あなたのせいよ

如月冬樹ーきさらぎふゆきー

あなたのせいよ

「ただいま」


 そう言いながら玄関のドアを開ける。家の中は外と同じくらい真っ暗で、とても静かだった。私はそのまま洗面所に向かい、手を洗った。鏡を見ると女子高校生がこちらを見ていた。


 彼女はかなりやつれていて、頬骨ほおぼねがうっすらと浮き出ていた。そのうつろな目の下にはくまが広がっており、その肌は血の気が無く白蠟はくろうめいていた。しかしながら目鼻立ちは整っており、生気せいきこそ無いがその顔はとても美しかった。私は鏡の中の私に話しかけてみた。


「私は悪くないわよね」


「いいえ、あなたのせいよ」


「悪いのはあの男よ」


「どっちが悪いの」


「どっちもよ」


「さっきまで一緒にいた彼は何かしたかしら」


「私を好きになったのが悪いのよ」


「そんなに悪いことかしら」


「そうよ、私は何もしてないわ」


「あなたのせいよ」


「黙れ。私は悪くない。私は悪くない。私は悪くない……」


 そう言いながら私は顔をバシャバシャと洗った。





 あの日、私はいつもとは違う道で登校していた。寝坊してしまったので少し急いでいたのだ。


あの道には色々な噂がたっていた。男の子の霊が出るだの出ないだの、後ろから人でない何かがついてくるだのといった子供だましな噂だった。


それでもやはり気味が悪いので普段はその道を避けていた。しかしあの日はたまたま近道をするためにあの道を行ったのだった。


あの道を通った私が悪いのだろうか。いや、そんなことはない。私は悪くない。


早足で進んでいたところ、前の方に男が立っているのが見えた。


 男はよれたスーツを着ていて、会社員の様だった。ただその顔は青ざめていて、ひげが中途半端に伸びていた。不健全そうな見た目だったので、関わり合いになりたくないなと思いつつ私は男の横を通り過ぎた。そして数歩進んだところで、その男に突然呼び止められた。


「すみません、そこのお方」


 こっちは急いでいるのに。私は嫌々ながら振り向いた。その時、私はあいつを見てしまった。


「一番近いコンビニの場所は知りませんか」


 そう男は訪ねた。私は男の顔を見た。その時、横にいるものに気づいた。


「……えっ」


 最初は見間違いかと思った。そうであって欲しかった。だが、見間違いにしてはあまりにもはっきりとしていた。


「どうかしましたか」


 じっと見てはいけない気がした。しかし、それを無視することはできなかった。


「いや何でもないです。それならその道を……」


私は何でもない振りをした。見えてない振りをしたのだ。男の背中越しにこちらを覗いてきていたそれは年老いた女の姿をしていた。この世に未練を残して死んだ老婆の様だった。生きた人間のものとは思えない、シワが深く刻まれた青白い肌に、赤みのない唇、肩まで伸びた白髪を無造作に乱し、見開いた目でこちらを覗いて意味ありげに微笑していた。


「どうもありがとうございました」


「あっはい……」


 男は去っていった。私もその場をさっさと去ろうとしたその時、


「私を見たね」


と、後ろからしわがれた声がした。


 バッと振り返って後ろを確認するけれど、そこには誰もいなかった。首の後ろがジクジクとうずき、指が震え始めた。息がどんどん荒くなり、瞳孔が開いていくのを感じた。恐ろしさのあまり、私は駆け出した。


 あの出来事の後、何度か怪奇現象に襲われた。廊下を一人で歩いている時に後ろから足音が聞こえたり、背中に不気味な視線を感じることもあった。その度に辺りを見回すけれども、決まって人影はない。呪われてしまったのではないか、そう私は直感した。常に誰かに付きまとわれている気がして、不安で眠れない夜が続いた。食欲もめっきり落ちて、かなり痩せてしまった。


鏡の中のげっそりした自分の顔を見て、私はあの男の顔を思い出した。あのときあったあのサラリーマン風の男、あいつも今の私のように不健康そうな顔をしていた。その時私は気づいてしまった。あの男の悪意に。あいつにもこの老婆の霊が憑いていたのだ。そしてあの朝、私に呼びかけ振り向かせ、移したのだ。悟った瞬間思わず嗚咽が漏れた。どうして私なのか。あの道を通る人は他にもいるだろうに。私は何も悪くないのに。


