未来へ

 決勝戦の対ブラジル戦は残念ながら1対3で負け、巧達は準優勝で大会を終えた。それでもあのブラジル代表から、千夏は見事なドリブルからのシュートで一点をもぎ取った。

 しかしさすがの攻撃力を持つ彼らに対し、巧達の守備では三点に抑えるのがやっとだった。ただ相手のモチベーションの違いもあるため単純比較できないが、対日本代表の時より少ない失点で戦えたことで、今後の八千草チームの自信に繋がったことは確かだ。

 表彰式が終わり、巧達は準優勝の楯を受け取った。大会MVPはなんと千夏が受賞した。国内チームではトップであったことと、大会では女性選手でありながら、日本代表の青山と並ぶ得点を上げたことが評価されたのだろう。

 大会が終わってからも、巧達は忙しい毎日を過ごしていた。千夏はKF杯直前に発表された、初の女子日本代表八名に選ばれていたからだ。

 五月の国際試合、オーストリアのウィーンで一週間行われるISBA女子ブラサカトーナメント二〇一七に参加するため、早速四月一、二日の合宿に参加した。

 巧は次の大舞台として、九月に開かれるアジア選手権が待っている。親善試合ではなく、初めての公式な国際大会へ出場できる機会だったために気合が入っていた。さらに来年の年明け早々、四年に一度開かれるブラサカ世界選手権がある。  

 三月の対ブラジル代表戦には経験不足もあり、第二GKとして出場機会は短かったが、次の代表候補が参加する合宿にも召集された。

 今度こそ多くの時間試合に出るために、代表入りだけでなく正GKを目指さなければならない。そこで信頼得て結果を出し、その後の代表定着を是が非でも叶えたかった。

 女子の日本代表チームが正式に発足したことにより、巧と千夏は八千草のチームで練習する以外、別々で行動することも多くなった。実際、三月の大会前でも毎月のようにそれぞれが代表合宿に参加していたからだ。

 そこで巧は四月中旬に入り、彼女が初の国際大会直前に行われる四月末の代表合宿の前に、話しておきたいことがあると千夏に告げた。すると彼女はあっさりと返事をくれた。

「ええよ! じゃあうちに来なよ! お爺ちゃん、巧がこれから家に来るって言うとるけどええよね。ああ、良いって。じゃあ待っとるね」

 この週末は土曜日にチーム練習があったため、日曜日の今日は休息日だ。会社も休みで久々の休日をのんびりと過ごしていた巧だったが、以前から心に決めていたことを、こんなに早く言葉にする機会が来るとは思っていなかった。

 とにかく巧は部屋着から着替えた後、家を出て公園を横切り千夏の家に向かった。正男さんと朝子さんに出迎えられ挨拶を交わした後、千夏の部屋にノックして入る。彼女は部屋着のまま、ベッドに腰掛けていた。

 よく考えるとこの部屋に入るのは、大人になってから初めてだったことに気付く。しかも二人きりだということにやや戸惑いながら、彼女に促されるまま床に敷かれた座布団に座った。まずは巧の想いを告げないといけない。

 こちらが緊張していることに気づかないのか、彼女はいつもの口調で話しかけてきた。

「いよいよ、やね。夢に見た女子日本代表の国際大会も来月や。この調子やと東京の次の開催都市がパリかロスになるか判らへんけど、その時こそは女子ブラサカも正式種目に選ばれる可能性が高いと思うんや。七年後ちゅうことは、私もその頃三十一歳になっとるんやな。怪我さえせんかったら、選手としてはまだ十分いけると思うてる。巧はその前の東京があるけど、その次のパラリンピックは一緒に行けるとええね」

