「薙……羅……?」


あまりに突然のことに、脳は状況を処理するのをやめているようだった。なぜ彼がここに?そもそもどうやってここに?何でわかったの?罪が知られちゃう?どういうこと?どういうこと?


いくつもの「?」が脳内を占めるけれど、そのどれもが明快な答えを得る前に消えていく。


「おい、どういうことだ」


少年は、先ほどの剣呑けんのんさを再度引っ張り出してきて薙羅を威嚇している。


それに対して薙羅はさりげなく私を胸の中に引っ張り込み、前から抱きしめ直しながら負けじと言い返す。


「見ていたんだ。この夢を」


「見ていた……?」


「あぁ、生喜ちゃんがヒロコさんを殺したシーンを夢の中で見た。断片的だけどな。その時はただの夢程度にしか思っていなかったけど、ヒロコさんの死と生喜ちゃんの様子を見て、もしかしたらと思うようになった。でも生喜ちゃんをどれだけ探しても、どの病院を見てまわってもいないし!LINEの返信はくるけどさぁ……どれだけ、心配したと思ってんだよ」


途中から、ほとんど涙声になっていたそれは、私の胸にじんわりと染みた。彼が必死で街を走り回って探してくれている姿を想像し、胸が痛くて、でも暖かくて。


「ごめん……」


「あとで死ぬほど謝ってもらうから、今はいらない」


そんな会話を切り裂くように少年は、憮然ぶぜんと言う。


「で、どうするんだ。これは彼女の希望で、彼女が引き起こした状態だぜ。いかにも俺が悪いみたいな構図だけれど、俺はそれをかなえてやったに過ぎない」


それはその通りだった。私が引き起こした結果。私の罪。私の殺人。それを何とか償おうと用意されたのが、この状況なのだ。


「そうなの。これは私の罪。だから、終わらせなきゃ」


「終わらせるってどういう……そうか、そういうことか」


薙羅は寝台に眠るもうひとりの私に目を向けて──気付いたようだった。


「あのさ、死んでも罪って消えないよ」


「わかってる。でも、それでも少しでもその償いをするために、私は」


「それは、逃げだよ。罪は、生きていても雪げるものじゃないけれど、生きていなければ一切償えないものなんだと思う。だから、ここで死んでも、何も生まれやしない。向き合わなくちゃ。無様でもなんでも生きて、がむしゃらに毎日反省して、謝り続けて、それでも生きていかなくちゃ。人を殺した人間として生きることが、唯一の活路なんだよ。それをみすみす捨てて楽になろうとするなんて、ただの逃避でしかない」


彼の言葉が、チクチクと胸に刺さった。その通りなのかもしれない。私は罪を自覚して、その重さと苦しみを知って、生きることが嫌になって。それで──。


私は、ことここに至っても自分のために死ぬことを、他人に転嫁していたのだろうか。わからない。


今度は少年が言う。


「長大なスピーチ、心に沁みたよ。だけれどね、人間は理屈で言うほど強くない。雪げるかわからない罪を背負って生きていけるほどに強くもなければ、十字架を背負ってのうのうと生きていけるほど傲慢でもないのさ。だってそうだろう。彼女が誰かの大事な人間を奪ったことは紛れもない事実だ。その人を喪った周りの人は彼女に対して生きていて欲しいだなんて思うんだろうか」


「でも、それでたとえば生喜ちゃんが死んだとして、その周りの人の痛みは消えるのかよ。果たされた復讐を後から懐古して、もしかすると『私も同じことをしてしまったんじゃないか』って第二第三の連鎖を生むんじゃないのかよ!……正直、俺だってわからない。何が正しいかなんて。でも、それでも俺は生喜ちゃんに生きていって欲しい。茨の道かもしれないけど、それでもここで死んで欲しくないんだ」


「何だ、結局ただの感情論じゃないか。わがままじゃないか」


「あぁ、それでいい。でも感情が理屈を超えて何が悪いんだ。死んだらそこで全部が終わる。もしかしたら遺族は生喜ちゃんが殺したことを知ったら乗り込んで殺しに来るかもしれない。そしたらもっと悲惨なことになるのかもしれない。でも起こらないのかもしれない。結局何が正しいかなんて、どれが後悔ない選択かなんて、今誰にもわかりはしないんだ。それを先送りにして、もしそれでもダメなら一緒に死んでやる。それくらいの覚悟を、俺はしている。それだけだよ」


「あはは!めちゃくちゃな理屈だ。君は他の人間はどうなってもいいから彼女に生きていて欲しい、そう喚いているだけなんだぜ。自覚はあるのかい?」


「そういうつもりで言ったわけではないけれど──そうなるのかもしれないね」


少年は、冷静さを段々と取り戻しているかのように見えた。


「それは理論ですらないね。完全に破綻している。暴論だと言ってもいい。これまでのすべてに横車を押すような理屈だ」


「自覚はあるよ」


太々ふてぶてしいことこの上ないな……。だが」


そこで、少年は観念したかのような表情を浮かべた。


「残念ながらもう僕には切れる手札がない。実のところ僕はそこで横たわっている“彼女”に干渉できないんだ。僕のできることはあくまで『願いをかなえるだけ』だからね。つまり、君の心ひとつだというわけだ」


少年は息を大きく吸い、私を射すくめる。引き込まれそうな瞳だった。


「さぁ、君はどうするんだ」


私は涙を止めることができなかった。感情はしっちゃかめっちゃかだったし、理屈もわからない。ただ、この決断がどれだけ重大なのかだけは本能が感じ取っていた。


どうなんだろう。私は、何を思うのだろう。一度生きるのを諦めた身で。何度も死ぬのを恐れた身で。


何が正しいのか──その答えはどこにもないように思えた。どちらを選んだところで私が罪を犯した咎人である事実は変わらず、それはさながら泥のようにまとわりついて消えてくれないことだろう。


