第37話 『愛だよ愛』

 そもそも僕は色々なことを忘れすぎていた。

 安西徹になった理由。彰陽学園に編入をした訳。文乃をずっと見続けてきた訳。それらはすべてただなんとなく起こったわけではない。全てに全て意味がある。根本的な問題だったはずだ――ただ僕は、この日常を当たり前のように受け入れていて、あまりに受け入れすぎていて、それらの疑問を完全に忘れきってしまっていた。

 文乃は乱れた前髪を梳かすようにしてかき上げると、何かを探すようにしてきょろきょろと辺りを見回した。そして見つけた破片、否、壊れたスマートフォンを見つけると、小走りで駆け寄り座り込み、宝物でも抱えるかのようにして拾い上げた。いや、正確にいうとそれはスマートフォンではない。五月のあの日、僕が文乃に買い与えたストラップの欠片だ。スマートフォンは粉々になりストラップもストラップとしての機能は果たしていなかったのだけれど、どういうわけか運よくアクセサリーの部分だけは無事であり、小さな蝶は鈍いグリーンの輝きを放っていた。

「この部分だけでも残っててよかった。だってこれ、私の大事な宝物だもの」

 彼女はひどく愛しいものを見るような瞳でそういい、続けた。黒田君が悪いんだよ、と。

「折角生かしておいてあげたのに、変な勘違いして安西くんのこと傷つけるから」

 小さな蝶を抱きしめたまま、彼女はじっ、と僕のことを見つめていた。安西くん、と僕の名前をそう呼んで。

「佐野さん、死んじゃったでしょ?」

 うん、と僕は小さく頷く。佐野麗香は確かに死んだ。数か月前、僕と文乃が街に出かけたその夜に。

「あれね。私のせい」

 は?

「私が佐野さんを殺したの」

 

 なんだって?


 文乃は続ける。

「あのあとね。安西君と映画見て、ご飯食べて、お散歩して別れたあと、佐野さんに会ったの。佐野さん、おうちから黒田君の家に行く途中だったんだって。そしたら佐野さん、私のスマホ取り上げて、踏みつけたの。折角安西くんに貰ったのに、踏みつけたんだ。もう、貰えないかもしれないから、もう二度とないかもしれないから、一生大事にしようって決めてたのに。ひどいよね。私、すごくびっくりして、悲しくて……だから殺したの。私にひどいことするくらい、なんてことなかったんだ。だって、わたしは平気だもの。でもね、これは、本当に本当に許せなかった。黒田君はね、どうでもよかったんだ……佐野さんと付き合ってたのは知ってたけど……黒田君は、私になにもしなかったもの。でも、仕方ないよ。だって黒田君、安西君に沢山沢山ひどいことしたんだもの」

 僕はぼんやりと立ち尽くしたまま、女の子座りをする文乃の背中を凝視する。小さな文乃。標準よりも小さな背丈と小さな背中。小さな頭からはしめ縄みたいな二本のおさげがぶら下がり、同年代よりも幼く見えるその顔はいつもなぜか泣きそうな表情を作りこんでいる。気弱な文乃。恥ずかしがりやで鈍くさくて泣き虫でなぜかいつもおどおどしている気弱な文乃。

 そんな、ゴキブリどころか道に列を作る蟻の一匹殺せなそうな文乃が佐野麗香を殺したというのか。黒田幸彦を殺したというのだろうか。

「安西君」

 不意打ちに呼ぶ彼女の声に、僕はぴくりと体を震わす。

「な、に」

 声が震えていたのはわかっていた。わからなかったのは理由だ――彼女が僕の名を呼んでいるだけなのに、今までだって何度も何度も呼ばれていたはずなのに。こんなこと、今まで一度もなかったんだ。

 両手の籠に小さな蝶を押し込めたまま、文乃はゆっくり立ち上がった。

「安西君て、EWCの人? 私を、殺しに来たの?」

 彼女の問いかけに、僕は答えない。

「最初見たときはね。なんかいまいち、ぱっとしないなぁって思ったの。ちっちゃいし、軽そうだし、すごく頼りなさそうだなぁって、そう思ったの。でもね――」

 その一瞬で、彼女の姿がそこから消える。いや――決して消えたわけではない。恐ろしいスピードで僕と彼女の間に存在をしていた数メートルの距離を一気に移動し、間合いを詰めて、鼻先数センチの距離までやってきたのだ。

