飛び込んでく、泉の中、何も迷わずに(結)

 ドアの鍵が開かないという事態を、いったいどのように受け止めるべきだろうか。誰かがドアの向こう側で、ロックの部分を必死で押さえているというのはどうだろう。回ってしまいそうな錠を、鬼の形相でつまんでいるのだ。

 いや、それはなかなか考えにくい。人の手でやる以上、体力の限界がいつか訪れよう。では、他に何が考えられるだろうか。

 そもそも鍵が合っていないということが考えられる。椎谷くんが嘘をついているとは思えないが、開かないのなら鍵が違う可能性があった。鍵を間違えた、というのはどうだろうか。自転車の鍵をドアに突っ込んでも一向に回らないだろうし、鍵なんか、別の鍵でも見かけはほとんど同じだということもありえる。

「同じような形の鍵と間違えた、ということはありませんか?」

 椎谷くんに尋ねると、どうやら鍵を回し疲れたらしい彼が首を振った。ドアノブをがちゃがちゃと動かしていたが、回る気配はない。

「いや、わかりやすいようにこのマスコットをつけていたんだから、間違えるはずが……」

 彼の言葉を遮る。

「逆を言えば、そのマスコットがついていれば何だって小屋の鍵だと思ってしまうわけです」

 椎谷くんと沢辺さんが振り返った。

「似たような鍵に同じマスコットをつければ見分けがつかない、ってことよね」

 沢辺さんの言葉に、僕は頷く。

「そして、偽物の鍵を本物の鍵とすり替えれば、椎谷くんの知らないうちに、誰かが小屋の中に入ることができる。椎谷くんが持っているのは偽物だから、絶対に僕たちは入れない。のんびりと、小屋で生活することができる」

「しかし、いったい誰がそんなことを?」

 椎谷くんが小さくこぼす。

 誰かがドアの向こうで、僕たちのこの会話をほくそ笑みながら聞いているかもしれないと思うと腹が立ってきた。俺だよ俺、あるいは私だよ私、なんて思っているのかもしれない。

「それが、黒府や実花が旅行先で買ったものなら、同じ店で買った誰か、ということに……」

 沢辺さんが言った。僕は首を振る。

「いや、ふたりがどこに行ったかはわかりませんが、こういったお土産は、複数の店で同じ物が販売されていることがあります。その店に絞ることもないでしょう。それに、キーホルダー自体はきっと、誰だってネット注文できると思いますし」

 修学旅行等で、別のお土産屋さんで同じラインナップの商品を見かけることはよくあった。個人的に旅行に行くなんてことはほとんどないけれど、こういった記憶が残っていることに対しては、義務教育に感謝しなければならない。

「じゃあ、誰がこんなことをしたのか絞れないということじゃないか!」

 鍵を回すことを諦めた椎谷くんが、両手を上げて叫んだ。

「鍵をすり替えること自体は、同じキーホルダーを持っていれば誰にだってできます。ファストフード店でたまたま隣に座っていた人が、イタズレで入れ替えることもできるでしょう。しかし今回は、同じキーホルダーを持っていて、それがこの小屋の鍵であることを知っている人物に限られるのです。イタズラ心満載な人が鍵をすり替えたところで、それが何の鍵かはわからないはずですから。つまり――」

「僕が小屋の鍵の話をした人物、ということになるね。そしてそれは、宝探しサークルのメンバーに限られてくる……」

 僕は頷く。

「そしてそのメンバーには、数時間前に亡くなった良知くんを含めてもいいでしょう。彼の死と小屋には、何か関係があるかもしれないし、ないかもしれない」

 小屋の周辺を歩いてみる。小屋の裏側――泉のある方、屋根近くに小さな窓があるのが見えた。背伸びをしてみるが、どうにも届かない。

 椎谷くんに協力してもらい、いい歳して肩車をしてもらったものの、あと少しだけ僕の身長が足りないようだった。

「そこからなら、小屋の様子が別の視点から窺えると思ったんだけどな……」

 しゃがんだ椎谷くんの肩から足を下ろして、僕は小言を言う。ドアの方からやってきた沢辺さんが、やや眉をひそめながら、僕たちの後ろの方を指差す。

「肩車は無理でも、角度的にあそこからなら、少しは小屋の中が見えるんじゃないかしら」

 後ろを振り返る。

 良知氏が飛び込んだ崖。たしかに、そこからなら様子が窺えそうだった。


 いったい、何回この崖に来るのだろう。僕が本当の名探偵ならば、1度来ただけで色々なことにすぐ気づけたのかもしれない。だが、僕は名探偵じゃないのだ。改めてそれを実感する。何度も何度も確かめて、少しずつ様々な怪しい箇所に気づくことができる、乱歩好きの、ただの大学生。

「たしかに中の様子は見えそうだけど、ほんとに見えるだけって感じね」

 少し背伸びをしながら、沢辺さんが言った。

「僕が以前小屋に行ったとき、あんなものはなかった……」

 椎谷くんの言葉に、沢辺さんは首を傾げる。あんなものって、いったいどんなものなのか、と。僕は椎谷くんの代わりに言った。

「ノートパソコンですよ。画面は、スクリーンセーバーが表示されています。誰かが使っていて、今は退席しているということでしょう。それに、おもしろいものを見つけましたよ。パソコンの脇に、鍵が置いてあります。椎谷くんが持っている鍵と似たような形状で、同じマスコットがついています。推測通り、誰かが鍵をすり替えたんでしょう」

 スマホのカメラをズームさせれば、距離があっても小屋の中の様子を窺うことができる。大学の講義で、席が黒板やスクリーンから遠いときによく使う手段だ。なんなら、そのまま撮影してしまえば、急いでメモを取る必要もなくなる。今回は、わざわざ撮影する必要はないが。

 それに――椎谷くんの表情が気になる。

「あれに、心当たりがありそうですね」

 僕と同じようにスマホを小屋に向けたまま、椎谷くんは頷かずに言った。

「ああ、あれは間違いなく――」

 言葉を濁す彼。そしてタイミングよく、机の下からぬっと人が出てきた。まるで地震が起きたので頭を守り、揺れが収まったのを確認して安心するかのように。

 実際は地震などではなく、ドアを開けようとしていた謎の人物(もちろん、これは僕たち3人)から隠れるために、潜っていたのだろうけれど。


「――うん、やはり通話には出てくれないね」

 スマホを耳に当てて、椎谷くんが言った。先ほどは多少ショックを受けていたようだが、どうやら立ち直って、鍵をすり替えた人物を問い詰める気になったらしい。

 電話に出ないことは、僕たちも予想していた。通話に出ないのは、スマートフォンを見ていないからではない。あえて出ないのだ。音声でのやりとりは、生活音などでボロが出てしまう。だから、出るわけにはいかない。受信画面が閉じるのを、脅えながら待っているはずだ。

 むしろ相手は、スマートフォンに釘付けになっている。いつどんな連絡が来るかわからないからだ。もちろん、すぐに反応することはないだろう。スマホの通知に脅えていることを、悟られないために。

