「マダラ蝶」


 池袋駅に始発電車の到着を告げるベルが響き渡る。もうこのベルを聞くのもこれが最後だろう。朝焼けに溶け込む人々の中で私――西村冬にしむらふゆはそう思うのだ。

 線路の真ん中では七月の湿気をたくさん含んだ雨が降り注いでいる。ホーム上に伸びたひさしのおかげで、私はまるで雨のカーテンを眺めているみたい。


 私はこの池袋の街を出る。私が住まう錦糸町にもどるが、そのねぐらも一週間後には引き払い、両親が暮らす石川県の生まれ育ったあの田舎町に帰るのだ。


 きっとこの先、この街の事を何度も思い出すだろう。三年間住み続けたこのおかしな首都と、その中で出会ったハルという男のことを。


 ― ― ― ― ― ―


 一年前。都会の暮らしに慣れたつもりでいた私は、ふらりと買い物に出かけたこの池袋の西口公園でしつこいキャッチに捕まっていた私を助けてくれたのがハルだった。


 ぱっちりとした瞳をよく見せるように横に伸びた上まぶた。細いながらも力強さを感じる切れ長な眉の濃さ。鼻筋は綺麗に伸びて、唇の血色は薄いが、キュッと閉じた時の強さ。輪郭は丁度良い細さで、長い髪を整えればモデルのようなカッコよさを持っている。その時からハルに淡い思いを抱き、私はそのままハルをお茶に誘った。


 すぐ近くにあったドトールコーヒーの二人掛けの席で私は礼を述べてハルの事を根掘り葉掘り聞いた。突然の誘いで終始とまどいを見せる場面も多かったが、ハルは素直に話してくれた。ハルは私と同い年の二十三歳で、生まれた時からこの池袋にずっと住み続けており、高校を卒業してからは決まった定職にはついておらず、知り合いの仕事を手伝ったり、適当なアルバイトをして暮らしているそうだ。


 それからハルと仲良くなり、恋人として付き合うまでになるのにそこまで時間は掛からなかった。


 ハルと付き合う様になると、ハルの周りには色んな人がいた。不良チームの頭を張っている人や、ボランティアで人助けをする人、中には風俗嬢や秋葉原で地下アイドルを追いかけている青年までいた。色とりどりの人がハルを取り巻いているのだ。そんなハルの周りに繰り広げられる世界は毎日が新鮮で、胸が高鳴った。


 毎日仕事が終わってはハルに電話を掛け、ハルのバイトがない日は、私のアパートに来て愛を育んでいた。高校生から今まで数人ほどの恋人がおり、その中の一人だけと身体を重ねたことはあったが、ハルだけは別格だった。

 ハルの筋力のある腕に抱き寄せられ、固くて大きい身体にうずくまると、とてつもなく幸せを感じるのだ。唇を重ね、ギュッと身体を締め付けられると、もう意識が遠のきそうになるくらいに。裸になるとハルの胸に彫られた蝶の入れ墨(なんでも、二十歳になった時に入れたそうだ)に指をなぞる。そんな刺激のある、膜のように絡みつく甘い日々を私は貪り続けた。


 そんな中で、私はハルの知らない顔も少しずつ見るようになる。

 一か月に数回ほど、ハルは「急用がある」と告げると二日三日ほど居なくなる。その間にハルに電話しても繋がらないのだ。浮気かと疑い、ハルのたくさんの友人に電話すると「あいつは今仕事中だから話せないんだ。後二日もすれば帰って来るよ」という言葉を貰う。


 そして電話で言われた通り、ハルは帰ってくる。相変わらずの笑顔で出迎えてくれるのだが、初めの時はひどく心配したり、強く当たったりした。そんな時、ハルはいつも困った表情を浮かべるのだ。それから半年もすればあまり気にしなくなったの。


 だが一度だけ酷い怪我をして帰ってきた時は本当に気が気でなかった。その時はちょうど池袋で暴行事件が相次いだ時で、池袋に遊びに行く度に頻繁に巡回するパトカーを目にしていたのを覚えている。部屋の玄関の前で綺麗だった頬に大きなガーゼを張り、擦り傷だらけの顔で「もう心配いらないよ」と笑った。その時、ハルの言葉の意味は理解不可能で、私は気が動転して「どうしたの?」としか聞けなかった。それでもハルは何も答えなかった。


 私はもうよくわからない仕事は辞めて欲しいとお願いした。だがハルは「それは出来ない」の一点張りだった。意固地になるハルに私は呆れる一方で、いつか、ハルがどこかに居なくなってしまうのではないかと思うようになった。


 数日後、池袋で起きていた事件は収まり、そこで私はハルが言っていた言葉の意味がわかった気がした。だが、ハルがどういう事をしたのかはピンとこなかったが。私はまたハルと騒がしい池袋の街をブラブラすることに集中し、それ以上は考える事も、詮索する事もしなかった。

