壱ノ巻 襲撃



刀太郎は走りました。煙が上がる我が家の方角を一目散に目指して走り、里の外れへと伸びていくあぜ道が山と山の重なった山裾に消えていくその先へと駆け抜けて、迫る林に分け入ると川の横道を急ぎ、何も考えることができないまま無我夢中で足を速めたのです。


「かあさん、かあさん、かあさん、かあさんっ」


がむしゃらに走る刀太郎は自分の母親のことで頭の中が一杯でした。刀太郎の母はいつも優しく、兄弟を傷つけて親の言うことも聞かない我がままな刀太郎のことを常に気にかけ、微笑みながら温かい手で撫でてくれるのです。


「なんで、どうして。なんだって、うちの方角から煙が。大丈夫だ。きっとウチじゃない。ウチのわけがない。絶対にかあさんじゃない。だから大丈夫だ。大丈夫だ。大丈夫だ。大丈夫だっ」


自分に強く言い聞かせながら刀太郎は走ります。刀太郎はあの煙が何なのかを知っておりました。いいえ、先ほどまではキレイさっぱり忘れていた、というのが正しいのでしょう。

里の山道を走る刀太郎は忘れていたのです。

今がどのような時期であったのかを。

着ている着物も構わず激しく走り、動きにくい布で何度も転びそうになりながら、手に持った風呂敷もかまわず腕を振り、急ぐ程に汚れていく自分の身なりも気にせずに刀太郎は走りました。

煙の数は三つ。方角は自分の家。

その近くには、刀太郎の後ろを必死について走ってくる二人の女子の家もございます。


「刀太っ」

「刀くんっ」


次第に距離が離れていく女子たちの息が上がる声に、刀太郎は言い残します。


「お柄ちゃんとお鞘ちゃんは自分たちの家に行ってっ。ちゃんと人数を確かめるんだっ。まず最初に小さい子供っ、その次におばさんたちだっ。ぼくはいけない。ごめん。ぼくは一緒にいけないんだ。あそこにはかあさんが、かあさんが、かあさんがッ」


他人の家族よりも身内の家族の身を一番に案じる。それは誰しも同じでございましょう。刀太郎も同じでございました。だから刀太郎は走ります。林の中の分かれ道を右に曲がり、何かを言っているお柄とお鞘の二人が左に曲がって、自分たちの家に向かったのが足音で分かりました。背後にはもう人の気配はありません。この道をまっすぐ進めば、いつも見慣れた里外れにある一軒の民家が林を抜けたところで目に入ります。それがいつもの刀太郎の住む家でございました。


「お願いだっ、母さんっ、次郎に三郎に、みんなっ」


無事で。

冬の冷えた空気を大きく吸い込んだために非道ひどく痛む胸の呼吸も構わずに、刀太郎は家族の無事を願いながら走ります。吐く息は白く、しかも息も絶え絶えに疲れ果てて、運動が得意ではない刀太郎は、それはそれは垂れ流す涙と鼻水を外気で凍らせながら、次第に重くなる足を懸命に動かして前へと進めていくのでした。


「ダメだ。動け、動け、動けっ、動けっ」


今しかない。ここしかない。今動かなければ、昨日までの毎日が、明日には絶対にやって来ない。それだけは刀太郎にも分かっていました。

危機的な状況はいつでも起こる。家族との死に目はいつも突然にやって来る。昨日、話した母親との会話。弟妹きょうだいたちと今朝したいつものケンカ。仕事に行く父親とやっと仕事から帰ってきた父親の姿。その全てが、明日にはもう二度と訪れてはこない世界がやってくると。

住み慣れた家で、刀太郎だけがただ一人残される未来がやってくると。


「いやだッ」


だんだんと走る速度を萎めてしまう刀太郎が、歯を食いしばって激痛の走る脇腹を抱えながら懸命にまた速度を上げました。


〝人には頑張らなくちゃいけない時が必ずくる〟


寺子屋でいつか学んだ言葉が、記憶の片隅をぎります。


〝そこで頑張らなくちゃ絶対に後悔する時が必ず来る〟


だから……。


〝だから、その時がいつ来てもいいように鍛錬だけはしておくように〟


運動の苦手な刀太郎は、今がその時であるような気がしてなりませんでした。いま走らなければ二度と弟や妹たちとは会うことはできない。いま走らなければ二度とあの優しい母親の顔を見ることができない。そして、いま走らなければ二度と、仕事で空けてしまう家を長男の自分に任せてくれた父親と合わせる顔がない。


「父さん。おれ、おれ、母さんを、かあさんをっ」


誰にともなく泣き言を叫びながら、走ることに疲れ果ててヨタヨタと歩き始めてしまった刀太郎は、それでも家を目指して懸命に進みます。

枯れた木々の合間から寒い空に向かって灰色の煙が上がる方角の家を心配しながら、痛む自分の脇腹を我慢できずに手で押さえて、急いで早く家に辿り着かなくてはならないのに、疲れた足を一歩、また一歩と前に進めるだけで精一杯の無力な小童こども


今も、こうして刀太郎がぬくぬくと道をゆっくりと歩いている時でも、刀太郎の家ではいったい何が起こっているのか。

物音のする家の中で。ガタゴトと部屋を荒らす振動を伝えて。もしかすれば……、泣き叫ぶ子供の声が聞こえて。さらには……怯える子供を庇うように覆い被さる母親が迫ってくる影に悲鳴を上げて……ッ。


「ち……、ちくしょおぉぉぉおぉっッ!」


嫌なことを想像した刀太郎が、また闇雲に走り出しました。


「なんでだよっ、なんでなんだよっ、なんでいつも、いつもッ、いつも!」


世界を呪う刀太郎が林の道の中を駆け抜けていきます。

地面を蹴るたびに軋む脇腹の激痛を我慢し、吸い込む冷たい空気で肺の中が痛む刺激を耐えて、ただひたすらに木の根と小石が散らばる林の道を走り続けました。


目の前にはやっと林の出口の明かりが見えてきます。刀太郎は渾身の力を振り絞って林の道を走り抜けました。

暗がりの林を抜けると、右手に刀太郎の家が見えました。

その家の戸が……なぜか開いているのです。


「か、母さん?」


特に被害のなさそうな自分の家に近づいた時、戸口の端を掴んだ手を見つけてしまいました。

そのこわい手を見て、刀太郎は一瞬で歩みを止めます。


知らない人間の手でした。知らない人間の手が、刀太郎の家の戸口の端を掴んで中から何かを引き摺り出そうとしていたのです。


そしてそれは、やはり刀太郎の見てはいけないものでした……。



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