 だからこそ、急に対応しなければならない状況を作り出す。それは返信としての対応ではない。もっと簡単に、相手から出てきてもらうための。

 椎谷くんが画面をタップする。文字を打つ音に混じって、時折彼の爪が画面に当たる音がした。

「さあ、送ったよ」

 覚悟を決めた、椎谷くんの顔。

 彼がスマホをポケットにしまってから、数十秒。小屋の中から、ドタドタと足音がする。

 ドアが、勢いよく開けられた。

 中から出てきた人物は、僕たちを見てギョッとする。ドアを閉めて小屋に戻ろうとするが、椎谷くんがドアを強く押さえた。

「さあ、教えてもらいたいね。どうして君が、ここにいるのかをさ」

 小屋の中に逃げることも、外に出ることもできず、芽方くんは長い前髪の向こうで、その瞳をひどく泳がせている。




「みんながここにいるということは、さっきのメッセージは――嘘だったということ?」

 状況が状況なだけに、前回の初対面時よりも落ち着きのない様子の芽方くんが言った。

 椎谷くんが目を瞑る。

「ああ、そうだよ。鍵を奪って何かしている芽方が電話に出るはずがない。だけど、見舞いに行ったら家が家事になっている、大丈夫か? とか何とかメッセージを送信すれば、警戒心よりも家への心配が勝って、簡単に小屋から出てきてくれるだろうっていう、河童場くんのアドバイスに従ったのさ。騙すようなことをしてすまないね。もっとも――」

 彼の瞼が開く。

「先に騙したのは、そっちだけどね」

 罪悪感からか、椎谷くんと目が合わせられない芽方くんの視線は、次に僕とぶつかった。お前のせいかと言いたげな瞳だが、その色も次第に薄れていく。

「さあ、どうしてこんなことをしたのか、教えてもらいましょうか」

 沢辺さんにまで詰められて、いよいよかわいそうになってきたが、同情の余地はないかもしれないので、仕方ないなとも思う。

 どうして、こんなことをしたのか。鍵をすり替えて、小屋に侵入したこと。いや、それだけではないのかもしれない。

 宝探しに欠席しておきながら、会場の山の中にある小屋に侵入していた。そして、その小屋の近くの泉で、参加メンバーのひとりが謎の死に方をしたのだから、怪しい行動を取っていた彼が関与している可能性は高い。しかも、パソコンのあたりから振り返るとちょうど問題の崖が見えるのだから、彼に対する疑念は深まるばかりだ。

 しばらく、静かで重苦しい時間が流れたが、やがてやや自棄になったように、芽方くんが口を開いた。

「――黒府さんを、守りたかったからさ」

 真っ先に良知氏の名前が出てくると思っていたので、僕たち3人は彼の言葉に驚いてしまう。

「良知くんが、黒府さんに言い寄って、それを彼女が迷惑に思っていた。だからやったのさ。彼女を守るために……。今回のゲームで彼が1位になってしまえば、いよいよ黒府さんは彼から逃れることができなくなってしまうからね。

 かといって、僕が良知くんを抜いて1位になる自信はなかったし、彼の妨害をして、せめて他の誰かを1位にするよう動くことも、難しかった。こんな山の中じゃ、追跡するのは骨が折れるし、バレて突き飛ばされでもしたら、痛い目に遭うのは僕の方だからね。

 だからいっそ、彼にはこの世から退場してもらった方が良かったのさ。そうすれば、彼がゲームに負けた後でもしつこく言い寄ることもなくなる……。最初から、芽を摘んでしまえばいいと思ったんだ。

 でも、まさか彼を突き落として殺すわけにもいかない。繰り返しになるけど、彼を尾行していくのは、体力のない僕には厳しいし、もし突き落とそうとするのがバレたら、返り討ちに遭って僕が命を落とす可能性もある。相手を殺せる物理的・地理的な条件は、自分が死ぬ要因としても作用するからね。それに、うまく突き飛ばせたとしても、背中の部分に僕の指紋でも残ったら大変だ。ゲームに参加して、最初に彼の背中を触っておけば言い逃れができるけど、無意味に彼の背中に触れるような間柄じゃないからね。遺体から指紋を拭おうとしても、血痕がついたら逆に自分を追いつめることになってしまう。

 だから僕は、どうにかして彼が自分から飛び込んでいくようなシチュエーションをつくる必要があった。黒府さんを自分のものにしようという、強いモチベーションを持っている彼を飛び降りさせる方法をね。そんな彼が、自殺なんかするわけがないんだもの。考えるのは大変だったよ。

 ゲームの得点が明らかになった後――彼が1位を取れなかったとわかった後なら、まだ自殺する動機はあるんだけど、結果が分かるのは山を降りてからだ。参加者たちが鉢合わせることすら難しい入り組んだ山の中なら色々とやりやすいものの、ゲームが終わってしまうと彼を仕留める方法がなくなってしまうんだよ。まさか、帰りのバスが来た瞬間に彼を路上に突きとばすわけにはいかないからね。

 そこで、彼のモチベーションを利用させてもらうことにしたんだ。勝ちにこだわっているから自殺なんかするわけがないけど、うまいことやればそのこだわりを、飛び込ませる意欲に変換させることができる。

 今回の宝探しは、黒府さんと実花さんが企画したものだけど、QRコードと画像データの作成・編集には僕が関わっているんだ。だからあのQRコードに、少しだけ細工をさせてもらった。コードを読み取ると、その端末の位置情報が僕のところに送られてくる仕組みにね。そしてそのあと、僕がメールを送れば完了さ。

 その内容は、短いメッセージと画像データ。一発逆転の100点ビー玉の在り処を、あなただけに教えます。地図に示されている位置から泉に飛び込めば、目の前に光り輝く100点ビー玉が……なんてことを記したものさ。合わせて、このメールはあなただけのもの。他の参加者にバレないように、読んだらすぐに削除することをオススメします。こんなことを書いておけば、証拠も残らないというわけ。そしてその地図に示された場所というのは、もちろんそこの崖の上。

 良知くんが確実に勝利するためには、15点のビー玉5種類全てを回収しなければならない。しかし、今回は沢辺さんも参加しているから、それが達成できる可能性は低くなる。

 ビー玉の得点は100点というのが肝でね。参加者の大半は宝探しが初めてだし、企画者の黒府さんと実花さんはゲーム序盤にビー玉回収の制限があるから、どんなに良知くんが出遅れたって、50点以上は獲得できるだろうと思ったのさ。それに、制限時間を過ぎると点数が半分になるというペナルティがあるけれど、参加者ひとりの最高得点には75点という天井がある。つまり、100点ビー玉と合わせて150点以上獲得すれば、たとえ終了時刻に間に合わなくて得点を半分にされても、75点以上になって1位は間違いなし。意地でもその100点ビー玉を取りに行こうと思えるわけ。そして、一発逆転なのは他の参加者も同じだから、自分しか知らない情報とは言え、良知くんは勝利を急いで――危険性なんて考えもせず、泉の中に飛び込んでいく。

 もちろん、そんなものは泉の底に沈んでないし、実際は崖からの位置エネルギーを借りて衝突すれば即死するであろう強固な岩があるだけなんだけどね。それも丁寧に、ここから飛び込まないとうまく回収できないという妙な文を足しておけば、良知くんは即死コースまっしぐらというわけさ。

 彼が崖に来れば、小屋の窓から確認することができる。驚いたよ。何も迷わずに、飛び込んでいくんだからね。失くすと困るから、スマホと獲得したビー玉は、回収するつもりでポケットから出していたみたいだけど」

 どこを見ているのかわからない目。何かに取り憑かれたような彼の饒舌さに、沢辺さんは体を抱えるように腕を組む。自分にもその「何か」が、飛んでくるのを防ぐように。

 なるほど。勝利に絶望して自殺したのであればビー玉もろとも泉に沈むはずだが、それを残していたのは、むしろ勝負を諦めていなかったからなのだ。良知氏は、勝てそうにないから身を投げたのではなく、勝つために泉に飛び込んでしまった。

