須王美琴は美しい

2121

須王美琴は美しい

 地に落ちた蝶が、体を潰され死んでいた。歩道の無い道路のコンクリートの上、野良猫に食われかけたか、虫取り少年に弄ばれたのか。弱ったところを最後は誰かの靴裏に踏まれたのであろう。人は生きているだけで人知れず容易に何かを傷付けるというそれだけの話だ。

 羽は千切れて虫食いになっていた。虫なのに、虫に食われたわけでもないのに。ところどころに穴が開き、痛々しく破れている。鱗粉も剥げ落ちて半透明になっている部分もあった。

 アオスジアゲハはその名の通り、黒い羽に青い筋を引いたような蝶だ。ぐちゃぐちゃなのに青い筋は美しさを失わず、陽光を受けていまだ輝き続けていた。

 見るも無惨なその姿はーー美しかった。

 物言わぬものとは美しいものだ。死して尚、この目に美しく映るものというものは存在する。

 ホルマリンに浸かる白い腕。

 目がガラス玉の狼の剥製。

 言葉を解さない少女の人形。

 死は美しさを固定化し、誰も寄せ付けない不可侵の砦を作る。人智を越えた美しさは、常人にはあまりに尊く触れることさえ憚ってしまう。

 アオスジアゲハ見て思う。

 ただ一つ、残念なことがあるとするならば。

 ーー僕ならば、意思をもって殺してやれたのに。

 あと数時間僕に会うのが早ければ。

 殺すために、殺せたのに。

 そんな後悔が少しばかり。

 美しいものを壊すという快楽は、禁忌に手を染める優越感に通ずる。

 体育祭で先頭を走る者に転んでしまえという呪詛を吐き他人の不幸を喜ぶような行為も、それに準ずるものであるだろう。

 完璧なものほど瑕疵を探してしまう浅はかさを、人は否定出来まい。誰だって美しいものに手をかけて壊すという禁忌に、魅了されてならないのだ。

 美しければ美しいほど、壊したときの恍惚は増すもので。

 アオスジアゲハの羽を踏みつけ、ザリリと靴を地面に擦り付ける。

 胸がすく思いがした。




 須王美琴は美しい。

 筆でてらいなく引いた線のように、彼女の目尻はスッと消える。奥にひそむ瞳は凪いだ海のように静かで、全てを見透かすよう。まるで、どんな悪戯をしても見透かす母親のような聡明さがある。

 彼女の前では誰も嘘は吐けない。聞かれてもいない罪も口から溢すように懺悔してしまう。

 うちのクラスの事実上の女神である。ある種の宗教のように、生徒や教師を問わず彼女の周りにいる者は彼女を尊び崇めている。

 濡れた百合の花びらのように白く透明な肌に、色を差すのは赤い唇。唇が動き喉を震わせ囀ずる声は、甘い蜂蜜のように聞く者の脳をも溶かす。その声に囁かれれば、禁忌さえも容易に脅かしそうになるほどに。

 心も性格も全てが美しく麗しい清らかな少女。

 世界の裏側で人が死ねば、彼女は本心から涙を流す。この世全ての悲しみを背負い、それを浄化せんとする。彼女が笑えばそこは花畑に代わり、踏みつけられた雑草さえも彼女に微笑みかける。

 彼女には魔力のような魅力があった。

 それでいて子どものような無邪気さがあり、本人も無自覚に発揮するものだから、人の心を掴んで離さない。

 僕も初めての自己紹介のときには、堕ちかけたくらいだ。危なかった。

 高校二年生、始業式の次の日のこと。出席番号順に一人一人自己紹介をしていた。須王美琴の番になり、教壇の上に立っていすまいを正すと、黒髪がさらりと揺れる。

 右から左へと見渡して、深く息を吸う。

「須王美琴です。初めての人も多いと思うんだけど、あなたのことをもっと知りたいな」

 その言葉は、誰もが自分に向けられた言葉だと思った。彼女の話し方は、人に真剣に言い聞かせるような響きがある。言葉は耳を通り越し、なんてことはない言葉でさえもしっかりと心へと届く。無意識ではなく意識的に人に寄り添い一人一人と対話しようと思って話しているからそう聞こえるのだろう。

