されきれていない記憶が超新星爆発のようにフラッシュバックし、悩む人は少なくはないと以前ワイドショーで見た事がある。酷い人は心療内科に通い、記憶改善装置による調整をすればきっと済むことだ。だが、今の私には彼女との接点とすべき思い出の断片を探るのが先決であった。この出会いは、ただの出会いではない。毎日をコピー用紙のように薄く生きている私に、彼女の存在は必要不可欠だと心のどこかで思わせているのだ。


「失礼ですが……お名前を伺ってもよろしいですか?」


 思考を巡らせていると先に彼女が切り出してきた。私は朧げだった記憶を探るのをやめ、咄嗟に答える。


「私は染谷春子です」


「春子……はるこ……ハルコ……」


 くっつきそうもない細い眉毛を寄せて私の名前を何度も呟き、思考を巡らせる。少しの間が空き、彼女はハッと顔を上げて私を見つめる。


「そうだ、ハルっ! ハルだっ! ウチだよ、ミノリだよっ!」


 ハル。そのフレーズで私の全身に電流が流れたような衝撃が走り、身体の見知らぬどこか底に沈んでいた記憶が逆流しだした。人懐っこい声も、大好きな三日月型のピアスを二人で探しに行った休日も、学校の帰り道によく買った夜遅くまでやってるパン屋のおばちゃんの私たちにかける迫力のある笑い声。


「ミノリ……?」


「そう、ミノリだよっ! 久しぶり! 二年ぶりじゃーん!」


「ミノリ! あぁ、どうして忘れていたんだろう……」


 急に沸き起こった懐かしい気持ちに胸が躍り、歓喜のあまりに涙が目元に溜まる。


 青島ミノリ。中学校三年生の時、クラス替えで私の席の前になった時、打ち解けた友達だ。

 当時からミノリは人懐っこい性格で、大声でキャイキャイと騒ぎ、一部の同性からも敬遠されるぐらい明るい女の子だった。一方の私はのんべんだらりとした性格で、付き合う友人もクラス替えのたびに代わり、その場が楽しければそれでいいような性格だった。それは今も変わっていないと言っていいだろう。


 そこで私は思い出してしまう。本当の記憶か、作られた記憶かは定かではない。

 当時、私の家庭環境は最悪だった。父親は家庭を顧みず、仕事に没頭するエリートサラリーマンという肩書きを持つ一方で、裏では会社の部下と不倫をしていた。たまに帰ってきても会話もなく、私のことはすべて母親にお願いしている状態。唯一の家族サービスは毎月くれるお小遣い。父とは、金で繋がっているようなものであった。


 そして母親はヒステリックに私を怒鳴り散らし、被害妄想に近い父親への憎悪を抱いて私を育てた。小学校を卒業するころには育児放棄寸前までになり、最低限の家事もしなくなり、食事とトイレ、風呂以外は書斎から出ることはなくなった。中学生の私は家に帰るたびに自分の洗濯物を洗濯機に入れ、風呂のスイッチを入れて、夕飯の準備をする。AIやデジタルの発展したこの時代のおかげで、お米を洗ったり、風呂を洗うなどの作業がないのは救いだ。自動洗浄炊飯器や複合ユニットバスが浸透したのは2050年頃。生活は随分と楽になったが、根本は何も変わらない。私は毎日生かされているような、退屈かつ狭小的な生活にうんざりしていた。


 一方でミノリの家庭もあまりよいものとは言えなかった。幼い頃、父親をトンネル崩落事故で亡くし、母親はその精神的ショックで幼児退行してしまった。悲しいことに、心が崩壊してしまうと、記憶改善装置でも治すのは難しいのだ。おかげで母親とミノリは親戚の家に住むことになったが、親戚もあまり良い人間とは言えず、叔母夫婦は二人を邪見に扱い、五歳上の従兄弟は、ミノリを性的対象として見ているそうだ。下着がなくなったり、入浴中に気配を感じるのはしょっちゅうあると言っていた。


 そんな複雑な家庭環境のせいだろうか、私とミノリはすぐに仲良くなり、いつも二人でいるようになった。

 朝の登校も二人で待ち合わせたし、休み時間もほとんど一緒だった。そして、放課後も見回りの教師が来るまで教室に残った。季節がぐるりと巡っても、それは変わらない。


 だが、楽しい日々がずっと続くわけがない。私たちは卒業後の進路を決めなければならない。

 私とミノリは考え、ある決断をした。二人で、生きていく事。


 子供じみた考えであったが、私たちは真剣だった。まず進路相談をしてくれた先生に事情を話し、どうすれば十五歳の女の子二人が生きていけるか相談した。幸いにも、担当してくれた先生は私達の家庭事情を知っており、渋々ではあるが丁寧に教えてくれた。


