「センチメートル」

 俺たちには距離が足りない。


 俺たちとは、俺と隣に住む幼馴染の飯倉いいくら日菜子ひなこのこと。保育園の頃からずっと一緒で、気が付けば高校まで一緒なんだ。内側に巻いたもみあげに、つぶらな瞳。いつもその瞳をキラキラさせ、同性の友達に囲まれている。小学校からずっとそうだ。日菜子はいつも同性の友達に囲まれ、楽しげに過ごしている。まぁ、俺も日菜子とあまり変わらないような生活をしているわけだが。


 小学、中学の頃はよく帰り道で会っては仲良く帰ったもんだ。夕暮れに染まる日菜子の笑顔がからかいたくなるくらい好きだった。

 そんな日々のいつからだろう? 俺は日菜子に魅かれていったのだ。それは恐ろしいくらいの引力で、地球の重力に縛られた彗星のように、日菜子から逃げ出せなくなっていた。


 毎朝、日菜子と登校する時間が被るを祈ったり、学校ですれ違うことを願い、帰り道に日菜子の姿ばかり探している。

 自分でもわかっていた。俺は行動ばかりをしているのだ。涼しげな顔をしながら、教室の机の上で肘を付きながら日菜子とのを妄想しているのだ。


 日菜子に会うたびに俺の鼓動は高鳴り、頭の中を花畑に染めていく。幸せ、という言葉を使うのがピッタリだが、それ以上の何かだと、つまらない意地を張っている。それくらい日菜子は俺の頭を悪くさせ、そして支配するのだ。


 そんな阿呆な事を考えている俺だが、ここ最近の変化に勘づいている。日菜子の表情に影があることを。


 数日前のことだ。何気ない話で小さな笑みを落とすときも、校門で見送るその背中にも、言葉に出来ない薄暗さを纏っているのに気付いた。



 ― ― ― ― ― ―


 暑さのおさまったうららかな風を纏い、すっかり日が落ちた体育館わきの自動販売機の前で俺は座り込んでいた。所属するバスケットボール部の練習が終わり、熱を帯びた身体に、自動販売機で買ったキンキンに冷えた炭酸飲料缶のプルタブを開けて、一気に喉に流し込んでいた時だった。


隆太りゅうた。お疲れ」


 俺の名前を呼ぶ声。目を向ければ制服に身を包んだ日菜子が立っていた。吹奏楽部の練習が終わってここに北野だろう。思わず胸が小さく脈打つ。


「おう、日菜子。お疲れさん」


 いつも通りの軽快な声で返す俺。


「隆太も部活終わったの?」

「あぁ。日菜子もそうか?」

「うん。これから帰るところ」


 言い終わると日菜子は器用にスカートの尻を手で撫でて、裾を綺麗に閉じて俺の横に座る。思わず唾を飲み込み、一瞬だけ目を泳がせる俺。

 なんの予兆もなく隣に座る日菜子に、俺はただ黙って横顔に目をやる。口元を緩ませているが、その視線は足元の汚れたコンクリートに目をやっている。その仕草だけでわかる。日菜子は何か悩んでいる。


 俺は鈍感なフリをし、真正面に目を向け、帰宅する学生たちを見つめるが、頭の中では子供が悪戯で回す地球儀のように、思考を回転させる。日菜子が抱えるべきものに、踏み入れていいのか、そうでないのかだ。


 時間にして数秒にも満たない沈黙であったが、俺には何時間にも立ったような窮屈さと苦痛を覚え、耐え切れなくなって口を開く。


「なあ、お前って中村と仲良いよな」


 特に意味のないインスタントな言葉。だが、そんな浅はかな言葉を放った途端に後悔することになった。日菜子は唐突に目を丸くしたからだ。


「う……うん」

「お前と中村ってさ……」


 途中で言葉を濁した。これ以上は言うべきではないと良い判断した脳が、口を紡いでくれた。それでも、胸の中でつっかえる想いと日菜子の怪訝な表情に嫌な脂汗が顔から噴き出る。


