第4話 盂蘭盆会 旧盆

 梅雨が明け、蝉の声が聞こえ始めた夏の初め。ようやく今月、岬は正社員になる。

 試用期間の三ヶ月はあっという間だった。三ヶ月の間にずいぶん仕事の流れも把握して、任せられるにはまだだけど、一通りのことは理解して手伝えるようになった。

 今日も今日とて、一階と駐車場の掃除をしに受付から外に出ると、公園で鳴くミンミン蝉の声が耳に届く。七月にもなると、外に出ただけで暑気に汗がにじむ。

「はぁ、暑ーい」

 太陽の熱気は感じるのに、太陽そのものは暈をかかってはっきりと見えない。相変わらず人気のない通りの向こうから手を振りながら掛けてくる人影があった。

 頭にくっきりと三角の耳が見えるところまで来て、それが三毛太だとわかった。

 小さな体で相当な距離を走りきって大満足な笑みを満面に浮かべる。

「おはようございます! お姉さん。お掃除ですか? 僕、お手伝いしましょうか?」

 そう言いながら、カチューシャの猫耳をピコピコ動かしている。

 どうやって動かしているのだろうか、と岬は気になって仕方ない。触ってみたいが、何かまずいことが起こる気がして気が引けた。

「うん、今から駐車場を綺麗にしようと思ってる」

「お手伝いいたします!」

「え? いいわよ。暑いし、三毛太くんは事務所でジュースもらって待ってたら?」

「じゃあ、お言葉に甘えて、そうさせていただきます」

 くるりときびすを返してパタパタとドアを開けて受付を抜けて、事務所に入っていった。

 まだ四、五才くらいの男の子なのに、とても礼儀正しいけれど、たまに半ズボンの裾からしっぽのようなものが覗いてると、子供なんだなぁ、とほのぼのする。あんなおもちゃをおしりにぶら下げて楽しい年齢なんだ、と思い込みたくなるくらい、しっぽがぶんぶんと振られている。

「いや、あれは電動なんだ……」

 電池で動いてるおもちゃなんだ。カチューシャにも電池が使われてるからピコピコ動くんだ。

 そう思いながら掃除を終えて事務所に戻ると、田貫と賴豪が言い合いをしていた。

「おまんじゅうの新作、初夏の味わい旧盆まんじゅう!」

 包み紙に書かれている文字を読みながら、田貫がまんじゅうを頬張った。

「んんっ? これは粒あんなのだ! アタシはこしあんのほうが好きなのに」

「こしあんなんぞ、飽きてしまうじゃろう。ワシは粒あんが好きじゃなぁ」

 すると、田貫がまんじゅうの断面を見せつつ、

「こんな歯の間に挟まる皮なんて、なくていいのだ!」

 と断言した。

「その皮がいいんじゃ! 歯ごたえが違うじゃろう! こしあんなんぞ歯ごたえがなくて気持ち悪いだけじゃ」

「そんなことはないのだ! 粒あんは口の中に皮が残って気持ち悪いのだ!」

 興奮してきた田貫のおしりからホワンとしっぽが生えた。

 見てはいけないものを見た気がして、岬は目をそらす。

「それならそのまんじゅう、全部ワシの酒の肴にするから、寄越せ!」

「それとこれとは違うのだ」

「結局粒あんでも食べるのか」

 賴豪がマグカップに日本酒を注いで、グイッとあおった。

「ぷはぁ! やはり般若湯は心が洗われるのじゃ」

 こしあん、粒あんでもめている前から、しこたま日本酒を飲んでいた賴豪が盛大にゲップを漏らした。

 すると、頬からピンッピンッピンッと白い髭が三本ずつ飛び出した。出っ歯に相まって、まるで鼠のようだ。

 それを目にして、これまた見てはいけない気がして、岬は俯いた。

 これだけじゃない。夜見だって同じだ。

 三ヶ月も勤めていると、葬儀の依頼が死ぬほど少ないのに気付いた。斎場は最大で定員十五名ほどで、週に二、三回ほど。ほとんどが家族葬で、そのうち夜見が御斎を作るのは三分の一程度。夜見もどうやって生計を立てているのか不思議でならない。他のところで御斎を仕出ししているとも聞かない。それよりも、どこに住んでいるのか趣味はなんなのか、いろいろな個人的なことを話さないので、岬にとって謎の人物という印象だ。

 掃除などが終わると暇で仕方なくて、事務所で丸一日過ごすことも少なくない。本当にこんなんでいいのかな、と不安になってくる。

 もしかして、自分は何かまずい会社に入社してしまったのだろうか、と悩んだときもある。でも、それ以上に自分が何者か、それについて頭の中がぐるぐるしてしまうほうが多かった。

 一ヶ月に何回も御斎の時に何かに取り憑かれたようになって気絶する。そんなことが何度も続けばそう思うのも当然だ。

 そしてそのたびに、夢の中で鴉や黒いカナリア、夜見に助けられるのだ。

 どうしても気になるのは、先月に、夜見がいつきと交わしていた、「魂の先触れ」に加えて、「生まれたときから狙っていた」という言葉だ。

 いつきという男なんてこの会社に就職してからしか知らないし、ましてや、狙われるようなことなど一つもしていない。

 この会社にいる限りあんな目に遭うのだと夜見が言っていたのも思いだした。

 それでも、ここにいるのは唯一の就職先だからだ。ここ以外で今更中途採用してくれそうな会社なんか思いつかない。

「岬くん」

 不意に名前を呼ばれて顔を上げると、田貫が手に封筒を持って目の前に立っていた。

「これは少ないけど、正社員になったお祝いなのだ」

 差し出された封筒を受け取ると、表書きに「賞与」とある。

「ありがとうございます」

 だけど正社員になって賞与をお祝いにもらうなんて普通にあることなのだろうか。戸惑いながらその封筒を見つめる。

「これからもよろしくなのだ」

 岬はハッとして田貫に視線を移す。

「はいっ、よろしくお願いします!」

 慌てて立ち上がってお辞儀をした。

 やっぱり細かいことは考えず、誠心誠意勤め上げるのが正しいんだろうなぁ、と言うのが岬の感想なのだった。


 七月も中旬にさしかかった頃、午後遅くからある通夜の準備で社員全員がせわしく働いているとき、受付の呼び鈴が鳴らされた。

 一番下っ端の岬が事務所から出て受付を見ると、品のいい老女がたたずんでいた。薄紫色の服に、白いレース傘を持っている。穏やかな笑顔を浮かべた顔には、笑いじわが刻まれている。

「いかがなさいましたか」

 岬が訊ねると、老女がゆっくりと口を開いた。

「すみません。わたし、花緒と申しますが、なんだか道に迷ったみたいで……」

「はぁ、道に迷われたんですか?」

「この辺りに休める場所を探したんですけど、見つからなくて……もしご迷惑じゃなかったら一休みさせていただけないかしら」

 老女が恥ずかしそうに岬に告げた。岬もこんなふうに葬儀社に訪れる人を初めて見たので、どうすればいいかわからない。戸惑っていると、背後から二美が声を掛けてきた。

「迷子さんなの? いいじゃない、外は暑いし、少し休んでもらっても」

「そうですか? じゃあ、お言葉に甘えて……」

 そういって、花緒がすたすたと二美について、涼しい事務所に入っていった。二人の行動が素晴らしくスムーズなのを見て、一瞬花緒がメモリアル田貫の常連さんなのかとさえ思えた。

