第4話
十年後、オレが仕事から帰宅すると、五人目の赤ちゃんに母乳をやりながら笑美子はボーっとしていた。結婚してから毎年のように妊娠出産してくれている。教義で避妊ができないのと、オレが愛するのと、笑美子が妊娠しやすい体質もあって絶賛大家族だ。
「うあーん、うわーん」
「あーん、あーん」
二歳と四歳の次男と次女が泣いている。母さんがあやして、義母も手伝いに来てくれる。二人とも宗教の話は触れないようにしている。赤ちゃんの夜泣きによる寝不足でボーっとしていた笑美子の瞳がオレを見る。
「………あ……お帰り……雄治……」
おっぱいを出したまま、ようやくオレの帰宅に気づいてくれた。
四十年後、13人の子育てが終わってオレも定年退職し、夫婦二人でキャンピングカーを使って日本全国を旅している。出産、授乳、オムツ、保育園の行事と役員、小中の行事とPTA活動、受験、それだけで笑美子の予定は埋まった。おかげで礼拝への参加は遠のいているし、手伝いに来てくれた義母も日曜日の礼拝を欠席してくれることが多かった。その義母も去年、永眠した。文字通り永い眠りにつき、復活のときを待つわけだ。母さんも他界した。ちゃんと三回忌もやったし大丈夫だろう。
「ここが天主堂か」
「本当に爆心地から近いのね」
笑美子と長崎に来ている。坂を上り原爆の爪痕を観光する。オレが考えるに、ここほど神への皮肉になる場所はないだろう。戦国からのキリシタン弾圧にも関わらず一部で信仰を守っていた九州の長崎、明治に訪ねてきた宣教師たちが奇跡とも言った信仰の生き残り、開国を強いて経済と宗教の両面で侵略できるようになって堂々と長崎の街を見下ろす位置へ天主堂を建て、あの日も信徒たちが神父へ懺悔していたのに、彼らもろとも薙ぎ払った業火。しかもB29の当初の攻撃目標は小倉だったのに天候不良で長崎に変更。なあ、被爆マリアさん、神っているかね、いるとすれば至極冷笑的な存在だな。
「………」
オレは天主堂の片隅にある壁に嵌め込まれた焼けたマリア像を冷笑的に見つめた。それから笑美子と天主堂の奥へ進む。ここはカトリック教会だが、広くキリスト教徒であれば奥まで入場して祈ることができる。一般の観光客は手前までだ。
「あなた、祈りましょう」
「ああ」
笑美子といっしょに祈りのポーズを取った。いつも通り目を閉じようとすると、笑美子が言ってくる。
「あなた」
「ん?」
「私は、あなたと出会えて幸せでした」
そう言う笑美子の髪は美しい白髪で、黒髪を茶髪に染めなかったように、白髪も黒に染めないので自然な美しさがある。奥飛騨の雪のように白くて、絹が川になったようにキレイだ。だから応える。
「ああ、オレもだよ」
「では、そのことを心から神に感謝する祈りを捧げませんか。楽園できっと再会できるように」
「………。わかった。祈ろう」
生まれて初めて、オレは真剣に神へ祈った。
終わり
恋した乙女は神様の言いなり 鷹月のり子 @hinatutakao
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます