知っている

灰羽アリス

知っている

 夏子なつこが死んだ。通り魔に犯され、殺されたのだという。夏子の遺体を見つけたのは、若い男のホストだった。飲み屋街の一角に、夏子は裸で倒れていた。まだ、たったの、17歳。

 北野浩介きたのこうすけは想像する。明け方の柔い光が、冷たくなった夏子の白い足を照らすさまを。

 はつらつとした笑顔を作る子だった。無邪気を装って、腕を絡めて聞いてくる。

『北野せーんせっ。ねぇ、先生って、彼女いる?』

 数学準備室から彼女の笑顔が消えて、もう、一カ月が経つ。


 少し若いというだけで、たいして格好良くもない男性教員がモテる。そういう、女子校ならではの現象。

 北野は自分の地味な容姿を自覚していた。小作りな顔のパーツ、メガネ、平均的な身長、体形。すぐに人ごみへ紛れ、誰の記憶にも残らないタイプの容姿。

 そんな北野を、女生徒たちは格好いい、と噂する。友人らと顔を付き合わせ、クスクス、恥ずかしそうに目くばせしてくる。


 女子校において、歳の近い男性教諭は、彼女たちの恋愛対象になりうる。


 とはいえ、ほとんどの生徒は本気じゃない。たいくつしのぎに、好きだ、格好いい、と冗談めかして話題にしてみる程度。

 しかし中には、北野がどうかと思うほど、本気の生徒もいた。事あるごとにプレゼントを贈り、準備室や職員室に通い詰める。―― 青井あおい夏子も、そういう行き過ぎた生徒の一人だった。


『あたし、立候補しちゃおうかな。先生の彼女』


 生徒に手を出せば、それがバレたら、教師人生はおろか、社会的に終わる。

 彼女たちはそれを承知で、無責任に挑発してくるのだ。




「北野先生、ワークブック集めて来ました」


 数学準備室の扉が開き、北野は思考を中断した。訪問者の女生徒は一人だった。遠慮のない足取りで中を進み、キャビネットの一角に一クラス分のワークブックを重そうに入れる。


「ああ、ありがとう」


 背伸びしたうしろ姿。プリーツスカートから見える太ももが形良い。染めた形跡のない黒髪のツヤは、若葉を思わせた。――が、それもいつかは枯れる。

 そんなことを思っていると、ふいに彼女が聞いた。


「まだ帰らないんですか」

「え?」

「もう19時ですよ。先生、非常勤ですよね。ほかの非常勤の先生は、授業が終わったらすぐに帰るのに」


 彼女が振り向く。黒目がちの大きな瞳と目が合った。窓から差し込むオレンジ色の夕日が、胸元の名札に反射している。八尋やひろ。八尋あかね

 北野は疲れたように、苦く笑った。


「最近は登下校時の見回りなんかで、時間がとられてさ。小テストの採点やら、ワークのチェックやら、間に合ってないんだ」


 北野がこの私立に勤め始めて2年になる。雇用形態は、非常勤講師。教科指導が主な仕事内容で、クラスや部活動を受け持つことはない。が、来年からは専任教諭にならないかと校長から誘いを受けている。

 校長は、初めから北野に目をかけていた。だからこそ、非常勤講師という身分でありながら、準備室の使用も許されている。と同時に、業務外の面倒事を押し付けられることも多々あったが。夏子が殺された翌週から始まった登下校時の見回りがそれだ。朝夕、教員がペアになり、高校の周辺を見回る。順番に、ほぼ2日に1回。おかげで、朝夕の貴重な雑務時間を奪われ、北野はこうして無休で残業する羽目になっている。


「大変ですね」


 茜は言うなり、キャスター付きの丸椅子に腰かけた。くるりと回し、北野に向き合う。足を組み、ぶらぶら揺らした。まだ帰るつもりはないらしい。


 北野は茜に背を向けると、再びデスク作業に戻った。言った通り、小テストの採点をしているところだった。サイン・コサイン・タンジェント。リズムに乗せて公式を覚える少女たちの声が、耳に残っている。北野は今年、3年生の普通コースを担当していた。夏子のクラスも、茜のクラスも、受け持っている。


