第7話 完世紀1940年6月 〈フランセーズ共和国 / Amiens〉

 心臓が燃えている。肺が、胃が焼けてしまう。


 それでも、手足の感覚がない。こんなに動かしているのに、走っているのに、自分が自分じゃないみたいだ。二十五年生きてきて、初めて知った。


 俺は、何をしている?

 早く帰りたい。はやく。みんなのところへ。




「した、ドアあけて」


 それだけを送った。震える指、濡れた端末。落とさないようにするだけで、壊してしまいそうだった。

 ドアはすぐに開いた。エーミールが出てきて、ああ、ちゃんとこの人は生きているんだな、と思った。俺みたいに、人を物にしなくてもやっていける。見開かれたその鳶色の目は、彼が優しいひとであることを教えてくれる。


「急いで、奴が来る」


 彼を巻き込むわけにはいかない。いや、もう巻き込んでしまっているのだろうか。とにかく、俺を追ったポールがやって来る。端末がずっと震えているのだ。もうすぐ、あの重い腰を上げて車を走らせるだろう。ヴェルヌ氏の邸宅へ、と。


 エーミールはしばらく呆然とした後、はっとして屋敷の奥へと走っていった。戻ってきたときには白いものを手に抱えており、そのまま鞄を脇に挟む。

「イズマルさん、荷物は?」

 柔らかいタオルに包まれる。暖かい体温に触れて、人だ。そう感じた。

「全部コートのポケットに。ごめんね。今車出すから」

「そんな怪我した人に運転なんてさせられません! 私も免許持ってますから、安心して。それと、落ち着いたらでいいので、何があったかちゃんと教えてください」


 はは、と笑った。笑えば何とかなると思った。汚れた髪を拭いてくれる手が、どうにも慣れなかった。


「ごめん」




 夜中の街を見るのは久々でもなかった。街灯の明かりが、フロントガラスからだと水でぼやけた。打ち付ける雨の音が、沈黙を誤魔化してくれた。


 エーミールはあれから、駐車場まで傘を差してくれて、アミアンの街から出てくれた。ポールの車が闇に紛れている、その恐怖は拭えない。それでも、しっかりとしたハンドル捌きで、安定した走りを見せていた。


 信号待ちの間に、彼は俺の端末を取って、ポールのアカウントをブロックした。元々逆探知防止機能を付けていたので、それ以上は弄らなかった。そして、彼自身の端末も同様に設定したようだった。


「怪我の調子はどうです」ボーベ近郊に差し掛かったあたりで、彼が不意に声をかけてきた。

「おかげさまで。君に貰った鎮痛剤が良く効いているみたいだ」

「それなら良かったです。安心しました。切り傷とはいえ、感染症に罹る可能性は捨てきれませんから」

 対向車のヘッドライトに照らされた彼の表情は、何も語らなかった。


「そろそろ、教えていただけませんか。なぜ怪我をしたのか、とか。あらかた察しはついていますが」

「ああ」


 深呼吸をして、俺は少しずつ、少しずつ言葉を絞り出した。




 ポールの別荘に着いてから、彼の私室に連れてこられた。ここまではよくあること。俺にとっては、何度も辿った道だった。今日もか、と吐く溜息を隠し、コートを脱いだ。軽く水滴を払って、椅子に掛けて置いておく。


 男の相手をするようになってから、どれぐらい経ったのだろう。この世は存外穢れていて、大人ってのは神にも悪魔にも背いているのだと知ったのは、十にも満たないころだった。俺のこの顔と、それに似つかわしくはない固く平たい胸。昇進のため、情報のためだと嘯いて、手を這わせる背教者。それに従うしかなかった俺も、それに慣れて利用するようになった俺も、彼らと同じで人間の成り損ないだ。

 とはいえ、フランセーズと第八帝国の仲裁ができるのは、現状祖国オトマンでは俺しかいない。双方の機密情報を握り、フランセーズ大統領のご機嫌取りができる人材など限られている。存在意義など、これぐらいでいいのだ。外交官イスマーイール=ウストゥルクには自由なんて要らない。作家ではないのだから。


「なあイズマル」

 ポールはこちらに背を向けて、窓の外を眺めていた。まだ雨が降り続いている。部屋は暗いのに、明かりを付けようかと尋ねたら、拒否された。彼の手に握られたワイングラスが、鈍く薄光を反射している。

「どうしましたか?」

「私が君を気に入っていることは、前にも話したね」

 些か真意を把握しかねる発言に疑問を持たないわけにはいかないが、その通りではあるので、適当に相槌を打つ。

「君の仕事ぶりは本当に有能だ。仲裁役として非常に助かっている。勿論、私個人としても」彼は俺の方へ向き、歩みを進めた。

「光栄です」

 いつもこうだ。俺が考えて動けば、皆俺のことを気に入ってしまう。それが嬉しいと感じられなくなったのは、いつからだろうか。上着を脱いでしまったことを後悔した。雨のせいか、気温が下がっている。

「そこでだ、君はこれから私の屋敷で働かないか? 秘書のように私に付いてくれれば嬉しいのだが……」

「それは、オトマンの外交官を辞職せよ、ということでしょうか?」

「まあ、そういうことになる。私の元で、生涯働いてほしいのだ」

 予想はできたことだった。だが、受け入れられるものではなかった。祖国のためならば身を粉にしても構わないが、この人や他国に生涯を捧げるなど言語道断。一発頬を叩いてやりたかったが、今にも飛び出しそうな右手を左手で押さえつけた。なんだ、この頭に熱が籠る感じは。


「申し訳ないですが、流石に外交官を辞めることはできませんし、それに一生を一所に留まるなど私めには」

「そうか。やはり君にとってはフランセーズなど取るに足らない弱小国に過ぎない、というわけか。流石世界に名立たる中立国様、大した余裕だな」


 機嫌を損ねた──察した瞬間冷や汗が止まらなくなる。これで講和条約の話が水泡に帰してしまえば、俺の首どころか、祖国の名まで傷が付く!


