あかさたな

 その背中は妖艶で、朝日に溶け込むたびに僕の欲情を掻き立てるものだった。


 愛しい彼女は人の目も憚らずに、誰もいない太平洋を望む砂浜で、華麗なダンスを踊るのだ。真っ白なワンピースを海水に浸し、その美しいプロポーションが透けた服の下でより際立つ。血の通った明るいピンクの肌に包まれた細胞の塊は、神様が愛というものを立体的に作り上げた、最高傑作なのかもしれない。


 彼女が両手を広げ、なん億万回かの姿を現した太陽を受け止める。その姿はどこかの神話から抜け出してきた女神のようだ。誰の手にも触れることを許されない存在。だが、彼女の足は大地に繋がれ、飛び立つことを許されず、僕の前にいるのだ。


 まだ熱のこもった身体にへばりつくシャツの襟で口元をぬぐい、僕は彼女がどんな表情をしているか注意深く見つめた。黄色い熱光線が横顔を遮るが、きっと笑っているに違いない。あの笑顔を守ることが出来ただけで、僕のこの物語はハッピーエンドを迎えることが出来るのだ。

 潮風で切れた唇を動かし、僕はいう。


「僕は、君を見ていると泣きそうになる。あまりにも美して、誰からも愛されている。それなのに、自分の価値に気付かず、抗うこともなく誰かの手にむしられていく。君が誰かの手で弄ばれて何かを失うたびに、僕の心も何かをえぐられたように痛いんだ」


 動きが止まり、僕に身を翻す。急に夜が来たかのような寒気が僕を襲う。彼女は怒ったに違いない。

 じゃれつく波から足を上げ、ゆっくりとした歩調で僕に近づく。その顔は微笑んでいた。優しく、儚げで、全てを受け止めてくれるような優しい笑みであった。


「私は、君を見ていると羨ましく思う。一人の世界で籠ること。孤独。それは潤沢な世界の中で、唯一手に入れることが出来なかった選択。私のそばにはあなたのように慕う男がおり、崇めるような女たちもいた。皆、誰も私の心などしらない。私に心なんてなかったのに。彼らがその心を作り上げ、その心にそれらしい言葉と感情を混ぜたスープを、枯れ果てた砂に水を注ぎ込むように満たしていった」


 そこで私という生き物は死んだの、と微笑んだ。彼女のありありとした笑顔は、恐らく僕が注ぎ込んだスープで作られた心の反応なのだろう。つまり、今の彼女は僕を映し出す鏡という存在でしかないのだ。

 彼女は僕の返答も待たずに続ける。


「あなたは、そんな私を抜け出そうと誘ってくれた。いま、取り繕う世界は全て破壊され、私は自由になった。そして、その自由は私を窒息させるのかもしれない」


「君はきっと男の子に生まれれば良かったんだ。きっとトンネルを抜ける前に、君は大きな過ちを犯したんだ。だから、苦しんでいることに気付けない苦しさの中で、人生というソーシャルゲームに藻掻いていたんだ。ゴールなんて……」


「私が女で生まれたから、彼らは私を女として扱ってくれた。それがどんなに嬉しいことか。そして惨めであることか、君にはきっとわからない」


 勝ち誇ったように、そして失望したように、彼女は微笑んだ。まるで冬風のようで、その笑顔には余命がない。彼女はこのまま壊れていくの待つ、砂の城なのだ。抱きしめられるのはきっと、ずぶ濡れになった固くなった今しかないのだ。


「きっと僕には届かないね。君には君の領域があるし、僕には僕の底がある。その底に重力というピンに打ち付けられた僕は、ただ掬われていく君を眺めるしかなかったんだ。君が壊されていく姿をただ見つめるしかできなかったんだ」


 そっと彼女の柔肌に触れる。心臓を通して流れてきた血が、彼女の生命の暖かさを伝える。その温もりが僕の脈拍を乱し、思考回路をショートさせていく。いや、もうすでに破壊されていたのかもしれない。だけど、そのお陰で僕も人間になったのだ。


「ずっと、遠回りしていたけど。君の裸を見たいという気持ちだけは変わらない。君を独り占めにする。それが僕の望みなんだ。それだけで、この生が潰えても僕には悔いはない」


「そう言ってきた男たちはたくさんいた。私が子供を作れない体になっても、骨まで愛してくれるといった男たちが。だけど、最後まで奈落の底に寄り添って落ちてくれる人は君だけだった」


 彼女はゆっくりと腰を下ろし、冷え切った砂と未練がましく彼女に手を伸ばす薄くなった白波に身体を預ける。僕も寄り添うようにその隣に転がる。横たわり、上を見下ろせば、神様がいなくなった後の綺麗な晴天が闇の隙間から覗き見している。


「私たちはいつまでも子供であり、誰かの紛い物でしか生きられない。君も、その中の一つなんだよね?」


「そうだ。僕らは誰かの紛い物であり、僕の人生をコピーする命が産婦人科でまた生まれようとしている。僕らは決して神様の子供なんかじゃあない。神様は、もうこの世界に絶望して裸足で逃げ出してしまった」


 海藻のように揺れる彼女の髪に触れる。冷たい細胞の一部。僕は愚かにも彼女の上に跨り、その両手の彼女の両脇に突き立てる。まるで、儀式のような愛の始まりだ。


「ずっとそばにいるから。何が起きても、僕は君が死ぬまで、君の瞳の中に居続ける」


 遠くから響くサイレンの音も気にせず、僕はずっと口づけを交わした。

 僕の愛はこれから始まり、彼女を壊すだろう。だけど、それでいいのだ。

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