忘れ夏

@tennpamegane

第1話(完結)

忘れ夏        

雨のひぐれ


 夏の日の夕暮れ、縁側に座る俺の隣には彼女がいる。風にたなびくオレンジに染まった髪が浴衣とよく合っていて、ただただ綺麗だと思う。彼女は俺が見つめているのに気づき、俺の目を見つめ返してきた。うん、今なら言える気がする。俺は一つ息を吸い込むと、彼女に想いをまっすぐ伝えた。彼女は少し驚いた顔したが、その後、そのあと――――。なんでだろう、なぜかいつもそのあとが、うまく思い出せないんだ。


 風に吹かれて俺は目を覚ました。そこはなんの代わり映えもしない現実世界の片隅。シャツにはじっとりとした汗が滲んでいる。どうやら縁側で涼んでいるうちに、いつの間にか寝てしまったらしい。むくりと起き上がり、部屋の壁にかかっている時計を見ると、十六時のあたりを指している。どうやら一時間ほど寝てたようだ。横に置いてあるとっくにぬるくなった麦茶を、一口飲んでぼーっとする。なんだろう、なにか大切なことを忘れている気がする。………………。だめだ、思い出せない。最近はこんなことばかりだ。俺はいつまで、いつまでこんな生活を送るつもりなんだろう。

 ふう、と一息つくと、サンダルを履いて立ち上がった。まだ少しむわッとした暑さが残っているが、日差しは弱まっているように感じるし、昼ほどではない。少し外に出ることにした。


 青々しい竹の匂いがする小道を抜け、畦道に出る。俺は畦道を少し歩いた先にある森へと向かうことにした。そこに俺が一人で考え事をしたいときによく行く小さな沢があるのだ。もう夕方だというのに蝉が喧しいくらいに鳴いている。

 ここはいわゆる田舎。周りを山に囲まれたちょっとした盆地で、秋になれば金色の稲穂が一面に広がり、なかなか見事なもの。その中を澄んだ川が流れており、ザリガニやフナなんかがよくいる。祖母の話によれば昔は蛍なんかいたそうだが、俺は見たことがない。そんな土地に俺は生まれ、そして育った。夏になれば近所の仲間たちと川で泳いだり、野山を駆け回ったりしたし、夜には花火なんかもした。そして、恋もした。幼馴染の彼女。彼女は向日葵のように力強く真っ直ぐだった。俺が何かに躓いて落ち込んでいるときには、力強い言葉と行動で励ましてくれた。そして彼女は頭が良く、時折大人びた雰囲気を漂わせていた。お世辞にも頭が良いとは言えない俺に粘り強く勉強を教えてくれた。小さい頃は彼女を尊敬していたが、成長するにつれそれは好意へと変わっていった。彼女の強さが、明るさが、そして優しさが好きだった。そんな彼女が亡くなってからもう六年が経つ。


 畦道から、森へと続く小さな脇道に入る。薄暗くひんやりとした空気が流れる中を少し進み、いつもの小さな沢につくと苔の生えた石に腰を下ろした。沢の流れに耳を傾けつつ静かに目を閉じ、考えに耽る。


 六年。


 様々なことが変わった。世の中が変わるには十分すぎる時間だ。幼少期を共に過ごした仲間たちの多くは都会に出ていった。そうでない奴らも実家を継いだり、恩師の手伝いをしたりとそれぞれの道を歩んでいる。あの頃から、いや、あの日から、変わってないのは俺だけだ。いつまでも彼女の死を引きずったまま動けないでいる。そんな俺のことを、多くの時間が、記憶が追い越していった。そしてそれは今も続いている。


もうどうでもいい。


もうどうでもいいと思う。惰性で続けてきたこの何の生産性の無い日々にもう終止符を打ってしまおうか。そう思う自分を幾度となく誤魔化してきたが、もういいんじゃないだろうか。変な夢まで見て、この世に居続ける理由はあるのか。……まただ。この思考に陥ってしまうと、もうどうしようもない。俺は一つ深いため息をついてゆっくりと目を開けた。腕時計を見ると十七時を指している。日暮れまではまだ時間があるが、そろそろ行こう。よっこらせと腰を上げたその時、

ふと

懐かしい声で誰かに呼ばれた気がした。


「おーい。」


 しかし、声のした森のほうを見ても誰もいない。気のせいとも思ったが、どうにも気になる。しばらく声のした方を眺めていると、俺はあることに気がついた。

道がある。

 いや、それはもはや道とは呼べないほど木や草が生い茂り、少し見た程度では到底気付そうにないほど小さなものであったが。ひょいと沢をまたいで、そちらへと向かう。なんだろう、なにか惹きつけられるものを感じる。そして、その道を目の前にすると、不思議と懐かしい感じがした。またしばらくそこで佇んでいると、今度ははっきりと道の先のほうから

「おーい。」

と呼んでいるのが聞こえた。間違いない、誰かが俺を呼んでいる。でもいったい誰が。なぜ。わからないことだらけだが、とにかく行かなければいけない気がする。行こう。俺は意を決して道へと踏み出した。

