四月某日、東京に雪

綾乃雪乃

四月某日、東京に雪

キレイだ。


未来を夢見て巣立っていく人々を祝う、卒業式。大騒ぎの校庭の端っこで僕はつぶやいた。

隣に立つ彼女に向けた言葉だったのに、

当の本人はこちらに気づくことなく、にっこりと人々を眺めていた。




「もうすぐ卒業式だね」



滲んでいく太陽の光を体中に浴びて、卒業式の前日、東堂とうどう先輩の言葉を思い出す。

ここは音楽室。僕と先輩が出会い、辛い日々を、楽しい日々を、たくさんの時間を過ごした場所。

伸ばした体を左右に揺らして固まった筋肉をほぐしながら、僕ととりとめのない会話をするのもこの日が最後だった。



「ひどいな、すごい凝ってる、あいたたた…」

「重い楽器を首から下げて何時間も練習していたら、そうなりますよ。無理しすぎです」

「無理なんかしてないよー。これが私の練習スタイルなの!知ってるでしょ?」



彼女は吹奏楽部でサックスを担当していた。楽器自体触ったこともなかったのに、即決だったらしい。



「選んだ理由?うーん、かんたんで難しいから、かな」



ラの音が僕と先輩しかいない夕方の教室に響く。先輩が適当に吹くときに選ぶ音だ。

冷房の冷たさで風邪を引き起こし、暖房による乾燥で容易に痛めてしまう。他の部員より喉が弱いというのに息を使う楽器をわざわざ選ぶなんて、不思議な人だと思う。



「単純なの。音を出すだけであれば、サックスは他の楽器よりずっとかんたんなの。でも、この楽器は『表現』が難しい」


「心で感じたこと、伝えたいこと、音楽は国や人種を超えて伝わるものだけれど、サックスは特に『伝える』ことが難しい。だから選んだの」



途中で諦めたくなったことなんてたくさんあった。でも、自分の想いが音を通して伝わった瞬間の快感はたまらないの!