 沈痛な面持ちで芽方くんの話を聞いていた椎谷くんの代わりとでも言わんばかりに、沢辺さんが質問する。

「鍵は? 鍵はいつすり替えたの?」

 問われた芽方くんは、思い出すように目を瞑った。

「何日前かまでは覚えていないよ。でも、同じサークルの一員なんだ。トイレに行っている間にすり替えるのなんて簡単さ。不用意にドアを開けっぱなしにしていたどこかのサークルの鍵――小屋の鍵と同じ形のものを奪ってそのキーホルダーにつけてしまえば、椎谷は持っている鍵が本物だと思い込む。あとは小屋に侵入して機材を事前に持ち込んでおき、当日に鍵だけ持ってやってくればいい。まさかパソコンなんか持って、こんな山の中を見つからないように歩くなんてできないからね」

 今にも彼の面をひっぱたきそうにしている沢辺さんを手で制し、僕は彼の本心を探るため、ひとつだけ質問する。

「直接的ではないにしても、良知くんが命を落とす原因を作ったことに、何の後悔もないんですか?」

 芽方くんは首を振った。長い前髪が揺れる。そして自分の体を両腕で抱いて、自分に言い聞かせるように震えながら言った。

「戦争でたくさん相手を殺せば英雄になる、なんてのは誰かが言った言葉だけど、僕は良知くんひとりを殺したことで、英雄になれたと思っているよ。だって、困っている黒府さんを助けることができたんだから。彼女は優しいから、言い寄ってくる良知くんを邪険に扱えなかったんだよ。だから、誰かがやるしかなかった。それが僕さ。世界中の全ての人から殺人者だと罵られようとも、彼女だけは僕をヒーローと認めてくれるはずだ。彼の死は僕によって計画されたもので、今になってことの重大さに押し潰されそうにはなっているけど、こんな苦しみ、彼女が良知くんのものになってしまったときに味わうことになっただろうものに比べれば、大したことないさ」




「彼女だけは僕をヒーローとして見てくれるはず、ですか。それはなんというか……自分本位ですよね」

「ええ、僕もそう思います」

 事件から数日が経過した、宝探しサークルの部屋。

 僕は実花さんに事件の真相を話すべく、ここへ招いてもらった。良知氏が死亡したことで、椎谷くんを含めたサークルメンバーはこの部屋を――宝探しサークルそのものを避けているので、ふたりきりで話すには都合がいいということだ。

 沢辺さんもいない。しかし、僕は事件の話をしにきたのだから、いつものようにキョドキョドするようなことはなかった。実花さんとは気が合うからというのもあったが、僕は典型的なコミュ障で――日頃は口数が少ないものの、自分の得意事のときにはベラベラと空気を読まずにしゃべり散らす性質をもっているからだ。

 テーブルを間に挟んで、僕と実花さんは向かい合って座っている。そういえば、前回来たときは座らずに立ちっ放しだったなと思う。今回は椅子に座れているわけだが、その方が都合がいい。僕は自分のクセを自覚している。少し前、織羽くんに言われたことであるが、僕は立ったまま考え事をしたりくどくど話をしたりすると、まるでラッパーが手を突き出して韻を踏むかのように、脚が落ち着きなく動いてしまうのだ。実際には、落ち着きがないのではなく、集中力を高めるために動いているわけだけれど。そういえば、ラッパーが手の動きを制限されると急に韻が踏みにくくなるという実験を以前テレビが何かで見たが、僕の脚の動きはそれに近いのだろう。ラッパーの手、探偵気取りの大学生の脚。

 さて、それを封印して、僕は彼女に本題を突きつけることができるだろうか。

「そういえば、宝探しの企画と実施も落ち着いたので、読んでみましたよ。薦めてくれた、谷崎潤一郎の『途上』を。これまで、推理小説というか――探偵が出てきて推理したことを長々と説明するような小説をあまり読んでこなかったので、セリフが迫ってくる感じというか、自分がまるで犯人になったかのような気分になれたので、かなりドキドキしました。乱歩の『赤い部屋』は、どちらかというと犯人目線で物語が進んでいきましたからね。まあ、あれは実際に犯人だったわけじゃないんですけど……」

 僕は頷く。たしかに、そうなのだ。僕には、いわゆる「倒叙形式」と呼ばれるタイプの推理小説を好む傾向がある。最初から犯人がわかっていて、読み進めて行くことでその隠蔽工作が崩されていくという、あの心臓の高鳴りが好きなのだ。僕自身にやや被虐志向があるのは、それのせいかもしれない。

「他にも、乱歩でいえば『月と手袋』なんかもそうですね。僕は乱歩くらいしか推理小説を読まないんですけど、結構こういった型の作品は多いようです。小説ではありませんが、『刑事コロンボ』なんかもそうらしいですよ。まあ、僕は観たことないんですけどね……」

 実花さんは、僕の言葉の一つひとつに目を輝かせて頷いてくれた。

 ……ああ、嫌な予感がする。

 実花さんが言った。

「その、倒叙形式の作品を探していくのも楽しそうですね。今回みたいに、河童場さんから紹介してもらうんじゃなくて、お互いに読んでないものを読んで、オススメを見つけていく、みたいな……」

 ああ、それはずいぶんと、楽しそうだ。

 僕と実花さんは、いわば読書仲間。相手が知らないであろうものを薦め合って、驚き合ったり笑い合ったりするのだ。それはまるで、恋人のような関係じゃないか。

「いいですね。ネットで検索をかければ、倒叙形式の作品がいくつか見つかるでしょうし、有名なものは大学図書館にもあるでしょうから。ぜひ、やりましょう」

 そういえば、僕には恋人がいることを、実花さんは知らないんだった。そもそも出会ったばかりだし、恋人とはいえど殺人の罪を償っている最中だし、そんな「彼女」を捨てて、実花さんと楽しくこれから過ごしていく未来というのも、ありえたのかもしれない。

 笑顔の実花さん。うつむき気味な微笑みは、なんだか奥ゆかしい印象を受けて、とても素敵だと思う。目を細めると、まつ毛が長いことがわかる。ややシャープな顎の形も、下を向けばいくらか丸く見えて、よりかわいらしく感じられた。

 僕は鼻から息を吸い込む。空気が乾燥しているわけでもないのに、鼻の奥がピリリとした。

 言わなければ、明るい生活が待っているかもしれないのに。隠蔽された真実など暴かず、ただ目の前の事実に溺れていればいいものの。

「僕の質問にいくつか答えてもらったあとも、そう思えればの話ですけれど」

 本当に、我ながらどうかしていると思う。


「芽方くんの話で一番引っかかっているのは、QRコードについてです。彼の話によれば、QRコードを読み込む際に位置情報がすっぱ抜かれ、そのタイミングで芽方くんが問題のメール――100点ビー玉の在り処を記したメールを送信したということですが、これにはいくつかの問題が生じます。

 まず、どのようにメールアドレスを取得するのか、ということです。例えば、QRコードを読み込んだ先のウェブサイトに自身の端末のメールアドレスを入力させたり、こちらから空メールを送信させたりするのであれば、メールアドレスを入手することができるはずです。しかし――僕は参加していたので確信していますが、あのQRコードを読み込んでも、そんなサイトにリードされることはなかった。あれを読み込んでも、出てくるのは地図の画像データだけです。正確にはPDFファイルだったかもしれませんが、まあそこは置いておきましょう。

 とにかく、芽方くんには良知くんのメールアドレスを手に入れる手段がないんです。それに、もしアドレスを打ち込むようなページを作成したとしても、QRコードの性質――誰がどの端末で読み込んでも同じリンクに飛ぶことができるという性質を考えれば、僕たちもメールアドレスを入力するように促されてなければならない、というわけです。