「いいなぁ、って、かっこいいなぁ、って、初めて思った。人に守って助けてもらったの、生まれて初めてだったんだ。だってわたし――」

 そこで感じる腹部の激痛。蹴られたのだと気が付いたのは吹っ飛ばされたあとだった。道端で蹴飛ばされた石ころみたいに転がって、蹲る。ひどく咳き込む――鳩尾に入ったらしい。胃液のようなものを吐き出して視線を上げると、そこにあるのはマズル。鉄色のピストルを持った文乃が、僕にまっすぐ銃口を向けた状態で立っている。

「ずっと誰かを殺す立場にいたんだもの」

 冷えた瞳に光を宿らせ、僕のことを見つめる彼女の瞳。不意に彼女が引き金を引き、僕はそれに反応をして横にずれる。音が鳴る。が、弾は発射されない。空砲だ。

「黒田くんがカンノに来たのは正直ちょっと驚いたかな。会っちゃったらどうしようって、何度か鉢会いそうになってどきどきしちゃった。黒田君ね、結構筋がよかったみたい。社長も結構評価してて――あと何年かしたら、うちに入れたいって言ってたんだ。あんな変な勘違いするとは思わなかったけど……でも、それももういいかな。だってもう、黒田君いないもんね。あ、そうだ、予想外といえば――」

 文乃の小さな足が動いて、穴の開いた黒田の頭を踏んだ。ごり、という鈍い音を立てて、黒田の頭が少し潰れる。

「安西君とお出かけをした時にね。安西君のこと、襲ってきた人いたでしょ?」

 彼女の問いかけに、腹を押さえて転がったまま僕は脳裏を巡らせる。文乃と出かけたGW。蝶々のストラップ。映画館。襲ってきた。トイレ。カンノ。ああ、そうだ。忘れていたけど、文乃と出かけたあの休日、映画館のトイレにて、僕はカンノの従業員を名乗る二人の男に襲われた。

「あの二人ね。カンノの事務所が勘違いして送ってきちゃったみたいなの。まさか安西君に手を出すとは思わなくて――ごめんね? 多分、もう二度と手を出さないと思うから」

 その時、床に腹を付いた状態の僕は、取り調べを受けていた筒井雄太が頭を打ち抜かれて死んだことも、あの時いたもう一人が映画館の時点ではまだ生きていて、生還したのち降格されアイドルグループMarsのストーカー中にリコリスにとっ捕まり射殺されたあの人物だったということも知らない。だから僕には、彼女の言っていることが所々わからない。

 文乃はゆっくりと腰を下ろすと、まるで猫の顎でも撫でるようにして僕の顎を持ち上げた。

「安西君。私が休んだ時、一度私の家来てくれたでしょ」

 ああ、そうだ。僕が一度、彼女が休み続けていたとき、彼女の家に行った。「穂積」という表札のついた、茶色い屋根の一軒家。

「私、本当は『穂積』じゃないの。お父さんとお母さんいなくてね、『穂積』っていうのは、私の面倒見てくれてるひとの苗字。安西君と一緒。安西君も、本当は『アンザイ』じゃないんでしょ?」

 どうして文乃は、僕が『安西徹』でないことを知っているんだ? 穂積文乃は、穂積文乃でなければ一体誰なんだ?

『穂積文乃』の名を語る彼女は、天使と見間違えるほど見事な笑みを浮かべると、僕の顎を持ち上げたまま、そのまま頬にキスをするかのようにして囁いた。


「神野文乃」


 ああ、そうか。

 

 彼女のその一言で僕は悟る。いや、悟っていなかったのだろうけど、本能で何かを感じ取る。彼女の唇が僕の頬に触れる瞬間、弾けるようにして飛びのいた。目の前に火花が飛んだ――文乃が繰り出した鋏が、数ミリの距離で僕の目の前を通り過ぎる。血の跡が付いている。僕のではない。僕が黒田の手に刺したあの鋏だ。

