第二十六話 米を伝える者
熊鰐(くまわに)が去っていったのを見計らい、日臣(ひのおみ)は狭野尊(さの・のみこと)に喰ってかかった。
「我(わ)が君っ! 正気にござりまするかっ?! この地に一歳(ひととせ)も留(とど)まるというのはっ?!」
いきなり尋ねてきたからか、狭野は驚いた様子をみせたあと、問い質(ただ)した。
「米作りを知らぬ国に、米を伝えるというのは、前々から申していたことであろう?」
「されど、一歳は長すぎまする。」
「そは申すが、米を作るには一歳かかるのじゃ。致し方あるまい。」
米を作るのに一年かかることは、日臣も知っている。しかし、そんな悠長なことを言っている時ではない。新しき国を作ることが本来の目的なのである。
「この地に、幾人(いくにん)か、米作りを知っている者を残せば、それで、よろしいではありませぬか? 我が君や我らが留まる道理はござりますまい。」
日臣の提案に対し、狭野は唸るばかり。
じっと主君の顔を見つめる日臣の傍で、椎根津彦(しいねつひこ)も意見を述べてきた。
「それがしも日臣殿と同じ考えにござる。我らには、他に成すべきことがありもうそう。」
椎根津彦の助勢を借りて、日臣が更に語る。
「そうじゃ。米作りばかりが、国造りではありませぬぞ。」
熱く語る二人に同乗し、目の周りに入れ墨をした大久米(おおくめ)も加わる。
「如何(いかが)にござりましょう。米作りの何たるかを伝えるは、幾人かに任せ、我らは、次の地に向かうというのは?」
三人の家臣に見入られた状況で、狭野は髭を撫(な)で始めた。眉間に皺(しわ)を寄せ、考え込んだままである。
他の家臣らは、主君の次の言葉を待ち、ただ黙って佇(たたず)むばかり。しばらくの沈黙が流れた。
ここで、痺(しび)れを切らしたのか、長兄(ちょうけい)の彦五瀬(ひこいつせ)が口を挟んできた。
「狭野よ。我らは、汝(いまし)の考えに従うが、わしの考えも聞いてくれぬか?」
兄からの一言に、狭野は、救われたような顔付きとなった。
「お教えくだされ。」
「日臣や椎根津彦らの申す通り、幾人か残すというのは道理じゃと思う。」
求めていた答えではなかったからか、狭野は、少し残念そうな面持ちとなった。
その雰囲気からして、狭野自身は、この地に留まりたいのだと、日臣は思った。だが、自分が言っていることも道理だと思っているからこそ、何も言えないのであろう。その想いを感じ取った時、少し寂しい気持ちにもなった。自分たちを気遣っているようにもみえるが、気兼ねしているようにもみえたからである。
日臣が、そんなことをつらつらと考えているところで、彦五瀬は、言葉を続けた。
「だが、わしは、留まるべきじゃと思うておる。」
彦五瀬の意見に、狭野は表情を一変させ、目を輝かせ始めた。
「長兄も、そう思われまするか?」
「米作りを知らぬ国は、崗(おか)だけではない。汝(いまし)自(みずか)ら米作りをおこなえば、ほかの国々も、我らの想いが真(まこと)から出たものであると考え、心安(こころやす)んじて、我らを受け入れんとするはずじゃ。」
「心安んじる?」
「汝(いまし)は真っ直ぐな男ゆえ、考えたこともなかろうが、ほかの国々の王(きみ)は、我らを恐れているやもしれぬのじゃ。己(おの)が国を侵(おか)さんとしているのではないかとな・・・。」
彦五瀬の考えを聞き、日臣も、納得してしまった。自身は国造りのことばかり考え、敵対者がいれば討伐するのみと思っていた。戦を避けるという概念がなかったのである。そして、主君の狭野は、米作りを伝授することしか考えていなかった。彦五瀬から、全く新しい視点を示され、日臣は頭の上がらぬ想いであった。椎根津彦や大久米も、そう感じ取ったのであろう。我(われ)に返ったような顔で、狭野と彦五瀬と眺める。
兄の助言を受けて、狭野は、自信に満ちた風情で語り出した。
「なるほど。良きお考え・・・。で、あれば、我(われ)は留まるべきにござるな。」
そう言うと、狭野は、改めて日臣らの顔に視線を向けた。
「日臣、椎根津彦、大久米。汝(いまし)らの想いも分かるが、わしは、この地に留まる。許せよ。」
否と言えるはずがない。三人とも、ただ黙って頭を下げるほかないのであった。
日本物語 @kikuzirou
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