 そんなある日、自分の下駄箱を開けると手紙が入っていた。真っ白な封筒に赤いシールで封がなされていた。ラブレターかなと思った。予想は当たっていた。かなり洒落た便箋びんせんに丁寧な字で口説き文句がつらつらと書かれていた。要約すると、僕は君が好きだ、もし君も同じ気持ちなら今日の放課後教室に残っていてくれないか、といった内容だった。


 差出人は同じクラスの男子だった。勉強もスポーツもそこそこできるし、顔もまあまあ良いのだが、決して私の好きなタイプではなかった。だけれども、彼とは家が近かった。私は教室に残ることを決めた。そう、私は悪くない。


 あの日から私たちの交際は始まった。付き合ってからも怪奇現象は続いた。私が一人になるとどこからとも無く謎の声が私を呼び続けた。しかし、私は決して彼には相談しなかった。


 彼との交際は特段何ということは無かった。水族館や遊園地などの華やかなところに行けば、それだけ自分のこの不幸な現状を痛感させられた。彼は意中の人と付き合えて、弾けるようにはしゃいでいた。私はそんな気分ではなかったが、彼に調子を合わせて明るく振る舞った。ここで別れられては困るのだ。


 怪奇現象は日に日にエスカレートしていった。私を呼ぶ声はどんどん大きくなり、私の頭を段々と侵食していった。私はそのうちに鏡を見られなくなった。私の顔はさぞかしみすぼらしくなっているのだろう。しかし、自分の容姿など、そんなことはどうでも良くなっていった。もう、私は声のことで一杯一杯だった。何とかしなくては。このままでは私は完璧におかしくなってしまう。


 そうだ、私には彼がいる。彼ならこの声を止められるわ。初めからこうするつもりだったのよ。私は悪くないわ。


 私たちはいつもの様に二人で学校から帰っていた。私は彼に、


「今日はこっちから帰ろうよ」


と言った。彼は不思議そうな顔をしたが、素直に彼女である私の要望を聞き入れた。私たちはあの道を進んだ。そう、あの時の道を。そしてその途中で私は彼に気づかれぬ様、静かに立ち止まった。彼は数歩歩いてから私が隣にいないことに気づき、振り返った。


「ごめんごめん、靴紐が解けちゃってさ」


 彼は黙っていた。固まっていたのかもしれない。


「どうしたの、顔色が悪いよ」


「いや……何でもないよ」


 彼の顔は見る見るうちに青くなっていった。まるで幽霊でも見たかのように。


「そう、それなら良いのだけれど」


 そう言って私は彼を置いてそそくさと歩み始めた。それに続いて彼もおずおずと歩き出した。


「じゃあまた明日ね」


 私は彼と分かれた。私のせいではなかった。





「私は悪くないわ」


 鏡の中の私を見て、ホッと一息つく。私の顔は不健康そうになってはいるものの、そこにはあれが映っていなかった。あの事件から、あの会社員風の怪しげな男に会ってからというもの、鏡を見る度に私の右肩に映っていたあいつ。不気味な笑みを浮かべながら、私の肩越しにこちらを覗いてくるあの老婆は、もう姿を消していた。


 私は鏡の中の私に話しかける。


「気づかなかったわ。怪奇現象の正体があのお婆さんだったなんて」


「嘘よ。本当はわかっていたのでしょう」


「嘘じゃないわ。だって振り返っても誰もいないのだもの」


「毎日鏡を見ていたくせに」


「仕方ないじゃない。ああするしかなかったのよ。だってあいつは私の背中にずっと憑いていたのだから」


「……あなたのせいよ」


「うるさい」


「本当のことでしょう」


「黙れ……黙れ黙れ黙れ黙れ」


 右手を力の限り振り下ろして、私は鏡を叩き割った。鏡の中の私の顔がみにくく引き裂かれた。小指の付け根あたりに破片が刺さり、そこから血がしたたっていた。


 それから何日か経った。私の顔は日に日にかつての美しさを取り戻していった。しかし、それとは反対に彼の顔はどんどんやつれていった。


「最近元気ないね。どうかしたの」


「いや、何でもないよ。この通り、元気一杯さ」


 そう言って彼は腕を大きく回し、笑顔を作って見せた。


「それなら良かった」


 私はまるで何も知らないかの様に、無邪気さを装って笑い返した。


 頭の中で彼と分かれる口実を考えながら、私は隣の彼に聞こえない様に声を押し殺して呟いた。


「そう、私は悪くないわ」

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