 岬も事務所に入っていくと、すでに麦茶をいただいている花緒が椅子に座っているのが目に入った。しかも田貫たちと打ち解け合って談笑しているではないか。

「まぁ、このおまんじゅう、藪屋の季節の一品じゃあないかしら?」

 花緒が品良くお皿のまんじゅうをフォークで切り分けて口に運んでいる。いかにもおいしいといった様子で頬に手を当てた。

「そうなのだ、この先にある藪屋のおまんじゅうなのだ! 花緒さんは綺麗なだけじゃなくて勘もいいのだ!」

 田貫が自分のひいきにしているまんじゅう屋を言い当てた花緒を褒めちぎっている。

 さっきまでこしあん粒あんでもめていた賴豪は面白くなさそうに酒をあおっている。

「でも先月の時雨まんじゅうの粒あんもおいしかったわ」

 それを聞いた賴豪の顔がパァッと明るくなった。

「そうじゃろう、そうじゃろうて。粒あんはこしあんよりもおいしいぞ」

 般若湯のつまみにもなる! といって、花緒に酒を勧めだした。

「駄目ですよ! いきなり初めての方にお酒なんか勧めちゃ」

 岬は慌てて賴豪の差し出すマグカップを押しとどめようとしたけど、花緒が差し出されたマグカップを受け取る。

「ちょうどおなかが空いてたから、おいしいおまんじゅうをいただけて嬉しい。それに日本酒と甘いものってあう気がするわ」

 花緒が品の良い笑顔を浮かべ、また一口食べた。しかも、マグカップに注がれて出された日本酒もこくこくと飲んだ。

「おお、花緒さんは般若湯もいける口か!」

「ほんの少しですわ。あまりいただくと顔が赤くなるから」

 花緒が恥ずかしそうに口を押さえた。

 そのとき、スタッフ専用のドアが開いて、いつも夜見ではないときに仕出しの御斎を持って来てくれる配達の男性が顔を出した。

「ちわー! 藤井屋でーす。御斎弁当、調理室に置いときましたんで!」

「ご苦労様なのだ!」

 藤井屋の男性はそれだけ伝えるとドアを閉めた。

「最近、夜見さん見ないですね」

 岬はぽつりと呟いた。それを聞いた田貫が、

「夜見さんの御斎は特別あつらえなのだ。だから、本当にたまーに来るだけなのだ」

 と、まんじゅうを頬張る。

「そうなんですか……」

 心なしか寂しい気がする。

 夜見が来たときの葬儀は確かに大変なことが多い。とんでもない夢も見るし、仕事中に気絶もするし、しかも、故人の魂が取り憑いたりする、これが一番難解で納得も出来ない。

 藤井屋が悪いわけではないけれど、通常の御斎はなんだか見た目もつまらない。お弁当と言うだけあって、お皿に盛った料理をお膳の中に置いているような豪華さもない。ただの幕の内、肉なしといった態で風情もない。

 ぼんやりとそんなことを考えていると、二美にそろそろ準備にかかるわよ! と声を掛けられて、慌てて事務所を出た。


 午前中に斎場の準備から香典返しの用意、ご遺体を納棺し、遺族の方々のメンテナンス。葬儀は午後四時からおこなわれて、一時間ほどで終わる。その後、藤井屋の御斎を控え室で召し上がってもらう段取りだ。