 もちろん、良知くんに気づかれないように先回りして、彼にだけ別のQRコードを読み込んでもらうということもできるかもしれませんが、それにはバレるリスクも伴います。例えば、僕が良知くんの数歩後ろを歩いていたとして、芽方くんが本物のQRコードをすり替えてアドレスの入力サイトへ誘導したとしても、少しの時間差でやってきた僕も、そのサイトにジャンプしてしまう可能性がある。そうなれば、犯行現場および証拠を他の参加者に押さえられてしまうわけですから、良知くんを人知れず泉の中へ誘うことは不可能になります。何なら、その情報を読み込んでしまった僕が、良知くんよりも先に泉に飛び込み、岩に頭をぶつける可能性さえあるわけですから。

 そうなると、あらかじめ良知くんのアドレスを知っておいた方がスムーズかつ確実に彼を泉の中におびき寄せることができる、というわけです。今はもう、メッセージのやりとりはメールではなくアプリケーションを使うことが主流になっているので、知り合いのメールアドレスを知っている、なんてことはそうそうないわけです。かといって、僕たちの生活からメールアドレスという文化がなくなってしまったわけではありません。SNSのアカウントは、電話番号やメールアドレスを入寮して作成されることも多いわけですから。そしてそれは、大学生活でも同様です。僕たち学生には、学生としてのアカウントおよびアドレスが配付されているわけですが、時折書類にプライベートのアドレスを記入することがある。サークルの名簿なんかもそうです。つまり、宝探しサークルに無関係の僕のアドレスは何かしらの手段で手に入れる必要があるにしても、同じコミュニティに所属している良知くんのアドレスは、サークルメンバーなら容易に盗み見することができます。名簿の在り処は、普通に考えれば代表の椎谷くんが把握しているのでしょうが、この狭い部屋を探していけばその名簿にはいつか辿りつけるはずです。

 さて、そうなるともうひとつの問題は、良知くんがQRコードを読み込んだ時間からほとんど間隔を置かずに例のメールを送信するには、どうすればいいのか、ということです。芽方くんは、椎谷くんから小屋の鍵を奪い、宝探しの当日は小屋に籠もっていました。メールを送信するためのノートパソコンと共に。そして小屋の窓から外を眺め、良知くんが泉に飛び込むのを待っていた。つまり芽方くんには、良知くんの詳細な位置情報を確認する術がなかったということになる。それは、良知くんがいつQRコードに近づいたのかもわからない、ということにもなります。今回の事件の核となるメールは、タイミングが重要なのです。歩き疲れて休憩しているときにメールが来ても信用できません。できるだけQRコードを読み込んだ直後に、あたかも抽選の結果、良知くんにだけ100点ビー玉の在り処が送られてきたようにメールを送る必要があるのです。さて、小屋の中にいて外の様子がわからない芽方くんに、そんなタイミングよくメールを送信することができるでしょうか。

 僕のような素人がすぐ思いつくのは、例によって位置情報です。QRコードの設置場所と良知くんの端末の位置が地図上で重なれば、それがほぼQRコードを読み込んだ瞬間と捉えることもできるでしょうけど、あんな山の中で衛星を介したGPSが正確に機能するとは考えにくい。まだQRコードを読み込んでいない状況でメールを送信してしまったら元も子もないですからね。しかしこれにも問題があって、そもそもどのようにして位置情報を手に入れるのか、ということです。日頃、僕たちが位置情報を何かしらのサイトに提供するときには、たいてい位置情報の提供を許可するかどうかの確認ポップアップが出てきます。端末および持ち主の許可なしに位置情報をすっぱ抜くことはできないということです。仮にQRコードを読み込んだ瞬間、許可なしに位置情報を盗み出すソフトを開発したとしても、例によって良知くん以外の参加者の情報まで抜き取ってしまいます。無料WiFiに接続して位置情報を抜かれるケースもあるようですが、まさか山の中の宝探し中にWiFi接続することもないでしょうし、この場合も良知くんを狙い撃ちすることができません。時間差で複数の端末の位置情報が送られてきてしまえば、いったいどれが良知くんのものかわからなくなってしまいますからね。

 つまり芽方くんは、QRコードを読み込んだ端末を知る術と、それが確実に良知くんのものであるという証拠のふたつを握ってなければならないということになります。良知くんの端末とそうじゃない端末を区別するための方法が、何かあったはずなんです。

 では、良知くんとそれ以外の参加者……例えば僕とでは、いったいどこが違っているでしょうか。容姿や性格などの話ではありません。QRコードを読み込む端末の話です。こうなると、良知くんのスマホに何かしらの発信機が埋め込んだと考えるべきでしょう。しかし、事件の後で警察がスマートフォンを調べれば、そんな細工は簡単にバレるでしょうから、もう少し工夫をしなければなりません。それに、彼のスマホに細工をするにしても、分解して基盤の間に入り込ませるなど、なかなか大がかりな作業になるでしょうから、ちょっと良知くんから借りて発信機を取りつけるようなことはできない。

 そうなると、仕掛けそれ自体の製作には時間がかかったとしても、簡単に取りつけることができるか、いっそのこと良知くん自身に取りつけてもらえるようなものを用意する必要があったわけです。知らないうちに他の人がつけたのであれば、良知くんが気づいたときに不審がるでしょうが、最初から彼が、そうとは知らずにつけてしまえばいい。そして、確実にそれをつけることが予想されるもの……。

 良知くんのスマホは、事件現場にやって来た加瀬月さんという警官が持っていってしまいましたが、僕は彼と知り合いなので、頼んでみました。スマホを分解しても、怪しいものはなかったそうですが、もうひとつ依頼した方については、予想通りでした。

 アクセサリーです。良知くんが大事そうに眺めていた、黒府さんからの贈り物。あれが、何かしらの情報を芽方くんに発信していたのでしょう。メッセージカードを書いた上で渡そうと持ちかけることで、お土産を購入してすぐに良知くんに渡ることを防いだのです。メッセージカードとお土産を預かって自宅かどこかに持ち帰れば、お土産そのものを改造することは可能です。もちろんそうなると包装を開けることになりますが、凝ったラッピングを施しておけば、そのために開けてしまったと言い訳することができますからね。自動販売機で購入した飲み物を移した水筒を渡されれば、異物の混入をいくらか疑えるでしょうが、キーホルダーのようなものだったらそこまで疑問に思わないでしょう。黒府さんに恋をしていた良知くんなら、喜んでつけるはずですから。それが、悪魔からのメールを誘発するとも知らずに」

 僕は息をつく。実花さんの出方をみると、まるで推理小説を読んでいる最中に考え込むかのように、親指を唇の下に当てている。

 しばらくして、彼女が口を開いた。

「プレゼントに細工できたのは――黒府と私、ということになりますよね?」

「ええ、そうです」

「そして黒府なら、芽方を思い通りに動かすことができるかもしれない……」

 僕は頷く。舌で唇を湿らせる。

「彼の言葉は、知ったかぶっているように聞こえたのです。というのも、彼はいくつかのことを知っていましたが、同時にいくつかのことを知らなかったからです。例えば、彼は良知くんが黒府さんに恋をしていることに気づいていました。しかし、そのことを椎谷くんは知らなかったんです。彼はまあ、ああいう性格ですから、色恋沙汰には興味がなさそうですし、それが自分のこととなればなおのこと鈍感になるでしょう。良知くんが公衆の面前で黒府さんを口説いていたのなら話は変わってきますが、どうやら彼はそうしなかった。人目につかないところで、こっそりとアプローチをしていたのでしょう。それこそスマホでメッセージのやりとりをするとか、そういう手段を使ってね。つまり芽方くんは、自らの観察眼を働かせた結果その情報に行き着いたのではなく、誰かからそれを聞かされたと考えるべきなのです。

