第3話
いつまでもしとしとと降る雨が、まるで岬の心の中を反映しているようだ。
先月以来、岬の心に夜見の言葉が引っかかっている。
『この世に未練を残してさ迷う魂を、体に取り憑かせ先触れとして導き、あの世へと連れていく役目がある』
役目ってなんだろう……と考えれば考えるほどわからなくなる。
夜見はそう言いつつも、岬にこの葬儀社の仕事を辞めさせたいようだ。その理由が、『自覚なく亡者の案内などしては』『いつきに捕らえられてしまう』からなのだそうだ。でも岬にはいつきに狙われる謂れなどない。
『死を扱わない仕事』に就けなかったから、メモリアル田貫に就職したのだ。メモリアル田貫以外に岬が就職できそうな会社がなかっただけだ。
あれからひと月。夜見は相変わらず無愛想で、岬のことを歓迎していないそぶりのままだ。
田貫や賴豪、社員に対しても同じ態度なのだけれど、夜見の言葉のせいで岬にだけという被害妄想が炸裂してしまっている。
ただ、あのとき、夜見が一緒にいてくれなかったら、自分がこうして生きていられたかどうかわからない。助けられたのだと思っている。それなのにそれを素直に受け入れられない。
それ以上に、まだあれが本当にあった出来事なのだと思えない。単なる夢なのでは? という考えが頭から離れなかった。
非現実すぎて、ましてや、他人の魂を自分の体の中に取り憑かせるなんて、にわかに信じられることじゃない。
そんなことを考えながら、ぼんやりとスタッフルームで、参列者に配る香典返しを紙袋に詰めていると、ふいにドアが叩かれた。
「はーい、もうすぐ終わります」
二美から催促されたのかと思い、返事をすると、ひょこっとドアから三毛太が顔を出した。入社したばかりの頃、いつきに飛びかかって岬を助けてくれた猫又の三毛太なのだが、岬はそこら辺を上手い具合に記憶操作して、不審者に無謀にも飛び掛かっていった男の子、三毛太と認識している。
近くに住んでいる男の子が葬儀社に勝手に入り込んで遊んでいると思っているので、岬は当然のごとく、三毛太に注意した。
「こら、ここは遊び場じゃないんだよ。ちゃんと公園に行って遊びなさい」
「お姉さん、僕をそこいらにいる子供と一緒にしないでください。こう見えてもお姉さんよりもずいぶんと年上なんですよ」
「はいはい」
三毛太はよく冗談を言う。五歳くらいの子供にしてはこましゃくれた口ぶりだ。茶色の巻き毛にくりっとした瞳、サスペンダーの付いた吊り半ズボンにリボンタイのシャツを着ていて、見た目はどこかのお坊ちゃまみたいである。どこぞのお屋敷から抜け出してきたか、有名な幼稚園から抜け出してきたのかは不明だ。
「僕がお見受けするに、お姉さんは何か困りごとを抱えていらっしゃるようですね」
岬は香典返しを詰めた紙袋を膝に抱き、ふぅっとため息をついた。
「困りごとと言えば困りごとだけど」
「僕でよろしければ、ご相談に乗りますよ」
「ませたこと、いうじゃない」
変わった子だけれど、悪い子じゃないのはわかっているから、そんなことを言われても嫌な気分にはならない。
「心配されて言われてるのかなぁとは思うんだけど、なんだかカチンとくるんだよねぇ」
この二ヶ月で、夜見が本音でしか話さないのはわかってきた。なんだかんだと何もわからない岬のフォローをしてきてくれた。助けてくれてるのだと思う。だけど、それを素直に認められなくて、思わず反発してしまうのだ。
「お姉さん、相手の気持ちがわかっていて、カチンとくると言うことは、素直になれないと言うことです。相手に認めて欲しいと本当は望んでいるのだと思います」
「うーん」
相手に認めて欲しいからだ……といわれても、正直ピンとこない。どちらかというと、隠しごとをされていて、自分だけそれを知らないような気がする。
田貫と賴豪も知っているのに、自分にだけ知らされず、仲間はずれにされていると感じるのだ。
「そういうのとは違う気がするなぁ……」
三毛太が残念そうな顔をする。
「お力になれず、すみません」
「そんな、全然! 大丈夫! 三毛太くんに相談に乗ってもらって助かったよ!」
三毛太が悲しそうにうなだれたのを見て、岬は慌ててさっきの言葉を振り払うように手を振った。
「さてと、香典返しも準備できたし、箱に詰めるかぁ」
明日の葬儀のために準備した香典返しを詰めた箱を、部屋の隅に置く。
今日は葬儀もなくみんなそれぞれ明日のための準備をしている。毎日、葬儀があるわけではないので空き時間には、二美は葬儀進行役の練習をしたり、五郎は花壇のデザインをしたり、と自分が日頃しない仕事のやり方を覚えている。三三夫なんかは火葬技術管理士の資格の勉強をしている。
だから、岬は就職して三ヶ月経ってもなお新米と言える。香典返しの袋詰めが終わると、今度は葬儀の手順の本をめくり始めた。
三毛太が側にある椅子に座り、岬が顔を上げるのを待っている。ここで三毛太の期待に応えると、勉強することが出来ないので可哀想だけど無視した。
三毛太との精神的攻防戦が続き、だんだんと三毛太の視線が痛いと思うようになった頃、事務所から声が掛けられた。
「岬くーん、ちょっと来てほしいのだ」
手引き書に落としていた視線をあげ、三毛太には悪いけれど、返事をしながら立ち上がった。
「なんですか、社長」
事務所に入った岬の後ろから三毛太が顔を覗かせる。
