第5話 完世紀1940年5月 〈フランセーズ共和国 / Paris〉

 またか。もう何回目か分からなくなっていた。外階段をとぼとぼと降りていく。ポケットのタバコを探ったが、箱の中は空だった。握り潰して、そのまま地面に捨てた。

 タバコ、買わないとな。そう思っても、金がない。食費を削ってまでタバコを取るか。本格的に、雑草のお世話になりそうだ。雑草なんかより、どこからも受け取られないこの原稿の方が、美味しいのかもしれない。


 歩き続けていたら、いつの間にか家の近くまで来ていた。セーヌ川の川端に腰掛ける。ここの丁度良い段差は僕の特等席だ。対岸にあるエッフェル塔を見上げることもできる。これ、エッフェルさんが作ったからエッフェル塔だとずっと思ってた。どうやら違うらしい。名前は旧世界の遺物から取った、とかなんとか。ああ、タバコがあればなあ。漂う不健康な煙が、あの高い塔を霞ませるのが、僕は一等好きだ。


 鞄から原稿を取り出して、もう一度読んだ。間違いない。最高傑作だ。でも、どこも受け入れてはくれなかった。怠惰だとか、不健全だとか、厭戦思想だとか。僕は、僕なりの信念を持っているし、ありのままの人間の姿を書くことにこだわっている。でも今は、勇敢な戦士の物語を書くマシンにならないと、作家になれない。戦争が始まってからもう三年経つ。ふっかけてきたのは帝国なのに、なんでこっちが苦しいんだろう。首都であっても、パリは食料が足りない。金がないと余計に飢えていく。


 タバコが無いだけ、ライターを弄ぶ。カチカチと鳴らせば、遠くの塔が目の前で炎に包まれる。この原稿、いや、この紙、燃やせないかな。紙に火をつければ、大きくなる。そしたら、本当にあの塔が燃えるかもしれない。塔が燃えたら、僕は英雄譚を書こう。機械になって、皆が望むようなお話を書いてあげよう。食料も、家賃も、タバコもちゃんと手に入るような話を。


「アダム! アダム=ウレヌー!」


 聞き覚えのある声。まさか、ずっと呼ばれていた? 振り返ると、やっぱりイズマルだった。

「イズマル、どうしたのこんなときに。外交官は忙しいんじゃないの?」

 イズマルは駆け寄ってきて、僕の隣に腰掛けた。僕は鞄の上に原稿とライターを置いた。

「丁度フランセーズに用事がありましてね。仲裁するならやっぱり中立国でないとね」

「ということはつまり、戦争が終わるってこと?」

「そうとは言いきれないけどね。大統領はどうやら、一刻も早く講和条約を結びたいみたいだ。でも野党はその気がなさそうだし、イングランドへの負い目もある。マジノ要塞で戦線が停頓している以上、逆転のチャンスがあると考える人もいる。正直、仲裁するのさえ難しいよ」


 滑らかなフランセーズ語だった。イズマルはいつ聞いても、現地民に間違えられるほど綺麗な言葉を話す。世界各国を飛び回っていて、僕は彼から色んな国の話を聞くのが好きだった。


「早く戦争が終わってくれないと、僕はずっとひもじいままだ。……はあ、余計にお腹がすいてきた。そろそろ良い時間だし、お昼一緒にどう? 久々に会ったんだし、色んな話も聞きたいな」

 立ち上がって砂埃を払うと、鞄に原稿とライターを詰めた。イズマルはにやにやしていた。

「そんなこと言って、結局俺に奢らせる気だろ? 全く、調子の良い奴だなあ」

 やっぱりバレていた。イズマルを騙すのは至難の業だ。

「いいじゃん別に。外交官ならお金余裕あるんでしょ? レストランならどこも閉まってるから、適当な店で買って僕の家で食べよう。女の子の話とか聞かせてよ」

 イズマルは困った様に、アダムは相変わらず女好きだな、と言うと歩き出した。僕もついて行く。

「元気そうでよかった。でも、あんまり思い詰めるなよ。アダムはすぐ鬱になるからさ。まあそれが、アダムの作風なのかもしれないけど」

 イズマルの顔を見上げることはできなかった。




 行きつけのパン屋は、シャッターが下りていた。安くて美味いbaguetteと、かわいい娘さんがお気に入りの店だった。シャッターで塞ぎきれてない窓ガラスから、なんとか中を覗けないかと思案したが、眼鏡をかけた黒髪の間抜けな男が、闇で覆われた店内を探ろうと躍起になっている姿がありありと映し出されただけだった。ここで初めて、自分が減量に成功していたことを知った。


「あー、アダム? ここが君の言っていたパン屋かな?」

 イズマルがおずおずと訊いた。

「そうだね……。これで八軒目だ。また贔屓の店がなくなった」

 僕の落胆が分かりやすかったのだろう。イズマルは仕方ない、と言って、自分の鞄を探った。

「お! あった」

 何が? と訊くと、イズマルはpâtisserieのような物の包を取り出した。

「パンがなければ?」

 それはbaklavaだった。僕の気分は、心做しか晴れやかになった。今は、食べ物があるだけでも有難かった。




 狭いアパルトマンの一室にある自宅に向かうと、これまた狭い廊下に二人の男がいた。ご丁寧にも、僕の部屋の前で立ち塞がっている。

 僕とイズマルの気配を感じたのか、彼らは振り返った。目が合うと、金髪の男が僕に話しかけてくる。

「アダム=ウレヌー先生でいらっしゃいますか?」

 低い声が廊下に染み渡るかの如く響いた。眼鏡の奥の、赤い瞳が蛇を思わせる。

「そ、そうですが……」

 僕は彼の発するアウラに気圧されて、咄嗟にイズマルに視線で訴えかけた。しかし、僕の期待とは裏腹に、イズマルは僕を押し退け、嬉嬉として彼らに駆け寄った。

「ギル! それにティーマもいるじゃないか! 久々だなあ。一体どうしてここに?」


 僕は馬鹿みたいに口を空けて、彼らとイズマルが何か話しているのを遠目で眺めた。ギル? ティーマ? イズマルの口振りからして彼の友人であろうことは察せられたが、この名前、どこかで聞き覚えがある。しかもつい最近か。

 必死に自身の海馬をまさぐっていると、目の前に白い手が差し出された。驚いて顔を上げると、金髪の男が立っていた。至って普通のスーツを着ているにも関わらず、只者ではないと直感させる気迫を、いとも軽々と身に付けている。


「はじめまして、先生。私はあなたの一読者です。伺いたいことがございまして、こちらに参りました」

 僕は仕方なく彼の手を取って、握手に応じた。

「貴方はギル、そしてそっちの彼はティーマという名前ですね? どうやらイズマルの知り合いであるようだけど……。失礼ながら、どこかでお会いしましたか? 名前に覚えが──」

「こちらこそ申し訳ない。名乗るのを失念しておりました。私は、ギルベルト=ビューラー。そちらの彼は、ティモフェーイ=ヨーシフォヴィチ=スヴィーニンです」


 その名前を聞いた瞬間、背筋が凍り付くかと思った。

「それって、第八帝国の、」気が付けば口走っていた。簡略化された名前に潜む重大な意味に、僕はただ指を震わせることしかできない。


 目の前の彼は黙って頷くと、口を開いた。

「そして現在は、ただの死人です」




 そこからの記憶はあまりない。


 第八帝国総統補佐とサヴィェートニク次期書記長候補は──いや、今や物言わぬ死者であったか──イズマルに連れられて僕の狭い部屋に入り、気付けば丸テーブルを囲んで談笑していた。気遣いだけは忘れなかったのだろう。僕は、きちんと彼らにエスプレッソを出していた。


 彼らの正体を知った今、イズマルが彼らと友人であるというのは、何も不思議ではなかった。イズマルは若くして、凄腕の外交官だ。僕のいた大学に彼が留学してきたことがきっかけで、彼とは知り合ったのだ。だが三ヶ月ほどして。彼は他国へと去っていった。あらゆる国で学問をするため、方々を飛び回っていたらしい。それが中立国たるオトマン帝国の方針でもある。そして、彼の留学先の一つにジュネーヴ国立大学があった。

 ジュネーヴ国立大学は帝王学で有名だ。帝王学とは、政治経済法律軍事など、国のトップになるために必要なことを包括した学問。だから世界各国の要人は大体ここの出身だし、彼らのようなお偉いさんも例外ではないだろう。イズマルはそこで彼らと出会い、ギルやティーマと気安く呼べるほどに意気投合した、というのが自然な流れのように思える。耳に入ってくる談笑を鑑みると、事実そのようであった。