 その証拠、というほどでもないですが、彼がもし良知くんから黒府さんに注がれている恋の目線に気づけたとしたら、それよりも幾分かわかりやすい――初めて僕がここを訪れたときにもわかったような、黒府さんから椎谷くんへの熱視線にも気づくはずです。そしてそのことに気づいたとしたら、良知くんと同じように黒府さんを恋慕う芽方くんが狙うべきは、どう考えても椎谷くんであって良知くんではない。つまり芽方くんは、黒府さんが良知くんに言い寄られて困っているということを誰かから聞いたのであり、しかもその黒府さんが恋をしていること、そして彼女が宝探しで1位になったら椎谷くんに告白するという情報を伏せられていたことになります」

 実花さんはまだ、首を傾げている。僕の推理を批判する気で聞いているかのようだ。そう、ゼミの発表を聞いている、大学の先生のような表情で。

「でも、それは恋敵という関係から見ることで起きる推測であって、こうも考えられるんじゃないでしょうか。芽方はたしかに黒府に恋をしていますが、自分よりも椎谷の方が彼女に見合うと考えているため、自分の想いを打ち明けるようなことはしない。けれど、この頃になって黒府に言い寄る影に気づいたんです。それは理想的なカップルの成立を妨げる障壁であり、排除すべきものだと彼は考えた。だから良知を死に至らしめるように画策しながら、自分にとって最大の恋敵と思われる椎谷の命まで奪うことはしなかった。芽方の目的は椎谷と黒府がくっつくことで、自分のものにすることではなかったから……」

 なるほどと、僕は納得しそうになる。かろうじて首を横に振った。

「人を死に至らしめる過激な作戦を立ててまで椎谷くんと黒府さんを結びつけようとするならば、かえって僕や沢辺さん、実花さんに――椎谷くんさえも傷つけたかもしれませんよ。というのも、椎谷くんは黒府さんからの想いには気づいていないわけですから、このふたりを結びつけるためにはまず、黒府さんを宝探しで1位にさせることから始めなければならないのです。椎谷くんが1位になっても意味がないわけですから、芽方くんが取るべき行動は、黒府さん以外の参加者が得点することを徹底的に防ぐことですから。極端な例ですが、黒府さん以外の全員を死なない程度に山の斜面に突き落とすとか、そういうことが必要になるんですよ。特定のひとりを罠にかけるようなことはしないはずです。芽方くんは自分のことを、姫様に近寄る悪者を自らの手で葬り去った英雄としか捉えていない。過激なまでに彼らの幸せを目指すなら、僕にも危害が及んでもおかしくないはずなのに」

「そこまでの過激派じゃなかった、というのはどうでしょう?」

 実花さんが真剣な顔で言う。たしかに、それもそうだ。自分と黒府さんを除く参加者全員を罠にかけるのは現実的ではないから、ひとまず悪い虫を退治することを最優先にしたのかもしれない。

「少しだけ視点を変えてみましょう。距離があっても通信は可能ですから、正直芽方くんは山に来る必要がなかったんです。それなのに彼が小屋にいたのは、もちろん良知くんが実際に落ちて行くのをその目で確かめるため、というのもあったでしょうが、彼を唆した人物からすれば、彼に疑念の目を向けさせることで自分の関与を悟らせないという、スケープゴートとしての役割もあるのです。

 さて、どうして彼が小屋に入れたのかというと、既にお話しているように、椎谷くんの持っていた鍵と、見かけ上は区別のつかない鍵とをすり替えたからですが、少し妙なところがあるのです。ここで考えるべきは、鍵をすり替えるというときに、どこまですり替えるべきか、ということ。芽方くんが鍵を手にし、椎谷くんに疑われないようにするためには、ふたつの方法があります。

 ひとつは、鍵とキーホルダーの両方をすり替えるというものです。似た形のどこかの鍵と、同じキーホルダーを用意して、一見すると区別がつかないような、鍵のセットをあらかじめつくってしまうのです。これの利点は、鍵をすぐに取り替えることができ、犯行現場を押さえられにくいことです。彼の荷物から鍵を取り出し、まるごと入れ替えるだけなので、ものの数秒で完了します。欠点として考えられるのは、まるごと入れ替えてしまうわけですから、キーホルダーの些細な違いが発生しうること。例えば、椎谷くんのつけているマスコットの目玉が取れかかっていたとして、そのまま芽方くんがこっそり別の鍵のセットと入れ替えたら、どうなるか。椎谷くんからすれば、マスコットの取れかけていた目玉がくっついたように見えるんです。鍵の汚れなら気にならないでしょうが、マスコットの変化にはすぐ気づくはず。あらかじめ完成品を用意しておくので、入れ替えにかかる時間は短いけど、状況によってはすぐに気づかれてしまうというわけです。

 さて、それと反対の関係にあるのがもうひとつの方法で、鍵だけを別のものと入れ替えるというものです。こっちの利点はというと、マスコットなどはそのままにして入れ替えるので、椎谷くんが入れ替わったことに気づく可能性がかなり低いということ。しかしこの場合は、椎谷くんが無防備になったらすぐさま本物の鍵を取り外して偽物を取りつける作業が必要になるので、手間取ると帰ってきた椎谷くんや他の誰かに犯行現場を目撃される可能性が生じてしまうという難点もあります。入れ替えるものが少なくなるので、入れ替わったことに気づかれる可能性は低くなりますが、その入れ替えの瞬間を目撃されるリスクが高まります。

 では、芽方くんがどのように対処すればいいかというと、その両方の準備を整えておけばいいのです。一方の短所がもう一方の長所であるわけですから、どちらも用意しておけば容易に解決します。基本的にはまるごと替える。もしキーホルダーに欠損や汚れがあれば鍵だけを交換する、という具合です。

 繰り返しになってしまいますが、この計画にはざっくり言うと、ふたつの物が必要になります。鍵とキーホルダーです。解決の鍵となるのは――ややこしいですが、鍵の方ではなくキーホルダーなんですよ。

 黒府さんが購入したキーホルダーは3人分ですが、今回重要なのは椎谷くんと芽方くんの分なので、このふたつをそれぞれ、便宜的にAとBと呼ぶことにします。しかし、何者かが介入したことで、椎谷くんにも芽方くんにも、Aのキーホルダーが渡ることになりました。おそらく、介入した人物がもうひとつAのキーホルダーを購入していたのでしょう。その理由はもちろん、先ほどの鍵入れ替えのためです。さらにややこしくなりますが、黒府さんが購入したものをA1、すり替えのためにもうひとつ購入されたものをA2と呼ぶことにします。

 つまり鍵を入れ替える前、椎谷くんはA1のキーホルダー、芽方くんはA2とBのふたつのキーホルダーを持っていて、お互いのAのキーホルダーは、芽方くんが鍵を奪う際に入れ替わったかもしれないことになります。芽方くんが所持しているBのキーホルダーは正真正銘、黒府さんからのプレゼントですから、何も怪しくない。入れ替えに使ったかどうかはさておき、もうひとつのキーホルダーA2も芽方くんが自分で買ったといえばそれまで。介入者は芽方くんを見事スケープゴートとし、自分は責められることなく事件は終了」