「おお、三毛太くんも来てたのかな。じゃあ、二人にまんじゅうを買ってきて欲しいのだ」
「いいですよ、二十個入りの箱ですね」
「つけで買ってきて欲しいのだ。三毛太くんもまんじゅうを食べてもいいのだ」
まんじゅう屋はメモリアル田貫から歩いて五分ほどの場所にある和菓子屋だ。
「おまんじゅうよりも海老せんべいがいいのですが……」
わがままをいう三毛太に、田貫は寛大に「いいのだ」と答える。
勝手に遊びに来ている三毛太に対して田貫は本当に鷹揚な態度で受け入れている。
田貫は何に対しても、いや吉津根以外には寛容だ。そう言う社長の運営する葬儀社はもちろんホワイト企業で、ちまたで聞くようなブラックなところはない気がする。
この三ヶ月勤めて思ったのは、田貫に甘えているのか、夜見はあまり仕事をしていない。最近は他の仕出し屋がやってくることが多い。
「そういえば、夜見さん、最近御斎を作りに来ないですね」
田貫が目を丸くした。
「おや、アタシ、言ってなかったのかな。夜見さんは特別あつらえの仕出し屋なのだ。岬くんは知らなかったのだな」
「知りませんよ」
ここら辺がなんとなく引っかかる部分なのだ。こうやって後から知らされることが多いだけでなく、聞かないと絶対に教えてくれない。これらが全部勉強というならば、教えてもらえない勉強とは勉強と言えるのだろうか。知らなかったらそのままでいいよ、というスタンスなのが解せない。
「だから夜見さんは自分が必要な葬儀には御斎を作ってくれるのだ」
「それって働いてる内に入るんですか? 夜見さん、何の用事もないときに良くここに顔を出すじゃないですか」
すると、田貫が視線を背けた。
「それは様子見なのだ」
「なんの様子見ですか?」
岬はいつも以上に食い下がった。
「ほらほら、まんじゅうを買ってきて欲しいのだ」
あからさまに話をそらされて、岬は不審に思う。なんの様子見なのか、絶対に聞き出してみせると心に決めた。
海老せんべいを買っていいと聞いた三毛太が、たたたっと受付へのドアを開いて事務所を出て行った。
「待って、三毛太くん!」
岬は後ろ髪引かれる思いだったが、三毛太の後を追って表に出た。
横断歩道を渡るとすぐ近くにセントチャペル吉津根がある。見ただけで結婚式場とわかる。それも女性の好きそうな白を基調にした、空色と桜色で装飾されている。
セントチャペル吉津根を通り過ぎて、大体五分で和菓子屋にたどり着く。
それにしてもこの国道はいつも車が通らない。うっすらもやがかり人気もなくて、物寂しく見える。たまにスクーターが通り過ぎたりするだけだ。自分も公園を通らないとここに繋がる道を探し出せない。ちょっと珍しい道なのだ。
国道のずっと向こうから、ガラガラと聞き慣れない音が近づいてきた。砂利道を何か固いものが踏み鳴らしているような音だ。アスファルトは整備されていて砂利一つ落ちてないのに、ガリガリとひっかくように進む規則的な音に、岬は首をかしげた。こんな音は生まれて初めて聞いた。一体何の音か見当も付かない。
うっすらともやがかかっているので、気付いたときはそれはすぐ目の前までやってきていた。
ガラガラという音を立てる黒い車輪から炎が発せられている不気味な黒い台車だ。台車には屋根があって、古文の教科書に載っていた牛車に似ている。牛車には御簾が垂れていて中は見ることが出来ない。
岬は牛車を目にした途端、体が一ミリも動かなくなった。三毛太がささっと岬の背後に隠れて、ブルブルと震えている。
牛車を引く角が生えた大男は体の色が緑色。ザンバラ髪は灰色だ。口元からは牙がのぞき、着ているものはというと腰にまとわりつく汚い布一枚だけで、気付かれたら殺されてしまうかもしれないと恐怖に震え上がった。絶対に声を出さないように、岬は震えながら燃える牛車が通り過ぎるの待った。
再び辺りはもやに包まれて、ガラガラという音は次第に遠ざかっていった。
「あれはなに……?」
思わず岬の口から言葉が漏れた。それを聞いた三毛太が震えながら教えてくれた。
「あれは火車ですよ。地獄から迎えに来る怖い妖怪です。あれに乗せられると地獄に落ちて二度と転生できなくなるんです」
「火車……? あんなに燃えてたら警察に捕まるんじゃないの」
鬼が牛車を牽いていたこと自体が信じられなくて、あれは燃えながら走る自動車だと思い込もうとした。
「口にするのも恐ろしい妖怪です。捕まえることなんて出来ないですよ」
「あんな自動車に乗る人ってどういうことをした人間なのよ」
「悪いことをした人間か、成仏できずに人を呪って祟りを成す人間が乗せられるんですよ」
でも、と三毛太が続ける。
「僕やお姉さんが乗せられることはないから安心してください」
岬はぶるっと体を震わせて、
「さ、おまんじゅうを買って帰ろう」
と、それしか言うことが出来なかった。
午後のお茶に田貫からおまんじゅうを三毛太と一緒にお相伴させてもらった後、二美について岬は仕事の流れを教わった。一度で覚えられない自分に嫌気がさしつつも、二美は辛抱強く教えてくれる。司会はともかく、それでも花壇や供花の飾り方やご遺族との接し方まではなんとか身につけることが出来た。言葉の一つ一つまで神経を使って応対しなければならない。言い方や考え方一つで、ご遺族や参列者、ましてや故人に嫌な思いをさせてしまうと言うのが二美の考え方だ。
