家主の顔色

 書類の束を睨みながら、いつにも増して顔色の悪い家主が部屋から出て来た。仕事から帰って一番に見た光景である。


「何処行くアルか」

「ん? ああ、おかえり、リンさん」

「……ただいま」


 いつも彼はこうして挨拶を欠かさない。育ちが良いのか外面かの区別がつきにくいが、気分は良いのでそれは良いとする。それでも穏やかに微笑みながら、優しい言葉を吐きながら、いつだって警戒は緩めず動向は確認されているのにリンは気付いていた。

 とにかく、今問題なのはそこではないのだ。


「何処に、行くんだ」

「は? いや、別館に……」

「なるほど、別館があるのか」

「ああまあ……ってリンさん? 口調が作れてないようだけど?」


 家に居る時間は少ない。それを抜きにしてもあまり他人にウロウロされて気分の良いものではないだろうと、家の中でリンが動く範囲は限られている。だから、別館があるというのも初耳だった。

 にこり、と笑みを乗せてみる。疑問符の浮かんだような表情でにこりと微笑み返された。


「書類の束を片手に視界を狭めて? これから夕食だという時間に? 今にも倒れそうな顔色をして? 別館?」


 分かっている。青水の顔色は、いつだって悪い。それでもその顔色の悪さに段階があるのは分かったし、風や他の住人の様子からリンが来てからでも何度か倒れているのも分かった 。

 ここまで分かれば経験上倒れる前の顔色というものが大体分かる。まさに今がその「倒れる前の顔色」だということも。


「部屋へ戻れ」

「リ、リンさん?」

「聞こえなかったか? 部屋へ戻れ」


 執務室の奥に寝室があるらしいのは、これまで見てきた中でも気付いた。

 背後に気配がする。立ち止まって様子を見ていることから、恐らくは桜波あたりだろう。


「いい加減、倒れるまで仕事をするのはやめろ。そんな顔色で人目につかない場所へ行くな。部屋で休め。端的に言えば、寝ろ」


 歩み寄って、手を伸ばす。呆けたままの青水の胸倉を引き寄せて、高い位置にあった頭を自分の肩口に埋めた。


「わ、ちょ、リンさん!?」

「あまり心配をかけるな」


 ぽんぽんと軽く背を叩いてやる。どうせ今立っていられるのは、リンが目の前に居るからだろう。いつまで経っても外面しか見せない青水は、リンの前では気を張りっぱなしだ。それが今倒れない原因なら、良かったのか悪かったのか。

 ほ……と、彼がひとつ息を吐いたのが分かった。


「あのー、この体勢、ちょっとキツイかなー」

「だったらすぐに寝に行け」

「……ハイ」

「オウハ、主治医は呼べるアルか?」

「! あ、はい、すぐに!」


 ぱっと青水の背中から手を離し、すごすごと部屋へ戻る様子を睨むように見ながら後ろの人物に声をかけると、どこか戸惑ったような返事が返った。

 執務室の中でちらりと青水がこちらを見やる。この状況下でよもやまた仕事を始めようなんてことはないよな、と圧をかけるようにまたにこりと笑う。はあ……と深いため息をついた青水は、書類をパソコンの脇に置いて奥の部屋へと入って行った。

 パタリと執務室の戸を閉め、リンは自室へと向かう。こんな調子では夕飯どころではないだろう。外出でもするか。

 ……否、ここまでの流れを主治医に伝えるべきだろうか。これまでにも何度も同じようなことがあったし、主治医も把握していると考えて良いだろうが、それにしても伝えるべき情報はあるだろう。ならばやはり、このまま放置して出かけるわけにはいかない。

 考えていると、玄関が開く音に気付いた。今、この家の住人で外出していた者は居なかった筈だ。とすると、主治医が訪問して来たと考えるのが妥当だろう。

 すぐに慣れた足取りで階段を上がって来たその人物は、おおよそ医者とは思えない姿だった。白衣でない、だけならいざ知らず、そもそも着物だ。いや、着物? コレは何という種類の衣服だろう。白くはあるが。袖口は広く、およそ医療処置には向いていない。謎の片眼鏡も何のために付けているのか。白髪はくはつで老人かとも思ったが、肌ツヤは良く思いのほか若いようだ。

 チロリ、とその人物の目がリンに向き、思わずビクリと肩を震わせた。

 おかしい。見目に惑わされて気付くのが遅れたが、この人物もまた、風や青水と同じ、全く気配が無い。目を閉じていれば、目の前に来たことすら気付けないであろう程、自然体と空気の中に溶け込んでいる。姿はこんなに、景色から浮いているというのに。

 もまた、決して敵に回してはいけない存在だ。恐ろしい、生物兵器と呼ばれる自分達よりも余程化け物じみた……。


「貴女が、リンさんですね?」

「……」

青水あのバカを、倒れる前に寝室へ促して下さったと聞き及んで居ります。後の事は我が対処します故、ご心配には及びません」


 気付いた。言外に、リンはもう、この件に関しては触れるなと言われている。


──恐怖


 こんなものを感じるのは、いつ振りだろうか。足が動かない。声が出ない。信じてもいない「神」に縋りたくなるくらいに、恐ろしい。

 静かに青水の執務室に消えて行くその背を、見送ることすら出来なかった。

 しばらくして動けるようになると、スマホと財布だけを握り締めてリンは足早に屋敷を出て行った。

 ここでの生活について、仲間の間では何も言っていない。言ったところで到底信じられるものではないだろう。ただ、イーリンに会いたい。会うだけでいい。それで安心するから。

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ひとよ 水澤シン @ShinMizusawa

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