「あれ?」

 空振りをした態勢のまま、文乃は間抜けな声を上げた。

「安西君、普段はのんびりしてるのに、意外と結構素早いなぁ。そんなところも、結構すてき。でもね――」

 そこで放たれる銃声――真っすぐ飛び出たピストルの弾は、彼女が触れかけた右の頬を掠り、顔半分のない女神のオブジェの顔面を完全に崩壊させた。

「爪が甘いの」

 そういって笑う彼女に対し、僕の背中に冷や汗が垂れる。右手にピストル左手に鋏なんて、いくらなんでも器用すぎだろこの間リコリスとテレビで見た、海外映画の「シザー・ハンズ」みたいじゃないか。

 僕は背中を伝う汗も頬から流れる血液もそのままに、武器を探す。先ほどはうっかり神様に感謝などしてしまったが、神様なんていないじゃないか期待外れもいいところだ。

「ほんとはね。前に美術室で二人きりになった時、殺しちゃおうかな、って思ったんだ。だって安西君、ピストル使うのへたくそなんだもん。でもなんかね、話してて、ああ、もったいないな、って、思ったの」

 彼女はそこで鋏をぽいっ、と捨てた。かちゃん――と固い音を立てて床に転がる。その音に気を取られてしまったことが、また僕の爪の甘いところなんだ。文乃の持つ僕のピストルから発射された銃弾は無事に僕の右腕を貫通する。広がった穴から焼けるような痛みが全身に回り、真っ赤な鮮血が噴出した。

「ああ、いいな、好きだな、って、そう思ったんだ」

 穴の開いた右腕を押さえながら、とんだ愛の告白だ、と僕は思う。野々村の持っていたやたらきらきらとした絵柄の少女漫画とは全く違う。夢も希望も何もない、はた迷惑もいいところだ。

 右腕の痛みと戦いながら、僕は少し考える。

 どうすればいい?

 僕は一体、ここからどうして動けばいい?

 実力で言えば、おそらく文乃が圧倒的に上を行っている。黒田にさえ手も足も出すことのできなかった僕など、彼女の足元にも及ばない。

 腕が痛い。銃の突き抜けた腕からは血が噴き出して、白いシャツの袖を赤くしている。頭だってふらふらする。そういえばここも黒田に殴られ、ぬるりと血の感触がしていたはずだ。僕はあまりに血が出すぎている。あまりにも血が足りなすぎる。

 なんてことを考えている間に一気に距離を縮めた文乃が、ふらつく僕に危害を加える。黒田に殴られた後頭部を更に文乃がぶっ叩いたのだ。暗い視界に星が煌めき、僕は天使のオブジェとその上に置かれていた文房具を道連れにしてそのまま床に倒れこむ。自分で自分の体内からどんどん血液が流れていくのが感じられた。

 少しずつ遠くなる意識の向こうで文乃が何か言っている。

「ねぇ、安西君て、何人くらい殺したの?」

 わからない。一人や二人じゃないけれど、百人も二百人も、そんなに沢山は殺していない?

「安西君は、殺すって、死ぬって、どういうことだと思う?」

 どういうこと?

 どういうこととは、それは一体、どういう意味だ?

「私はね、死ぬっていうのは、ある意味永遠だと思ってる。生きてると、いつかみんなは、死んじゃうでしょ? 体も何もなくなって、消えてなくなっちゃうの。でもね、死はね永遠なんだよ。死は生と違って、決してなくなることがないの。どういうことだかわかる? 安西君。人を殺すっていうことはね、その殺した人のすべてを手に入れるっていうことなんだよ?」

 文乃は血まみれで床に這いつくばる僕の耳元に唇を寄せ、囁いた。

「私、安西君ほしいなぁ」

 朦朧とした意識の中では、人間離れした文乃の支離滅裂な思考なんて全く理解ができやしない。

 僕はこのまま死ぬのだろうか。

 頭を殴られ、腕から血を出し、誰も入らないような美術館の一室で、蜂の巣状態の黒田の死体と共に。

 それはリアルな想像だ。穴だらけの黒田の死体と、穴の空いた血まみれの僕。穴の空いている者同士、それはお似合いなのかもしれない。けれども僕は今この瞬間、それは嫌だな、ちょっと困るな、と思う。死にたくないな、まだ生きていないな、とそう思う。今まで散々人を殺しておいてなんだと思うが、けれど僕が、僕の本能が、僕の中にある一番深い部分が死にたくない、生きていないとそう願う。