 やがてまた戻ってきた何気ない日々の中で、私が笑った時に見せるハルの笑顔を見るたび、いつかの不安はどこかへ消えていってしまった。



 ハルとの摩訶不思議で、淡くて濃い甘い日々も終わりを告げる。


 故郷にいる父が病に倒れたのだ。母一人で介護するには無理がある。半ば我儘で上京したとはいえ、大切な家族だ。私は帰郷するしかなかった。だから、私はハルと一緒に暮らそうと提案した。


 私の言葉にハルは戸惑った。しばらく黙った後、ハルはこの街を離れることは出来ないと告げた。苦虫を噛み潰したような表情だった。あんな表情を見せたのは初めてだった。


 なんとなくだけど、わかっていた。

 断られることと、ハルがこの街を愛していることも。きっと、ハルはひとり占め出来ない存在なのだ。虚しいことに、触れることは出来ても、捕まえようとするとヒラリと交わされてしまう。それがハルなのだ。この一年間、なんとなく想像していたことだが。


「ごめん」


 俯いたハルの口元から沈み切った声が届く。その鼓膜を震わした言葉が、全身を震わし、胸が苦しくなる。


 私はハルの前でわんわんと泣いた。子供みたいに人目も気にせず泣く私をハルは抱き締めてくれた。その痛いほどの優しさを振り切りたいのに、私の力を失った手はハルの抱き締める両腕に触れることしかできなかった。



 ハルは愛してくれていたのだ。この街と、この街に住む人々と。そして私をひっくるめて一緒くたに。


 そして最後の夜の昨日、私とハルはずっと西口公園で語らい、そして池袋北口のガード外れにあるラブホテルで最後の愛を紡ぎ合った。

 肌と肌がぶつかり合い、ハルのその名前の通り、春の陽だまりのような優しい暖かさが私の全身を包む。これが最後だと思うと、何度も泣きそうになったが、それを忘れるように私たちは互いを求め合った。一秒一秒、ハルの全てを忘れたくなかった。ハルの全てが失われる前に、私は必死に右脳に伝わる感触を刻みつけたかった。


 疲れ切ってベッドに眠るハルはまるで遊び疲れた子猫のように穏やかな表情だった。それがなんだか可愛くて、いつまでも見つめていたかった。でも、もうここに留まることは出来ない。私は行かなければいけない。ハルの知らないところへ。ハルの胸に刻まれたマダラ蝶のように、ひらひらと。


 熱いシャワーで汗と体液を洗い流すと、飛べる羽がない私はその足を地べたにつき、ホテルを出ていく。時刻は四時を過ぎたばかり。まだ闇が開けぬ池袋の夜。ホテルを出て、静寂に染まった西口商店街を抜け、西口公園へと遠回りする。


 静まり返った西口公園の周囲をゆっくりと歩き、街並みを眺めながら、ハルのたくさんの事を思い出す。


 笑った時に大きく見せる八重歯。

 怒ってる時のギラギラした瞳。

 散っていく桜を見上げた時の横顔。

 指先でなぞった固い二の腕。

 右胸にいれた蝶のタトゥー。

「好きだ」と耳元で囁いた吐息。


 その全てがまるで昨日のことのように、鮮明に思い出せる。


 ありがとうハル。忘れることはないよ。


 心の中で呟く。これからきっと、何度だって思い出すのだろう。帰ったら、新しい恋があるかもしれない。まだ見ぬ新しい景色があるかもしれない。でも、ハルとの思い出が途切れることはないのだろう。


 そして私は立ち止まることもなく、池袋北口の階段へと歩く。途中、パラパラと雨が降り出した。真夏の暖かさを含んだ雨。その水滴が頬を掠めると、急に寂しい気持ちになった。


 少し重くなった足取りで改札を抜け、私はホームで始発を待った。



 やがてアナウンスが聞こえ、煌々としたライトをつけたグリーンラインの電車がホームに滑りこもうとしているのが見て取れた。


 ふと見上げれば、雨のカーテンの向こうですっかりびしょ濡れになった西武百貨店の建物が見える。なんだか、私のかわりに泣いているようだ。この街は、最後まで私を愛してくれているように思えた。


 やがて電車が私の視界を遮るように通り過ぎ、ゆっくりと停車する。休日の始発ということもあり、車内の人はまばらであった。すこしくたびれたグラディエーターサンダルで乗り込み、空いてる席に座る。


『三番線ドアが閉まります。閉まるドアにご注意ください』


 アナウンスとともにベルが鳴り、ドアがゆっくり閉まっていく。

 ホームから車両が動き出した瞬間、窓の向こうのホームに走る人影を見た。ハルだ。


 思わず立ち上がりそうになったが、電車は加速し、私とハルをあっという間に離していく。一瞬だけ目が合ったが、その瞳はどこか寂しそうに思えた。


「……さようなら、ハル」


 ホームを通り抜けた車両の中で、蚊の鳴く様な声で私はそう呟いた。

 こうして私の一つの物語が終わるのだ。そして、新しい物語が始まる。

 哀しみから始まる、新たな旅立ち。そんな三文小説のような物語も、今は少し悪くないように思えた。

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