「again」
「
窓の外から入り込む夏の熱気を含んだ風がカーテンを揺らし、朝日が差し込む美術室の中で私はそんな言葉を思い出した。
油絵具で汚れたペインティングナイフを置き、背筋をグィっと伸ばした、目の前に広がる多数の青を見据える。その青にまみれた絵の中で、私はこの二年と三カ月間を振り返る。
― ― ― ― ― ― ― ―
入学してすぐにこの美術部に入り、ずっと絵を描いてきた。友人もそこそこおり、まんざらでもない生活に胸を高鳴らせ、筆を走らせてきた。
一年生の時ではどのコンクールでも良い結果は残せず、「まだ一年生だから仕方ない」と自分に言い聞かせて、筆を折ることはなかった。
二年生になり、私は別のクラスの男子である若井良太に告白され、付き合う事にした。
良太の事はあまり知らなかったし、私の好きなタイプではなかったが、生まれて初めて他人から『好き』と言われた事に嬉しくなり、毎日が幸せでいっぱいだった。むしろ舞い上がりすぎていたぐらいだ。
私達の関係を知って、囃し立てる友人に私は惚気気味に良太との事を話した。まだ肉体関係もない。精々したのはキスくらいだけ。それでも、私の世界に新しい色をくれた。
良太と過ごす甘い日々に私は溺れ切っていた。全て上手くいくものだと自惚れていただけど、現実はそう甘いものばかりではなかった。
良太と交際して三か月もした頃だ。
良太は周囲に私の絵をあまり良くないと吹聴していた。だが面と向かえばとぼけたような顔をしていた。
今思えばきっと良太も逆上せていたのだろう。だから周囲に大見得を切ってそんな態度をとったのだろう。そう言い聞かせてみても、応援してくれている人のそんな噂を聞いただけで、私は酷く落ち込んだ。
当時、コンクールの絵がうまく仕上がらず、ナーバスになっていた私はだんだん良太の事も、友人の事も信じられなくなってきた。それからは良太とはなるべく合わず、部活に専念するようにした。だが、それが逆に良くなかったのだと思う。
鬱屈した気持ちで望んだコンクール。応募したのは市が主催するコンクール。不安定な私が精いっぱいにぶつけた絵は届くことはなかった。この結果に激しく落ち込み、油絵具を使った写生を止めた。
その後、高校生コンクールでも落選した私は、印象絵画を止め、抽象絵画を目指そうと色彩絵具を持って挑んだ。この胸の中で淀む暗い気持ちを絵にぶつけたいと思ったからだ。でもそれだけでは何かが足りず、私が描いた絵は、自分で見ても何かがちぐはぐだった。そんな調子が続いて、冬が訪れた。
にっちもさっちもいかず、自分に自信を無くした頃に良太は美術室にやって来た。
部員が帰った薄暗い美術室。良太は邪見に扱っていた私に詰め寄った。私の不貞を疑ったのだ。
当然であるが、私は否定した。そして私は声を荒げて絵に集中したい事、なんでもっと優しくしてくれないのか嘆いた。わがままだと思うが、せめて良太だけは味方でいて欲しいと思ったからだ。だが、良太はそうはないらしい。私にもっと自分の事を見て欲しかったのだ。
良太の言い分もわかるが、私は頑として納得しなかった。そこで軽い言い合いなった時、良太は私の絵を指さしてこう言った。
「もう志岐には向いていないんだよ。だって志岐の絵には、生きてる感じがないんだよ」
その瞬間、私は切れた。ひどい言葉を浴びせた。
私も悪かったと思う。でも、あんな言い方をされれば、誰だって怒るに決まっている。言い合いになった私はその場で別れを切り出し、そそくさと美術室を出て、学校を後にした。家路の途中、先の事を思い出して誰もいない公園でまた泣いた。
翌日は母に「体調が悪いから休むね」と偽り、しばらくベッドの中で寝込んでいた。それからベッドの中で色んな事を考えていた。その日の午後、良太から『ごめん』という短い言葉がラインで送られてきたが、無視した。とてもではないが、良太と話す気にはなれなかった。
明くる日、気分が乗らないが、私は登校した。するとどうだろう? 周囲の皆がよそよそしくなった。
どうやら良太が私と喧嘩別れをした事を周囲に告げたらしく、その噂は『志岐が良太を酷い振り方した』という内容になっていた。
そのお陰で率先して良太のあれこれを告げてきた友人も離れ、あまり話したこともないクラスメイトからも後ろ指をさして陰口を叩いていた。
もう誰の事も信じられなくなった私に、学校生活は苦痛に満ちた日々が続いた。どこにも居場所のない私は遂には美術室に籠り、シトシトと涙を流すばかりであった。
誰も信じられず、誰かに気を掛けて貰いたいのに、私の存在はひどく侮辱されたものになっていた。そんな苦痛にどう耐えていけばいいのかわからない。
真っ赤に目を腫らし、しばらく美術室を呆けていると、そこには私の絵がある事に気付いた。未完成のまま放置し、真っ白な布を被せて、見たくないと塞いだ、いつかの油絵。
しばらく見つめていて、私はようやく思い出した。
そうだ、この絵はコンクールに応募しようと頑張ったけど、結局悩んで、未完成のまま終わらせた絵だ。
なぜか、この未完成の油絵に同情した。
この油絵は私なんだ。未熟な者の手によって作られ、心が未熟な者に見放された可哀そうな絵。身勝手にも忘れようと願われ、独りぼっちにさせてしまった絵。
「ごめんね」
思わず声に出した。その途端、不思議な事に胸に詰まっていたわだかまりはどこかへ飛んで行ってしまった。穏やかな気分に包まれると、まるで目が醒めたような錯覚に陥った。
それから私は油絵をじっと見つめるのだった。もう一度、始める為に。
― ― ― ― ― ― ― ―
筆を振るいながら、そんな事をずっと思い出していた。
一心不乱に描いていると、背後で扉が開く音が聞こえて私は手を止めた。振り返ると開け放たれた扉の前には、顧問の平石先生がいた。耳元まである髪に触れて、やれやれと言った手ぶりを見せる。
「錦野さん、今日もまた制服のまま描いて……。家で怒られますよ」
「先生、申し訳ありません」
半ばあきれ顔の平石先生に私は平謝りした。平石先生の仰ることは間違いない。だが、私には体操服に着替える時間すらも惜しいほど、絵を完成させることに夢中になっているのだ。
「コンクールまで後四か月もあるんだし、あまり根詰め過ぎないようにね」
「ありがとうございます、平石先生」
平石先生はくるぶしの手前まであるスカートの裾を揺らし、身体をくるりと可憐に半回転させる。
「それじゃあ私は職員室に居るから、帰る時は言ってね」
そう告げるなり、平石先生は去っていった。先生の姿が見えなくなると、私はまた一心不乱に筆を走らせる。
私は今日も描く。そして、手にしたいものに色を付けていく。誰かに染められる前の真っ白だったキャンパスに、私の色を。
幼げな子供が見た夢を、今になって私は掴もうと焦っている。だけど、すべてが苦しいわけではない。こうして完成に近づくにつれて、達成感に包まれ、ジワジワと胸の奥が高揚しているのが分かる。
このキャンパスいっぱいに広がる空は、私が失いかけていた空なのだ。だから私は毎日、一秒一秒、この空を完成させようと努力している。
全てを賭ける日まで残り四か月。もう迷いはない。ただ、ひたすらに手を動かすだけだ。
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