スタートライン

小鳥遊 蒼

Love at first sight

 トラックの周回練習を終え、軽くクールダウンをした亮平りょうへいはランニングシューズの紐を緩めると、ストレッチを始めた。

 少し前まで不調だったのが嘘かのように、タイムはどんどん縮まっていた。


「最近調子いいな。何かあったのか?」


「何か…………」


 亮平の横で同じようにストレッチをしていた海斗かいとが、突然の復活を成し遂げた亮平に、その疑問を投げつける。

 亮平は海斗の言葉に、考える素振りをした。


「強いて言うなら………おにぎり効果かな?」


「は?」


 その答えに、海斗は訝しげな表情を浮かべる。

 おにぎりって何だよ、特殊な物ってことなのか? と独り言のようにぶつぶつと何かを呟いている海斗を尻目に、終盤に入ったストレッチに、さらに念入りに足のケアを行う。

 部長から集合の声がかかり、終わった者から順次そちらに向かっていた。亮平も指示に従い、立ち上がると、海斗がはっとしたように、亮平を見上げた。


「まさか、彼女ができたとか?! ………いや、でもこの前、告白断ってたよな。あの、超絶可愛い充希みつきちゃんの告白を………………」


 羨ましすぎる、とその嫉妬から悪態をつく。


「何で断るのかな………陸上命ってやつなの?」


「陸上は好きだし、大切だけど………………そもそも、にしか近づいてこない奴には興味ない」


「?」


 海斗もようやくストレッチが終わったのか、その頭にはてなマークを浮かべながら腰を上げる。

 ちらっと視線を移すと、部長が急げと目で訴えかけていたけれど、海斗はそれに気づく様子もなく、亮平の言葉を反芻しながらゆっくりと歩みを進める。

 そんな海斗を見て、亮平は軽く笑った。


「ま、安心しろよ。彼女はいないから。………彼女にしたい人ならいるけど」


「え?!」


 その言葉に海斗は立ち止まり、驚きを隠せないようだったが、いまだ来ない二人に痺れを切らした部長が、いよいよ怒鳴り声を上げたので、海斗は追求できずに走り出した。


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「いらっしゃいませ」


 お店に近づくにつれ、バターのいい匂いが香ってくる。

 その美味しそうな香りに誘われ、店内に入ると、いつもと変わらない笑顔に迎えられる。


「あ! 亮平くん、部活帰り?」


「はい。帰る前に腹ごしらえしようと思って」


「育ち盛りだもんねぇ」


 今日は何にする?、とトレイを手に取ると、かえではそれを亮平に渡した。


「そういえば今更ですけど、おにぎりありがとうございました」


「あははっ、何か逆にごめんね」


 楓は困ったように笑った。


「どうして謝るんですか。おかげで俺、スランプ抜けられたんですから」


「いやいや。そんな大したことしてないよ。大袈裟だなぁ」


「大袈裟じゃないですよ。楓さんのおかげです」


「無理に押し付けたのに、そう言ってもらえると嬉しいよ」


 楓はそう言うと、照れたように、そしてやはり困っているかのように笑った。





 高校3年に上がるとすぐに、亮平はスランプに陥った。

 これと言った原因はわからず、ただただタイムに伸び悩んだ。

 中学から始めた陸上は、その当初から長距離を選択し、毎日走ることに邁進していた。

 走ることは楽しかったし、そこに結果もついてくるようになると、よりその面白さを感じるようになった。

 その延長で高校に進学してからも陸上を続け、それまでにスランプといったスランプに陥ったことがなかった。だからこそ、その初めての経験に戸惑いを隠せなかった。その対処法も、自分の中に答えを持たなかった。