「それ」

 茜の声に、作業を続けたまま答える。

「なに?」

「ストレス解消ボールですよね」


 思わずペンを止めた。左手に収まる、肌色のボールを見る。ゴムの吸い付くような弾力が心地いい。潰した形に、ぐにゃりと曲がる。


「私も持ってますけど、それは珍しいですね。顔の形してる」

「気づくと握ってるんだよな。こう、ないと落ち着かないっていうか」


 北野は茜の前に、ボールを掲げて見せた。ぎゅっと潰す。飛び出る目玉。ひょっとこ口。

 茜がぷっと吹き出した。


「変な顔。これ、ストレス解消だけじゃなくて、思考力の向上にも役立つらしいですよね。手のツボが刺激されて、脳を活性化するんだって」

「へぇ」

「神経はぜんぶ繋がってるから」


 茜は北野の手からボールを取り上げた。指先が触れ合う。びりっと静電気が起きた。北野は反射的に手を引っ込めたが、茜は涼しい表情のまま。ボールを手のひらに押し付け始めた。顔の口の部分を、押し込むように。


「ぜんぶ繋がってるんです。痛いのも、気持ちいいのも、ぜんぶ。脳みそは、与えられるすべての刺激を甘受する」


 上目遣いに、北野を見る。口角を上げた赤い唇が、妙に艶やかだった。

 喉が鳴り、一瞬、不覚にも体が反応した。振り切るように、答案に戻る。

 いつの間にやら、最後の1枚まできていた。目が、名前の記入欄に吸い寄せられる。八尋茜。神経質そうな角ばった字体は、目の前の彼女とは印象が違っていた。余裕と好奇心を滲ませる、彼女とは。


「ねぇ、北野先生」

 肩に、細い指が滑った。

「もう、お仕事終わりでしょう? 途中まで、送ってくれません?」


 伸ばした背筋が、微かに震えた。

 これは挑発だ。

 そうか。八尋茜も。彼女でさえ。


 石ころばかりが転がる女の園で、八尋茜は一人、異質だった。浮かべる表情も、仕草も、他とは違っている。薄幸な雰囲気はどこか場末の女を思わせた。ホステスをしているという、彼女の母親の影響だろうか。

 茜はこの学園でただ一人、女だった。

 そんな茜でさえ、北野に好意をよせる。一番身近な若い男という、ただそれだけの理由で。


「私、今日、日直で。友達はみんな帰っちゃったんです。もう暗くなってくる時間なのに、一人で帰るの、怖い。――犯人もまだ、捕まってないし」


 北野は内心、鼻で笑った。大人っぽく見えても、茜だって、思春期をこじらせたバカな小娘の一人に過ぎない。


 二人は夕暮れの通学路を並んで歩いた。両脇を田んぼに挟まれた道は、車の侵入が禁止になっているので、車通りはない。そして人通りも。19時。この道に用がある帰宅部の生徒は、既に帰宅している。

 隣を歩く茜が明るく言った。


「先生、知ってます? 1日のうちで、一番幽霊に出くわす時間帯がいつか」


 いきなりだな、と北野が苦笑する。

 夏の終わりに怪談。場を和ませるにしては、まあ、無難な話題か。


 北野が引く、自転車のチェーンがカラカラと鳴った。周囲では、抑えたような虫の声が続いている。つい先日まで騒いでいた蝉の気配はすっかり消え失せている。この虫の声は、鈴虫とか言われる類のものだろう。歩くには、気持ちの良い季節になった。


「丑三つ時だろ。夜中の、2時から3時」

 わざと無邪気に答えると、茜は嬉しそうに唇をすぼめた。

「ぶっぶー、はずれ。正解は、夕方なの」

「えぇ? でも、古代中国の陰陽思想で、丑三つ時が一番陰の気が強くなる時間だから、魔物が出やすいって。古谷先生が」


 教員だけで行う授業参観で、歴史の古谷がそのようなうんちくを語っていたのを思い出す。けれど、茜は安易な間違いを犯した子どもを説教するように、「違うよ、先生」と楽しそうに続ける。


