「よし」


私は最低限必要な調度品のみが揃った簡素な部屋で、大きく伸びをしてから呟く。


パソコンを立ち上げる。しかし、最近調子がよくないのかなかなか立ち上がってくれない。その時間を活かして冷蔵庫から昼食のサンドウィッチを取り出し、包装を剥がす。


聞き慣れたペリリという音とともに、中身が垣間見える。立ち上るのは、ほのかな食パンの香りと、マヨネーズの匂い。何度も嗅いだそれに、今更ワクワクすることなどない。


ここ二週間ほど、ずっと同じ食事を摂っている。家のすぐ近くのコンビニの、ベーコンレタスサンドだ。それでも決して飽きが来ないのは、もう既に食事に関する関心が失われてしまっているからだろう。


一瞬たりとも食べる行為に関心を向けないまま、食事を終える。その頃にやっとパソコンが立ち上がってくれた。起動を知らせる画面すらもどかしく、意味もなく何度もマウスをカチカチやってしまう。


「あーもう、早く」


焦れた声に反応したかのように、ようやくホーム画面に遷移した。そうして、すぐさま開くのはメールアプリ。一通の新規メッセージを確認した。胸が踊った。


---


あの出来事からおよそ2年が経った。


私が私の罪と本当の意味で向き合い、そして生きることを選択した日。それからの日々は、表面上穏やかだった。薙羅と同棲生活を始め、ほとんど専業主婦のような生活を送っていたからだ。


元の日常を取り戻すことはできないけれど、ふたりで紡いでいく穏やかな日常はきっと掛け替えのないものだった。


ただ、内心は穏やかであるはずもない。死ぬことを決意してからの二日間のように、自傷に走らなければならないほどの追い詰められ方ではなかったが、常に心の奥底で葛藤があるのだ。


──私は生きていていいのだろうか。


一度「生きる」と結論したところで、その問いは簡単に消えてはくれない。自分の罪を思い出すたび、胸を焦がすような痛みと苦しみに、じりじりと炙られているような、そんな日々。


時には薙羅に当たることもあった。「死にたい」と衝動的に喚いてしまうこともあった。でも、それでも薙羅は私を見放さなかった。どれだけ当たられても、何をされても穏やかな笑顔で散らかった部屋の片付けをし、優しく抱きとめてくれる。


それはとてもありがたいことだったけれど、同時に残酷なことでもあった。彼が私を赦す度に、自分が惨めに思えて仕方がなくなってしまうのだ。


薙羅はすごく優しい。でもなんでそんなに優しくしてくれるのかがわからない。私はこれまで、人に愛される経験をあまりしてこなかった自覚がある。そんな中で、やっと手に入れた暖かいはずのそれは、どうしても奇妙で信じがたい間違いのようにしか映らなかったのだ。


私は、なぜこんなにも卑しい人間なのだろう。薙羅と触れ合うたびに自分が化物に変貌していくような錯覚に苛まれた。いや、あれだけ人を殺しているのだから私は既に化物に違いない──そんな連鎖的な思考が、止まらなかった。


そんな生活が一年ほど続いたある日、私は彼に別れを切り出した。


「もうダメなの。薙羅くんといると甘えてしまうし、どんどん自分を嫌いになっていく」


「そんなことを思う必要ない。僕は、君が好きで、一緒に居られるだけで幸せなんだ」


「ごめん、私が、もう限界なの。薙羅くんには悪いと思っている。あの時も助けてくれて、今だって……。でも、それに応えられないこの現実に、押し潰されちゃいそうなの」


「それなら、しょうがないのか……。確かに最近生喜ちゃんはとても苦しそうだったから」


そんなような会話を、実際には何倍も何十倍も時間をかけてした。それは身体が千切れそうなくらいの痛みを伴ったし、心臓が潰れてしまうんじゃないかと思うくらい苦しかった。