 休む暇なく、弔電をまとめて司会役の四介に渡し、四介が進行の手順を確認している。

 岬は自分の分担を黙々とこなしていったけど、頭の隅のほうでちらほらと浮かぶ花緒の様子が気になって仕方なかった。

 ちゃんと道順を教えてもらえたか、もう事務所を出てしまったか、見送らなくて良かったか……などなど。

 なぜこんなに気になるのか不思議だけど、花緒のことがなんとなく心配だった。

 葬儀が始まったらもう事務所に戻っているような暇はない。

 ぞくぞくと故人の友人知人が斎場の前のフロアに集まり始め、岬は参列者に飲み物や茶菓子を配り歩いた。

 葬儀が始まり、しばらくして賴豪の読経が聞こえ始め、焼香が始まりフロア全体に白檀のいい香りが漂い始めた。

 葬儀も一段落付き、故人のご親族が控え室に入っていく。それを見届けて、岬と二美が御斎弁当を控え室に運び始めた。

「だから、親父の財産は俺に一任されてんだよ!」

 男の大声が控え室に響いて聞こえた。

「遺言書を見せなさいよ! あんたがお父さんに信用されてたわけないでしょ!」

「遺言書はない、弁護士にも聞いてみろよ!」

「あの弁護士、あんたがすげ替えたヤツじゃないの!」

「うるせぇな。とにかくあの土地は俺のものだ」

「あんたにあの土地は過分なんだよ」

「そうよ、アタシは長女よ! あの土地をやるってお父さんに言われたんだから」

「嘘言うな! 親父は寝たきりで口もきけなかったんだぜ?」

 という叫び声が控え室の外からでもよく聞こえてくるし、聞いてるだけで故人が可哀想になってくる。

 御斎弁当を配り終え、お茶やお吸い物も並べた後、岬と二美はこそこそと喧々囂々の嵐の中、控え室を出て行った。

「故人との思い出話なんて全くしてなかったですね」

「今日の葬儀は参列者の方がすごく多かったわね。フロアがすし詰め状態だった」

「本当に。故人が慕われてた証拠ですね」

 確かに涙を見せているのは立ち並ぶ参列者たちだけで、遺族で涙を浮かべている人たちは一人もいなかった。その上での遺産争いだから、見ているこっちが嫌な気分になってくる。

