君の眼鏡になりたい
灰崎千尋
○
「君の眼鏡になりたい」
ある日、あなたはそう言った。
どうして、と尋ねる私にあなたは答えた。
「君とずっと一緒にいられて、君と同じものが見えて、君の助けになれるから」
助けならもうなってるし、同じものもたくさん見てるし、ずっと一緒だよ、と私は笑った。
だけどそれから数日後、あなたは呆気なく逝ってしまった。
あなたは物を持たない人だった。
私に残されたのは、思ったよりも少ない思い出。その一つ一つはささやかだけれど、まだ温かさを感じられるくらいには鮮やかだ。でもそれも、今のうち。あなたとの思い出はもう増えることなく、失われていくばかりなのだ。それがとても怖かった。
そしてふと、あの日の言葉を思い出した。
「君の眼鏡になりたい」
私はその言葉に、みっともないとわかっていても、縋った。
私は、自分の眼鏡をあなただと思い込むことにした。
ユニセックスなデザインが幸いして、思いの外すんなりとこの妄想を受け入れることができてしまった。セルフレームのフロントにチタン製テンプルを組み合わせた私の眼鏡。シンプルなウェリントンだけれどテンプルとの接合部にちらりと入った装飾が、靴や鞄などの小物にこだわるあなたっぽいし、細くしなやかなテンプルは無駄な肉のないあなたの腕に似ている。
流石に話しかけたりすると人前でもやってしまいかねないので自重した。あなたの言った通り、「ずっと一緒にいて、同じものを見て、私を助けてくれる」存在として、あなたという眼鏡をかけていた。
眼鏡のあなたは確かに、かつてのあなたよりもずっと一緒にいる時間が長い。満員電車に揺られているときも、職場で嫌な仕事を振られたときも、眼鏡を自然に触って気持ちを落ち着けたりできた。映画やテレビは当然一緒に見るし、一人旅も孤独ではない。あなたは変わらず、私を助けてくれていた。
だけどその夜、眼鏡のあなたを手入れしていたとき、レンズに小さな傷を見つけてしまった。たったそれだけなのに、私はうろたえた。
あなたの傷。
損なわれてしまったあなた。
もういない、あなた。
あなたの顔、腕、声。
少しずつ忘れていってしまう、あなた。
私はあなたを亡くしてから初めて、大声で泣いた。
翌朝、私は泣き腫らした目の上から眼鏡をかけた。
眼鏡はもはや、あなたではなかった。けれどあなたであった時間によって、眼鏡はあなたへの鍵になった。
一緒にいて、同じものを見て、私を助けてくれたあなた。
眼鏡と共に、私は前を向く。
君の眼鏡になりたい 灰崎千尋 @chat_gris
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
食べるために、生きるのだ/灰崎千尋
★35 エッセイ・ノンフィクション 連載中 3話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます