第6話 完世紀1940年6月 〈フランセーズ共和国 / Paris-Amiens〉

 私は、いつになく緊張していた。


 しかしそんな私を全く顧みず、隣のイズマルは鼻歌まじりで車を走らせていた。手馴れたものである。雨が降り出してきて、彼はワイパーのスイッチを入れた。


「他の三人も連れてきた方が良かったのではないでしょうか。せめてギルさんだけでも……」

 シートベルトを強く握る。車だから、と置いてきたが、交渉にあたって二人だけというのは、些か心細かった。

「エーミール、そんな心配しなくても大丈夫。俺がいるからね」

 イズマルはその紅顔に微笑を湛え、束の間のドライブを楽しんでいるようだった。


 この人はいつも気楽だな、と思う。彼は私より三つも年下だが、この悠然と構えた心持ちは一体どこから来るのだろう。何十人もの要人と一夜を共にすれば、私も彼のようになれるのだろうか、と考えて、己の浅薄さを恥じた。いやはや、実に失礼である。


「アミアンまで、あと一時間半はかかりそうだな。アミアンのどこにヴェルヌ氏が住んでるか、アダムは言ってた?」

 私は手元にある紹介状を隈無く調べたが、本文はおろか封筒にも細かな住所は記載されていなかった。アダムの不備か、単純に彼も住所を知らないのかもしれない。詳細な情報をくれた記憶もない。

「いえ……彼は言っていませんでした。詳細な住所まで聞いておくべきでしたね。すみません」

「まあなんとかなるでしょう。幸いにもヴェルヌ氏は市会議員だし、誰かしら知ってるはず」

 流石、外交官なだけはある。きっと方々に伝手があるのだろう。それこそ、アミアンにはフランセーズ大統領の別荘があると聞いている。大統領に聞く、という発想は並の人にはないが、イズマルならすぐに連絡がつくだろう。


「アダムさんは、やはり忙しいようですね。出版社や大学は、彼がいなくなることを避けたいのでしょうか」彼はこちらまで、手が回っていないようだった。

「言ってみれば、彼は箔の付いた権力の象徴だからなあ……。実際、彼の作風があんなでも、本が出るとなれば、フランセーズは学会で大きな顔をできる」


 私は、自分の仕事を思い出していた。私が教授になれたのは、父親が政府に口を利いてくれたからだ。そのおかげかは分からないが、研究に関して特に大学から口出しをされたことはない。国際政治学という、かなり危ない橋を渡っているのにも関わらず、だ。もし、私の父親が政府の人間でなければ、私の研究も変わっていたかもれない。否、まず大学教授にはなれなかっただろう。

 アダムはまだ院生だ。それでも、多少の後ろめたさを感じないわけにはいかなかった。

 とはいえ、自分ができることはしなければ。そう奮起して、背筋を伸ばす。鞄から本を取り出し、再び読み込んだ。これに手掛かりがある。そう思って、考えなしに書斎から持ち出してきたが、思わぬところで役に立っていた。


 『イイスス=ハリストスの謎』。H=G=ウェルズが著した解説書のようなものだが、そこにジュール=ヴェルヌがイイスス=ハリストスAI説をウェルズ氏に投じたことが記載されている。しかし、それはヴェルヌ氏の書ではないので、彼の説に関する記述はほとんどない。さらに、彼はAI説を記述した書籍・論文を表に出していない。彼の本分がSF作家なのも一因ではあるが、それ以上に、イイスス=ハリストスの非神性が強調される論を出すと、世界宗教の過激派信者に命を狙われる危険があるのだ。だから、彼の説の詳細を知るためには直接連絡を取るしかない。しかも、彼が素直に情報提供をしてくれるかは未だ霧の中であり、私たちは交渉を迫られる可能性もある。


 私の顔が青かったのだろうか、何かを察したかのようにイズマルは不意に車を路肩に止め、端末を取り出し電話をかけ始めた。ここで止めるのは危ないですよ、と言おうとしたとき、彼は見事なまでに柔和な高音で話し始めた。