「故人にまで気を遣うんですか?」
最初の頃、岬は不思議に思って訊ねた。
「岬さん、わたしたちが故人にさせていただいていること全て故人は見てるの。それにご遺族の方々もそれを見てるのよ。もしわたしたちが故人を粗雑に扱ったりしたら、故人も気分が悪いし、ご遺族も同じ気持ちになるはずよ」
故人に対して生きているときと変わらずに接することは大切なのだ、と今は理解できる。
嘘だと思いたいが、たまに岬に取り憑いた魂が夜見の作る御斎を食べて成仏するところを何度も体験したのだから。
でも、毎日体験することじゃないし、日にちが経つにつれ、あれは集団ヒステリーだったんじゃないかと思ってしまう。
故人が自分に乗り移ったと思い込んだ岬が演じた狂言だったんじゃないか。そんなつもりじゃなかったけど、それを自分で否定も肯定も出来ない。
「おーい、二美」
田貫が一階から呼ぶ声が聞こえた。普段なら内線電話か何かを使って呼ぶのだが、よほど慌てているのだろう。
「いきましょ、岬さん」
「はいっ」
二美の後を付いて、スタッフ専用のドアをくぐり、一階の事務所に向かった。
受話器を持って立っている田貫が、困った顔で入ってきた二美を見やった。
「どうしたんです、社長」
「いやあ……たらい回しにされた故人をこっちで引き受けてくれないかってっ電話なのだ……引き受けると困ったことになりそうな予感がするのだ」
「困ったこと?」
田貫がうなじをなでさすりつつ、
「ここら辺がゾワゾワするのだ」
と、困ったように呟いた。
「でも、たらい回しにされているんでしょ、社長」
「そうなのだ」
「ここはそう言う困った故人の最終的にたどり着く葬儀社でもあるんだし、引き受けましょ、社長」
「うーん……」
田貫はいつになく考え込むように腕を組んだ。
「嫌な予感しかしないのだなぁ」
「ほら、社長」
二美に強引に承諾させられて、田貫は電話を耳に当てて、迎えに行くと伝えた。
一連のやりとりを見ていた岬は不思議そうに二美に訊ねた。
「最終的にたどり着くってどういう意味なんですか?」
「うちの葬儀社はたいていは普通の方から申し込んでいただくのだけど、普通じゃない方も中にはいらっしゃって、そう言った方は最後はうちに電話をされるの」
「そうなのだ。電話帳の電話番号を見つけてくれたら、それはうちとの縁が繋がった証しでもあるのだ」
そういえば、岬がここに就職した際も、張り紙を見つけたのは何かの縁だといって、連れてこられたのだった。それの葬儀版とでも言うのだろうか。
解せない……と首をひねりながらも、三三夫が故人を連れて帰ってくるのを待った。
三三夫が故人を車から降ろして、ご遺体を保管する部屋に運び入れた。頭をかきながら事務所に戻ってきた。
「いやぁ、参ったなぁ」
無口な三三夫が口を開いたかと思ったら、田貫同様困った顔をしている。
「どうしたのだ」
田貫も嫌な予感しかしないと言った顔つきで訊ねた。
「ご遺族が来ない、勝手に葬儀をしてくれ、なんなら火葬して無縁仏として処理してくれって言うんだよねぇ」
「なぬ。ご遺族は来ないのかな?」
それを聞いた岬も驚いた。いままで来ないというご遺族に会ったことがない。どんなご遺族でも病院から葬儀社に電話をしてくれるものだ。
一体どんなご遺族なのだろうと岬は腹立たしく思った。
「できれば、見送りくらいはして欲しいのだ」
そう言って、田貫が三三夫の聞いてきたご遺族の電話番号に電話を掛けた。
「もしもし。アタシ、メモリアル田貫の社長の田貫というものなのだ。今回故人を引き受けさせていただいたのだ。出来たらご遺族に葬儀に参加してもらいたいのだ」
だけど、電話の主は断固拒否しているようだ。
「いやいや、お金目的ではないのだ。これでは故人は心残りなのだ。顔を出すくらいでいいのだ。それとお骨はご家族に受け取って欲しいのだ。こちらで勝手にお寺の斡旋まで出来ないのだ」
岬は田貫から離れて椅子に座っているのに、ここまで電話口でがなる声が聞こえてくる。
「いらっしゃるまで電話するのだ。絶対にいらっしゃって欲しいのだ」
ドスの利いた声音で田貫が、
「それにご家族の承諾がないと火葬できないのだ。このままだと警察沙汰になるのだ」
などと脅している。
田貫がメモリアル田貫の場所を伝えると電話はいきなり切られた。電話から耳を離した田貫は相手のぶしつけな態度にびっくりしているようだった。
「なんなんです、今の電話」
こんなことを初めて経験した岬は驚いて田貫を見た。
「うーん。ご自宅で孤独死されているところを発見されて、警察で検死して死亡確認が取れた方なのだ。普通はそんな故人はこっちに来ることはないのだ。だからこれも縁なのだ」
「孤独死……」
何やらいろいろと想像して岬は顔を青くした。
「警察がご家族に連絡したのだけど、引き取りを拒否したと言うことなのだ」
「でもよく来られるように説得できたわね」
二美の言葉に、田貫が出っ張った腹をさらに出した。
「えっへん、いつもの手なのだ。ちょっと脅しすぎたかもしれないのだ」
「どうやったんですか?」
岬も知りたくて訊ねた。
「それは企業秘密なのだ」
「私、社員ですよ!」
「ううむ。ならばアタシの秘密なのだ」
よくわからないが、教えてもらえないまま、葬儀の準備をすることになった。