 二人の内どちらかの身元保証人を立て、アパートを借りて二人でアルバイトをしながら暮らす。だが、先生の教え通りに定時制の高校に通う。2061年以降から経済が見直され、例え高等学校を卒業しなくても就労できる企業は多くなったが、先生は必ず卒業するように念を押してきた為だ。


 残すところは互いの保護者への説得になるが、これが意外にもあっさりといった。

 私は母と父に話したが、「あんたが決めたことだからいいんじゃないの」とどうでもよさそうな母と、「週一で家に戻ってお母さんの手伝いをしなさい」という条件付きで了承を得た。恐らく、父の言葉は母の相手をしたくないためのものだろう。


 一方のミノリの家もすぐに了承が出た。保証人には厄介なことに従兄弟になったそうだが、私たちは許可を貰った時点で湧きあがり、冬の凍てつく様な寒い朝の通学路で抱き合ったものだ。


 そして卒業後、私たちは新たな生活を送り始めた。子供というにはどこか大人びていて、だけど大人になんか到底届かない二人の歯痒い日々。毎日ハチャメチャで、いつも笑い合って、たまに喧嘩して、でもやっぱり最後は仲直りして……。まるで修学両行のような三年間だった。


 そんな濃い記憶が一瞬にしてダムの放流のような濁流となって蘇った私は、跳ね上がった心臓を抑えるように胸に手を当てる。


「うそ……うそっ! ミノリっ! やだ、本当に私、忘れていたなんて……!」


「うん、本当に久しぶりだねっ! ハル、ちょー会いたかったっ!」


 互いに目元に涙をためて、その場で抱き合う。幸いにも、私たち以外に人がいなかったのが幸いだ。ミノリの胸が触れた瞬間、どこか懐かしい気持ちが蘇ってくる一方で、胸の中で言葉にはならない感情の塊が渦巻いている。これは、どう表したいいのだろうか?


「ミノリ……。不思議だね。二年間も会っていなかったのに、忘れていた記憶がまるで昨日のように出てくるの」


「ウチもだよ……」


 一度離れてまた向き直る。互いに目を充血させ、鼻と頬を赤くした互いのなんとも情けない顔に、同時にプフっと息を漏らして笑い合う。

 ひとしきり笑い合った、また息を整えて向き直るがまた腹を抱えて笑いあう。そう、私たちにはこんなドラマティックな空気は似合わないのだ。



 ― ― ― ― ― ― ― ―



 それから、私は軽い雑談をした後、「今夜は早く店を閉めるから呑みに行こう」というミノリの提案に乗っかり、私は店のレジカウンターの裏でミノリを待った。

 時々訪れるお客に、ミノリは持ち前の明るい声と、相手への警戒心を解く不思議なオーラを発揮させて棚に並べられたモダンアンティークの商品を紹介していく。お客が帰った後はひたすらお喋り。どれくらい喋っても会話に飽きない。やがてショーウインドウの向こうの日差しも橙色へと変わり、時刻が18時半を過ぎた頃、ミノリは閉店の準備を始めた。


 テキパキとした作業のおかげで私たちは10分も経たないうちに店から出ることが出来た。「本当は売上の計算とか色々あるんだけど、今日ぐらいはいいでしょー」とおどけるミノリの横顔を見るだけでこちらも頬が綻ぶ。


 すっかり日差しの落ちた商店街には街灯が灯り、居酒屋の看板に明かりが灯り、ホログラフィのれんがあちこちで輝き出す。そうだ、二年前もこの商店街はこんな感じであったのだ。

 昼の活気とは違う空気が通りに充満する中で、私たちも同じように熱に浮かされたように浮足立った歩幅で進む。三年間住んでいた街とはいえど、居酒屋などはよくわからないので、ミノリが気に入ってるという大衆居酒屋に促されるまま入った。


 居酒屋の二人掛けの席で、ジュースのように甘いカクテルと品種改良によって作られた安値の国産牛のもつ煮や野菜を箸でつつきながら、店でしていた会話の続きを始めた。どんなに話しをしても飽きることはない。むしろ、アルコールが入ってより話題には速度と過激さが混じり、品のない話題になっても私たち大笑いで済ました。


