第38話 『おやすみなさい』

 風が吹いている。

 閉じていた瞳を開けると、太陽はすでに落ち始めていた。

 気怠い気分を持て余しつつ、取りあえず目の前に黒田の死体と血の海が広がっていないことを疑問に思い考える。ここが車の中であるということに気が付いたのはそれから。バックミラーにぶら下がるネズミのマスコットは見慣れたものだ。熟した果実みたいな甘い香りが心地よい――それに混じる煙草の匂い。体を包むチョコレート色の座席シートを指先で撫で、名前を呼んだ。

「リコリス」

 リコリスはそこで漸く僕が目覚めたことに気が付いたらしい。「あら」と小さく呟いて、長い睫毛を瞬かせた。

「おはよう、徹。気分はどう」

 彼女の問いに、包帯の巻かれた右腕をなぞる。かなり怠い――し、頭がひどくぼんやりとしている。体中痛くてたまらないけれど、決して気分が悪いわけでもない。

「ここ……どこ?……」

「車の中よ」

「……」

「病院は行ったわよ。あんた、随分とよく寝てたわね。もう夕ご飯の時間になっちゃうじゃない」

「……桃井は……?」

「帰ったわよ」

「……」

「感謝しなさい。あんたのこと病院に連れてってくれたの、桃井なんだから」

「……救急車って……」

「救急車呼ぶより桃井の運転する車で行ったほうが速いわよ。あいつ、いつも90キロくらい出して運転するから」

 それはちょっと出しすぎじゃないのか。

 目の前で揺れるネズミを見ながら、ぼんやりとそんなことを考える。それから、先ほどまではいなかったはずのリコリスがここにいて、僕がリコリスの車に乗っているということに気が付く。

「リコリス」

「なぁに?」

「来て、くれたんだ」

「当たり前でしょ」

「来てくれないかと思った」

「どうして」

「……僕が、穂積さんを、殺せなかったから」

 僕の言葉に、リコリスが少しだけ視線を落とす。

 ああ、そうだ。僕は文乃を『殺せなかった』。『殺さなかった』のではなく、『殺せなかった』のだ。僕とリコリス――僕とEWCの間に交わされた契約は『穂積文乃』――いや、『神野文乃を殺すこと』。僕が『安西徹』でいることはこの計画の一つだし、リコリスの元にいるのも衣食住が保障されているのも『安西徹』が彰陽学園に通っているのさえも契約だ。『穂積文乃を殺す』という計画を達成することができなかった僕には、ティッシュ一枚の価値もない。それこそあの場で死んでしまっておかしくもなんともなかったのだ。桃井だって血だらけの僕を病院に連れて行ったりする必要などなかったんだ。あの場に放っておいて出血多量で野垂れ死にさせてもよかったんだ。それこそ、文乃が殺した黒田幸彦や僕が殺した『安西徹』のように。

 綺麗に磨かれたリコリスの指先がラジオのスイッチを押す。名前も知らない女のアイドルがへたくそな歌を歌っている。音程はひどく外れているくせに声だけはやたら高くて、なんとも煩わしい。普段だったら耳障りでしかないはずなのに、疲れ切った僕には子守唄のようにしか聞こえない。

「神野文乃はね、カンノ株式会社の社長の娘なの」

 再び夢の国に落ちかけた僕のことを起こしたのはリコリスだった。

「あんな大人しそうな顔してるけど、昔からじゃじゃ馬の暴れん坊で――ここ暫く大人しかったんだけど、最近また調子に乗ってきてたのよ。EWCの社員にも手を出してきて――これ以上ひどくならないうちに始末しようと色々作戦練ってたんだけど、なかなか上手くいかなかったの」

 だろうな、と僕は思う。神野文乃はあまりに圧倒的すぎた。黒田幸彦や筒井雄太なんて相手にならない、桃井やリコリスのように感情を隠すことなど一切しないで、感情そのものを武器にして異常ともいえるような強さと瞬発力で迫ってくる。恐ろしい。恐ろしすぎる。

