いつも通りの新しい日常

 この家の主である東間青水という男は、いつ見ても顔色が悪い。そのくせいつだって蒼い顔をしながら忙しなく働いている様子で、あまり家に帰らないリンですら他の四人が彼を心配しているのが分かった。

 いつだったか、仕事から帰ったリンは青水の執務室の前に座り込む風の姿を見た。声をかけてみても顔は上げず首を振るばかりで動かなかったので、どうしようもなく部屋に戻ったのを覚えている。日中だったが、執務室の中になど入れる雰囲気ではなかった。しばらく時間が経った頃、爆発したかのような風の泣き声が聴こえていたのも知っていた。

 長身で、比較的しっかりした身体付きをしているようには見える。だがそう見えて病弱なのかも知れない、なんてよく分からないなりに考えた。判断を下してしまうにはあまりに情報が足りないので、憶測の域は出ないのだが。

 居候になってひと月を超えた頃、駄目元でキッチンを使っても良いかと聞いてみた。彼らのような警戒心があれば、リンの手料理なんて食べよう筈も無いだろう。目的はそこではなく、バイト先の子供達に配るクッキーなどの菓子を焼くためだ。桜波かひわが見ている時という条件付きで許可を得た。

 まずひわに聞くと、「やだよめんどくさい」と一蹴され、桜波に聞けば「構いませんよ」と笑顔を返されたものの、その表情、声から不信感は滲み出ていた。

 別に何をするつもりもないので見張られていても問題はないと、そのまま作業を始める。子供達の好き嫌いを減らすための野菜クッキー。基本的にアレルギーの子供以外には食べてもらっているが、始めは嫌がる子供もそのうち食べてくれるようになる。それが楽しみのひとつでもあるのだ。

 とりあえず完成したクッキーをひとつ摘んでみる。口にしても、それが子供受けする味かどうかの判断はつかない。いつも通りのレシピだから大丈夫だろうか、と包装した。明日の仕事準備はこれで万端だ。

 そろそろ夕方になるが、仲間達の居る基地には朝のうちに行ってしまった。さて、仕事までに少々時間が空いた。となれば、ハッカーの方の仕事をするしかないだろう。確か、いつ空くか分からないからと返事を保留している依頼が五件ほどあった筈だ。時間を考えて……三件ほどなら出来るだろうか。






──『リン、荷物少ない』


 そんなことを言われたのは、二度目にこの家に入った時だった。さほど大きくもない旅行鞄ひとつで事足りていたからだ。元々ひとつ所に長く留まる気は無いし、居候する家にもこうして仕事の空いた時にたまに帰る程度で、時間にしても長居はしない。

 情を抱かない為に。

 イーリンをはじめとしたほかの仲間達にもよく言われることだが、リンは他者に情を移しやすい。壁を作っているつもりでも結局のところそんなものは存在せず、人を愛してしまう。

 現時点で既に、この家の者に対してもそうだった。敵ならば排除する──今ならまだそれくらいは出来るかも知れない。だけど逆に、彼らに害が及ぼうとするならば、一度や二度死ぬ程度は構わず助けようとするだろう。

 それは、仲間内で掲げている『一般人は巻き込まない』とはまた別だ。基本的には巻き込まないようにするが、もし組織のことに関わってしまうなら、情報の漏洩・拡散を防ぐ為にもその場で始末する。偶然巻き込まれた程度でその後も組織に関わりそうにない相手なら、多少の怪我などしていても無視をして自身もその相手には関わらない。

 始めに風をそうしなかったのはまず勝てないということが分かったからで、今自分が壊されるわけにはいかないからだ。三度目に遭った時には、彼のバックに大きな組織かチームが見えた。敵に回してはいけない。

 だけどこの家にだって、長く居座るつもりは無い。自分に情を移しているのが風一人で済んでいるうちに、何処か別の場所、居候先を探して移るつもりだ。何がどう転ぼうと、いずれ自分は居なくなるのだから。

 タン、とエンターキーを叩き、時計を確認してはパソコンを閉じる。


「仕事に行ってくるアル」

「ああ、行ってらっしゃい」


 短いやり取りをして、自分のノートパソコンを手に青水の執務室を出た。いつもこんなものだ。彼らとリンの間には分厚い壁があって、どちらもそれから先へ踏み込もうとはしない。ただ一人、風が飛び越えて来ただけで。

 大抵、リンが見る青水は仕事をしている。食事の場か執務室でしか会わないこともひとつだろうが、今日のように夜遅くまで部屋に居座ってしまっていても彼が仕事の手を休める様子は無かった。いつも傍に控えている桜波もそれに何を言うでもない。

 ただ何となく、今日はいつもより青水の顔色が悪かった気がする。普段から蒼い顔をしていると言えど、程度の違いはある。光の加減、とは、いつもパソコンのブルーライト越しに見ることが多いので言い切れない。やはり今日は顔色が悪かった。


「〔……明日の予定は夜だったか〕」


 深夜勤務が終わったら、夜に組織関連でひと仕事ある以外は明日は空いている。それも片手で足りる人数だから風の力もいらない。


(仕事から帰ったら、まず青水の様子を確認するか)


 一旦部屋に戻ってはパソコンを鞄に仕舞い、財布とスマホだけを手にして家を出る。常に全ての荷物はひとつ所に固めてあって、鞄ひとつ握ればすぐにでも出て行けるようにしてある。

 新しく荷物は必要ない。もし必要に駆られたらその時に買えば良いし、出て行く時には処分するか、そこの住人が必要だと言えば置いて行く。持ち歩くのは、いつも鞄ひとつだ。

 この後の予定を脳内で組み立てながら、リンは職場への道を歩いた。

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