 それから三時間ほど話しても退屈しなかったので、別の店で飲もうということで今度は近くのバーに移動した。そこのバーでも先ほどの話題を続け、途中知らない二人連れの男に絡まれ、そこで彼らと楽しく飲むことにした。バーでも遅くまで話し込んだが、二人の男は終電があるということで退店してしまった。


 終電もなくなった深夜一時。バーから出た私たちは適当にブラブラしながら街を歩く事にした。

 街には夜の喧騒もすっかり冷めてしまい、寝込んでしまったように静かだ。微かに聞こえるサイレンの音と、ガソリン車の改造したマフラーの低音だけが響く。こんな夜を私たちは何度も通り過ぎてきたことか。


 私たちは目的もなく寝静まった街をフラフラと歩いた。駅前の広場。自動販売機の明かりぐらいしかない薄暗い商店街。シャッターが下りた肉屋の前。どれもこれも懐かしく、変わっていない風景。くだらない事を好きなように口にしながら、いろんな景色を目に焼き付ける。太陽の熱を失ったビル風は、アルコールに酔った私たちの身体を夜風が冷ましてくれる。

 あらかた歩き尽くし、私たちが商店街の入り口の前に戻ってきた時、ミノリがいった。


「ねぇ、ハル。せっかくだからコンビニに寄って公園に行かない?」


「公園?」


 ミノリの言葉にオウム返しをした時、私はすぐに察した。そうだ。私たちには思い出の公園がある。


「あぁ、あの公園ね」


「そうそう! せっかくだし行こうよっ!」


 酒焼けした少し荒い喉など気にせず、遠くでぼんやりと見えるコンビニエンスストアへと軽い歩調で歩き出す。その背中は記憶通りのミノリらしい振る舞いで、私は思わずまた頬が緩んだ。

 だが、そんなミノリを見る度に私は記憶が戻った時から残る、言葉にならない思いが胸からさらに上に込みあがってくるのだ。


 ― ― ― ― ― ― ―


 コンビニでチューハイとツマミを買った私たちは公園に向かって歩く。

 三年間、何か暇した時に入り浸った公園。夜の公園は人気がなく、あの頃の私たちはこの街の支配者ではないかと勘違い出来る素敵な場所だ。適当な遊具で遊び、飽きれば座り込み、これからの事やいつかの過去の事を語りつくした。親元を飛び出した私たちには、あまりにも大きな自由過ぎて、途方にくれる事が何度もあった。それを話したのも、これから向かう公園なのだ。


 素敵な思い出が詰まった公園に向かうミノリは待ちきれない様子で私を急かすように歩調を速める。それに応えてあげたいが、先から抱いてる感情のせいで踏ん切りがつかずにいた。


 公園に着くと、すぐにミノリは「うわー懐かしいっ!」と大声を上げて中へと小走りで掛けていく。真ん中にポツンと灯る頼りない明かりが、周囲に点在する遊具を寂しく照らしている。ミノリはすぐに入り口から近くにある真っ赤なブランコに辿り着くと腰掛け、ギコギコとブランコのワイヤーを揺らし始める。


「ねぇー。ハルも早くおいでよっ!」


 子供のようなミノリに私は「はいはい」と返事をし、ミノリの隣のブランコに腰掛けた。すぐにミノリはキャハハハと声を上げてブランコを漕ぎ出す。


 楽しそうに前から後ろへと流れていくミノリ。そんな微笑ましい姿を見せる彼女に、伝えなければならない事がある。ただ、それがどうしてもうまく口に出せず、ただはしゃいでるミノリの横で静かに相槌を打つことしか出来なかった。ミノリはいう。


「……ねぇ覚えている。ハル、あの小さな部屋で、二人で暮らしたよね? ハルはいつも白い服しか選ばなくて、天使みたいだって言ったよね? 私がバイトで何度も失敗して、泣いた時、ずっと励ましてくれたよね? 『絶対にモノに出来るから!』って」


 私は頷く。今日二度ほど聞いた話だが、ミノリがとても楽しそうにしているので、水を差すような言葉は控えた。


「それとさ、夜の学校ってワクワクしたよね。同年代も居たし、私たちよりも年上の人もいて……。知らない世界ばっかりで……。覚えてる? 私たちいつも二人でいたから、レズビアンだって思われてたの」


「覚えてる。それで、よく言ったよね。私が攻めで、ミノリは受けだって。“ミノリは明るいけど、じゃれついてくるから、あんたが受けだよね”って」


 アッハッハッハと人目も憚らない大声で笑った後、「そうそう」と頷くミノリ。


「そうそう。そういえば、それから私がバイト頑張って、それで貯めた金で、ラブラドール買ってさ。ちっこい子犬でさ、持ってきた時、部屋の中でクルクルまわってキャンキャン吠えてたの」