 僕はあえて、ここで言葉を止める。すかさず、実花さんが切り込んできた。

「芽方は、いくつキーホルダーを持っていたんですか?」

「A2もBも、両方所持していました。つまり鍵の入れ替えに、キーホルダーは使わなかったということになります。……さて、ここからが本題です。この介入者および共犯者――というよりは、むしろ主犯ともいえる計画者が実際にいたのかどうかは指紋を調べればすぐにわかるんですよ、実花さん」

 意外な言葉だったのか、彼女は少しだけ眉をひそめる。

「まさか、私を疑ってますか?」

 僕は一瞬だけ躊躇するが、目を瞑って言い切った。

「ええ、その介入者としてね」

「介入も何も、私は黒府からお土産を預かって、私からのお土産と合わせてラッピングしていますから、そのキーホルダーには私の指紋がついているはずですよ」

「キーホルダーをふたつそろえておくのは、保険といえるでしょう。実際に芽方くんがそうしていますが、もしかするとキーホルダーの方は使わないで済むかもしれない。しかし、もしものために備えようにも、ウェブ上で手に入らない商品だったときに手が打てなくなってしまいます。万全を期すためには、お土産屋さんでこっそりと同じものを購入しておく方がいい、ということになります。こっそりとA2を購入しておく必要がありますが、まさか指紋をつけないために急に手袋をつけて商品をレジスターに持っていくなんてことはできない。あなたはA2を、素手でさわって購入したわけです。

 さて、黒府さんからお土産を預かって、いざラッピングおよび細工をしようという段になって、あなたは困りました。A1とA2の区別がつかなくなったのです。

 発信機を取りつけることになる良知くん宛てのキーホルダーを除くと、あなたの手元にはA1、A2、Bという3つのストラップがあるわけで、そのうちA1とA2の見た目は同じです。どのみち実花さんにラッピングしてもらうんだからと、黒府さんは土産屋さんでは包装してもらわずに、裸のままキーホルダーを3種類購入することになります。おそらく実花さんは、黒府さんからそれを預かって自分のお土産と一緒にレジに持っていき、隠し持っていたA2も一緒に購入したのでしょう。実花さんに立て替えてもらった分を返金する際も、ふたりの間柄ならレシートを見せずに口頭でやりとりしたでしょうから、同じ商品をふたつ購入している疑惑のレシートにも気づかれません。

 椎谷くんに渡されるキーホルダーは、ラッピングのために触ったので実花さんの指紋が出るのは当然です。しかし芽方くんにいずれ渡すA2の方は、芽方くん以外の指紋が検出されるとまずい。では、実花さんはどうしたか。A1とA2の区別はつかなくても、芽方くんに渡すものの指紋さえ拭き取ってしまえばいいと考えたのです。そうすれば椎谷くんのキーホルダーのタグにはラッピングの際に触れた実花さんの指紋がつき、もう一方には実花さんの指紋がついていないので芽方くんが自分で買ったものと偽ることができるんですから」

 実花さんが首を傾げる。

「でも、証拠を隠滅した証拠なんてないわけですから、私が関わっていたとは言い切れないんじゃないですか? 指紋を調べればわかるといいましたが、私の指紋がタグから検出されなかったからといって、指紋を消したとは限りませんよ。最初からついていなかった――今回のことに関与していない可能性もありますから」

 さあ、どうだ。

「誰も、実花さんの指紋を調べればわかる、とは言ってませんよ。調べるのは、黒府さんの指紋ですから。

 黒府さんが購入したA1には、黒府さんの指紋がついてなければならないんです。そしてあなたがこっそりと購入したA2には、もちろんついているはずがない。そして繰り返すように、椎谷くんに渡ったキーホルダーのタグには実花さんの指紋がついていなければならず、反対に入れ替え用のA2には、実花さんの指紋がついていてはいけない。

 つまりあなたが完璧に事を運んでいた場合、椎谷くんの持っているキーホルダーのタグには黒府さんと実花さんの指紋が出てきて、芽方くんのタグにはどちらの指紋も出てこないはずです。

 ですが、加瀬月さんたち警察と黒府さん、そして椎谷くんに協力してもらった結果、椎谷くんが捨てずに取っておいたキーホルダーのタグからは、あなたの指紋しか検出されませんでした」

 実花さんが目を見開く。ついに、追いつめた。

「黒府さんがお土産として選んだはずの椎谷くんのキーホルダーのタグに、黒府さんの指紋が付着していなかった。……なぜか。それは、実花さんが鍵をすり替えるために追加で購入したものだったからです。自分が疑われることを防ぐために証拠を消したつもりが、本来なければならないものまでも消してしまった。

 さあ、話してください。いったい何のためにこんなことを――良知くんが飛び降りるように仕向け、それが芽方くんだけの責任になるようにしたのかを」

 あとは彼女の言葉を、待つだけだ。

 サークル部屋には誰も来ない。彼女の言葉を遮るものは、何もなかった。

 どこから話したらいいのか悩んでいるのか、そもそも話す気がないのか、かなりの時間、沈黙が流れた。かなりというのは体感時間で、実際には数分だったであろうが。

 その間僕たちは、ただ見つめ合っていた。彼女は、目を逸らすようなことはしない。このまま見つめ合っていれば、いつか僕が許してくれるような気がしていたのだろうか。

 いや、むしろ僕の方から彼女を許してしまいたくなっていた。たしかに良知くんは飛び込んで命を落としたが、誰かが背中を押したわけでも、驚かせてよろめかせたわけでもない。彼女に責任はあるのか? あるとしたら、何の罪に問われるのだ? そしてどれだけの年月、その償いに費やせばいいのだろうか?

 わからない。僕は乱歩が好きなだけの、何も知らない教育学部生だ。法律に詳しいわけでもない。法律に詳しそうなのは法学部……。ふと頭に浮かんだのは、僕が暴いた罪を償っている美青年だった。

 心の中でため息をつく。いったい僕は、何を考えているのだ。罪を告白しないでいるのが、償わないで誤魔化し続けることがどれだけ苦しいのかを、僕はわかっているつもりだったんじゃないのか。例えそれが犯人を追いこむことになったとしても、僕は自分のしていることが救いだと信じていかなければならないのだ。運がいいのか悪いのか、僕は同窓の名探偵が死ぬ現場に居合わせて、彼の跡を継ぐように探偵の真似事をして、既に何人かを追いつめているじゃないか。

 逃げては、いけない。実花さんの言葉を、待ち続けなければならない。彼女の告白を聞くべきは、警察でも、良知くんの霊魂でもない。この僕なのだ。

 乱歩の『赤い部屋』の話で盛り上がり、谷崎の『途上』を薦めた僕が、彼女の胸の内を全て吐き出させ、受け止めなければならない。これはまさに、プロバビリティーの犯罪だ。崖から飛び降りて岩に頭をぶつけさせるなんて、まさに『赤い部屋』のT氏が述べていたこと、そのものではないか。

 未必の故意、という言葉を思い出す。確実に命を奪える保証はないが、良知くんが命を落とすかもしれないとわかっていてそうしたのであれば、僕たちがどう判断するかはさておき、彼女には罪を犯した自覚があるはずだ。

 彼女が口を開く。僕が先ほどまで頭の中に描いていた、読書仲間として笑い合う僕たちの未来予想図は、彼女の声に掻き消されていく。


「良知は、高校からバンドをやっていました。そして私の友達のひとりが、良知のところのバンドのファン――はっきりといえば、良知のファンだったんです。その頃、私は良知のことを話には聞いていたものの、実際に会ったことや見たことはなかったんですけどね。

