第11話 膨脳様
弧裂は、赤芽を支えながら駆けた。扉は精式で施錠されているかと思ったが、物理的に重いばかりだ。数人が手を貸してくれた。重い扉を、力で開放する。もう此処にいるわけにはいかなかった。
「弧裂!」
捲眼怒の怒声だった。
湯禍が、振り返り様に菌規銃を発砲した。それが当たったのかどうか、もうわからない。
炉が傾いた。
その下から、ずるりと長い骨のような、昆虫のような、巨大な脚がでてきた。
炉の真下に、周囲を幾本もの脚に囲われた、巨大な球体があるのが覗いた。ぬめぬめと、液体とも光ともしれないものでぎらつく、真っ白い肌。固くよった皺、二つの眼窩。ごぶごぶと音をたてながら、瞼が開こうとしている。臆の間全体を埋め尽くすほどに、長い脚。
ヤマイ群は、互いに庇いあうように固まって、駆けだした。
壁からも床からも、そこら中から夜警が湧いてでた。臚士たちの住宅から、悲鳴が重なって聞こえる。律脂庁全体が、混乱の渦の中にあった。
菌規銃で、ひたすら夜警を散らしながら進む。
弧裂は、一際体格のいい仲間に、赤芽を託した。先頭を走る稼頭の隣に進み、集団を先導する。いつのまにか追いついていた湯禍が叫んだ。
「まだ膨脳様をまだ殺してない!」
全力で走りながら、弧裂は叫んだ。
「あの炉だ!」
「なに?」
「あの炉が、あれ自体が膨脳様だ!殺せたもんじゃない!」
湯禍が絶句した。
この集団では、細いパイプなど通れない。夜警と戦いながら行くには、広い通路が必要だった。
逃げも隠れもしないで、堂々と地下への階段を下りることにした。弧裂と赤芽が通いつめいていた場所。他にはだれも興味を抱かなかった暗い地下。ヤマイ群が来て、今帰ろうとする場所。
進むうちに、夜警の姿が見えなくなり始めた。
地下へ入ったのだ。
夜警が出るのは、精式で埋めつくされている地上まで。
それより深い場所には出てこない。
そのはずだった。遠く近く、夜警のぬるぬるとした気配が追いついてきた。誰もが困惑した。地下深くにあるヤマイ群の領域に、夜警が入ってきたことなどない。だが確かに、精式生物に独特の皮膚が泡立つような気配が、どこまでもどこまでもついてきた。
弧裂は、空っぽになりつつある頭を、無理に動かした。稼頭が困惑して叫んだ。
「ついてきてる……?」
「いや、気配だけだ。膨脳様、よほど腹に据えかねたんだろう。本当は、夜警を追わせて、おれたちを殺させたいのさ」
でも、と弧裂は続けた。
「精式がない場所に、夜警を出現させることは、いくら膨脳様でもできないからね」
「じゃあ、安全なの?」
「逃げないと」
きっぱりとした口調で、稼頭が言った。
こころなしか、村を出る前より、精悍な顔つきになったようだ。
「皆で、生きて、逃げるんだ。遠くまで」
弧裂は、そっと周囲を見渡した。ヤマイ群の意志は、稼頭と同じなようだった。
膨脳様、と弧裂は思った。夜警国家の創始者。首領。数百年に渡って生き続け、思考だけで夜警を産みだし続けてきた、伝説の精式使い。
明らかに数を減らしているヤマイ群の一団の、誰もが黙々と前進している。誰もが、血と体液と、その他の正体の知れない汚れにまみれていた。
「まず、村に戻ろう」
誰かが言った。返答を期待している声ではなく、誰が答えるわけでもなかったが、進む方向は同じだった。
己が生まれた国はなくなったのだなと、弧裂は改めて思った。
とてつもないことをしたのだ。取り返しのつかないことをした。
だが、そもそもあの国自体が、とてつもない手法で統治されていたのだ。取り返しがつくことなど、この世に何一つない。国が変わっても。空があってもなくても。
おそらく、膨脳様が生きながらえていたとしても、あの状態では、律脂庁は機能を停止するだろう。
律脂庁が滅んだと知れば、胚市の人々はどう行動するだろう。地下へ逃げ延びるという方法を考えつくことが、それを行動に移すことが、はたしてあの死んだ瞳の人々にできるだろうか。
「国境を越えよう」
弧裂は言った。
「八十二年前に、君たちの御先祖様は地下から来たんだ。逆のこともできるはずだよ」
「それで、どこに出るのかな。俺達、故郷の名前も知らないんだ」
「私にもわからないよ。でもひょっとしたら、膨脳様が何か工夫して、地下まで夜警が追いかけてくるかもしれない。私たちはどこかを目指さなくては」
靴の先に当たった鉄片が、どこともしれない地下深くへ落ちていった。
「村に帰って、残った人々を説得しなくては」
「どの道をたどればいいか、誰か爺さん婆さんから聞いているかもな」
「でも、まだ雲のせいで国境を越えられないかも」
湯禍はどうやって手に入れたのか、臚士が着る緋色のマトイ布を羽織っていた。行いは勇ましいのに、声はどうしようもなく不安げだ。
「夜警のことだって、膨脳様が何をしたかだって、よくわからないのに」
「赤芽に聞こう。赤芽は五脂の一人だ。私みたいな下っ端の臚士じゃない、本物の腆宗だよ」
稼頭が目を見開いた。
「とにかく、行けるだけ行ってみよう。出発前には、全員生きて戻らない気持ちだったんだ。生きているだけ、いいじゃないか」
そう言うと、稼頭は納得したようだった。
弧裂は、赤芽を探した。
彼女はいつのまにか、自分の足で歩いていた。
目が合うと、笑った。
彼女はどんな時でもよく笑う人で、それが弧裂をいつでも、どんな時でも、見たこともないはずの空を目にしたような気分にさせてきたのだった。
これからもきっとそうだろう。
暗い地下へと、一団は進んだ。
夜警国家 多々良 @tatara10
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