「そうだね」


 不器用な返事に気付いたのか、ミノリはブランコを止めて私の顔を心配そうに見つめだす。


「ねぇ、どうしたの?」


 顔を伺うミノリに対し、私は覚悟を決めた。この胸のうちに抱えているものを打ち明けよう。

 小さく息を吐き、薄く開いた唇のまま告げた。


「あなたはミノリじゃない。でも、あなたはミノリの記憶を持っている。どうして?」


 沈黙が始まる。口にした時から禁忌を破るような怖さから強張っていたが、それがより高まってミノリから目を逸らすことが出来ずにいた。


「ハル……」


 ミノリの口から小さく漏れる。その辺りから私の記憶もはっきりしていた。目の前にいる女性は、ミノリではない。ミノリの顔とは全然違うのだ。

 恐ろしいことに、つい数時間前までの私の記憶にあるミノリの姿は、目の前の女性の顔にすり変わっていたのだ。いつかのテレビでの知識だが、人間というのは過去の記憶を簡単にすり替えてしまうのだ。恐らく、私は目の前の女性の振る舞いや言動からして、彼女をミノリだと認識した途端に、記憶にあったミノリの顔を彼女の顔と交換してしまったのだ。だが、すり替えた記憶も所詮は誤認であり、鮮明に思い出していく過程で矛盾であることに気付き、修正させてしまった。


 ここまで来ると私は彼女に対して恐怖心が滲み出てきたが、彼女の振る舞いや言動すべてがミノリと瓜二つであることから、その恐怖心はどこかへと消えてしまった。

 目の前の女性は笑みを消し、顔を俯かせた後、大きく息を吸って吐き出す。


「……そうだよ。私はミノリって名前じゃない。私には波場内ユキっていう名前があるの。それが本当の私」


 ユキという女性はズズっと鼻をすする。


「この記憶は、きっと植え付けられたミノリさんの記憶だと思う。でもね、今日まで私はあなたの名前なんて知らなかったし、私もミノリなんていう名前は知らなかった。昨日までの記憶には、真っ白な部屋で顔が思い出せない女の子と、小さな部屋で過ごした薄ぼんやりとした思い出。それも、忘れてた。ううん、忘れようとしていたの」


 そこで私は思い出す。記憶改善措置は、対象の人間の記憶を一度サンプリングし、それをクリーニングして別の人に使う。ようやく全ての意図が理解できた。ユキという女性はミノリのクリーニングされた記憶を与えられてしまったのだ。そして、処理されていたはずの私が偶然にも現れたことにより、植え付けられた記憶のフラッシュバックのせいでミノリとなってしまったのだ。


 なんとやるせないことだろう。人が作ったこの措置のおかげで、ユキという女性の人生が変わってしまったのだ。掛けるべき言葉が見つからないまま黙っていると、隣でユキが立ち上がって私の背後に立った。


「ねぇ、後ろ乗っていいかな?」


 後ろを振り向けない私はただ黙ってコクンと頷くだけであった。すぐにユキのスニーカーが腰掛けた私の尻と、板と繋いでるワイヤーの狭い隙間に滑り込み、ブランコを揺らし始める。


「こうしてさ、二人でブランコに乗ってさ、いろんなことを話したよね」

 

「そうだね」


 ユキの言葉通りだ。私たちはよくこんな二人乗りをしていた。ユキは語る。


「私さ、もう自分の記憶のことなんて、全然気にしてなかった。与えられた記憶が誰の物であれ、私には関係ない。勝手に作った思い出なんて、しょせんは誰かのもので私には必要ない。だから、これからの自分を大切にしたいって思ってた」


 私にはわかる。ミノリなら、きっとそう言うだろう。


「だから私は自分が思うままに生きた。記憶を与えられた後の二年間がむしゃらに頑張ったよ。挫折しそうになったけど、それでも共同でお店を出せるほどね。もうこれで私は先に進むだけだ! そう思ったの。だけどあの時、ハルが扉を開けた瞬間に何もかもが消し飛んだの。すごい勢いで誰かの記憶が私の中に覆いかぶさるようにやってきて……。その瞬間、私はもうミノリになっていた。そして、いま目の間にいるハルを抱き締めたいって思ったの」