 もしかすると、調べているうちに既に聞いたことかもしれませんが、良知は今でこそ、黒府の気を引こうと必死になっていましたが、昔は言い寄ってくるファンの女の子を都合のいいように――まるで道具のように扱っていたんです。そのうちのひとりが、私のその友達です。貢ぐように金を使い、時間を使い、見返りなんてほとんどないのに、神か何かを信仰するかのように、一方的に尽くしていきました。あまりにも見返りがなかったり少なかったりすれば諦めたのでしょうが、彼女はどっぷりとハマってしまったので、引き返すようなことは一切考えず、辛抱強く尽くしていき、良知にとってのお気に入りのひとりになったのです。

 お気に入りとはいったものの、それはむしろより都合よく使われる相手という意味でありますから、ゆくゆくは友達もボロボロになっていきました。そしてついに、良知の気を引くため、自殺未遂までするようになったのです。身も心もボロボロになっていきますが、そうなれば良知も彼女とできるだけ関わらないように距離を取り始めるわけで、それがまた彼女を不安定にさせていき……という悪循環に陥りました。

 大学へ進学するという段になって、ボロボロの彼女が受験だの面接だのに対応できるわけもなく、彼女は親戚の店で働かせてもらえることになり、地方へ行きました。私とも交流はほとんどなくなりましたが、例のバンドマンに近寄ることもできなくなったので、あとは時の流れに身を任せるしかないと思ったのです。

 さて、私はここの大学に入学して新しい友達や仲間と出会うことになりました。椎谷に誘われて宝探しサークルに入り、決して有名だったり誰かに貢献できたりするわけではなかったけれど、楽しく過ごしていきました。

 ただあるとき、例の友達と連絡を取り合う中で、私は自身の近況を報告するべく、宝探しサークルの写真を送ったのです。そして彼女は良知を見て、彼が例のバンドマンだと教えてくれました。私は、しまったと思いました。良知のことは好きでも嫌いでもありませんでしたし、ぶっきらぼうで口も悪いけれど、黒府の気を引こうとするときだけは慎重になる良知は、以前聞いていた男のイメージとは違っていたので、まさか彼がそうだったなんて、思いもしなかったのです。

 ほとんど知らない土地で養生していた彼女は、私の送った写真のせいで再び心身の調子を崩しましたが、働かせてもらっている身で、そんなことを理由に休むことはできないと考えた彼女は、半年ほど前に亡くなりました。自殺だそうです。良知の気を引くためのリストカットなどではなく、海に飛び込んで岩に頭をぶつけたと、彼女と暮らしていた親戚の方は言っていました。

 新しい仲間と出会ったからといって、離れてしまった彼女のことがどうでもよくなったということはありませんでした。最初私は、彼女の死が信じられませんでしたが、そのうちに溢れてきたのは悲しみではなく、怒りでした。まさか自分が彼女の死のトリガーを引くことになるとは思っていなかったので、まず自分自身に対して、憤りを感じました。その次に、良知です。高校時代に彼女を苦しませたことはもちろんですが、のうのうと黒府に恋をしているのが、許せなかったんです。自分を好いてくれる女の子をいいように使い倒して、ボロボロにして、自分が誰かを好きになった途端、少しずついい人になろうとしているのが許せなかった。やさしい椎谷に黒府が憧れているのを見抜き、少しずつ椎谷のようになろうとしているのに、腹が立ったのです。そんなことで、これまでに自分がしてきたことの償いになると思っているのか、と。

 彼に罰を与えなければと思い立ってから私の行動は、我ながら早かったと思います。黒府のことを眺めていながら、彼女が誰を想っているのか見抜けないでいた芽方をうまく唆せば、全ての罪を芽方が引き受けてくれると思ったんです。良知が黒府に言い寄っているということを信じさせるのには、何も苦労はありませんでした。彼は黙っていると本当に気配が消せますから、サークル部屋のソファーの裏に隠れさせて、ふたりきりになったと黒府と勘違いさせた上で、部屋の中で良知のことの相談を受けたんです。できるだけ良知の印象が悪くなるように、誘導尋問しながらね。

 黒府が私に相談しているのを聞いた芽方は、いよいよやる気になりました。実際の黒府は、ちょっと困っているように笑って話していましたが、隠れていたため彼女の表情が見えない芽方は、自分の都合のいいように想像したのでしょう。これでヒーロー、およびピエロの完成。あとは黒府を旅行に誘って、お土産としてキーホルダーがいいんじゃないかと打診すれば、ほとんど終わったようなもんです。私たちが旅行に行っている間、芽方はせっせとQRコードなどを用意していました。企画者のひとり、黒府が喜んでくれるようにと。

 良知に送ったキーホルダーですが、あれの仕掛けは単純です。QRコードというものがあまり浸透していなかった頃の話ですが、街のポスターから送られてくる情報を、ケータイストラップが受け取るシステムがありました。実際には、メールアドレスの情報を含んだICチップをキーホルダーの形に加工したもので、ポスターの裏にはとある装置を仕掛けておくんですけどね。メールマガジンなんてのがありますけど、あれをかなり局所的にしたものと言えばいいでしょうか。実際にポスターのところまで出かけた人限定で、お得な情報を発信できるというわけです。

 今回の宝探しでいえば、QRコードを記した紙の裏に仕掛けた装置が、近づいてくる良知のキーホルダーに登録されているメールアドレスを読み取り、キーホルダーが近づいたということを小屋の芽方に教えました。装置から報告を受けた芽方は、まるで限定メルマガを配信するかのように、良知に100点ビー玉のメールを送信したのです。こうすれば、複数人がQRコードを読み込んだとしても、メールは細工をしたキーホルダーをつけている良知にしか送信されないので、あとは良知がそのメールを消してくれれば、芽方のパソコンにしか送信した形跡は残らないというわけです。もちろんこれは、良知がキーホルダーをいつもつけていないとできないことですが、好きな黒府からもらったものですから、彼がつけないはずがないのです。そしてこのシステムも、提案したのは私ですが、芽方が色々つくってくれました。

 あとはもう、河童場さんが言った通りです。キーホルダーを改造してもらって、いざお土産をラッピングしようという段になって、どっちが黒府の買ったものかわからなくなってしまった。私の指紋がついたままの方を渡せばいいと短絡的に考えていましたが、黒府の指紋を忘れていました。黒府への好意を利用したつもりが、その黒府の指紋が私の罪の証となってしまったんですね」

 彼女の告白が落ち着き、僕は少しだけ間を置いてから彼女に尋ねた。

「犯行の参考にしたのは、やはり『赤い部屋』ですか?」

 実花さんが頷く。

「ええ、そうです。大学に入学した1年生の頃、何か教養の授業で『赤い部屋』の話を聞いていたので、それを思い出したんです。宝探しの日が近くなって、確認というほどでもないですが、何となくもう1度読んでおいた方がいい気がして、大学の図書館でそれを手に取ったんですが……」

 そのとき、乱歩を何冊も借りていく僕に出会った。そしてそのあとすぐに、サークル部屋でも出会うことになり……。

「自転車が爆発する事件と、劇の公演中に起きた凶器不明の刺殺事件。この大学の学生が巻き込まれ、犯人でもあったふたつの事件を解決に導いた名探偵が、よりによって犯行1~2週間前にその宝探しに参加することになったときは、それこそ心臓が止まるかと思いました。ただ、河童場さんを交えてケーキをつついていたときに、私は別の意味で、あなたに注目するようになってしまったんです。それは警戒ではなく、その、つまり……」