 その日は、今までにないほど、絶不調だった。

 入ったばかりの1年の後輩の子にも全く及ばないほど、その結果は悲惨なものだった。


 このまま落ちる一方なのかな。

 走るの嫌いになるのは嫌だな………。


 そんなことを考えながら帰り道を歩いていると、不意にいい匂いが鼻腔を通った。

 何の匂いだろうか、とその発信源を探す。この辺りは住宅ばかりで、匂いの元はとある家のものだろうかと思っていると、住宅の片隅にそれほど大きくないお店を見つけた。


『Bake』


 と書かれた看板が立てかけられている。パン屋ということだろうか。

 亮平はその匂いにつられて、何も考えずに店内へと入った。


「いらっしゃいませ」


 店の面積に比例せず、種類の豊富さに驚いた。

 店内には一人の女性しかいなくて、その人が一人でこの店を回しているのかと思うと、それも驚きだった。


「あ、あの………」


「はい?」


 気づいた時には、声をかけていた。

 特に話すことはないはずなのに、声が勝手に喉を震わせていた。


「えーと………………おすすめって何ですか?」


「おすすめですか? 甘い系ならこれとか、惣菜系ならこれとかがおすすめですよ!」


 その人は嫌な顔一つせず、笑顔で対応してくれた。

 それが接客業では当たり前のことだとしても、その時の良平にとっては、純粋に嬉しく思えることだった。


「じゃあ、これとこれを………」


「ありがとうございます」


 お金を支払い、購入したものを袋詰めしてもらうと、亮平は店を出た。

 何だか、いい場所とこを見つけたような気分になった。

 そういえば、何となく空腹感も感じていた。家にたどり着くまでにまだ時間もあることだし、ここでエネルギー補給するのも悪くない。


「あの………………!」


 不意に声がかけられ、その声に導かれるように振り返る。その視線の先には、先ほどのパン屋の店員が何かを手に持ってこちらに近寄ってきていた。

 何か、忘れ物でもしただろうかと、亮平は自分の手持ちの荷物を確かめた。


「これ、もしよかったら………」


「?」


 その人は、亮平に小さな紙袋を手渡した。

 疑問に思いながらも、差し出されたそれを受け取る。


「運動したあとは鉄分とか諸々消費してるから、よかったら帰り道にこれ食べて。

 パンは朝ごはんにでもしてもらえたら………」


 どうして自分が運動後だということが分かったのだろうか、と手に持っているシューズ袋に目がいった。

 亮平はその視線を紙袋に移し、中を確認すると、そこにはおにぎりが2個入っていて、亮平は思わず噴き出した。


「パン屋なのに、おにぎりですか」


「あ………ほんとだね。あはは、」


 その人は照れたように笑った。

 それでも、何だかその優しさが嬉しくて、亮平は素直に感謝の気持ちを伝えた。


「いただきます」


「よかったら、また来てくださいね!」


 そう言って店へと戻っていくその人の後ろ姿を見送ると、亮平は再び帰路についた。

 紙袋を開け、おにぎりを一つ取り出すと、亮平は笑いを再燃させた。

 まさか、パンを買った後におにぎりをもらうなんて思わなかった。

 しかも、その二つのおにぎりはそれぞれ中身も違えば、お米も雑穀ともち麦で異なっていて、どちらも大変美味しかった。

 それに不思議なことに、身体が求めているを補ってくれているような気がした。


 ***


 懲りもせず、また来てしまった。

 いや、これはパンを買いに行っているのであって、別に会いに行っているとか、顔が見たいとかそういうことではない。なんて、こんな言い訳じみたことを考えている時点で、白状しているようなものなのだけれど………


 いつものように美味しい香りが鼻をかすめ、扉が開くと、その愛しい人は先客の相手をしていた。


「そっかぁ! 結婚決まったのね。おめでとう」


「ありがとうございます」


 いつも以上に柔らかい、幸せそうな笑顔を浮かべる楓。

 その声色に、その表情に、亮平は金縛りにあったかのように、体が動かなくなった。

 一体、何の話をしているのか。誰の話をしているのか。

 どうしてそんな笑みを浮かべるているのか。

 確かにその言葉は自分の耳に届いていたはずなのに、あまりに受け入れられなくて、脳が、心がその言葉を拒絶していた。


「あれ? 亮平くん来てたんだ。いらっしゃい」


「………………」


 いつの間にか、先客は帰っていて、楓は亮平の目の前に来て、顔を覗き込んでいた。

 心なしか、その表情に幸せオーラが含まれているように感じる。それは、あんな話を聞いたあとだからなのかもしれないけれど、それを差し引いても、いつも以上に笑みが眩しい。


「………………か?」


「え?」


「楓さん、結婚するんですか?」


 亮平は、あくまで冷静を装い、はっきりとした口調でそう言った。

 傷は浅い方がいい。もうすでに手遅れ感はあるし、聞きたくはないけれど、聞かずにモヤモヤして、走れなくなるのも、変に気を遣って会いに来られなくなるのも嫌だった。


「結婚するんですか?」


 亮平は再度その言葉を口にすると、楓と視線を合わせた。


「結婚? ………………あぁ! それね、私じゃないよ」


「………へ………?」


 楓は何のことを聞かれているのか理解すると、さらに表情を緩めた。


 楓の話によると、結婚が決まったというのは、楓の姉の話だということだった。

 先ほどのお客は昔馴染みで、楓姉妹のこともよく知っている人だそうで、姉から直接結婚のことを聞いて、そのお祝いを楓にも伝えに来てくれたというわけだ。


 亮平は一気に体の力が抜けた。

 いや、まだ安心はできない。そうだ、どうして今まで気にしなかったんだろう。


「楓さんは、今、付き合ってる人とかいるんですか?」


「………え………」


 亮平の言葉に、楓は顔を赤らめた。

 それが、その表情が、答えを示しているようで、亮平は落胆するとともに、苛立ちを感じた。

 その感情を一瞬で吹き飛ばし、前を向いた。

 自分で聞いといてなんだが、そんなの関係ない。まだ、できることはたくさんある。


「あの、俺………………………」


「………………いないよ」


「え?」


「でも、好きな人はいる、かな?」


 その言葉に、亮平は息を飲んだ。


 誰ですか?


 そう訊こうとして、言葉にできなかった。

 けれど、どういうわけか楓は何だか嬉しそうに、楽しそうに、そんな表情を浮かべると、目線だけ亮平の方へと動かした。


「走ってる姿がかっこいい人なの。

 いつも一生懸命で、落ち込んでも、最後には真っ直ぐ前向いて走っていける人」


 あとは、美味しそうにおにぎり食べる人かな?、と付け加える。


「えへへ、誰のことでしょう」


 そう言った彼女の顔は、心なしか赤くなっているように見えた。

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