こちらを見ながら語る先輩の瞳は眩しいくらいに輝いていて、これからもずっと隣で眺めていられるだなんて、僕は今の今まで勘違いをしていた。





「こっちだよー!」



ろ紙のような質感の丸められた紙を高々と掲げて、東堂先輩は大きな声をあげた。

カラカラに乾燥させてから1枚ずつ手書きで書かれるその卒業証書は、僕らの高校だけで使われる特別なもの。


来年、僕が受け取るだろうその証。


しとしとと霧のような雨と例年より早く咲き始めた桜の花びらを存分に浴びて、なんだかとても輝いて見えた。



「あ!おまえら、そんなところにいたのかよー!」



わいわいがやがやと、東堂先輩に呼ばれた他の吹奏楽部の先輩たちが束になって僕らに迫ってきた。

制服を着ている僕が逆に浮いてしまうほど、あっという間に派手な袴たちに囲まれて、もみくちゃにされる。



「できる男は違うなー!この花、お前のアイデアなんだって?」



信田しんた先輩—――吹奏楽部の前部長は嬉しそうに胸元に留められている白い花を指して、新部長の僕に言う。

畳み掛けるように四方八方から聞こえてくる称賛の言葉に、僕は自分でもわかるほど顔が赤くなっていた。



できるなら、先輩たちがつける花は生花がいい。それは先輩たちへの卒業プレゼントをみんなで考えているときに僕が言ったことだった。


もう学校の方針として造花で準備が進んでいたはずなのに、先生たちは二つ返事で叶えてくれた。

寝ずに作業すれば間に合うだろう、と1人で全員分の生花のブローチを作ろうとした僕に、後輩と仲間たちが手伝ってくれた。



「やっぱり花は生花だよな。毎年コンクールでつけて挑んでたしさ」

「…っ、うう……コンクール……!すっごく悔しかった……!」

「パッッッねぇレベルの高さだったからな…今年はな…」



りんごの花。

僕はそんな可愛らしいタイトルの割には難易度が高い課題曲のお陰で、ハイレベルな勝負となった吹奏楽コンクールの思い出を振り返る。

悔しい大会となったのは確かに事実だった。いつも笑顔で励ましてくれた東堂先輩が、初めて僕の前で涙を流した、あの日。

はっきりと覚えている。先輩の震える肩も、涙声も。抱きしめたくなった瞬間に自覚した強い感情も。






次に僕と先輩のもとに来たのは、吹奏楽部の顧問 三波みなみ先生だった。

『行事隊長』なんて言われるほどイベントが大好きな音楽教師の三波先生は、もちろん今日もハイテンション。

伸びに伸びた今回の卒業式は、嗚咽混じりにスピーチし続けたこの先生のせいである。




「東堂も卒業か……うう……元気でなあああああ!!」

「し、静かにしてください、先生!恥ずかしいじゃないですか!」



もじもじと恥ずかしそうな先輩は、僕の背中に隠れてしまった。

奇妙な気持ちになる。赤に白い装飾が踊るキレイな袖が、僕の手元にふわりと当たる。ドキドキしてしまう。

耳まで赤くなってしまいそうになった僕は、思わず体をずらして無理やり先輩を三波先生の前に差し出した。



寿也としやくん!?」

「いいじゃないですか、今日くらい。ついでに先生のテンションを下げてください。暑苦しいんで」

「ついでって!ちょっと鼻水出てるもん、やだよー!」



辛辣な言葉に三波先生はぐっ!と唸ってハンカチで顔を拭く。

ようやく落ち着いたのか、先生はシワだらけの顔をくしゃりとさせて満面の笑みを見せた。



「2回だぞ、2回!東堂、よく頑張ったな」



すごいことなんだぞ、と三波先生の言葉に、僕は強くうなずいてみせる。

ごまかしきれていない照れ笑いで、先輩は胸元の本物よりも花のように笑った。



「しょうがないじゃないですか、頑張るしか。みんながずっと待ってるって、寿也くんが側にいてくれるって言うから…負けてたまるかですよ!」



楽しく明るい声が響く校庭に張り合うように、大きな声を出す先輩。

甲高いその声は、澄んだ寒い空にどこまでも響いていくようだった。



「つらい手術だったはずだ。それ以上にリハビリは辛かったろう。でも東堂は元気になって帰ってきた。この日を、みんなと一緒に迎えられた」

「楽しい日々でした。辛かったけれど、たくさんの人が支えてくれました」



ようやく、ここにきて先輩の目尻に光が見えた。誰よりもこの日を待ち望んでベッドの上を過ごした数カ月のことを思い出している、そんな表情だった。





4月。卒業式から2週間ほどが経った。

学校の校庭に咲き乱れていた桜は、もう殆どが葉桜となっていた。

ついに3年目の付き合いになった通学路を、僕は先輩とまた一緒に歩いている。

某有名大学の学生となったというのに、駅前まで僕らの道筋は同じらしい。

失う覚悟をしていたこの大切な時間を、今年も過ごすことができるなんて。驚く僕に、先輩はしたり顔だった。



「実はね、ギリギリまで言わないで驚かそうと思っていたの!どうせもう一緒に通えないって落ち込んでたでしょ?気づいていないとでも思った?ふふ」



ついでに君の想いもね。なんて、『彼女』となった先輩はにやりと笑った。




東京行きの電車に乗るべく、駅前で別れの挨拶をする僕らの息は、白い。

卯月の『う』は『初』から来ている説がある。それは三波先生が教えてくれたことだ。

期初を表す言葉だと言うのに、この寒さはまるで真冬。

ようやく大寒波が過ぎ去ったと言っていたニュースは一体何だったのか。


うう、寒い。と震える彼女に、僕は自分のマフラーを巻きつける。

逃さないように空気を閉じ込めながらしっかりと結べば、彼女はへらっと笑って嬉しそうにこちらを見つめてきた。


雪が降り出す。ありがと、と可愛らしい声が僕の耳に届いて、彼女はまたねと人混みに消えていく。



きっと、来年は共に駅の向こうへ。成人したら、仕事に就いたら、もっと未来の話を君としよう。




――――――四月某日、東京に雪。

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