ならばこの瞬間に人生を終わらせてしまうか──。


黒々とした思考に落ちていきそうになった瞬間、全身を包み込む温もりが私に思い出させる。生への執着を。生きたいという渇望を。


身勝手かもしれない。それでも信じてみたいと思った。彼の言葉を。生きたいと叫ぶ自分の心の声を。


「ごめんなさい。私、まだ死にたくない」


「何でだい?」


「私は、生きることで罪を償っていかなければならないと、そう思ったの」


「それは、君自身の言葉かい?彼の言葉でなく」


「薙羅がくれた言葉だけれど、私の言葉になったの。だから、ごめん」


少年はいっそ清々しげに頷いた。


「まったく……仕方がないな。委細承知したよ。とんだ骨折り損だったっていうわけだ。それじゃあ僕は消えるとするよ。ただ、最後にひとつ言わせてもらいたい。まぁ引かれ者の小唄だととらえてもらっても構わないが、金言だと思ってもらえると嬉しいよ」


私は頷く。薙羅も制することはしなかった。


「これまでの惨劇は君自身が引き起こしたことだ。僕は君の感情を揺さぶったり増幅したり、それをかなえる手段を与えたに過ぎない。だからこれは紛れもなく君の罪だ。トリガーとなる暴力性は、これからも君の中に存在し続けるだろう。今回はこれで消えるけれど、君がもし願えば、僕か、あるいは僕に類する何かがまた現れないとも限らない。それを覚えておくことだね」


そう言うと、彼は手を大きく叩く。


視界が、暗転した。


---


意識が次第に覚醒していく。それはひどく疲れていた時にとった深い睡眠から浮上する感覚に似ているけれど、倦怠感はなく、むしろ開放されたかのような清々しい感覚だった。


スマートフォンを手に取る。LINEを開く。もちろん誰に対して電話をかけるかは決まっている。


何を話そうか。何から話そうか。やっと、本当の意味で私は人と向き合えるのかもしれない──通話をかける指がひどく震えた。


---


「結果から言うと、我々はあなたを逮捕できないんですよ」


安田がパイプ椅子にもたれながら言う。


私は薙羅と相談した結果、警察に自首することを決めた。これまで私は罪を誰かに委ねる訳でもなく、自分自身の死を以て自分自身の手で裁こうとしていた。そうではなく、司法の手に委ねるのが一番正攻法だろうという薙羅の意見を採用した形だ。


これまで、自分の罪を誰かに知られることを極端に恐れてきた。それによって周囲の見る目が変わるのが死ぬほど怖かったし、それを自分の関与できないところで裁かれる恐怖は想像するだけでも鳥肌が立つ。


だけれど、本当の意味で裁かれるためには自分でない人に公表し、どうにかしてもらうしかないのだ。


だから、これで初めて己の犯した罪に対して罰を与えてもらえる──そう思っていたのに。


「何せ、証拠がないんですよ。いや、それも少し違いますね。“あなたが殺人を犯せない証拠”しか出てこないんです。たとえばアリバイにしてもそうですし、手の痕だってそうだ。自首してきたとはいえ、犯人を庇って出頭してきた可能性だってある訳です。だから、逮捕したくてもできないんです」


すべてを打ち明けた私に対して、安田は諭すように語る。


「でも、それでも私が殺したんです!私が──」


「美月さんを殺害したと目されている男性が自殺をしたのはご存じですか?」


「……いえ」


「いろいろ思うところがあったんでしょうね。勾留中だったのですが、死体が警察署内で見つかったそうですよ」


「そんな……」


「実際、組織としてはそいつが犯人で気を病んで死んでしまった──というシナリオが一番都合がいい。死人に口無しってなもんで、いろいろと楽になりますから」


そんなことってあるのか。私が裁かれずに、無関係な人が苛まれて死に、それすら追求されないだなんて──殺人行為以上の罪を犯しているのだという事実に暗澹とする。


「けれどね。私は正直今でも反対ですよ。組織をうまく回すために警察になったんじゃあないですから。真実を究明し、糾弾するために私たちがいる訳で──って、あなたの目の前で言う話でもないのかもしれませんがね」


そう言って安田は、白い歯を見せて笑う。


「実は初めてお話しさせていただいた時──骨皮さんの時ですね、あなたが犯人なんじゃないかと勝手に思っていたんです。直感的に『あ、この人かも』と。今からすると後付けになっちゃいますけど」


「いえ、それはなんとなく感じていましたから」


「だから今日こうしてあなたが現れた時、やっぱりなと思って。で、話を聞いてなるほどな、と。正直夢殺人云々は眉唾だと思います。けれど、それでしか私が納得できる説明にはならないんですよね。消去法的に信じなければ行けなくなった訳です。でも、私はあなたに手錠をかけられない。だったらもう言えることなんてこれくらいしかないじゃないですか」


安田は、これまでの軽やかな雰囲気を引っ込め、神妙な面持ちをする。


「生きてください。生きて、反省し続けてください。法律は罪を犯した人を追い詰めるために存在している訳ではありません。裁くためにあるんです。だから、生き続けて、苦しみながら裁かれ続けてください。それが、今日罰を求めてここを訪れたあなたに私が唯一課せる罰です」


そう言うと安田は立ち上がり、取調室のドアを開けた。




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