 言い終えると本当にすぐに抱き着いたけどね、と付け加えてアハハと笑う。

 その言動ひとつひとつがミノリなのだ。私の心の中は複雑だった。ミノリじゃないけど、ミノリなのだ。そして彼女も、自身がミノリでないことに戸惑っているほど。


「もうね、今はユキなんて名前を捨ててもいいと思ってる。あなたが、私のことをミノリと呼んでくれるたびに、私の心臓は跳ねるの。それも飛び出してしまいそうなくらい。そんな感情を、今は大切にしたい」


 ユキの声が感極まったのか震え出す。時折聞こえて鼻をすする音も大きくなり、息が荒くなっているのがわかった。


「でもさ、そんなこと……無理だよね? だって、私はユキという人間だから……」


 ユキは涙混じりの震え声で呟くと、言葉に詰まったようだ。私自身もどう応えるべきか悩んだ。私の言葉一つで、全てが決まる。いやに心臓の根が高鳴った時だった。


「あ……」


 ミノリが声を漏らすと同時に顔を上げると、公園より少し遠くのビルの群れの向こうから差し込んだ朝焼けが私たちを包む。途端に懐かしい気持ちが込み上がり、私が抱えていたモヤモヤとした黒い渦をかき消してくれた。


 そうだ、私とミノリはアパートのベランダからよくこの朝焼けを眺めていた。くだらない話や、ずっとやっていたゲームや配信されている恋愛映画を観て夜更かしをしては、こうして眺めたまばゆい白い光。


「綺麗だね」


「うん」


 私が呟くとミノリもボソリと返した。しばらくぼぉーと見つめていると、ミノリが訪ねてきた。


「……ねぇ私たち、もう会えなくなるのかな? この朝日も、ハルと一緒に見る最後の朝日になるのかな? だって私は、ハルの知ってるミノリじゃないし……」


 しおらしくなったユキの声は擦れ、今にも泣き出しそうだ。そうだ。彼女は私の記憶にあるミノリじゃない。ユキという、ミノリの記憶を持った見知らぬ女性。それが、いかに私たちの出会いを辛いものにしたのか。

 私は白みかけた空に消えかかる月を見上げた。綺麗な青が晴れ渡る寸前の光が映し出した月は、まるで私たちの関係のようだ。見えてはいけないものを照らし、そして残酷にありのまま映し出そうとしているのだ。

 肺の中に溜まっていた重苦しい空気を小さくハアァっと吐き出し、唇を開く。


「……いいよ」


「え?」


 俯いた顔を持ち上げるユキ。私はこの短い時間の中で導いた結論を口に出した。


「私も、自分の記憶のことなんて気にしないことにした。この思い出が、本当にハルの思い出なのかも、私には信じられなくなった。だから、思い出は思い出のままでいいよ。だからさ……」


 ためを作り、ユキの顔を見上げた。


「これからは二人の思い出を作ろうよ、ミノリ」


 そう微笑んだ。

 きっとこれが最善の答えだ。私にはわかる。目の前の女の子は、やはりミノリなのだ。本物かどうかなんて、私にはもうどうでもよい。だって、目の前の女性はいつも明るい癖に、どこか小心者で、危なかっしくて、目を離すことが出来ないミノリそのものなのだ。


 「ハル…!」


 ミノリのような泣き笑いを浮かべるユキ。いや、もう彼女はミノリだ。

 その後、再会した時と同じように私も涙を流すと、ミノリはブランコから飛び降り、私に飛びつくように抱き着いてきた。この温もりも、どこか違和感が混じるがミノリと一緒だ。

 

 ひとしきり抱き締めたあった後、私たちは子供のように手を握り合い、公園を出て家路へと向かった。もう記憶にあるあのアパートはもうない。帰るべき場所は別々だけど、もう離れることはない。ユキことミノリは涙を頬に伝わせながら微笑んだ。


 駅の広場で互いに名残惜しさを残さぬようにたくさん手を振って、動き出した電車に乗って私は家へと向かう。寝不足と疲れから眠気が襲うはずなのに、私の頭は嫌というほど冴えていた。


 そんな冴えた頭で、私は車窓の向こうで流れる景色を見つめながら思う。


 本当のミノリはどこにいるんだろう? 違う記憶を持って、どこかで誰かと幸せに暮らしているのだろうか? 私の世界にいたミノリはどこかへ去っていった。

 でも、寂しくないと思う。あのミノリだもん。きっと上手くやってるはず。もし、本物のミノリに会えたなら、私はユキというもう一人のミノリを紹介した。

 そして三人でお酒でも飲みながら、あの公園で朝日を待ちたい。


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短編集・決して謳われない詩の中に 兎ワンコ @usag_oneko

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