「社長がね」

「……」

「よくやったって言ってたわ。あそこまでできるとは思わなかったって。正直、目が合った瞬間首を刎ねられて終わると思ってたって言ってたわ」

「……殺せなかったよ」

「元々敵う相手じゃないのよ。髪の毛一本取れたら上出来、穴開けられたら表彰ものよ」

「……僕はどうなるの?」

「言ったでしょ。期待してなかったって。あんたはそれなりに、予想以上の成果をあげてくれたってわけよ」

「……僕を殺すの?」

「はぁ?」

 リコリスはそこで思い切り眉を顰め――言った。

「殺さないわよ。少なくとも、あんたが『安西徹』でいる限りはね」

 彼女はそこではぁ――と長い息をついて、かなり強くアクセルを踏んだ。僕は揺れるカーテンを横目で眺め、ゆっくりと脱力をした。聞こえない音を立てて全身がシートに沈む。

そこでふとあることを思い出し、問いかける。

「……穂積さんは?」

 文乃の苗字は穂積ではない、頭ではわかっいても、癖というのは抜けないものだ。

 リコリスは、それに突っ込むこともせず

「知らないわ。桃井の提案は蹴ったらしいけど。気になるなら桃井にでも聞いてみなさい」

 彼女の提案に僕は少しだけ考えて、それからないな、と首を振る。桃井の連絡先など知らないしそもそも知りたくない。連絡を取ろうなどと思わない。第一文乃も文乃なのだ。あの圧倒的なパワーを持った二面性のあるキチガイじみた文乃なのだ。まさか黒田や安西徹のように野垂死ぬなどということはないだろう。世界が終ったとしてもないだろう。何もないところで躓いてこけたり歩いていて電柱にぶつかったりなどはしょっちゅうしてそうなのだけれど。

 時速70キロで走り続けるリコリスのポルシェ。傷だらけの僕を乗せたこの車は、下手なアイドルのリズムで軽快に風に流れている。もう、暫く乗っているのだけれど、一体ここはどこなのだろう。一体どこに向かうのだろう。

 どこにいくの? という僕の問いかけに、リコリスは笑ってこう言った。


「帰るに決まってるでしょう」


 ああ、そうか。


 痣だらけの腹の皮の下で、空っぽの内臓が軽く唸って音を立てる。そういえば、朝軽く食べただけで昼食なんて食べてないんだ。

「夕ご飯どうしようか。どこかで食べてく?」

 そういうリコリスに、僕は左右に首を振る。

「オムライスが食べたいよ――もしなかったら……カレーでもなんでもいいや」

「豆腐もあったはずだけど。麻婆豆腐は?」

「……冷奴でいい」

 無駄に背の高い天使の面を被った関西弁の悪魔の顔を思い出し、ついついうんざりとしてしまった僕に、リコリスは「はいはい」とそう言った。

 甘い香水の香りに包まれながら葡萄色のポルシェに揺らされる僕は、遠いところから僕を見つめる文乃の視線に気づかない。包帯だらけの腕で唸る腹部を抑える僕には、文乃が僕が切れずに生き残ったおさげの片っぽを自分自身で切り取ってしまうことも知らない。

「安西君、いいなぁ」

 文乃は、僕が黒田に突き刺した鋏でじょきり、と残りのおさげを切り取ると、それをぽいっ、と投げ捨てた。投げ捨てられたおさげは宙を漂い風に乗り、東京から埼玉に続く川に落ちて空き缶と一緒に流れて消えた。

「安西君、好きだなぁ――ほしいなぁ」

 緩やかな車道を走る僕には機嫌よさげな彼女の呟きは聞こえないし、僕の意識が途絶えたあとの桃井と文乃の約束だって何も知らない。

『文乃ちゃんやて、こないよわっちいやつ殺したって面白くもなんともないやろーし強い奴と闘ったほうが楽しいやろ? トールちゃん、今はまだよわっちいけど、そのうちきっと強ぉなるから、殺さんといてそれまでちょっと待っとってなー。えー? 大丈夫やって。トールちゃん、ぼーっとした性格しとるけど、きっと将来有望やでー』