 事務所に戻ると、花緒がまだそこにいて、夜見と親しげに話をしていた。

「あらまぁ、精進料理ね、とってもおいしそう。私と主人の好物ばかりだわ」

 そんなふうに夜見が手に持った二膳の御斎を覗き込んでいる。

「あれ? 夜見さん、今日は藤井屋さんの仕出しじゃなかったんですか?」

 すると、それまで花緒と話をしていた夜見が岬に目をやった。

「社員になったと聞きましたが」

 夜見がうろんな目つきをするので、岬は挑むように答えた。

「そうです。社長にもみとめてもらえて、賞与だっていただきました」

「お金に目がくらんだのですね」

 ふっとため息をつかれて、岬は意地になった。

「夜見さんになんと言われようと、この仕事は私に合ってます。すごくやりがいがあります」

「そうでしょうね」

 夜見はそう言うと、ふと事務所の出入り口に視線を移した。

 ガチャリとドアが開き、品のいい老紳士が入ってきた。

 詰め襟の白いシャツにらくだ色のスラックス。ハンチング帽をかぶって、手には黒い杖を握っている。

「やぁ、花緒。待たせたね」

「あら、あなた。ちょうど良かったですわ。探しに行こうと思っていたところだったの」

 仲良く並んで顔を合わせる様は、おしどり夫婦そのものだった。

「さて……御斎をご準備いたします」

 夜見がスタッフ専用のドアから御斎を持って出ていった。

 老夫婦もにこりと微笑んで、田貫たちに挨拶をする。

「それでは、わたしたちも参ります」

「長い時間、私の無聊にお付き合いくださってありがとう」

 二人は手を握り、ドアをくぐって受付へ出て行った。

 品のいいご夫婦だったけど、あのおじいさんはどうやって奥さんがここにいることがわかったんだろう、と岬は不思議に思った。

「ほら、岬さん、ぼうっとしてないで夜見さんの手伝いに行くのよ」

 二美に肩を叩かれて、慌ててスタッフ専用のドアから出て、二階にいるだろう夜見を追いかけた。


 控え室の喧噪はまだ続いている。

 岬が控え室に入ったときには上座にあの老夫婦が着座し、夜見がその前に御斎を置いていた。

「それって足りない分だったんですか?」

 夜見に小声で訊ねた。

「そうですよ。このお二方だけは特別な御斎が必要なのです」

 その脇で、先ほど一番がなり立てていた男が妻と一緒になって、ぶしつけに老夫婦のための御斎料理を覗き込んだ。

「なんだ、このお料理は! 俺たちの弁当より豪華じゃないか。最初からこっちを用意すれば良かったんだよ!」

「ほんと。あのお弁当まずそうで食べられなかったし、わたしたちはこっちを食べましょうよ!」

 夫婦揃って、老夫婦を押しのけて、御斎の膳を取り、ガツガツと食い始めた。

 その様子を老夫婦は、困ったように見つめていたが、がめつい夫婦が手を付けなかった御斎を、夜見が手に取り、老夫婦の前に置いた。

「申し訳ありません。こちらを召し上がっていただいてもよろしいでしょうか」

「全然構わないよ。なぁ、花緒」

「ええ、あなた。こちらのお弁当もおいしそう」

 そう言って、がめつい夫婦が座っていた席に座り、御斎を口に運んだ。

 里芋と季節の野菜の含め煮、ごま豆腐、野菜の天ぷら、山芋とひじきのがんもどきのあんかけ、紫蘇ご飯。

 普通においしそうな精進料理だ。たしかに、夜見の作る特別あつらえの御斎に比べたら創意工夫はないかもしれないが、おいしくないものをわざわざ頼むことなどしない。

 むしろ、いつもの夜見の御斎にも似た品の良さがある。

 里芋のほくほくとした食感、冬瓜やサヤエンドウとにんじん、滋味豊かなゴボウの含め煮は、冷めてもじっくりと煮込まれたように味が染み、彩りも豊かだ。

 ごま豆腐は香ばしいごまの風味が舌の上で蕩けてのどごしがいい。衣が薄い野菜も、エゴマ油であげられ香り豊かなうえに、野菜独特の甘みさえ感じられる。

 すりおろした山芋とひじきを混ぜ込んだがんもどきはふっくらと柔らかく揚げられ、甘塩っぱいあんがかけられていて、その餡と絡めて食べると、やわらかながんもどきから出汁がしみ出してくる。

「おいしいわねぇ」

「ああ、おいしいなぁ」

 老夫婦がおいしそうにその御斎を食べている横で、豚のようにがっつく夫婦がいる。見るからに醜悪だ。だんだんと豚そのものに見えてくる。

 え? と目を擦って二度見したら、やはりがめつい夫婦が相変わらず御斎をがっついていた。

「さぁ、そろそろ行こうか」

「ええ、そろそろ行きましょう」

 老夫婦がそっと立ち上がって、花緒が杖を突く老紳士の腕に手を回して、にっこりとほほえみながら老人を見上げた。

 老紳士も優しそうな笑顔を浮かべて花緒を見下ろして顔を合わせる。

 控え室を音も立てずに出て行った二人の後を追って、岬は控え室から飛び出した。どうしても気になることがあったのだ。

 老紳士の顔に見覚えがあった。斎場に出てみて、ハッとした。花壇の中で笑っている遺影の故人の顔、まさに老紳士自身だった。

 棺の前に老夫婦がニコニコとほほえみながら、岬を振り向いた。

 そのとき、パァッと老夫婦の体が光で弾けたように見えた。白い光球がまるで鳥のように天井に向けて飛び立ち、消えた。

「え? え? え?」

 すぐには状況を飲み込めず、岬はうろたえていた。その背後に、いつの間にか夜見がたたずんでいて、話しかけられた。

「あの世へ案内する必要はなかったみたいですね」

 岬は振り向いて夜見を見た。

「どういう意味ですか」

「花緒さんが故人を迎えに来たんですね……旧盆だから出来たことなのでしょう」

「旧盆?」

 初めて聞く言葉に岬は首をかしげる。

「七月十五日は旧暦でいう盂蘭盆会なのです。七月になると、地獄の釜が開いてこの世に祖霊が帰ってくると信じられています。今日の十五日に地獄の釜が閉じてしまう。それに合わせて、先に亡くなった花緒さんがご主人を迎えに来られたのでしょうね」