 もうひとつの、告白。ここで初めて、彼女が目を逸らした。

 僕は織羽くんの言葉を思い出す。罪人から愛される体質。ああ、嫌だ。前回振りの苦しみ。どうしてこんなに、切なく想いをしなければならないのか。

 何を返せばいいのか、わからない。犯行の痕跡に対しては難癖をつけては推理モドキをしてベラベラと喋れるけれど、こういう場面で気の利いた言葉がどうにも出てこなくて困る。

 かろうじて、僕は言葉を絞り出す。

「……やってみたかったな。ふたりだけの、倒叙形式推理小説読書会」

 実現可能性が消えてしまった、楽しかったかもしれない、あったかもしれない時間。実現したら、きっと幸せだったであろうひととき。

 瞼の端を少し痙攣させ、実花さんが言う。

「芽方が黒府を好きじゃなかったら、キーホルダーの細工などは成功しなかったし、良知が黒府を好きじゃなかったら、勝ちに目が眩んで崖から飛び込むこともなかった。人からの好意を利用した良知に相応しい罰だと思ったけど、実際は……。こうして私が、あなたのことを好きになってしまうと、自分がどれだけ酷いことをしたのか痛感できました。ああ、私はこんなにも純粋な気持ちを、踏みにじってしまったんだって……」

 瞼のヒクつきが、激しくなっていく。その振動のせいか、熱をもった水滴がボロボロとこぼれていった。机に伏せて泣きじゃくる彼女。手を伸ばしても彼女の体を抱きかかえることもできないので、ただその震える手を、泣き止むまで握ることしかできなかった。

 出会った瞬間に犯行を思い留まらせるだけの力があれば、彼女は改心して、良知くんは死なずに済んだかもしれないのに。

 僕は、悪事に手を染める前の手を掴めない。いつだって僕が握れるのは、血で汚れたマクベス夫人の手だけなのだ。




「それで、今は倒叙形式の推理小説を読み漁りがてら、法律のお勉強をしているというわけだ」

 卒業論文中間報告会でボロクソに言われたらしい織羽くんが、ラップトップのキーボードをやや乱暴にタイピングしながら言った。

 図書室の、会話可能なスペース。大きめの丸テーブルが乱雑に置かれており、キャスターのついたイスについてはもっと散らかっていた。毎朝図書館の人が整えているのだが、テーブルとイスは話し合いの人数に応じて自由に移動されるので、もはやどれがどこにあるべきなのかわからなくなっている。僕の近くには、推理小説と法律の本が置いてあった。

「今まで、あなたが犯人ですよねとか散々言っておきながら、その人たちが実際、どれだけの償いをしなければならないのか、ということについて、僕は全く知らなかったからね。特に今回は、直接手を下したわけではないから余計にわかりにくいだろうし……」

「普通に考えれば、その芽方くんとやらへの殺人教唆になるのかもしれないけど、いかんせん良知くんとやらが実際に飛び込むかどうかはわからなかったということを考えると、そもそも殺人と呼んでいいのかわからない問題だからね」

「乱歩が使った、プロバビリティーの犯罪という言葉が、まさにぴったりの表現だったというわけ」

「で? そっちの推理小説たちは何?」

「書籍の差し入れは可能だからね。罪を償い続ける生活は退屈だろうから、せめてドキドキワクワクしてもらえるような本を実花さんに送りたいなって」

 織羽くんが手を止めて、目を細めて言う。

「……刑務所に大学図書館の本を送るつもりじゃないだろうね」

 僕は苦笑した。

「しかしまあ、本命の彼女だっているだろうに、あんまりそうやって思わせぶりな態度を取らない方がいいよ」

「そう言われても、どうにもとまらないんだよ」

「しかも宛て先は、檻の向こうときた。まさか、一番最初に檻から出てきた女の人と結ばれるつもりじゃないだろうね」

 今日の織羽くんは、随分と嫌味が鋭い。

「……うまくいってないの、卒論?」

「ご名答。いやぁ、ひどいもんだよ。少し前まではいいテーマじゃないかなんて言ってたのに、急にテーマを変えた方がいいなんて手の平返しだ。文句を言われた箇所を直せば、直す前の方がよかったなどと言う。こういう問題提起にすればいいんじゃないかと言われて、その場で打ち込んだ言葉だというのに、問題が焦点化されていないときた。自分で言ったことを忘れているんだよ、きっと。まあ、多くはないとはいえ、数人のゼミ生全員の卒論の面倒を見ようとすれば、そうなってしまうのかもしれないけどさ。君もそろそろ、卒論のテーマを決めた方がいい。乱歩に関する内容というところまでしか、決まっていないんだろう?」

 痛いところを突かれる。正直、他の推理小説に現を抜かしている場合ではないのだ。もうじき、僕のゼミでも卒論の中間報告会が行われる。

「春先に先生に報告したのは、江戸川乱歩の作品を国語の授業でどのように扱えるか、ということだったんだけど、今になってこのままでいいのかと不安になってきたよ。織羽くんの言葉を聞いたら、一層ね」

 織羽くんが笑った。

「じゃあ、今やってることをそのまま卒論にしてしまえばいいんじゃないかな」

 僕は首を傾げる。織羽くんは推理小説と法律書を順に指差しながら言った。

「推理小説の中の犯罪者が、実際どのような刑罰に処されるのか」

 そう言って彼は、自分の作業に戻る。僕は感心して、借りてきた本たちに目を落とす。

 たしかに、犯人のその後について書かれるものは、これまで見たことがない。あったとしても、それはおまけになってしまうからだ。推理小説で求められるのは、誰が犯人だったのかと、どのように犯行を行ったのか、あるいは隠蔽したのか、というところにあるからだ。その先に、まだ人生が続いていることには目を向けにくい。

 そしてこれは、僕が決して忘れてはいけないことなのだ。犯罪者には、その後の生活があるかもしれない。何年も社会の外に追い出され、戻ってきたときには浦島太郎状態になっているであろう彼ら。彼らが檻の中で生活するきっかけをつくりうる僕は、喜びのために事件を解決してはいけないのだ。事実は小説じゃない。謎が解けて楽しかったね、では終わらない。

 残り少ない学生生活――社会から隔絶されたオアシスのなかで、砂漠よりも過酷な生活をしている彼らに対し、もっと目を向けなければならないのだ。幸運なことに、僕には友達が数えるほどしかいないから、オアシスを満喫することに時間を割くことがない。

 僕の卒業研究は、乱歩の小説の犯罪者が、実際にはどのような刑罰に処されるのかについて、だ。それが結局、僕がこれからも出くわすかもしれない事件の犯人を思いやることにもつながるから。


























 なんてことを卒論指導の先生に伝えたのだが「それは法律の研究でしょう? 君は教育学部なんだから、もう少し教育に絡めた研究をしなさい」と言われ、めでたく先生から提案された「小説の犯罪者が罪を償った後どのような生活を送るのか考える国語の授業」という形に落ち着いてしまった。


























 そしてその半年後の報告会では、「そんなことを子どもに考えさせても空想でしかないのだから、もっと実際の法律や法令に基づいた研究をしなさい」というどんでん返しコメントをいただき、めでたく「乱歩の小説の犯罪者が、実際にはどのような刑罰に処されるのかについて」というテーマに落ち着き、原点回帰を果たすことになる。それについて織羽くんは、やはり俺の言った通りになったなと自慢げに言ったが、卒論提出の3ヶ月前に、彼の指導教官が急に指導方針を変えて痛い目に遭ったのは、また別の話。


(おわり)

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飛び込んでく、泉の中、何も迷わずに 柿尊慈 @kaki_sonji

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