ほぼ用がなかった遺体安置所に二美や三三太と一緒に入り、ひんやりとした室内に岬は腕をさすった。
「寒いですね」
遺体安置所なのだから寒くて当たり前だけど、寒い以前に気味悪くて寒く感じる。
「故人を気味悪がっちゃ駄目よ」
「はい」
素直に返事をするものの、ご遺体を見る気にはなれない。
三三太がご遺体を取り出すと、カバーがかぶせてあり、臭いもしない。ちょっと覚悟していただけに拍子抜けした。
「もうほとんど骨になってたらしいんだよねぇ。検察医の方が肉だったところを洗ってくれたから、こちらが楽でいいんだけどねぇ……ただねぇ……」
「ただ?」
「なんだか嫌な予感がするんだよねぇ」
三三太も田貫と同じ事を口走った。
「何か怖いことが起こる予感がするんだよねぇ」
怖いこと……その言葉を聞いて、岬は二美に聞く。
「そういえば、おまんじゅうを買いに行ったときに、火の車輪の車を見たんですけど、それと関係あるんですか?」
それを聞いた二美が目を丸くする。
「火車を見たの?」
「ええ、まぁ……」
三三太が慌てて安置所を出て行った。
「これは困ったことになったわね。賴豪和尚に来てもらわないと!」
「ええ?」
賴豪和尚が来るのは早くても明日だ。といっても葬式をしないなら、そもそも賴豪和尚は関係あるのだろうか。
「事務所に行くわよ」
二美に促されて、岬は安置所を出て行った。
「社長!」
事務所に入るなり、二美が田貫を呼んだ。
「なんなのだ?」
まんじゅうを頬張っている田貫の側に行き、耳打ちする。
「なんだって? 火車を岬くんが見たのかな!」
「そうなの。賴豪和尚にすぐ来てくれるようにお願いしたわよ」
「それは良かったのだ。ただ、火車ともなると大事なのだ。賴豪和尚だけで押さえられるかわからないのだ」
そんなふうに言い合っているのを聞いて、岬は自分がとんでもないものを見たのだと気付いた。
賴豪は呼ばれてたったの十分で事務所にやってきた。
「なんじゃなんじゃ、ワシに急ぎで来させるだけの困った事件でも起こったのか」
「岬さんが火車を見たそうなのよ」
「なんと!」
二美だけでなく、賴豪まで青い顔をした。
「こりゃ面倒なことになったわい。念仏だけで事が収まるじゃろうか」
「収めてもらわないと!」
二美が賴豪に無理難題を押しつけた。
それから三時間ほどで、故人の息子という男性がやってきた。
四十代くらいの男性で、家族がいるらしいが家に残してきた、故人を火葬して骨を埋葬したら帰るとのことだった。
とても事務的で、孤独死した父親を悼む感じでもない。どちらかというと清々したみたいな顔つきで、その上で死んでからも迷惑を掛けられたとでも言いたそうな不機嫌な表情を浮かべている。
「故人とお会いになられますか?」
二美が促すと、男性は首を振り、
「必要ありません」
と頑なに断った。
こんなことでは故人の人となりを知ることも出来ないけど、男性はそんなことなど気にもしてない様子だ。
「ここではなんですから控え室に……」
二美が入り口から二階の控え室に案内した。男性は無言で二美の後ろを付いて上がっていった。
その姿を下から見上げていた岬は事務所に戻り、田貫と一緒に何やらこそこそと話をしている賴豪に話しかけた。
「火車と今回の葬儀、何か関係があるんですか?」
すると二人とも顔を見合わせてうなっていたが、賴豪が答えた。
「火車は地獄から来た迎えの牛車じゃ。故人ととも火車が来たのなら、故人は地獄に落ちるは必至。もしくは、祟りをなす怨霊となっておるという事じゃ」
でも、骨になってしまった故人にそんなことが可能なんだろうか。岬が首をかしげると、
「そんな魂が岬ちゃんに取り憑いたら、大事になるじゃろう。それ以前に、怨霊が自分と道連れに地獄へ落とす人間を探すかもしれん。その一番の目標は……」
「ああ! 息子さん?」
あの父親と会いたくもないと言っていた男性を地獄へ道連れにすると言うことなのだろう。
「それだけじゃない。岬ちゃんやわしらも例外じゃないのじゃ」
「わたしたちも……」
確かにそれは大事だ。葬儀をする側の自分たちが怨霊に祟られて死んでしまうなんて理不尽すぎる。
それを回避する方法はあるんだろうか。岬が考え込んでいると、田貫が口を開いた。
「怨霊でも導かれれば、ちゃんとあの世に行けるのだ」
「そうじゃなぁ」
二人の視線が、岬に向けられた。
「え、わたし?」
期待を込めた視線を受けて、岬は訳がわからなくてたじろいだ。
「また、そう言う無責任なことを……」
不意にスタッフ専用のドアから声がした。
「夜見さん!」
振り返って夜見を見た岬は助け船が来たとほっとした。
「夜見さん、今日はまだ出番ではないのだ」
「明日じゃろう? 御斎を出すのは」
田貫と賴豪が不思議そうに夜見を見つめた。
「別に形式的に私は御斎を出すわけではないです。必要なときに私は御斎を作るのです」
少し不機嫌そうに夜見が言った。
「それにあなた方は、何もわかってない岬さんを利用しようとしたでしょう」
田貫が慌てて首を振った。
「そんなことはしてないのだ」
「そうじゃそうじゃ、岬ちゃんに頼ろうなどとは考えてなかったぞ」
賴豪も田貫と同じように慌てている。気のせいか額に脂汗もにじんでいる。
「あなたもこんな場所にいるから利用されるのですよ」
なぜか、不機嫌の矛先が岬に向いた。
「え。私は何もしてないですよ」
「これからすることになるかもしれないのですよ」
そんなことを言われても、自分はメモリアル田貫の社員だ。仕事ならしなければならないことも多分ある。
「社長」
ふいにスタッフ専用のドアから、今度は二美が顔を出した。
「料金のご相談を」
「ああ、助かったのだ! 料金だな? そうだ! 岬くんも二美に付き添って勉強するのだ!」
「はいっ」
料金表を持って岬は事務所から出ると、二美に付いていった。
控え室には、口をへの字にして黙りこくっている男性が、足を崩して座卓に向かい座っていた。
二美と岬が控え室にお邪魔しても、挨拶もしないで不遜な態度でチラリと見ただけだった。
「境様、お待たせいたしました。このたびはご愁傷様でございます。ぶしつけではございますが、式場のご相談をしに参りました」
二美が恭しく座卓に料金表とパンフレットを差し出して頭を下げた。
「一番安いヤツで頼むよ。本当ならびた一文出したくないがね」
そんなけんか腰の言葉にも動じず、二美は料金表とパンフレットを広げて見せた。
「そうなりますと、こちらのお式になりますが、いかがでしょうか」
「五十万? そんなに出せるわけがないだろう。花もいらん」
「そうなりますと、オプションを組み合わせる形になりますが、よろしいでしょうか」
「最低限でやってくれ」
頑なに自分の父親の葬儀をまともに出したくない様子だ。だから故人は怨霊化しているのだ。息子ががめついから、頭にきているのだ。というふうに、岬は勝手に思い込んだ。
「では、入棺とご導師へのお布施も含みまして、このくらいはかかります」
といって差し示した金額は三十万円だった。
境の眉がピクピクと引きつれたけれど、納得したのか、「それでいい」と言って黙った。
「ご遺影はいかがしましょう」
「料金を加算する気か? 遺影なんぞなくていい。アイツの顔なんぞ、二度と見たくないからな!」
と口にした途端、二美が先に出しておいた湯飲みが、パリンと真っ二つに割れた。飲みかけの冷めた茶が、座卓にこぼれて境の膝を濡らした。
「あ!」
境が慌ててポケットからハンカチを出そうとした。
「あら、岬さん、急いで拭きものを。だいじょうぶですか、境様」
「大丈夫も何も……」
境が突然のことで戸惑っている間に、岬は慌ててタオルを持って来た。
「これを」
岬からタオルを受け取り、無言で濡れた膝をタオルで拭い、座卓にこぼれた茶の上にタオルを置いた。
二美がお茶を入れ直して境の前に置いたのと同時に、岬の背中がむずむずとしてきて、岬の意識がぐっと奥に押し込まれた。
岬はいきなり視野が狭くなって驚いたが、体が固まって動かない。何が起こったのかと戸惑っていると、口が勝手に言葉を発した。
「死んでまで俺をないがしろにするつもりか! おまえを育ててやった恩も忘れやがって!」
ドスの利いた低くて気味の悪い声が岬の口から漏れた。
「このままでは死にきれん。おまえもおまえらも道連れにしてやる!」
そう叫ぶと、岬が自分の手で自分の首を絞めだした。
ううっ! と岬は呻いて、あまりの苦しさに目を白黒させる。自分の体がまるで思い通りにならない。
「まずはこの女を殺して、おまえらも殺してやる」
首を絞めながら、岬がうなった。
「岬さん!」
二美が慌てて、岬の手を首から放そうと掴みかかった。
「なんなんだ、この社員は! 失礼だぞ!」
訳がわからないまま、境が怒鳴って岬から離れた。
二美と岬が畳に倒れて、暴れる岬を二美が押さえつけようとするけども、ドンッと音を立てて、二美を岬が蹴り飛ばした。
「きゃっ!」
ふすまに頭を打って、二美が力なく横たわる。
一階から騒ぎを聞きつけた田貫と賴豪和尚もやってきて、形相の変わった岬を見て驚いた。
いつもほんわかとしている岬の顔が変貌している。目がつり上がって険しく歪み、口をくわっと開けて般若の様相を呈している。まとめていた髪の毛がザンバラに広がって、蜘蛛の巣のように周囲に広がっている。
すでにそれは岬の顔じゃなく、全くの別人だった。どす黒い肌に、黒目がきゅっと小さくなって、白目の部分はドロドロとした黄色に染まっている。口から覗く舌は血が滴っているように赤く、歯が尖ってきて牙になっていた。
「こりゃ、怨霊じゃ!」
賴豪が懐から数珠を取り出して、何やら唱えながら数珠を鳴らした。
「そんな念仏、俺に効くか!」
賴豪の数珠が弾け飛んで玉が四方八方に散った。
「死んでも傲慢でわがままで自分勝手な男だな!」
ふすまを背にして境があざ笑った。
「おまえを育ててやったのも忘れて生意気な」
怨霊が顔を歪ませた。
「あんたに育ててもらった恩なんてないからな。嘘八百を言うな!」
一体どっちが本当のことを言っているのだろう、とものすごい圧迫感を覚えながら岬は自分の中で縮こまっていた。
「お父さん。そいつの言ってることは嘘ばかりだよね。勝手に家を出て行って、それまで育ててやった金も返さずに、恩知らずなのはあの男のほうだよ」
背後から怨霊を後押しするような言葉が聞こえてきた。
岬は振り返り、控え室の隅にたたずんでいる影を見つけた。初めは霞んでなかなか見えなかった影だったが、次第に色や形がはっきり見え始めて驚いた。
赤さび色の服の男、いつきだった。