 僕はまだ知らないことが沢山ある。リコリス。そうだ、僕はリコリスに会いたい。僕はまだリコリスに教えてもらっていないことが沢山あるんだ。

 どうすればいい? どうすれば生き残ることができるのだろう。どうすれば、この圧倒的な力の差を乗り切ることができるのだろう。

 白んでくる世界の端に、カッターがあることに気が付く。砕けた天使のオブジェが並んで、まるで神様の贈り物みたいだ。

 文乃の顔がひどく近い。段々と浅くなり短くなる不規則な呼吸の中で、僕は左手を持ち上げ、地球儀程度の大きさの文乃の頭を掴み取る。キスのやり方なんて知らないけれど、唇を合わせる程度のこと訳ないんだ。この行動は彼女にとってもかなり想定外の出来事だったらしく、大きな瞳が更に大きく見開かれる。阿保みたいだ。これだ、これが僕の知ってる穂積文乃だ。

 想定外な動きに気を取られた文乃は、カッターを持つ僕の動きに対する反応が遅れる。彼女が反応を示したのは、工作用のカッターが彼女のおさげを切り付けた後。気が付いたときには、小さな頭に二本ぶら下がっていたはずのおさげが右だけになり、取れた片割れが黒田の血の海に沈む。片方だけになった彼女の髪型に、意外とショートも似合うのではないかと思うのだけれど、思うだけでそれは言わない。髪を切られることすらも文乃にとっては想定外のことだったらしく、間抜けな顔でぽかんとしている。その表情に、僕は少しだけ笑ってしまう。文乃は怒るかな、それとも泣いてしまうのだろうか。わからない。髪は女の命だと、リコリスは以前そう言っていた。

 髪の毛を切ったことは彼女の生命活動には全く支障はなかったのだけれどそれなりにダメージがあったらしく、今まで全くと言っていいほど隙の無かった彼女に隙ができる。それこそ、彼女の持っていた僕のピストルを奪い返すことのできる程度の大きな隙だ。

 僕の銃の腕前については以前の通りで、今まで散々リコリスにより改善活動を行ってきたのだけれど、全くといっていいほど改善することができなかった。前に向かって飛ばしたいのならば後ろを向いて撃ったほうが早いくらいだ。僕のコントロールはそれほどまでに壊滅的なものなのだ。

 けれど、僕は撃つ。文乃からピストルを取り戻した一瞬で、間抜けな表情の文乃に向かって引き金を引く。その、間の抜けた阿保っぽい顔こそ僕の知っている穂積文乃だ。きりっとした隙のない文乃なんて、文乃じゃない。

 穴の空いた僕の右手が引いた引き金は、彼女の中心を打ち抜くことはできなかった。行き着いたのは彼女の足。左の太もも。おいおいおい、心臓を狙ったはずなのにいくらなんでも下すぎるだろとか思うのだけれど、今までの僕は百発百中、狙ったものは全部が全部外れていたのだ。前に向かえば後ろに飛ぶような代物なのだ。前に進んだだけでも大きな進歩だ。的に当たれば百点なのだ。

 放った銃弾が奇跡を起こし文乃の太腿に穴を空けたことにより、僕の体は完全に体力を失ってしまう。立っていることができなくなり、再三床に倒れこむ。足に怪我をした文乃が座り込んでいる。床と完全に友達になっている僕には、彼女の表情を見ることができない。動けないのかな、と思うのだけれど、その考えはすぐに撤回をする。相手は文乃だ。のろまで鈍くさくて赤面症の穂積文乃ではなくて、半端ない運動神経と支離滅裂の思考を持った神野文乃なのだ。文乃は僕よりも強いのだ。

 もしここで僕が死んでしまったのなら、リコリスは一体どういう風に思うのだろう。怒るだろうか。悲しむのだろうか。いやいや、むしろなにも思わず、さっさと次の誰かを見つけ出してしまうかもしれない。僕だってカンノの下っ端と一緒だ。例えればティッシュペーパー、つまりは使い捨てなのだ。いなくなったらいなくなったで、代わりはいるのだいくらだって。

 自分で自分の体が冷たくなっていることを感じる。単純に血液が足りなすぎるのだ。人間の体は、全身の血液の三分の一を失うと絶命するらしい。今僕の体内には、一体何%の血液が残ってくれているのだろう。 