「しかしお前はいつまでも若いままだな」

 総統補佐が苦笑して、イズマルの肩を軽く叩いていた。

「羨ましいならそう言いなよ。生娘みたいな風貌だけど、意外と便利なんだ」

 微笑を崩さないイズマルに、書記長候補は溜息を吐いた。

「どうせまた娼婦の真似事でもしてるんだろ? 毎回欲しい情報が手に入る保証なんて、どこにもないじゃないか」

「娼婦だって? 失礼な。今回の任務ではフランセーズ大統領と食事に行っただけです!」

 心外だ、とでも言うように語気を荒らげたが、総統補佐は鼻で笑った。

「どうせ嘘だぞ。こいつの悪い癖がそう簡単に治る筈はないからな」

「そんなことはないよ! この曇りなき眼を見てから言ってくれます? ねえアダム、嘘じゃないよね?」

 突然話を振られて驚いた。イズマルの目を見ると、必死で『合わせてくれ!』と言っているようで、真実を知っている僕は吹き出してしまった。

「それじゃあ、なんでさっき『大統領の尻の痣は大和皇国の形だ』って爆笑してたんだ?」

 途端に二人も吹き出して、イズマルだけが真顔で僕を殴った。空きっ腹に拳はこたえる。


 その場は大変愉快ではあったが、痛みのお陰で、イズマルの遊び癖や大統領の尻のような、どうでもいいことを話している場合ではないのを思い出した。ずれた眼鏡を掛け直し、姿勢を正して切り出す。

「お楽しみのところ申し訳ありませんが、そろそろなぜこちらにいらっしゃったか、お訊きしても?」

 総統補佐は、目尻を拭って軽く咳払いをした。


「唐突に申し上げますが、先生は建国に興味はおありですか」


 建国。突然言い渡された壮大な単語に、どうしようもなく口篭る。

「それは、歴史書の話でしょうか」

「そうですね、これから歴史に刻まれる、と言えばその通りかもしれません」

「と、言いますと……」


 総統補佐は襟を正した。書記長候補もイズマルも、真剣に耳を傾けている。

「我々で、国を作るのです。理想の、自由の国を。この、思想が弾圧された世界を、変えたくはありませんか?」


 思想が弾圧された世界。


 そうだ。


 この世界は、そしてこの国は、天高く飛ぶ想像の翼を切り落とすことに、異様なほどの執着を見せた。僕の脳髄に、何度も何度もかけられた言葉が、どうしようもなく染み付いている。


『先生の作品は素晴らしいんですがねえ……。尖ってるんですよ』

 はい。

『僕はいいと思うんですけど、何せ戦時中ですからねえ。この描写は恐らく、敗北主義だと見なされて、検閲に通りませんよ』

 その通りです。

『なんせ、先生の代表作の『居酒屋』でさえ、不健全だとか何とか言いがかりをつけられて絶版になりましたから。嫌な時代になりましたねえ。自由なんてあったもんじゃない』

 そう、自由がないですね。

『まあ、とにかく、先生の作品は素晴らしいんで、なんとか検閲に通るものをお願いします』

 分かりました……分かりました?


 いいえ、分かりたくない。

 検閲。検閲に通るもの? それで、それでいいのか? 文学は、それでいいのか? フランセーズは、それでいいのか?


 自然主義は、自然の事実を観察し、「真実」を描くためにあらゆる美化を否定する。そして、実験的展開を持つ小説のなかに、自然とその法則の作用、遺伝と社会環境の因果律の影響下にある人間を描き見出そうとする。だから、検閲に通るような「美談」は「真実」ではない。このままだと、自然主義の故郷で自然主義が息絶える。否、


「このままだと、僕の主義が殺される!」


 ああ、そうだ。


 僕を産んだ母なる国家が、毎夜ナイフを持ってこちらを見つめてくる。それは思想を殺すナイフだ。僕は怖くて、意味もなくタバコを吹かす。薄明を見て、ようやっと安堵して眠りにつく毎日。酒に溺れ、酒を買う金もなくアルコールを舐める。なくならない隈。折れたペン先。もう嫌だ。最低だ、こんなの。


「分かりました」


 曇ったような、地を這うような声がした。はっとして顔を上げる。僕は、叫んでいた? 総統補佐は、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

「我々の国は、先生の主義を尊重します」

「本当に……?」


 微かな光明が見えた気がした。薄明より、確かな感触があった。これを逃せば、この先一生、僕は後悔し続けるとすら思った。


「我々に協力し、建国に至れば、その時は──」

「僕は何をしたら良いでしょう。……いや、何もできないのですが」言葉が尻すぼみになる。

「先生は、書いてくだされば結構です」

 しかし彼は、小気味好いほどに、きっぱりと言い切った。


 何もできない自分が、唯一できること。それは、書くことだった。


「先生の自由に書いてほしい」

 男の眼差しは、真剣そのものだった。


 返事はそう、ただ一つしかない。

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