「お母さんに先立たれて打ちひしがれているお父さんを慰めもしないで、しかも、肝臓ガンで末期のお父さんの世話もしなかった。いつも側にずっといたのは俺だよ。お父さんの本当の息子は俺さ」
その間も、怨霊が境を罵り、恨み言を口走っている。みんな怨霊に体を乗っ取られた岬を見て、騒いでいる。
まさかみんなには、岬の背後に立ついつきの姿は見えていないのだろうか。
「お父さん、お父さん。アイツは本当の息子じゃないんだよ。だから早く殺しちゃえ。あなたのも本当の息子は俺でしょ」
怨霊が血なまぐさい黒ずんだ息を吐きかけながら、いつきに答えた。
「俺の息子はいつも側にいたいつきだけだ。おまえは俺の息子じゃない。俺の息子は」
同じ言葉を繰り返しながら黒い息を吹きかけると、瞬く間に境の顔色が悪くなり、七転八倒し始めた。
「う、うううう、う……!」
黒い息は荒縄になって境の首に巻き付いている。ぎゅうぎゅうと巻き付く荒縄を境がもがきながらはずそうとした。
賴豪が、数珠なしで必死に念仏を唱え続けている。額に汗がにじんで伝って落ちるのが遠目でもわかるほどだ。
「お、おまえなんか地獄に落ちて当然だ! 好き勝手にやって怨霊になるなんて、アンタらしい! とっととおとなしく死んでしまえ!」
田貫が境の言葉に変な合いの手を入れる。
「お父様はもう亡くなっているのだ。火車が迎えに来ているから地獄に落ちてしまうのは決まっているのだ。でも、本当に地獄に落ちて欲しいのかな」
首に巻き付く黒い縄を両手で引っ張りながら、境が喚く。
「母さんが死んで、アンタは酒浸りだった。飲んでは俺を殴って、憂さを晴らして、最後には放置した! 俺が逃げ出さなかったら、アンタは絶対に俺を殺してただろう。好きで酒飲んで、肝臓悪くして、勝手に死んだのはアンタだ! 現実を見ろよ。アンタを心配して看病した人間はいたかよ? アンタはひとりぼっちのままのたれ死んだんだ! ざまぁみろ!」
「ぐぐぐ……」
怨霊が歯ぎしりした。岬に怨霊の感情が流れ込んでくる。
怨霊が心から鳴いて妻の死を悼んでいるのがわかった。どうしてもその悲しみから逃れられなくて、酒に逃げた。酒を飲むと今度は恨みがましく自分を見る目がいたたまれなくなって暴力を振るってしまった。殴ったあとは後悔して優しくしたけれど、何もかもが遅かった。
気がついたら自分は一人きりで、酒しか慰めがなく、自分のしてきたことを後悔しながら酒を飲んで忘れようとして、酒に溺れて、いつしか息子や世の中が自分に酷いことをしてきたと思い込むようになった。
一口飲むごとに死に近づいているのがわかったが、どうしてもやめられなかった。飲むのをやめたら正気に戻って、自分のしてきたことを思い出して苦しくなるからだ。
体はボロボロになって、病院に行っても酒をやめるようにしろと口うるさく言われて、何もかもが嫌になってしまった。
そんなときに息子がひょっこりと帰ってきてくれたのだ。
いつきという名前で。
岬はその感情に揉まれて息苦しくて仕方なかった。自分勝手な親だけど、酒に逃げないと自分の後悔で死にそうになる、弱い父親だとわかった。悲しくて辛くて許せない感情。許せないのは自分自身で、後悔してもしきれない。憎くて仕方なかったのは自分の側にいて欲しいと心から思っていたから。怒り狂っているのは自分の理不尽さを自覚してそれを認めるのが怖いからだ。
岬はその感情が怨霊の本音だと思った。
「ほら、さっさと殺さないと、お父さんが可哀想だよ」
いつきが側に寄ってきて耳打ちしてくる。
岬の耳に、遠くからあのガラガラという音が近づいてくる。炎に巻かれた車輪をきしませながら、火車がやってくる。
「火車が来てしまったら、この人は地獄に連れていかれる!」
岬は誰にも聞こえない叫びを上げた。
「そうさ、おまえも地獄行きだ。俺の使役になって、魂を捕まえてきて俺に渡す鳥になるんだ」
岬にしか聞こえない不気味な声音でいつきが言った。
いつきの使役? そんなものには絶対になりたくない! 岬は怯えながら、精一杯の声で怨霊に呼びかけた。
「待って! 思い出して! お母さんが生きてた頃を思い出して! 家族が笑顔で幸せだったときのことを思い出してよ!」
「そんな昔のことは忘れた。おまえに何がわかる!」
心の中で叫んだ言葉に、怨霊が応えた。
「怨霊さん、えっと、名前がわからないからそう呼ぶけど、あなたが悔しかったり憎かったりするのは息子さんのせいじゃないよね? 全部後悔した結果なんでしょ?」
「おまえに何がわかるんだ」
「そうだね、私にはあなたの苦しさがわからないと思う。でも、あなたの本当の気持ちが私に流れ込んできたよ」
「俺の本当の気持ちだって?」
「そうだよ。あなたは自分のしたことを後悔して、息子さんに謝りたいと思ってきた。でももう無駄だと諦めてる。今だからきっと言えるんじゃないの? 今まで会おうとしなかった息子さんが今目の前にいるんだから。それにこのままじゃ、あなたは地獄に連れていかれちゃう」
「おれが地獄に行くのは仕方ない。俺はそんなヤツなんだ。誰も俺を心配しない、誰も俺を見てくれない。俺はたった一人の息子まで捨ててしまった」
「そうだね。あなたはすごく辛かった。息子さんに謝ることも仲直りすることも出来ないで、今まで苦しんできた。でも、今なら最後に自分の本当の気持ちを伝えられるんじゃないかな」