「たしかにそういう考えもあるけど。でも、ほら、『逢魔が時』って言うじゃない。昼と夜の境目はね、世界が薄闇にぼやけて、すべてのものがあいまいになって、こちらの世界とあちらの世界の境界線が薄くなるの。だから、ふっと、出会っちゃうんだよね。幽霊とか、そういう、魔物に。だから正解は、いま、この時間帯なの」


 北野はふはっと笑った。バカバカしい。実に、子どもらしい考えだと思った。


「それ、どこ情報?」

「昔から言われてるよ。知ったのは大好きな作家さんの本の中でだけど」

「じゃあ、そいつの妄想だな。作家は嘘をそれらしく語るのがうまい」


 笑う北野を、茜は頬を膨らませて睨んだ。


「そうやって気を抜いてると、本当にふっと出会っちゃうんだからね」

「はいはい。怖がらせようとしても無駄だよ。まだ明るいし、怪談噺をするには早いんじゃないの」


 太陽はまだ、地平線の向こうに消えてはいない。10月に入り、日没が早くなったとはいえ、完全な闇を迎えるにはまだ、時間がかかりそうだ。


「――夏子は」


 突然、冷たい風が首筋を撫でてゆく。ぞくり、と北野は肩を震わせた。


「ごめん、なに?」


「夏子はなんであんなふうに死ななきゃいけなかったんだろう」


 カラカラと、自転車が鳴る。握ったハンドドルのゴムの感触が硬く、物足りなさを感じた。

 ――これじゃない。


 乾いた唇が、割れそうだ。慎重に舐めて、口を開く。


「可哀想だったな、青井は」


 こくん、と茜が頷く。以降、俯いてしまった。


 茜と夏子が一緒にいるところを、北野はよく見かけていた。クラスは違うが、休み時間や放課後に、顔を寄せ合い笑っているところを。夏子もよく、茜の話をした。


『茜はお姉ちゃんみたいなんだ。あたし、一人っ子だからよく知らないけど、姉妹って何でも相談し合うんでしょ。あたし、茜には何でも話せる。親友ってか、もはや姉妹?』


 親友を失い、さぞ辛いだろう。北野は茜の肩を抱こうとした。しかし、それより早く、

「許せない」

 半開きの赤い口から、低く、茜が吐き出した。

 伸ばした手を、思わず止める。


 茜の横顔には、表情がなかった。死人のように、感情が抜け落ちている。どこかのテーマパークで見た機械仕掛けの蝋人形が、茜の顔と重なった。ようこそ、ようこそ。口だけが動く。

 北野は落ち着かない気持ちになった。そこへ、茜の狂った声が追い打ちをかける。


「犯人、死ねばいいのに。この世で一番辛くて、痛い目にあって、苦痛にのたうち回って、最後には殺してくれって、泣き叫ぶ声も枯れ果てて、やっとのことで、死ねばいいのに」


 夏子が北野を見た。骨を感じさせない仕草で、首を傾げる。


「そう、思いません?」


 つばを飲み込む。なんとか答えた。


「あ、ああ。そうだな……」


 いつの間にか、二人は立ち止まっていた。

 見つめ合う、茜の表情がよく見えない。

 暗い。陽が、落ちかけている。

 ぞっとして、嫌な汗が吹き出した。おかしい。ついさっきまで、明るかったのに。時間の感覚が狂ったようだ。

 自転車のハンドルを握り締める。汗で、ぬるりと滑った。

 茜の誘いに乗ったことを、北野は後悔し始めていた。


 茜は自分と恋人のような甘い時間を過ごしたいのでは、なかったのか。

 夏子の話を持ち出したのは、落ち込む私を慰めてと、そういう口実ではなかったのか。

 それなのに、茜は能面の顔で、北野を見据えている。そこに甘い雰囲気は皆無だった。

 これでは、話が違う。


「逢魔が時」

 突然、茜が強い声を発した。

「もうすぐ、終わっちゃいますね、先生」


 左右に、首が揺れる。ゆらゆら、能面の顔に笑顔の残像を残して。歌うように、茜が言う。


「いまごろ犯人、どこで、何してるのかな。また新しい獲物、狙ってるのかな」


 犯人は――


 口内が、一気に渇いたようだった。

 大丈夫だ、落ち着け。


 夏子の中に残っていた、精液。DNA鑑定の結果を照らし合わせたところ、前科者の中に犯人はいなかった。あの日、夏子は制服を着替え、その足で繁華街へ向かったと調べがついている。その後の様子は、どの監視カメラにも映っていなかった。ひとりで買い物か、誰か、男に会いに行ったのか。しかし、夏子のスマホからは、親しい男の存在は確認できなかった。友人らの話では、夏子には彼氏はおろか、男友達もいないのだという。警察は通り魔的犯行の可能性が高いとみて、捜査を続けている。

