クラベル


 高校は戦場だ。血の流れない、コールド・バトルフィールドと呼ぶべき場所だ。


 私の武器は筆記用具とノート。それ以外はすべて必要ない。血は流れない。身体が傷付くことはない。けれど、見えない何かがまいにち私を傷つけ、見えない血を流してるのだ。


 戦場を指揮する教師は審判であり、私たちの成果を判断するジャッジマンであり、彼らが与える任務をこなさなければ、勝利などないと考えていた。

 

 誰にも負けたくない私は、今日もこの戦場を生き残る術を考える。進学という勝利への道のために、少ない数字の中に留まっておきたい。学歴社会となったこの現代で、数字とは支配する者が可視できる唯一の功績であり、胸を張って掲げることが出来る勲章なのだ。


 クラスでは今日も浮足立った同年代が色めきたち、自分らが世界の中心だと言わんばかりに笑顔を膨らませている。私は染まらない。笑顔なんていうのは自己欲求を認めさせるための交渉術のひとつ。本当の笑顔なんて、そんなに多くない筈なのだ。


 私のこの歪な考えは、高校一年の時に生まれた。

 親の期待と周囲の囃し立てる声におだてられた私は、他県の有名な進学校に入学した。同郷の友人など一人もいなく、それでも私は戦っていけると妄信していた。


 入学して私の自惚れはすぐに打ち崩された。明るい方だと勘違いしていたこの性格も、それ以上にトーク術と表情豊かなエリートたちに掻き消され、勉強だけが取り柄だと切り替えてみても、私なんかよりも柔軟で、秀才な人間は大勢入学していたのだ。


 淡い青春も期待できないし、天童にもなれない。こんな胸の内を誰かに打ち明けたくても、私は誰かと仲良くなる術を見失っていた。周囲にいる人たちがまるで別の生き物のようにしか見えなくなっていた。『友だち』と呼ぶには心の内が見えなさ過ぎて、『知り合い』と呼ぶには、距離をとりすぎているような気がして、彼らを何と呼ぶべきか悩んでいた。


 そんな戸惑う私の心が身体を通して空気に滲みだしたのか、私に近づく人はいなかった。必要最低限の会話だけで一日が終わり、喉の渇きを覚えるほどの言葉を発したことはない。


 誰と関わることもない、そこにいるだけの存在。

 まるで加湿器にでもなったみたいだ。加湿器になった私は、毎日教室の片隅にある自分の席に座り、授業以外は眠る生活。いや、眠っているフリをしている生活だ。


 孤独とは、より人を窮屈にさせる。視野がどんどん狭くなり、私の世界は教室より飛び出すことはない。私はクラスメイト三十八人をライバルと考え、進学することだけに集中した。一年間の虚しい孤軍奮闘。



 そして二学年上がった私は今日も戦う。この教室という名の狭い戦地で。


 授業はいつだって試験と一緒。ここでひとつでも取りこぼせば、私は一人前への道を閉ざす。

 授業が終わった後は心理戦。周囲のライバルたちはワイワイと話しているが、彼らの言葉に耳を傾けてはいけない。彼らの言葉は楽しそうに聞こえるが、それは間違いだ。彼らに惑わされ、十代の甘美の青春を貪ってはいけない。それは堕落なのだ。


 だから昼食を摂った後の昼休みはとにかく眠る。周囲の雑音も気にすることもなく、私は腕を枕にして睡眠を貪る。誰と関わることのないワンマンアーミーな私は、ただただ眠る。

 夢うつつに、いつかの私を思い出すことはある。中学校時代、クラスの皆と楽しげに談笑した記憶。あの頃は楽しかった。あんな風に笑えた日々はもう、ここにはない。今の私はたった一人の戦士なのだから。


 あの頃の私を懐かしく思い返していると、誰かが肩を揺さぶる。誰だろう? 夢の中の誰かか? いや、このリアルな感触は……


「おい。おいって」


 男の子の声。私はまだ不明慮な視界を滲ませながら顔を持ち上げる。左隣に誰かがいるようだ。


「え?」


「なあ、もう昼休み終わって、次の授業始まるぞ」


「はぁ……?」


 その言葉にゆっくりと周囲を見回す。教室にいつの間にか誰もいない。クリアになっていく思考が、次の授業が移動教室であることを思い出させる。


 しまった、私としたことが昼休みの終了を知らせるチャイムを聞き逃し、移動教室への移動に失敗した。この失敗は痛い。本当の戦場ならば、私は軍法会議ものの失態。

 そんな私の焦燥など知らず、隣にいる彼が私の顔を覗き込む。二重がよく綺麗で、癖っ毛と細すぎる眉毛さえなんとかすれば二枚目と呼べる青年。私のことを起こしてくれた親切な青年の第一印象。