 自らを誇張し驕ることもせず、下心のような厭らしさもない。彼女の純心を疑うものはいない。

 そして最後に、完璧なタイミングではにかむように微笑んだ。

 その笑顔で男女、先生、生徒を問わず、みんな彼女の虜になってしまった。




 このクラスには、須王美琴に救われた少女が存在する。

 一年生の頃、いわゆるいじめにより少女は心を壊されて、口を閉ざしてしまった。

 彼女の時間を再び動かしたのが、美琴だった。

 二年生に上がりクラスメイトの一人が学校に来ていないことを知ると、足繁く牧野の家に通い詰めた。そして少女の再生は果たされた。そこでどのような会話が為されたのかは僕の知るところではないが、想像は容易に出来る。

 須王美琴に同情されるという優越感。

 須王美琴が受け入れてくれる肯定感。

 須王美琴が気にかけてくれるなら、人は無敵になれる。

 美琴の言葉は自分の親よりも、先生よりも、何よりも強く心に響くのだ。

 学校に来た少女にも美琴は心を配り、すぐにクラスに馴染んでいった。クラスメイトも、美琴の行動に促され自ら進んで少女を助けていた。

 須王美琴の隣で、再生した少女は今日も堂々と歩いている。




 僕は須王美琴を汚したかった。

 物を壊してストレスを発散させるというビジネスも確立しているくらいなのだ。その欲望も当然と言えよう。

 美しいものこそ、壊したくなるのだ。

 僕は日がな彼女を傷付ける方法を考えている。

 身体ではない、精神を、心を傷付けてしまいたい。

 泣き叫ぶ姿が見たい。

 完璧な者の、完璧ではない姿が見たい。

 これは一種の好奇心とも言えるだろう。

 用意周到に事は行われた。

 一見、彼女を慕っているように見せかけて、周りからどんどん追い詰めていく。

 事細かに計画を立てて追い詰めていった。

 予定はあまりにうまくいった。

 叶った、はずだった。

 日暮れの教室には僕と美琴しか人がいない。窓際に立つ僕たちの味方はせいぜい己の長い影くらいだ。

 須王美琴は傷付いて、目を伏せている。その姿でも、彼女の睫毛は綺麗な曲線を描いていて、まるで美術品のようだった。

 目的を果たした達成感に僕の手は震えていた。僕は彼女を壊すことが出来たのだ。けれど、この震えは果たして本当に歓喜の震えだろうか。悲しみや畏怖のようなものではないだろうか。そんなはずはないと言い聞かせてもどこか釈然としないのは、なぜだ。

 日は翳り、影が消える。

 彼女がこちらをゆっくりと向く。その顔は慈愛の表情を湛えていた。

「君は、私の特別になりたいだけなんだよね」

 甘く蕩ける声が一瞬前までの僕をどろどろに溶かしていく。

 思わず唾を飲み込む。

 やめろ。

 自覚させないでくれ、頼むから。

 ああそうだ。

 僕は彼女の一番にはなれない。

 仲良くなろうと思い彼女の手を取っても、彼女は僕をクラスメイトの一人としてしか認知しない。どうやったって無理だ。彼女の取り巻きが、彼女に特別になろうと手を尽くしてもかわされ玉砕していったところをずっと見てきたからだ。

 彼女を、ずっと見てきたからだ。

 だから救われた少女が羨ましかった。

 そんな風に須王美琴に目を掛けてもられる方法があるなんて知らなかった。

 ずるい。

 ずるい。

 ずるい。

 僕だって、特別になりたい。

 考えた末に至った結論は、彼女を汚すこと。

 彼女を汚し、同時に落胆されたかった。そうする方法でしかその他大勢で凡人の僕には彼女の特別になることは出来ないと思った。

 傷付けて、嫌われることで、彼女の特別になりたかった。

 なのに酷いことをしたはずの僕は、許され、認められ、今彼女に微笑みかけられている。

 あんなことをしたのに、爛れた心を包み込んで許された。

 こちらの心情を理解された。

 違う、こんなはずじゃなかった。

 けれども僕は、自覚してしまう。

 ーー須王美琴は本物だ。もしもこの世に女神がいるなら、須王美琴以外ありえない。

 何人たりとも須王美琴の羽を折り地に落とすことなど出来はしない。なぜなら彼女は空の青そのものなのだから。

 輝かしい少女に喝采を。

 神々しき少女に祝杯を。

 目の前に、女神がいる。

 全てを許す少女を。

 醜く歪んだ己を許す少女を。

 信仰する他に道は残されていないのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

須王美琴は美しい 2121 @kanata2121

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