 そう、夏子に親しい男はいない。走査線に上るような、そんな男は。


『お前、わかってるよな。誰にも言うなよ。親友でもだぞ』

『わかってるってば、先生。もう、信じてよ』


 夏子を殺したの――

 茜の声が、また一段、低くなる。


「北野先生、だったりして」


 叫び出しそうになる。なんとか堪え、北野は無理やり笑って見せた。頬が引きつる。


「まさか」


 否定する。しかし、聞かずにはいられない。なにか、そう思う根拠でもあるのか――


「なんでそう思うの。夏子、なんか言ってた?」


 ぴたりと、茜が首ふりをやめた。にぃ、と笑みを深める。

 すぐに失敗を悟った。夏子。自分はいま、彼女を下の名で呼んだ。これでは関係があったことを、認めたようなものではないか。

 胸が鋼を打っている。北野は茜の視線から逃れるため、ぎくしゃくと足を動かした。カラカラ、再び自転車のチェーンが回る。


 こつ。

 後ろをついてくる、茜の革靴が、アスファルトの地面を蹴る音がする。

 こつ。こつ。

 背中から首の付け根までが、もうずっと粟立っている。


「女の子同士の親友にはね」

 ひどく平坦な声で、茜が言う。

「秘密なんかないの」


 北野は足を速める。

 こつ、こつ。同じスピードでついてくる。息が苦しい。あえぐ。あえぐ。

 夜の闇が、最後の陽の光を地平線に押し込もうとしている。薄く伸びるオレンジ。もう、消えてしまう。


「知ってるよ、私。あの日、夏子は北野先生に会いに行った」


 瞬間、記憶が押し寄せる。

 一緒にいるのを見られるとまずいから、別々に出発して向こうで落ち合おう。公衆トイレでスーツからTシャツに着替え、キャップを目深に被る。ラブホテルの部屋に、夏子はすでに来ていた。緊張した面持ちでベッドに横たわる、夏子の首を絞めた。死の危険を感じれば、膣が絞まるのだと、どこかで知った。そういう、プレイだった。ぐにぐにとした、肉の潰れる感触が心地よかった。やめられなかった。


『せんせ、くる、し……』


 どうして。

 物言わぬ夏子。

 見開かれた瞳が、問うている。


「どうして私を殺したの」


 今度こそ、北野は悲鳴を上げた。自転車にまたがり、無人の通学路をがむしゃらに漕ぐ。

 背後にかけられた声は、夏子のものだった。左右に揺れる首。茜の能面から時折見える笑顔の残像が、夏子のはつらつとした笑顔と似ていることに、気づいていた。

 こつ。こつ。

 追いかけてきているのは、はたして茜か夏子か。


「なあ、わかってるだろ。わざとじゃないんだ!」


 焼け付く喉で、叫ぶ。

 違う、違うんだ。

 夏子の体を、暗い路地に捨てる。キャップを深く被りなおす。すぐに人ごみへ紛れ、誰の記憶にも残らないタイプの容姿。大丈夫。俺はここにいなかった。


「許してくれ!」


 車輪が、何か硬いものに乗り上げた。バランスを崩し、派手な音を立てて地面に倒れる。北野は額を打ち付けた。痛みにうめく。


「う、ぐぅ……」


 こつ。

 背後で、靴音が止まった。


「ストレス解消ボール、返します。ずっと、持ったままだったから。ほら、先生」


 思いがけず優しい声。隙の生じた北野は、振り返ってしまう。

 あ。

 最後の光の筋が、地平線の向こうに消えた。

 

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