「はい、イズマルです。……いえ、特にそういった用事ではないのですが……。時に、ヴェルヌ氏の住所を教えていただきたくて。…………はい、存じております。その、どちらにお住まいなのか、細かな住所をですね……。ありがとうございます。助かります。……え? いらっしゃるのですか? わざわざ来なく──いえ、是非お会いしたいです。はい。……了解です。では、また。……はい、ありがとうございました。お慕いしております……」


 大きな溜息をついて、電話を切った。先ほどより、数度低い音だった。

「もしかして、大統領ですか?」

「正解。最悪だ……丁度、彼もアミアンの別荘にいるらしい。会いたいってさ。そんな時間ないのに、断れなかった」今度はイズマルの顔が青くなっている。

「あの……ひょっとして、長くなりそうですか?」

「多分、今日中に帰れるか分からない。俺は別荘に向かわなきゃならなくなったから、エーミールはヴェルヌ氏の邸宅に泊まらせてもらったほうがいいね」

「そんなこと、できるのでしょうか……」


 イズマルはエンジンをかけて、レバーを操作した。

「大統領がなんとかしてくれるでしょう。そのための媚だ。エーミール、君にはその頭脳で、何をどう聞くべきか考えてほしい。俺はそもそも世界宗教の信者でAI説を信じていないから、そちらの方面では力になれないけど──でも、交渉に関しては任せて」

「お力添え、感謝します」


 車が動き出した。いつまで降るのだろう、この雨は。天気予報のチェックを忘れてきてしまった。


「ほら、役割分担ってやつだ」

 相変わらず、微笑を浮かべていた。




 時計を見ると午後三時。思ったより早くに到着した。雨はまだ止まない。


 ヴェルヌ氏の邸宅は、一見質素で落ち着いた厳かな雰囲気があるが、その実広々としていて暮らし向きの余裕を感じた。彼は、作家でありながら市会議員だ。戦時下のフランセーズにおいても、日々の食事に困窮することはないだろう。


 駐車場には既に他の車が一台止まっていた。黒塗りの高級車を見て、イズマルが眉を顰める。


「大統領は貴方に随分とご執心ですね……。凄いです」

 イズマルは後ろを振り返り、狭い駐車場に苦心してハンドルを操っていた。長く垂れた横髪が頬に張り付いている。

「住所教えてもらった借りがあるとはいえ、わざわざ来ることないのにさあ。なんでだろうね。怖いなあ」

 茶化して笑ったまま、エンジンを切りキーを抜いて、彼はそのまま外に出た。傘と鞄を持って、私も急いでドアを開ける。


 ベルを鳴らすと、すぐに人が出てきた。見事な髭を貯えた中年の男性だ。

「あの、こちらはジュール=ヴェルヌさんのお宅で?」

「ええ、私がそのヴェルヌです。大統領からお話は伺っております」顔つきのみならず、声までも温和な印象を受けた。

「ああそれなら話が早い。私はオトマン帝国の外交官で、イスマーイール=ウストゥルクと申します。こちらは、エースターライヒ国立大学教授のエーミール=ウィトゲンシュタイン」

 イズマルに紹介されて、私はヴェルヌ氏の手を取った。

「よろしくお願いします。お会いできて嬉しいです」

「こちらこそ、お話は兼ね兼ね伺っております。若いのにとても優秀な学者さんだとね。私でよろしければ、知っている情報をお教えしますので、さあどうぞ中へ。大統領もお待ちです」

 イズマルがフランセーズ語で話し始めたので、私も慣れない言葉でなんとか応対していた。外国語といえばNE語ばかり使っていたので、つくづく手の甲のチップに頼りきりだと思う。


 ヴェルヌ氏の後に続いて応接間に入ると、一人掛けのソファーに大柄な男性が座っていた。彼は端末を操作していたが、私たちに気づくと顔を上げた。私は思わずイズマルの方を振り返ったが、彼はにこやかな笑顔を浮かべていた。眉間には皺一つとしてない。