 桃井が一方的に交わした口約束を思い出し、文乃はくすりと表情を緩めた。

「早く――早く、強くなってね」

 緩い風に吹かれ、短くなった黒髪が靡く。血に塗れた彼女の手の中では、小さな蝶が輝いていた。

 鈍く光る彼女の視線の向こう側には、とろとろと夢と現実の狭間を楽しむ僕の姿が存在をして、とぅるるる、とぅるるるという着信音が僕の夢の妨害をする。

 野々村だ。

 無視を決め込もうとするのだけれど、隣でリコリスがひどい顔で睨んでくるのでかなり鈍い動作でボタンを押す。

「……はい」

『もしもし!? トール!?』

 電波の向こう側から流れてくる大音量に、思わずスマホを遠くに離す。どれだけの声量を出してるんだ。

『美術館に変質者が出て、トールと穂積が大怪我して運ばれたって……』

『あの、背の高い関西弁の人に聞いたんだ。死人が出たらしいけど、どんくらいひどい怪我なんだよ』

『今どこにいるんだよ! また入院してるのか!?』

 野々村と植草が奪い合うようにして交互に話す。かなりうるさい。戦時中に落とされた爆弾みたいだ。隣でハンドルを握るリコリスがくすくすと笑っている。

「入院はしてないよ。怪我はしてるけど――大丈夫」

 野々村の三分の一程度の声量でそう言うと、顔の見えない二人がほうっ、と安堵の息を漏らすのがわかった。

 それから僕は、野々村が僕を『トール』と呼んだことにより、僕はまだ『安西徹』でいてもよいということを知る。『安西徹』としてこの生活を営み続けていいということがわかる。文乃は僕に嘘をついていたけれど、僕もかなり嘘つきだ。背の高い男いうのは、100%間違いなく桃井のことだろうが、桃井も嘘をついている。ついているどころか、あいつの場合はやることなすこと口から出ることすべての行動が嘘っぽい。涼しい顔をしてハンドルを握るリコリスだっていくつも嘘をついてるだろう。

 ぎゃーぎゃーとうるさい二人の会話を聞きながら、僕は一体、いつまで二人に嘘をつき続けられるのだろうと考える。僕が文乃を殺すまで? もしくは逆に殺されるまで? わからない。

 けれど僕は、もう少しこの生活を続けてみたいとそう思う。続けられるのなら、続けてもいいというのなら、もう少し、『安西徹』としてこの生活をしていきたいと思っている。

 目の前にぶら下がる夢の国のネズミが笑っている。それを見た僕は唐突に思いついて、それをそのまま口に出す。

「……ディズニーランド」

『え?』

「僕、まだ行ったことないんだ」

 だから、今度連れてってくれよ。

 そういう前に、騒がしい野々村が『行こう! 怪我が治ったら一緒に行こう!!』と叫んでいる。全く、そんなに大きい声を出さなくても充分こっちに聞こえてるって。

 いつまでもいつまでもしゃべり続けようとするLINEを無理やり切って、僕は再び目を閉じる。強くなる腹の捩れを感じたまま、夢の世界の扉を探す。空腹だって生きてる証拠だ。それさえも心地いいじゃないか。これは本音。嘘ばかりのこの世界も本当のことはいくつかあるんだ。ほんの、右手で数え切れるようなものかもしれないけれど。

 ここでふと、もし僕の正体が野々村や植草にばれてしまったら、僕は一体どうするのだろうと考える。リコリスや桃井が持っているのであろう嘘が僕にばれたら二人は一体どういう行動を取るのだろうと考える。こうして隣で感じ取れるリコリスの優しさはもしかして嘘なのかもしれないし、桃井に至っては存在のすべてが嘘くさい。わからない。あっさり心臓を打ち抜かれて死んでしまうかもしれないし、ぽいっとゴミ箱に捨てられてしまうかもしれない。それこそ、ティッシュのようにして。内臓を抜かれ海に捨てられるのかもしれないし、高値で海外に売られてしまうかもしれない。どの可能性も大いにありえる。逆に、もし僕のついている嘘が野々村や植草にばれてしまったら、僕は二人を殺すのだろうか? わからない。ある日突然、僕の胸の奥に潜む文乃のような残虐性が目を覚まし、佐野麗香のようにして走る電車にぽんっと突き落としてしまうかもしれない。

 けれど僕は、今はそれをしたくない。野々村をライフルで穴だらけにしようなどとは思わないし、植草の右腕に鋏を突き立てようなどとも思わない。

 取りあえず今はランド。ディズニーランドに行って、やたらでかいバケツに入った甘ったるいポップコーンを食べたり丸太のボードに乗ってアメリカ南部の沼地を進んでみたりしてみたいのだ。

 その、ほんの少しの真実を穴の空いた右手に握りしめたまま僕は車に身を委ねる。僕の存在もリコリスの名前ももしかして全て嘘かもしれないけれど、今こうして僕が怪我をしていることリコリスの車に乗っていること、腹が減っていることもオムライスが食べたいこともすべて真実。リコリスの香りが心地よいのも吹き込む風が気持ちいいのも流れる景色が美しいのも、真実なのだ。

 ぼんやりと霞む風景の向こうで、リコリスの声が優しく響く。包帯の巻かれた頭を撫でる掌に確かな優しさと真実を感じ取り、僕はそれを信じることに決める。


「おやすみ、徹」


 僕が今必要とするのは沢山の嘘の中に存在をするたった一つの真実、それだけだ。



fin.



2014.7.19 完結

2020.12.06 修正

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