 地獄の釜が開く、という言葉を耳にして、そういえば祖母が自分を怖がらせるために、地獄の釜が開いたらお化けが来るよ、とか言われたことを思い出した。

 鳥囲家でお盆を迎えたことはあったか、お墓参りをしたことがあったかと言われると、その覚えがない。お盆もお彼岸も正月も家の中で過ごした記憶しかない。

「じゃあ、あのおばあさんは幽霊?」

 大量の情報を瞬時に処理しきれなくて、岬は目を白黒させた。

「そうとも言えますね。さて」

 ふいと、夜見が控え室を振り返った。

 御斎を終えた親族が、ガヤガヤと控え室から出てくる。その中にあのがめつい夫婦も含まれていたが、何やらぼんやりとして目がうつろだった。

 遺族が親族を見送ってから棺に集まり、めいめい故人に話しかけている。

「御斎の片付けをしましょう」

「はいっ」

 岬は夜見の後について控え室に入った。御斎の片付けをしたら、夜とぎの準備をしましょう」

 死者を守る風習である夜とぎの準備をするために二人で控え室に入ったけれど、岬は「うっ」とうなって立ち止まった。

 そこには帰ったはずのがめつい夫婦がのたうち回っていた。顔色が青黒く変色し、げぇげぇと喘いでいる。

「な、なんですか? これ」

 これは現実ではないと瞬時に悟った岬は、夜見を見上げた。

「よく見てなさい」

 言われて、夫婦を見つめると二人がのたうち回っている畳に黒ずんだ丸い穴が開き始めた。

 そこから灰色の手がわらわらと這い出してきて、ひび割れた黒い爪を夫婦の衣服に引っかけたり、しがみついたりして引きずり込もうとしている。

「あ、穴が……! 夜見さん、助けないと!」

 もはや、夫婦の下半身は穴の中に沈み込み、顔や頭や肩に骨張った灰色の指が絡まっている。

 その様を夜見は黙って見つめている、うっすらと唇に笑みを浮かべて。

 いつも無表情の夜見が笑っている。岬は目を見張った。

「いいのですよ。彼らが食べたのは亡者へあつらえた食べ物ですから。亡者の食べ物はあの世の食べ物。ヨモツヘグイの話をしたことがありますね? 彼らはヨモツヘグイをしたのです。地獄に落ちて当然でしょう」

 その薄い笑みを見て、岬はぞっと背筋を寒くした。

 その間に、夫婦の頭が真っ暗な穴に沈んでしまい見えなくなった。まるで、穴など最初からなかったかのように、そこには青い畳があった。

「でも、あの人たち、地獄に落ちるような悪いことをしたんですか。御斎を食べただけしょう?」

「そうですか? 餓鬼のように人のものを欲しがり、食べ物すら奪って貪っている姿は醜くなかったですか?」

 そう問われると、「いいえ」とは言えない。岬も故人に供された御斎をがっつく夫婦の姿を豚のようだと思ったはずだ。

「あの、灰色の手はなんだったんですか」

「あれが餓鬼ですよ。彼らの魂は餓鬼道に落ちたのです」

「でも、ちゃんと生きてましたよ? 御斎が終わった後、帰るのを見ました」

 こんな非現実的なことを信じることは出来ない。信じてしまったら、今までの常識がひっくり返されてしまうようで恐ろしくなった。

「あれは魂を失った肉体ですよ。魂を失った肉体は生きた亡者です。もう自分の意思で考えたりも出来ないでしょうね」

「そうなんですか……」

 岬は言葉を失った。こんな恐ろしいことを薄笑いを浮かべて話す夜見が怖くなった。一体この人は何者なのだろう。御斎を作る仕出し屋というわけではなさそうだ。

 そのとき、表の道路から悲鳴が聞こえた。ざわざわと人が騒いでいる。

 慌てて一階に降りて表へ出てみると、あの夫婦が道路に倒れていて、親族の数人が慌てふためいている。遠くから救急車の音が響いて、だんだんと近づいてくる。

 結局、あの夫婦は二人して救急車で運ばれて行ってしまった。

 騒ぎが落ち着いてから、岬は事務所に戻った。

 田貫がまんじゅうを頬張りながら岬に訊ねてきた。

「救急車の音が聞こえたのだが、何があったのだ?」

「あの……今日の参列されたご親族のご夫婦が倒れられて……」

「ふむ、そういうこともあるのだ」

 賴豪は相変わらずマグカップで日本酒をがぶ飲みしている。片手で一升瓶を持ち、もう片手でマグカップを持つ姿は僧侶とはかけ離れた姿だ。

 それに田貫も賴豪もあってはならないものが体から生えている。

 今までこの光景を気のせいだと否定してきたけれど、地獄の穴を見てしまっては認めざるをえないことなのかもしれない。

 認めてしまった後は素直に訊ねるしかない。

「あの……あの、夜見さんは何者なんですか。本当に人間なんですか」

 鬼か何かじゃないんですか、と続けたかったけれど、田貫に言われた一言を聞いて固まった。

「それを言うなら君もなのだ」

「そうじゃなぁ」

 自分だけが知らない何かを、田貫も賴豪も知っているかのようだ。

 うろたえていると、二美の声が聞こえた。

「岬さん、御斎の片付け!」

「は、はいっ」

 一瞬で我に返り、岬は二美に追い立てられつつ、スタッフ専用のドアから二階へ上がっていったのだった。

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