「おおイズマル、待っていたぞ。ヴェルヌ氏に何か用があるみたいじゃあないか。私が話を付けておいたぞ」大統領は立ち上がって応答する。

 この方がポール=レノー大統領か。写真では見たが、直接会うのは初めてだった。立ち上がると、思ったより背丈が低い。報道で聞くより多少低く、渋い声をしている。

「お心遣い、ありがとうございます。大統領も同席されるのですか? 公務には全く関係ない用事なのですが」

「そうだな、私は君に話があったのでこちらに赴いたが、君の用事を優先するので私も立ち会おうと思っている」

 それは不味い。文脈によっては、我々の計画が悟られてしまう可能性がある。まだ具体的には何をするのかは分からない。ギルが何を考えているのか、私の及ぶところではない。だが、それにしてもクーデターのような強硬手段を取るであろうことは十分に考えられる。情報漏洩は避けたい。それはイズマルも分かっている筈だ。


「いえ、それには及びません。今回の用事はウィトゲンシュタイン氏が主体です。私はパイプ役に過ぎません。ですので、大統領のお話を優先してください。私も貴方の別荘まで向かいますので」

 イズマルはこちらに目配せをして、つらつらと応えた。私は胸を撫で下ろした。彼の機転には、目を瞠るばかりだ。大統領もあからさまに機嫌が良くなった。

「それでは、君に私の車を運転してもらおうかな。私の別荘は分かるだろう?」

 ええ、とだけ言い、イズマルと大統領は部屋を後にした。すれ違った時に、イズマルが私に囁いたのは「また明日」。それだけだった。


 ヴェルヌ氏は、私だけが残った応接間にティーカップを四つ持って現れた。我々を案内してすぐ奥のほうに下がっていったが、お茶を用意してくれていたらしい。

「御自ら、ありがとうございます。使用人はいらっしゃらないのですか?」

 彼は静かにカップを二つ取り、紅茶を注いだ。差し出されたものを受け取り、香りを愉しんでから口に含む。冷えた体に染み渡るようだ。

「使用人はちょうど出払っております。夕飯時には帰ってくるかと」

「なるほど、少し安心しました。何しろ内密な話ですので」

 ああ、その話。そう言って彼は咳払いをした。

「ちょうどこの家には君と私以外誰もいないが、さて内密な、とは一体どんな話ですかな?」


 私は鞄から紹介状を取り出して、そのままヴェルヌ氏に渡す。アダムが大分こと細かく記載してくれている筈だ。彼はその紹介状を読んでいたが、しばらくしてそれを折り畳み、懐に収めた。


「アダム君とは、この間のサイン会以来だ。君は彼とも知り合いなのですね」

 私は背筋を伸ばして、居住まいを正した。

「あの、『イイスス=ハリストスの謎』という本はご存知ですか?」

「ウェルズ君の本か。まさか私の名前まで書かれるとは、思いもよりませんでした」

 念には念を押しておいて良かった。交渉は必要なさそうだ。

「貴方は、本気でイイスス=ハリストスのことを──」

「AIだと考えております」


 ゆったりとした、それでいてはっきりとした物言いだった。私は気圧されて、黙りこくってしまった。


「アダム君ほど有名ではないが」彼は沈黙を破った。「私も作家ですから。SFは軽視されがちだけれど、現実に題材が転がっている。これほど面白いことがあるでしょうか?」

 私自身SFはあまり読まないが、その考え方については興味深いと思っているし、作家自身が様々なことを勉強しているのを知っている。そして、彼らが最後に悪魔のような真理に至るのも。

「根拠はありますか?」

 私は意を決して訪ねたが、彼は溜息をついて答えた。

「根拠はありません。残念ながら。ただの想像ですが、それはウェルズ君のイイスス=ハリストス不在説も同じです。彼もSF作家を目指していた時期があってね、やはりそういう考えからは逃れられないのでしょうね」


