第8話 処刑④


翌日、太陽が登ると、ハナはこの前訪ねた村でもらった乾燥芋をもそもそと食べた。

ナギは既にいなくなっており、どこかへ行って餌をとっているのだろう。


レイの様子を見ていると、たまに目を開き、その視線の焦点がゆっくりと霧の中に結ぶこともあったが、意味のある言葉が発されることは無かった。

半開きの口がゆっくりと微かに揺れるが、言うべき言葉が脳の中に見つからないようだった。

レイが動くたびに、ハナは上体を起こし、胸元で祈るように閉じられたレイの両手をそっと慈しむようにさすった。

ハナにとってはそれしか出来なかった。

沈丁花の香りもほとんど嗅ぎ分けられなくなっていった。


いつの間にかナギが右肩に戻ってきて言った。

「ハナ、これいつまでここにいるつもり?」

「そうだねぇ……。一応、霧の中で1日経つと身体ごと『消える』って言われているから、それを見届けたいかな……」

「はーい。でも今のところ何も変化はなさそうだね」

「そうだね。まぁ何が起こるのか分からないけど、最後まで見届けてみようよ」

ハナは遠い目をして言った。


時間が経過し続けて、徐々にレイの反応する頻度も減っていった。

目の焦点も合っているのか合っていないのかよく分からなくなっていった。

ナギはその様子を祭壇のレイの横に止まったまま、くりくりした目で見ていた。

ハナは時折、レイの様子を見ては、祈りのポーズとなっているレイの両手を右手で包んでいた。


ハナの時計は既に午後を指しており、霧の中に届く太陽光も徐々に弱くなっていった。

紫色や緑色の様々な色の葉が白い霧の中で蠢いていた。

既に少女は『忘却の霧』の中で24時間以上過ごしていたと思われた。


すると突然、レイが目を開きガバっと上半身を起こした。

レイの目は濁っており焦点を結んでいるようには見えなかった。

ナギは驚いて祭壇から飛び立ち、ハナの右肩に止まった。

ハナとナギはお互いに顔を見合わせて、首を軽く傾げた。

「どうしたんだろう……」とどちらともなく言った。


レイは祭壇から体を傾けて、ゆっくりと岩の祭壇から地面に降りた。

胸元に持っていた沈丁花の小枝は身体からゆっくりと滑り落ちた。

沈丁花からは既に香りが失われていた。


ゆっくりとレイは登山道に向かって行こうとした。

しかしレイの細い左手首には手錠がかけられ、その反対側は岩から出たペグにガッチリと固定されていた。

それにもかかわらずレイは自らの左手首に一切頓着することなく登山道を下りようとした。

すると肩から手首、手錠が全て一直線になり、それでもその状態でレイは前へと歩こうとしていた。

手錠の鎖が互いに強く擦れ、軋み、たわみ、不快な金属音がした。

徐々に左手首に手錠が食い込み始め、皮膚が赤みを帯びてきた。

ハナもナギも何も言えず、黙ってその様子を見ていることしかできなかった。


左手首に手錠がさらに食い込んでいき、ついに皮膚が裂けてしまった。

それでもレイは左手首や手錠を気にすることなく、一定のペースで力を込めて前に進もうとしていた。

力が左腕から左手首を通し、手錠まで均一にかけられていた。

すると、小枝を折るような「パキ」と言う音が、レイの左手首からした。

遂に加重に耐えきれず、左手の掌の骨が折れたようだった。

すると、するりと手錠から左手が抜けることになった。


レイはそれでも左手が手錠から抜けたことを認識していないようだった。

そのまま先ほどまでと同じペース前に進み始め、登山道を降り始めた。

レイの左手首は手錠の跡として線状に皮膚が抉れ、そこから痛々しいほどに赤い血が滴り落ちていた。

その血についても、全くレイは関心を向ける様子がなかった。

何も感じず、何も考えず、ただひたすら登山道を前に進んでいるようだった。


「どこに向かっているんだろうね」

ナギはハナの右肩からハナに言った。

「さぁ……。ついて行ってみよう」

とハナはレイを追いかけて登山道を下って行った。


30分以上経過したが、レイはひたすらに同じペースで登山道を下って行くだけだった。

レイの左手からは血がダラダラと流れ続けていた。

ハナとナギはひたすら無言でレイの後を追った。


さらに30分以上歩くと、登山道が終わり、かつての村だった廃墟に出てきた。

その廃村は漁師町だったようで、漁網や干物台が打ち捨てられ、港には朽ちた船があるのが見えた。

「海か……」とハナは言った。


レイはその廃村には全く目もくれなかった。

ひたすらに海の方へと進んでいるようだった。


レイは海への道をひたすらに同じペースで進み、砂浜へと到着した。

そのままレイは波打ち際から海に入って行った。

波がレイを濡らし、進むスピードを遅らせるが、そんなことは全く気にしていないようだった。

そのまま一定の速度でレイは海の中へと入っていき、胸元まで水に浸かり、首まで水に浸かり、遂に顔まで海に入ってしまった。

それでもなお、レイは海の中へ進むのを止めず、

そのままレイは、

海へと消えて行った。


ハナとナギは海中に消えていくレイの様子を見ていた。

「これが、『忘却の霧』で人間が『消える』と言われる正体か……」とハナはぽつりと言った。


全ての記憶が忘却の彼方へと飛び立ち、生まれたままの白紙状態になると、人間は海に還ろうとする。

記憶で固められた理性が霧によって溶け出し、剥き出しの本能のみの人間になると、最終的に海に呼ばれて、戻って行くことになる。

人間の祖先を遡っていくと海に辿り着くと言われているが、進化によって獲得した記憶や理性を失うと、祖先の記憶を頼りに海に戻っていくことになる。

そうハナは直感的に理解した。

そして、そんな死に方も悪くないのかもしれないとハナは本能的に感じた。


気づけばハナは涙を流していた。

レイに対する同情心と同時に、人間という存在の小ささ、儚さを感じての涙であった。

「私はどうすれば良かったのかな……」

ハナはナギに聞いた。

「さぁ、でも出来ることは無かったと思うけど……?」とナギは答えた。

「本当にそうだったのかな……」

ハナは再びナギに聞いた。

「お、珍しく諦めが悪いハナだね」

とナギは軽く答えた。ハナがあまり思い悩まないようにするための優しさのこもった言葉だった。

「まぁでも、それもハナらしいと思うけどね」

「……そうかな」とハナは薄い霧に包まれた海の彼方を見て答えた。


暫くハナはレイの消えた方角を見ていた。

涙は止まったが、その場から動けないでいた。

そんなハナの様子に見かねたのか、ナギは明るく言った。

「ま、釣りでもやって帰るか!」

ハナは暫く黙って軽く目尻を拭っていた。

「……そうね」

とハナは幾分か明るく言って、使える釣具を探しに、元釣具屋であろう廃屋へと移動して行った。


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忘却の霧とハナの旅 皆尾雪猫 @minaoyukineko

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