 目の前がだんだん暗くなり、夢と現実の境界が曖昧になってきている。呼吸をすることすら面倒になり、そのくせ胸が苦しくてたまらない。

 ああ、そろそろ本格的に死ぬのかな。

 僕が今まで殺した人も、黒田幸も、こんな苦しみを味わっていったのだろうか。

 などと夢現状態で思っていると、鍵を閉められシャッターを閉められ明かりなんてどこにもない薄暗かったこの空間に光が入る。ぼんやりとした僕の頭では、まるでいつの日か絵本で見た「フランダースの犬」のお迎えのようにも見えた。

 けれど違う。漏れた光は天国へ続く階段ではないし、そこに現れたのも羽の生えた裸の天使というわけでもない。

 開いた扉から侵入をしてきたその人物は、「あちゃー、随分派手にやりましたわなー」と、場に似合わないとんでもなく軽い口調でそういうと、瀕死の状態で床に転がる僕のことを見つけて、抱き上げた。

「あーらら。トールちゃーん、随分手ひどくやられとるねぇ。だいじょーぶぅ? 生きとるぅ?」

 そう僕の頬をぺちぺちぺちと叩くその男。軽すぎる関西弁と薄ら香る香水と煙草の混じった匂い。見覚えのあるネックレスに、僕はこの人物が誰なのかわかる。人間だ。天使ではない。いや、天使のはずがない。こんな無駄に背の高い関西弁の天使がいてたまるものか。

 桃井薫は、僕が反応を示したことを確認すると、太腿から血を流してぺたりと座り込んでいる文乃に向かい話しかけた。

「久しぶりやねー。文乃ちゃん。元気ぃ? 随分暴れたみたいやない」

 誰に対しても軽薄な桃井の態度はカンノ株式会社の関係者である文乃に対しても健在らしい。ていうか、知り合いなのか。

「ここ暫く大人しくしとったみたいやからどうやろー、と思うてたけど。なんぼなんでも、これはちょっとやりすぎちゃうん? なんぼトールちゃんのこと気にいっとるゆうても、トールちゃん今にも死んじゃいそうやわ。お迎えきちゃいそうじゃない」

 迎えは迎えでも迎えに来たのはお前だよとか思うのだけれど、桃井に担がれている僕の意識はひどく朦朧としていて曖昧で、何も言うことができない。

「好きな子を求める気持ちはようわかるけどなぁ、なんでもかんでもやりすぎちゅうのはよくないねん。トールちゃんはまだお子様やねんから、文乃ちゃんと違って経験少ないねん。今日のところは俺に免じて、堪忍してやってくれへん?」

「……私のこと、殺さないの?」

「俺、静岡支部担当やねん。東京は管轄外やから、この件に対してはノータッチ。トール放っといてもええんやけど、リコリスに回収頼まれとっからねぇ。ほらほらトールちゃーん。寝たらあかんでー、寝たら死ぬでー」

 などと言いながら、桃井が僕の頬を叩く。寝たら死ぬのは雪山だろうと思うのだけれど、僕の体内の血液はようやく生存できる程度の分量しかないので、頬を叩かれようとお姫様抱っこをされようと全く逆らうことができない。

「トールちゃんあかんなぁ。頭からも腕からも血ぃ出しててなんぼなんでも血ぃ出すぎやわぁ。これから救急車呼ぶさけちょっと待っとき。あ、文乃ちゃんどないしする? 足に怪我しとるみたいやけど、一緒に救急車乗っとく?」

 その辺になると意識が飛び飛びで、桃井の提案に文乃がなんと言ったのかわからない。拒否をしたのは確かなようで、「そうかぁ、残念やわぁ」と欠片も残念に思っていなさそうな桃井の声が聞こえてきた。

 僕の意識はどんどん落ちて、瞼もどんどん重くなる。鼻腔を擽る煙草と香水の匂いがなんだかとても居心地がよくて、妙に安心してしまう。周りから色んな音が聞こえてきて、色んな人が色んなことを言っているのがわかったけれど、僕はなんだかとても眠くて疲れていて、おまけに血だって足りないので、桃井の言葉を最後に聞いて、夢の世界に行くことを決める。

「愛だよ、愛」


 愛じゃねぇよ。





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