第4話 完世紀1940年5月 〈エースターライヒ共和国 / Wien〉
涼しい風で目が覚めた。心地良い光が窓から溢れ出ている。出発には丁度良い。二階の窓から見る森はやはり鬱蒼としていて、逃亡者としては、この館は非常に有難かった。今はもう、死者ということになっているが。
帝国から逃亡して、その日からずっとエーミールの館に居候している。俺とティーマは二人とも秘密裏に追われていた。しかし、三月末のニュースで、二人とも死亡したと発表されたのだ。その知らせを受けて、三人で笑い転げたものだ。恐らく、捜索が打ち切りとなり、存在自体を抹消することに決めたのだろう。その方が、帝国としてもサヴィェートニクとしても都合が良い。サヴィェートニクの方は、唯一の跡継ぎが居なくなってしまったが、ティーマは父親に反発していたようだし、いずれそうなる運命だったのだろう。しかし、反発していると言いつつも、父親に貰ったヘリを使い続けるのは、ティーマらしいと言えばティーマらしい。
死亡したことにされたのは、俺たちにとってもまた都合の良い事だった。四月になると、堂々と街に出かけられるようになった。基本的に一般人には顔が割れていないし、エーミールに貰った服に着替えて、念の為と眼鏡をかければ、心配は全くなかった。第一、総統補佐官時代が目立ちすぎていたのだ。勲章だらけの軍服に、珍しい赤い目とくれば、特定も容易い。ティーマも、軍服でなくなった瞬間に一気に地味になった。
そのおかげで、情報収集が可能となり、俺達は計画を練った。優秀な人材をどう集めるのか。どのようにして国を創るのか。容易いことではなかったが、三人寄れば様々な意見が出る。糸口は掴めた。
大きく伸びをして、スーツに着替える。ベッド脇の時計をちらと見ると、丁度六時だった。八時頃に出発すれば、十二時にはフランセーズに着ける筈だ。顔を洗い支度を終え、階段を降りれば、食堂から香ばしい匂いが漂ってきた。エーミールは今日、何を用意してくれているのだろう。
「あ、おはようございます。今作ってるので、少し待ってもらえませんか?」
俺を見かけてエーミールが話しかけてきた。手元にはフライパンを持っている。いつもと同じwurstだった。
「ティーマはどうした?」
「あれ? そういえばまだ見てませんね。寝ているんでしょうか。几帳面な彼にしては珍しいですね」
本当にそうだ。ティーマは必ず六時には起床している。エーミールも早起きで、いつも最後は俺だ。ティーマのことだから、黙って外に出かけるということもないだろう。今日は出発の日だというのに……緊張して眠れなかったのだろうか。
「俺が起こしてこよう」
そう言い捨てて階段を駆け上がる。エーミールが何か言っていたが、よく聞こえなかった。
ティーマが寝泊まりしている部屋のドアをそっと開けると、白い布団にくるまって寝ている大男がいた。やはりまだ寝ていたのだ。布団を剥ぎ取ってやろうと思い至り、近づく。顔を覗き込むと、真っ青だった。苦しそうに息をして、呻いている。何かを、譫言のように口走っている──。
気付けば、俺は立ち尽くしていた。ティーマは何と言っていた? 『殺さないで』。何度もそう呟いていた。ただの寝言かも知れない。気にする必要はない。だが、不安が消え去ることはなかった。
「ティーマ」
少し声を張り上げる。すると、先程までの状態が嘘であったかの如く、ティーマは目を覚ました。大きく欠伸をして起き上がる。
「ギルが起こしにくるなんて、珍しいこともあるもんだなあ」
ティーマはそう言いながら目を擦ると、ベッド脇に置いてあった眼鏡をかけ、時計を見た。
「あー、ごめん。俺が遅かったのか」
平然としている。ティーマは普通に着替え始めた。もう朝食できてるぞ。そう言って部屋から出ようと背を向ける。
「ティーマ。あれは──」
「ん?」
「いや、何でもない」
詮索はよそう。そう決めて階段を降りていった。
食事を終え、支度を済ませ、もう出立する時刻となった。エーミールは館のロックを厳重にかけ、俺達は森の中に隠してあったヘリコプターに乗り込んだ。ティーマが操縦席に座り、ヘリはゆっくりと浮き上がる。勿論、ステルス機能も忘れてはいない。
「今日向かうのは確かフランセーズでしたよね。ギルさんの知り合いに作家さんがいらっしゃるんでしたっけ?」
エーミールは今日会う人物に関してあまり詳しくはない。ティーマも同様だ。
「知り合い、というよりは俺が一方的に知っているだけだがな。アダム=ウレヌー。フランセーズの自然主義作家だよ。名前ぐらいは聞いたことがあるのでは?」
「ええ。フランセーズを代表する作家ですよね。その方とお会いできるんですか」
「まだ、仲間になるか否か保証はできない。それでも、俺はアダムなら協力してくれると踏んでいる」
ティーマは、運転しながら俺達の会話を黙って聞いている。
「そうですか……。しかし、妙ですね。確か彼の代表作は絶版になっている筈です。フランセーズを代表する作家ならば、何故絶版にまで追い込まれなければならないのでしょう。売れていないということはないでしょうし……」
「アダムの代表作『居酒屋』は、検閲にかけられた。彼の作風は基本的に厭世思想だ。年々戦況が厳しくなるフランセーズ政府にとって、彼の作風にあるような思想は、最早敗北主義でしかない」
頬杖をついて、遠くの景色を眺めた。綺麗に晴れ渡る青い空。遠くに見える石造りの要塞。停滞した戦線。フランセーズとの国境はあの辺だろうか。彼はパリに住んでいるが、「花の都」に似合うほど華やかには見えなかった。少なくとも、写真では。疲れた顔をしていた。フランセーズの庶民は飢えで苦しんでいると聞く。彼もそうなのだろうか。
「でもその思想に、俺は共感したんだ」
手に握られた『居酒屋』。その表紙に貼られた、「絶版」のシールを剥がした。
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