 そうですか、と呟く私は、これからのことを思案していた。根拠がないのであれば、特に手掛かりはない。何の情報も得られなかったのと同じである。ギルは一体どう計画を進めているのだろう。仲間を見つけるのが優先だが、最終目標のようなものが薄ぼんやりしているように思える。

「何か……何か、イイスス=ハリストスについて知っていることはありませんか? 何でもいいので……」


 意気消沈した私を見かねたのか、ウェルズ氏は優しく声をかけてくれた。

「一応──噂ではあるが、ジョンファに『神の片割れ』とかいうものがあるみたいだけれども、正否は分かりません」

 「神の片割れ」? 一度も聞いたことのない単語に、首を捻るばかりだ。

「ジョンファって、アジアのですか?」

「そう。ここからは遠いし、今は内戦で悲惨なことになっている。行くのはおすすめしないよ」


 ジョンファ人民共和国はサヴィエートニクの支援で建国された、共産主義国家だ。共産党勢力と、旧来の皇帝を支持する勢力の間で、数年前から内戦になっている。国際政治学が専門の私にとってはかなり重要な調査対象だが、戦禍に阻まれて対立構造の全貌がなかなか見えないのもまた事実だ。


「分かりました。お話、ありがとうございます。研究の助けになります」

 この教授という立場は便利だ。怪しまれずに情報収集ができる。この立場であれば、ギルも利用しやすいだろう。何しろ彼は易々と動けない。

「いえ、力になれて嬉しいです。そういえば、君の連れの外交官さんは?」

 イズマルは、また明日、と言っていた。

「しばらく──いえ、もしかしたら明日までかかるそうで……。彼は大統領の別荘に泊まるそうですが、生憎私は今晩の宿を探さねばなりませんね」

 端末で近くの宿を検索しようとしたら、ヴェルヌ氏がそれを遮った。

「大丈夫です。一晩ぐらいであれば宿を貸せますよ。ぜひうちでお泊りください。使用人もそろそろ帰ってくるでしょうし」

 それはありがたい。ヴェルヌ氏の人徳に感謝しつつ、私は客室に通された。簡素だが、綺麗に掃除されている。小さな机にベッドとクローゼット。シャワーやトイレは邸宅のものを使っていい、そう言われた。

 一晩ではあるが、ぐっすり眠れそうだ。夕食も出してくれるようだし、しばらく本でも読むことにしよう。




 夕食を済ませ、客室で本を読んでいた。雨はまだ降り続いている。予報では夜中に止むのだそうだ。一人静かな時間は、私に安らぎを与えてくれる。


 食事はヴェルヌ氏とその使用人たちと一緒だった。豪華な食卓は、アダムの貧しい生活と比べると、眩しいものであった。アダムのほうが有名な作家であるのは間違いないだろうが、暮らし向きはまるで違う。曲げない信念があることで、彼がどれほど苦しんだのか、少し分かった気がした。


 ふと置時計を見ると、十一時を過ぎている。かなり長い間、小説に没頭していたらしい。『居酒屋』。ギルは何度も読んだらしいが、私は今まで目を通したことはなかった。それでも、作家本人の前で読むのはどこか気恥ずかしくて。今がちょうどいい時だろう、と読んでいる。まだまだ序盤ではあるが、とても興味深い。私の研究に通ずるところもあるだろう。

 そろそろキリがいいし、シャワーでも浴びようか。そう思ったとき、突然端末がメッセージの受信を知らせた。どうしたのか、イズマルからだ。


「した、ドアあけて」


「かえろう。はやく」


 緊急性の高いものと判断した。鞄を持って階下に向かう。急いで、でも静かに。寝ているであろうヴェルヌ氏を起こさぬように。大した荷物がなくて助かった。


 重たい扉をゆっくりと開けると、全身雨に降られたイズマルが立っていた。深い緑の目が据わっている。声をかけようとして気づいた。濡れたコートの下、シャツが破けている。胸のあたりに血が薄く滲んでいる。


「急いで、奴が来る」


 声は掠れていた。

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