「いえ、そういったわけでは……」

「ならば何かね? 宗教上の問題か? 君の国は宗教国家だって話じゃないか。他国の人間になることは、君らの神様がお許しにならないんだろう!? 君は神様って奴に洗脳されているんだからなあ!?」ポールは突然激昂して、俺の胸ぐらを掴んだ。

 洗脳? 彼が何を言ってるのか、何故突然恫喝されているのか、分からなかった。が、彼がイイススを貶していることは、焼き切れた頭でもすぐに理解できた。


「『彼』をそんな風に言うな!」


 必死に声を出した、筈だった。だが息が音になる前に、俺は壁に頭を強かに押さえつけられて口を手で塞がれていた。思うように呼吸ができない。脳がぼやけて視界が霞む。悪意に溺れていく。涙が目に染みていく。死が、死が近づいてくる。緩やかな足音と共に。


 何か切り裂かれた音がして、意識が引き戻される。首から下げた、十字架が揺れた。このまま死ぬわけにはいかない! 俺の中で誰かが叫んだ。祖国のために、帰らなければ。今すぐ。

 全力で巨体を押し退け、僅かに残っていた理性でコートを引っ掴んで外に出た。どうすれば良かったのか、考えても分からなかった。というより、今更考えても遅かった。とにかく、ヴェルヌ氏の邸宅を目指して走る。


 燃えた心臓に、銀の十字架が冷たく触れた。




 エーミールには全てを話さなかった。出来事を掻い摘んで、分かりやすく説明しただけ。俺の気持ちとか、信条とか、そういったものは当たり前のように奥深くに隠した。


「イイススは──」エーミールは何かを言いかけて、口を閉じ、また開いた。「貴方の支えなんですね」


 支え、なのだろうか。俺には、異国の御伽噺のように『彼』が俺を救ってくれるとは思えなかった。というより、俺は救われる資格を持っているとは言い難かった。俺が祖国のためにしている行為は、教義に悉く反している。しかし、俺にその道を示したのは祖国の人間だった。我が身をエゴイズムで他国に差し出しながら、反面祖国を護る英雄でいたかったのだ。英雄は神の加護を受けると相場は決まっている。では教義を守れない俺は? 喉を締めるような苦さが月を覆い隠している。


 エーミールは押し黙ってしまった俺を気遣ったのか、すみません、と小さく謝った。

「謝らなくていいよ。ちゃんと答えなかった俺が悪いし」

「いえ、気分を害してしまったのなら申し訳ないです」


 車内の沈んだ空気を変えようとして、無理に大声で伸びをした。

「外交官として生きる運命、それを誇りにして何でもしたし、自分は優秀な人間だと思ってたけど、これからどうしようかなあ。いっその事、誰かと恋をして駆け落ちでもしてやろうか」

 ははは、と乾いた俺の笑いだけが響く。エーミールは不器用で、それが彼らしかった。

「イズマルさんは、ご両親はオトマンにいらっしゃるのですか?」

「いや、家族は早くに引き離された。もう顔も名前も分からない」

 エーミールはまた謝りかけたが、途中で思い当たることがあったようだった。

「……デヴシルメですか」

「ご名答。流石、政治学専門なだけあるね」


 デヴシルメの制度を知っているなら、俺の身の上も多少察するところがあるだろう。オトマン特有の文化であり、古き良き制度である。今の俺が称するなら、どうだろうか。この制度がなければ、人生はどうなっていたんだろうかと思う。それこそ、普通に両親がいて、普通に恋愛をして伴侶を得て、普通に子供ができている生活があったのかもしれない。そして、そこにイイススはいないだろう。世界の大多数を占める無神論者の一人として生きているはずなのだから。


「イズマルさん、不躾な提案ではありますが、」

 エーミールが意を決したように口を開いた。

「我々と、一緒に行きませんか?」


「いや、俺は外交官の仕事が」

 考え、悩むより先に否定の言葉が出ていた。この時点で腹は決まっていたのに、染みついた疑念が口から零れていたのだ。

「貴方、あれだけのことをして今更仕事に戻れると思ってるんですか? 今頃大統領はオトマンに文句の一つでも言ってるはずですよ」

 珍しく強い口調のエーミールに、俺はこれまた珍しく気圧されていた。

「それに、貴方つい先ほど、駆け落ちでもどうとか言っていたじゃないですか! どうせ行く当てがないんでしょう? 我々も丁度人材が不足していますし、皆だって歓迎すると思います。我々の旅に嫌気がしたら離れればいいんです」


 俺はこんな展開をどこかで待ち望んでいた気がした。深い疑念を打ち破る、強い言葉を求めていたのだ。ギルの許可は、とか、祖国にどうやって説明すれば、とか、断る口実はいくらでもあったが、そのうちのどれか一つでも提出する気にはならなかった。


 ふと気付くと、雨が止んでいた。エーミールはワイパーのレバーを操作した。真夜中の月明かりが正面の道を照らす。

 車内の沈黙は、一つの肯定だった。

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我等が自由論、そして終ることなき闘争 悠鶴 @night-red

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