「ごめん、やっぱなんでもない」

「なんで?」


 日菜子がすかしたように笑う。笑顔とは安心のしるしであるが、今の俺にはとてもそうは感じなかった。本当に見たかったものは……。


「本当になんでもないんだ。ごめん」


 先ほどまでの失敗をかき消すように俺は慌てて首を振った。途端になにげない顔に戻る日菜子。


「そっか」

「うん。そういえばさ、日菜子のクラスって英語の小テストあった?」


 今度こそ間違いのない会話。とてもくだらなく、何も得ることもない話題。日菜子は首を横に振る。


「ううん、こっちは来週だって」

「そっか」


 自分でも驚くほどつまらない会話に後悔を覚える中、日菜子はポケットにしまってあったスマホを取り出すなり、画面を見ると「あっ」という。


「ごめん、私そろそろ行かなきゃ……」

「あぁ、そうだな。俺もそうしなきゃ」


 日菜子は立ち上がり、スカートの尻を手で軽く払うと、「じゃあね」と明るい声音で歩いて行く。


 自分の不器用さを呪いながら、俺は薄暗い闇の中に去っていく日菜子の背中を見送るしかなかった。



 ― ― ― ― ― ― ―


 真夜中、俺は自分の部屋のベッドでふて寝し、今日の事を猛省する。

 あの時、日菜子に掛けるべき言葉を探していた。だが必死に頭を巡らせてみても、出てくるのはあの時の日菜子の少し影のある笑顔だ。


 俺たちに足りないもの。それはやっぱり距離だ。


 俺たちは近いはずだ。いや、はずなのだ。顔を突き合わせ、気を遣わない会話で過ごすこの日々は、そう呼べる。

 だから、もう少し近づけるはずなのだ。


 自惚れた感傷に浸っていると、俺は帰り際の日菜子の事を思い出し、ふとある疑問にぶつかった。どうして、日菜子はあの時、俺の隣に来たんだ?


 考え出すと不可解なことは多い。何も言わずに隣に座った日菜子も、あのよくわからない鬱そうな表情も。


 本当は、何か、俺に伝えたいことがあったんじゃないか?


 そう考えると、自分自身の抱えるもやもやと停滞する悩みの低気圧に問う。本当に“距離”が足りないのか? 俺は、本当にそう思ってるのか?


 俺と日菜子を遠ざけているのは……



 ― ― ― ― ― ― ― ―


 翌日、俺はいつものように起きると、学校へ向かった。今度は日菜子を待つのもなしだ。今までしていた、でたらめな妄想は全て止め、俺は迷いのない足取りで通学路を歩いた。


 通学路には七月の容赦のない日差しが降り注ぎ、アスファルトの照り返しに誰もが汗ばんでいる。俺も同じように額や首に汗を流したが、今の俺には気になるほどでもなかった。


 学校に着くとどうだろう? 廊下を一人で歩く日菜子が居た。その瞬間、昨日決心した想いが燃え上がり、俺の足を速めた。


「日菜子っ!」


 距離があったので、必然と声が大きくなる。日菜子は振り返り、目が合うと、いつものような淡い笑顔をこちらに見せてくれる。必然と心臓が早く脈打ちだす。


「隆太、どうしたの?」


「なあ、ちょっと時間あるか?」


 俺の顔はきっと変な顔をしているだろう。紅潮して、自分でも見て笑い転げるようなほど緊張しているだろう。それでも良かった。

 日菜子の顔は夜に出会った猫のように、目を丸くし、なんとも読めない表情をしていた。


「どうしたの?」


 微笑む日菜子。その笑顔は言葉に出来ない明るさがあった。それは地平線の向こう、ビルと家々の真下から這いあがってきた朝日に似ている気がした。


 なんとなくだが、俺は日菜子との距離を縮められると、勝手に確信を抱いた。

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