けれど、そうしなければ、ならなかったのだ。


ただ、彼が最後に言った


「本当に死んじゃ、ダメだよ。僕が最後まで君の存在を肯定するから。君が居ていいんだって、証明してあげるから」


という言葉は、一生忘れられないだろう。それどころか、その言葉がなければ、私はとうに死んでしまっていたのかも。別れて尚、私は彼に助けられ続けていた。


そんな別れを経て、私は今ひとりで暮らしている。


家賃が安い田舎に移り住み、ネット上で記事を書く仕事をもらいながら、質素な暮らしを重ねている。もう、誰かと関係を築くのが、怖かった。どこかで仕事を見つけて働けば、誰かと関わることになる。そしたらまた私はその人たちを傷つけてしまうのかもしれない。だから、リアルでのコミュニケーションから距離を置いた生活をしている。それなのに人恋しくて、オンラインゲームやSNSで友達を見つけてつながりを求めてしまっているのは、なんだか自家撞着みたいだけれど。 


しかも、友達の中でも一際仲のいい同性の友達がおり、その子とはメールで交換日記のようにやりとりをするまでになっている。でも、それが唯一生活の励み──生きる活力なのだ。どうか、この矛盾を許して欲しい。


---


「やっと送れたー!」


友人へのメッセージを2時間かけて送り終え、アプリケーションを閉じる。


メッセージだけならアプリケーションをスマホにインストールすればいいだけなのに、パソコンでのみネット上の友人とやりとりをしているのは、その次の作業がパソコンでないとやりにくいからだ。


「今日も、書かなきゃ、だよね」


メッセージを送るのにたっぷりと時間をかけてしまうのは、どうすれば傷付けないかを考え、慎重に言葉を選んでしまうから。そして、その後の日課が、先送りにしてしまいたいほど憂鬱なことだから。震える手でマウスを動かす。wordを立ち上げる。そこには、これまで書き連ねた文章がずらりと並ぶ。


この生活を始めて2カ月ほど経ってから、私は新たな試みを始めていた。それは、小説の執筆である。小説というより体験談を書いているといった方が正確だろうか。あの事件を振り返り、文章として認めているのだ。記憶は、ひどく頼りにならず、時が経てば風化もするし、消え去ってしまう。それどころか私以外は私が体験した記憶を知ることもできない。


それは、ダメだ。私は私の罪と対峙するために、今一度瘡蓋かさぶたを剥がして血を流さねばならないのだと、そう思った。だから、書いている。あの日常に紛れ込んだ雑音と、私自身の話を。


書いている途中で何度も気持ちが悪くなったり目眩がしたりしてしまうから、進捗はそれほどよくはない。けれど、その時感じた感情と、私が引き起こしたすべてを余すところなく記述するのが、今私が唯一できる生産的な償いなのだ。


殺人の門を開き、その先の道をひた走るのは一瞬だった。だけれど、その門まで引き返す道はひどく険しく、それどころか、戻ることはかなわない。それでも一歩でも門の近くまで引き返すために、険しい道を登っていかねばならない。


徒労なのだろうか。自己満足なのだろうか。わからないけれど、それが薙羅の指し示してくれた道だから。


唯一の活路なのだから──。


私はこれからもきっと、罪を犯し続けるのだろう。生きるだけで罪深いのだろうが、それ以外にもきっと大小さまざまな罪を犯し、人生を歩んでいかねばならない。


けれど、彼が一度くれたあの温かさがきっと私を導いてくれる。それだけは、信じていたかった。


「うっ」


そんなことを考えながら文章を連ねていると、猛烈な吐き気に襲われる。トイレに駆け込み、嘔吐した。


胃の中のものをすべて出し終えると、胃は悲しいくらいにキリキリ痛んだ。


口の中に残る嫌な味を洗い流すために、洗面台へ向かう。手で水を掬って、何度も口をゆすいだ。それでも妙な酸っぱさが消えてくれないので、冷蔵庫からお茶を取り出し、一息に飲み下した。


その一連の流れはあまりに無様で、とても苦しくて、悲しかった。


ふと部屋に視線を遣ると、外から差し込む夕焼けが、穏やかな橙をフローリングに映していた。


変な笑いとともに、目の端から少し涙が溢れた。


生きていると、そう思った。

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