岬は自分の中に背を丸めて悲しんでいる老人に話しかけた。
「余計なことを吹き込むな!」
いつきが地団駄を踏み、岬の言葉を遮ろうとしたが、岬の中にまでいつきが入りこむことは出来ない。
いつきに邪魔されないなら、このまま老人を説得できる。岬は自分一人きりの戦いに挑んだ。
「お父さんは本当にお母さんと息子さんを愛してたし、守ってやりたかった。でもお母さんが死んでしまって、その自信や気持ちが萎えてしまって、哀しみに負けてしまっただけなんだよ」
「そうだ。妻を亡くして悲しみに暮れて酒を飲むようになった。酒を飲めば哀しみが薄れると思った。でも息子を見ると妻を思い出してしまう。それは息子のせいじゃないのに、俺は息子にきつく当たってしまって……」
岬は言葉を選びながら、うずくまった老人の隣に座った。
「でも、今は大丈夫。きっと気持ちを伝えられるよ。お父さんはきっと息子さんに本当の気持ちを伝えられるようになれる。ううん、伝えるんだよ。だから、今だけは怒らないであげて」
「息子が怒っている。息子に憎まれるのは当たり前だ」
「悲しいよね……でもこのままじゃ、何も伝えられないまま、お父さんはあの世へ行かないといけなくなっちゃうよ」
いつきが嘲るように口を挟む。
「そうさ、地獄に行っちゃうんだ。だからみんなを道連れにしようぜ」
「ダメダメ、こいつはお父さんの考えてることをねじ曲げて伝えてるだけ。お父さんの本当の気持ちは地獄に行くことじゃないでしょ? それに地獄に行っちゃったら、お母さんに会えないかも」
「こいつが自分の妻に会えるわけがないだろ。恨み節だけの人生を送ってろくな事をしなかったんだ。地獄に落ちて当然だろ」
「お父さんはそれが間違っているってわかってる。だから今からでも遅くないはずだよ!」
岬は精一杯老人に話しかけた。
老人は岬といつきの言葉の板挟みになって、迷っているようだった。
岬の体に巣くう怨霊も次第に力を弱めて行き始めた。
「そうです。あなたにはもう一つやり残したことがあるはずですよ」
部屋中に響く声が岬に聞こえた。
夜見が何かお膳を持って立っている。
「これはあなたが自分の最期を決める機会です。これを召し上がって、心を決めてください。祟り殺すなり地獄に行くなり……お好きになさい」
老人が顔を上げた。見た目は餓鬼のように痩せ細っていて、薄汚い。ボロボロの服は着古されていた。老人が岬の体を借りて立ち上がり、座卓に乗せられたお膳を見下ろした。
老人がすうっと鼻から息を吸う。
「肉じゃがか」
ぼそりと呟き、座卓の前に座った。
見た感じ普通の肉じゃがと変わりない。肉らしきものが見えるが、何で出来ているのかわからない。老人は箸を取り、まず、大きなジャガイモを箸で割った。
醤油に色づいた茶色いジャガイモがほっくりと割れてほわんと湯気が立ち上る。甘塩っぱい香りが鼻腔を満たす。その途端岬の腹が鳴った。
腹を鳴らしたのは老人だった。それを聞いて岬もおなかが空いてくる。
まずはジャガイモを頬張った。ほくほくのジャガイモに出汁と醤油と砂糖の味が染みていて、ご飯と食べたら絶対においしい。
ジャガイモを口に入れた途端、老人の心に温かさが湧いてきた。椎茸と昆布のだしだけなのに、味わい深い旨みが醤油と絡んで、ジャガイモ独特の風味が舌の上に蘇る。
茶色く煮染められた細長いものを箸で摘まみ、口に頬張ると、歯ごたえのある肉のような感触があった。薄く切られたこんにゃくだった。
そういえば、この肉じゃがには糸こんにゃくが入ってない。入っているのは肉のような歯触りのこんにゃくとジャガイモだけだ。
気がつくと、老人がほろほろと涙をこぼしていた。肉じゃがの上に、ポタポタと涙の雫が落ちる。
「アイツの肉じゃがだ……」
アイツとは誰だろう。岬の心の中に、愛情や愛着、愛しさと慈しみ、懐かしさと温かさが湧いてくる。これは老人の感情だった。
「妻の肉じゃがだ……」
老人が呟いた。
「肉じゃがなんかで、怒りを忘れるのか? 憎しみを忘れるのか! 自分が受けた仕打ちを忘れるのか!」
いつきが腹立たしそうに叫んだ。
「これはアイツが作った肉じゃがなんだよぉ! おれの好物だった肉じゃがなんだ!」
老人は泣きながら大声を上げた。
それを聞いた境が、それまで控え室の隅にいたのに四つん這いで座卓に近づいて、夜見が作った肉じゃがを見た。
「肉とにんじんが入ってない……そうだ、確かに母さんの肉じゃがだ……なんで」
不思議そうに夜見を見上げた。
そのとき、時が止まったように境が動かなくなった。それまで聞こえていた賴豪に念仏も止まった。
「え?」
気付けば、辺りが暗い闇に包まれていて、闇の中に白く光る玉が二つ、その闇を押しのけるように輝く金色の光と、闇にぼうっと浮かび上がる夜見がいた。
白い光が次第に形をとってくる。
老人と若い女性がそこに立っていた。足下に床がある感じではなかったので宙に浮いているとも言える。宙に浮いた白い光を放つ老人と女性は向かい合って、笑顔で見つめ合っていた。
「あなた……」
「おまえか!」
夜見が静かに告げる。
「今回の御斎はこの女性からの依頼でした。心ゆくまで味わえたでしょうか」
そんな言葉など聞いてもいない二人は手を取り合って泣いている。
暗闇を裂くように赤さび色の服を着たいつきが現れた。
「そいつは俺の獲物だぞ! 地獄行きなのは決まっているんだからな!」
悔しげに叫んでいる。
「それを決めるのはあの世の官吏です。私はこの女性に頼まれて特別あつらえの御斎を用意したまで。この男の罪は、この女性が精算しました」
女性が老人の手を握り続けているうちに、老人が徐々に若返っていく。そしてそれにつられて女性も年をとっていった。
「精算だとぉ? あの世の官吏の下すことなど、俺に関係あるか!」
「勝手に地獄に落ちる魂を導くならともかく、おまえは罪亡き魂をも地獄に連れていく鬼です。しかも、岬さんを利用して魂の鵜飼いになろうとしているではないですか」
「ははは、鵜飼いだと?」
いつきが大笑いしている。
「そいつが勝手に魂を引き連れてやってくるんだ。まるで俺のために存在しているようなものだ。死に近い場所にいるのも、俺のためとしか思えないな」
無表情だった夜見が、いつきをきっと睨む。
「解釈はそれぞれですが、これまで何度もあなたは魂の先触れを狙って、命を奪おうとしてきたでしょう。岬さんを自分の支配下に置くために。この付近から動けない自分のための生け贄にしようとしていましたね」
「こいつは生まれたときから俺が狙ってきたんだ。おまえにいきなり横取りされるまではな」
岬は夜見といつきの板挟みにあってオロオロと見ているしかない。
そのとき、とうとう火車が老人の元にたどり着いた。筋肉隆々とした緑色の鬼が、むんずといつきを掴み、牛車の中に放り入れた。地獄の鬼は同じ地獄の鬼に回収される。罪なき者を火車に乗せることはない。
いつきがヒステリーを起こしているのが牛車から聞こえたが、火車を牽く鬼はまた暗闇の中へと去って行った。
「さて」
夜見が岬を立たせる。
「最期のお別れです」
「え?」
気付くと控え室に自分はいた。けれど体に乗り移った老人にまだ操られたままだ。その老人が今までの態度と打って変わって、息子に向かって土下座していた。
「すまなかった……おまえに辛く当たったことを許してくれ……いや、許せとは言わない。おまえに会えたことがうれしかった。それだけ伝えたかったんだ」
賴豪の念仏が聞こえ始めたが、やがて唱えるのをやめた。
「怨霊が鎮まっておるぞ」
賴豪が夜見に目をやった。
境が自分の父親を見つめて、
「許せるとは思えないし、思わない」
と頑なに告げた。
「それでもいい。許せないのはわかる。最期に弔ってもらえるのが嬉しい。おまえの幸せを祈っているよ」
「それも自分勝手ないい草だな……」
といいつつも、息子が目頭を指で押さえている。
「悪い父親だった。最期に母さんの肉じゃがが食えた。それで目が覚めた。おまえに酷い仕打ちをしていた。すまない。いまさら謝っても遅いが最期におまえに会えて良かった」
老人がポンッと岬から飛び出した。それを追うように金色の小鳥が岬の体から飛び立った。
白い光を導くように小鳥は天井をすり抜けて消えていった。
目が覚めると、岬を覗き込むようにしている、田貫や二美、賴豪と夜見がいた。
「あ、また寝ちゃいました! すみません」
あれは夢の出来事だと解釈している岬は慌てて謝った。
「寝たわけではないです」
無愛想に夜見が言った。
「今回は助け船があったから良かったものの、あなたがここで働くのは危険を伴います。だから、死に近い葬儀社のような仕事をするのは反対なのです。いつ、またこんなことに巻き込まれたり、いつきに魂を奪われそうになったりするか、気が気ではありません」
それを聞いて、岬は悟った。
夜見が意地悪でこの仕事が向いてないといったわけではなかったのだ。夢のことが本当なら、夜見は岬の心配をしてくれているのだ。
「この仕事は天職と思うのだな」
田貫がそうのたまった。
「岬くんがこの仕事を選んでくれたおかげで、迷う魂が減ったのだな」
「うむ。ワシの念仏では手が足りんしなぁ」
「あなた方は、岬さんを利用しようとしている。もし、これ以上利用しようとすれば、この私が許しませんからね」
いつになく夜見が真剣に田貫たちに言い放った。
岬は、夜見の「私が許しませんから」という言葉にじんときた。感情的にならない夜見の発した唯一の感情的な言葉だったから。
「夜見さんは私を嫌ってたわけじゃないんですね」
岬は感激のあまり口走った。
夜見が岬を見ると、
「そんな幼稚な感情などありません。嫌う好くという概念で動けば、必ず失敗します。魂をあの世へ導くという仕事は気を抜いたり、いい加減にしたりするものではありません。その自覚を持ってください」
冷たい声音で言った。
それでも、岬は嬉しかった。ただ引っかかることはある。夜見といつきの交わしていた内容だ。「魂の先触れ」に加えて、「生まれたときから狙っていた」という言葉。
自分は一体何者なのかという謎がますます深くなる。
もし今日のことが夢ではないのなら、自分は亡者と話したことになるのではないか。地獄の鬼も間近で見た。
自分が夢だと思い込もうとしたことが本当に起こったことならば……。
夜見がスタッフ専用のドアをくぐりながら振り向く。
「何をぼんやりしてるのですか。今から境様の葬儀ですよ。御斎の準備を手伝ってください」
岬は元気よく返事をして、夜見の後を追った。
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