 少し進むだけで、俺は枝や藪にいくつもの切り傷をつけられ、張り出した根っこや岩などに何度も足を取られた。あるのかないのかわからないような道を見失わないように必死になりながら、がさがさと二十メートルほど進んだころ、少し開けたところに出た。腕や足についた葉や枝を払い、あたりを見渡す。うっそうとした木々に囲まれた、五メートルほどのみじかい石の道。その一番奥に小さな祠がある。騒がしく鳴く蝉の声とは裏腹に、静けさが辺りを包んでいるように感じる。……どうやら声の主はここにはいないようだ。少し辺りを見回した後、なんとなく祠のほうへと行ってみる。その祠は、平らな岩の上に石を組み合わせて作った一メートル無い位の簡単なもの。手入れはされていないらしく、若干崩れかかっている。祠の前には、若干歪んだ小さな白い皿が置いてある。

…………。

なんだろう、ここには前にも来たことがあるような気がする。気のせいだろうか。いやしかし、なんとも言えない懐かしさを感じる。いろいろと記憶を掘り返してみるが、どうしても思い出せない。まただ、またこれだ。俺の人生は忘れてばかりだ。どうでもいいことばかり考えて、大事なことをすぐに忘れてしまう。今日何度目かもうわからない深いため息をついて、心を落ち着かせる。それにしても、不思議な雰囲気のただよう場所だ。なんとなく心がざわついている気がする。


キーン


 突然、鋭い耳鳴りとともに、なまぬるい風が吹いて木々が激しく揺れた。その瞬間あれほど騒がしかった蝉の声がピタッと止み、目の前の景色がモノクロに変わった。どこからか、もやが現れ始め、視界が狭まっていく。霧が出てきたにしてはおかしい。なんだ、何が起こっている。俺はいまどこにいる。ゆらりゆらりと自分が宙に浮いているような感覚に襲われる。まるで川を漂っているようだ。すると、どこからかふわりと甘酸っぱい香りが漂ってきた。なんだろう、この匂いはどこかで嗅いだことがある。淡くて優しい、そうだ、これは彼女の家の庭にあった、夏蜜柑の匂いだ。でも、なんでだろう。ぐるぐると考えが回る。ああ、俺は今いったいどこにいるのだろう。やがてもやが薄れて、少しずつ周りの様子がはっきりとしてきた。淡いオレンジ色の世界。ここは、夕暮れの縁側のようだ。視界の端には見慣れた夏蜜柑の木。もしやと思い隣を見ると、やはりそこには浴衣姿の彼女が座っていた。夕暮れ色に染まった髪が美しくたなびいている。しばらくすると彼女は見惚れている俺に気づいたらしく、こちらを見つめ返してきた。ああ、そうか。俺はこれから彼女に告白するのか。俺は息を一つ吸い込むと想いを告げた。

「好きです。」

そのとき彼女は少し驚いた顔をしたが、その後、そのあと――――


ふふっ と笑った。


ああ、そうだ。そうだった。彼女はあのとき、確かに笑ったんだ。どうしてこんな大事なことを忘れていたのだろう。

彼女は続けて、

「私もあなたが好きだよ。これからも、人生の暗闇に迷ってしまったときに、お互いの胸を照らしあって歩けるような、そんな関係でいたい。でも…………きっとこの気持ちは、いつか記憶のなみにのまれてしまう。きっとね。」

そう言うと、また笑った。夕日に染まったその表情は優しくて、どこか儚げで、あまりにも美しかった。涙で世界が滲んでいく。――――俺は馬鹿だ。彼女はもうこの時には知ってたんだ。自分がもう長そんなに長くないことを。だからこんなことを言ったんだ。俺が悲しみで道に迷ってしまわないように。彼女の強さは、つらさの裏返しだったのだ。優しさは苦しさの裏返しだったのだ。ああ、俺はなんて馬鹿だったんだろう。忘れたのだ。俺は自分で蓋をして忘れたのだ。思い出すと悲しすぎるから。

 目から涙があふれだし、声にならない声をあげる。子供のように泣きじゃくる俺を見て、彼女はまた笑って手を振った。その姿が少しずつ霞んでいく。

オレンジの光が飛び散った。

ああ、世界が遠くなっていく。


 はっと目を覚ますと、俺は自分の家の縁側に寝転んでいた。じわりとした汗がシャツに滲んでいる。むくりと起き上がり、目をこすると少し濡れている。どうやら寝てる間に泣いていたらしい。部屋の時計を見ると十八時を少し過ぎたあたりを指している。コップに半分程残っていた麦茶を飲み干して、ぼーっとする。ほほを撫でる風がぬるい。もうすぐ夕暮れだ。少し目を閉じて思う。ずいぶんと無駄な時間を過ごしてしまった。でも、うん、きっと大丈夫。忘れてない。もう、忘れない。

 



 この話はこれでおしまい。あとはちょっとした後日談。なんとなく想像はつくと思うけど、あの後お供え物を持って沢に行った俺は、そもそも祠に続く道を見つけることができなかった。

それだけ。


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