「え、あ……」


「帰ってきたら、お前ひとりだったからさ。さすがに可哀そうだと思ってよ」


 健忘症にでも陥ったかのように、私は話し方を忘れた。


「え、あぁ、どうも」


 敵に塩を送ってくれた青年にまともな礼も言えない私。そんなぎちこちない様子を見た青年はクスリと笑みを漏らす。


「なんだ。ちゃんと喋れるじゃん」


「はぁ? なにそれ?」


 失礼な言葉にムカっとする。やはり、彼もまた他三十八名と同等の生き物だ。私はあからさまに不機嫌だという態度を顔に出してやる。


「それ怒ってるの? なんかちょっと可愛いんだけど」


 彼はまるでじゃれてくる子犬でも見ているかのように言ってのける。私は面と向かって「綺麗だ」とか「可愛い」とかいう異性を信用しない。特に、こんな人生のことに関して深くも考えていなさそうな男の子なんかに。


「ねぇ、それって失礼、じゃないかな?」


「え? 俺は思ったこと言っただけだけど? それってなんか良くないの?」


 悪びれた様子もなく彼は言う。私は彼の事が好きになれなかった。自分の名も名乗らず、私のことを「お前」呼ばわりし、図々しく私の中へと入っていこうとする。


「はぁ? 悪いと思う。私は、あなたにそんな事を言われる筋合いはないし、あなたの事をよく知らない」


 更にむすっとした顔を作り、敵意を向けた。銃口を突き付けるのと一緒だ。私のボーダーラインを越えてはいけない。国境破りはいつだって戦争の始まりだ。

 だが私の予想した反応はせず、納得した表情を浮かべる。


「あーそうか。俺は飯田典久いいだのりひさ。」


「そう」


 相手が名乗ったが、私は名乗らない。私の方が失礼かもしれないが、彼と金輪際なかよくしようとしないためである。でも、心の隅でどこか意固地になっている自分に気付いた。どうして、こんなことを思っているんだろう?


「まぁいいや。早く準備しないとヤマセンに怒られるしな。急ごうぜ」


 彼は何事もないようにサッと私から離れ、自分の席に行き、次の授業の準備を手早く始める。

 私も気後れしながら机の中の教科書とノートを準備しながら、ふと頭に沸き上がった疑問をそのまま典久にぶつける事にした。


「ねぇ……。なんで私に声を掛けたの?」


 次の言葉を待った。期待していたのは『ひとりぼっちだから』とかそんな憐みが混じる同情的な言葉。私はひどく歪んでいるのは理解していた。どうしても、私の頭の片隅では“彼に嵌められているんではないか?”という思考が潜んでいた。だが、次の言葉は私ちゃちな思考に反したものだった。


「別に。俺はただ“あ、起こしてあげなきゃ。声かけておくか”って思っただけ。それ以外に、会話をしようと思う理由なんかあるか?」


 予想もしない返答に私は固まってしまった。彼は逆にキョトンとしている。


「それが、声を掛けた理由?」


「そうだけど? 逆に聞くけど、俺にそれを聞くために声を掛けたのはさ、“聞いてみたい”“話してみたい”という前提がなければ生まれないじゃん?」


 歯に衣着せぬ物言いに、私は納得してしまった。確かに会話なんてものは元をたどればそうだ。疑り深くなっていた私にはとんでもない爆弾だ。


「ね、ねぇ……。本当にそれだけの理由なの?」


 あっけらかん過ぎて、どこか納得いかない私はもう一度聞き返す。再度問われたせいか、典久は頭を傾げ、なにやら考え込み始める。


「うーん。……強いていえば、いつも一人でいるっていうのも気になったなぁ。女の子っているも誰かそばにいる生き物だと思ってるからさ。でも、はぁーちゃんはさぁ、無理にひとりになろうとしてる感じしてさ。でもさ、それって飽きない?」


「“はぁーちゃん”?」


 怪訝な私にイタズラ小僧のような笑顔を返す典久。


「ま、いいや。じゃあ、俺は先行くから」


 筆記用具一式を脇に挟んだ典久がにこやかにいう。私は慌てて彼を引き留めようと声を荒げた。


「ねぇ、待って。なんで私は“はーちゃん”なの?」


「それ、聞きたい?」


 ニカリと笑う典久。私は黙ってコクンと頷く。無条件降伏を飲んだ気分だ。


「それじゃあ、次の授業が終わった中休みに聞いてくれ。な?」


 そう述べると、典久は茶目っ気な笑顔をニイっと浮かべ、教室を去っていった。まるで、街に吹く季節風のような爽やかさで。


 一人ポツンと残された私は、彼が残した爽快な風に包まれながら立ち尽くす。

 僅か五分にも満たない会話なのに、典久という男は私の築いた要塞に大きな穴を開けた。プライドと孤独を混ぜて強固に作り上げた壁は、彼の笑顔に破壊されてしまった。


 すっかり忘れていた感覚を思い出す。かつて、教室にいることがあんなに楽しかったこと。


「そういうの、ズルイよ」


 高鳴る心臓の音は、新しい扉を開けた高揚感なのだろうか? それとも、彼の笑顔のせいなのか?


 不思議と口角がつり上がる感覚が湧きあがる。随分前から使ってない筋肉が、少し痛い。


 まだ何もわからないけど、彼の茶目っ気な笑顔を、もう一度見てみたい。その思いは私に移動教室の準備をさらに急かせたのであった。

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