「ああ。以前はまだまだ夢だと思っていたことが、どんどん現実になって来たと思う。でもこんなに早く、夢が叶うと思える時期が来るなんて正直驚いたけどね」

「そうやね。もう少しかかるかもしれんとは思とったけど、ホント、夢が現実の目標になったもんな。その為にはお互い、これからずっと日本代表に選ばれ続けなあかん」

「そうだな。ああ、千夏は今回が初めてじゃないんだもんな。日本代表に選ばれたのは」

「うん。でも嬉しさは今回の方がずっと大きいかな」

「え? そう?」

「だって前はA代表じゃなく、U-二十一やったやろ。それになんとなく選ばれるって、事前に内々定の話があったんや。でも今回選ばれる自信はあったけど、そういうのは無かったし。それに今回は、日本初の女子日本代表だし、めっちゃ光栄なことやん。初代代表やから、正直プレッシャーはあるけど。いくら国内大会で少しばかり活躍できたからって、世界相手には通用せんかもしれへんし、今後もずっと選ばれ続けられるかどうか判らんから不安はあるよ」

「そんなことはないよ。男子の中であれだけやれたんだ。千夏は世界でも通用すると思うよ。自信を持って。そんな事言うのは千夏らしくないな」

「そうやね。やる前から心配しとってもしょうがあらへんし、やってみて足りへん部分があったら、またそれを補う練習をしていけばええんやから。巧は大きな大会が九月にあるし、それが初めての公式な国際試合やから、まずはそこで出場できるように頑張らんと」

「ああ。千夏には負けられないからね。二人で日本代表入りするという目標は叶ったし、今度は世界と公式戦で互角以上に戦うという、次の目標に向かってやるだけだ」

「うん。頑張ろう。私達のスポンサーになってくれて、マネジメントもしてくれている巧の会社の期待にも応えんとあかん。お爺ちゃんやお婆ちゃん達、それに八千草のチームの人達や、応援してくれとるサポーターやボランティアの皆の為にもね」

 千夏は急に真面目な顔になり、話のトーンを変えた。今だ、と思った巧は頷いた。

「うん。二人がそれぞれ日本代表で活躍してチームを強くして、できるだけ多くの人達の前で、ブラインドサッカーの面白さ、楽しさを知ってもらうことが目標だからな。そこでだけど、これからは本当の意味で一緒になって頑張って行かないか。僕は千夏と夫婦として、これからのブラインドサッカーを盛り上げたいと思っている。二人で夢を追い続けるために、僕と一緒になってくれないか」

 とうとう言った。巧は二人で代表に選ばれたら言おうと決めていた。想像以上にその時が早く来てしまったが、覚悟を持ってこれから二人でやって行こうという気持ちを、どうしても彼女に伝えたかったのだ。

 巧は床に座ったまま、ベッドに座る千夏の顔をやや見上げる格好になり、そっとその表情を下から覗いた。彼女はきょとん、とした顔で巧の座っている辺りを見ていた。しばらく間を置いてから聞き直してきた。

「何? 巧、いま夫婦って言うた? え? どういう意味?」

 巧は耳まで真っ赤になっている自分の表情を見られていないことが、こんなに助かったと思ったことは無い。

 こんな肩透かしを食らい、もう一度言わなければいけないのかとがっかりしながらも、思い切ってもう一度説明した。ここまで来たら引く訳にはいかない。

「だ、か、ら、これからは二人でずっと日本代表の座に居続けて、少なくとも二人で東京の次のパラリンピックに出場したいと思ってる。その目標に向かって頑張って行くためにも、僕は君と結婚したいんだ。僕は千夏と夫婦として、これから一緒にやっていきたい」

「え? それってもしかしてプロポーズ?」

 千夏の軽い反応に巧は頭を抱えた。駄目なのか。やはり彼女にとって俺は弟にすぎないのか。すぐにでもこの部屋から走り去りたいと思った巧に、彼女は思わぬ言葉を投げかけた。

「私でええの。大変やで。判っとる? 障害者の私と結婚するって本気で言うとるの?」

 千夏は顔を赤くして、怒ったようにこちらを見つめている。開き直って言い返した。

「いいに決まってるだろ! 大変なのは覚悟しているよ。でも僕は千夏と二人でやっていきたいんだ。それに結婚するのが今すぐと言わなかったのは、やっと代表に入るというスタートラインに立てたんだから、パラリンピック出場までそれぐらいの覚悟でこれからやっていきたいという意思表明だよ。もし代表から外れたら結婚しないとか、そういうんじゃない。二人でこれからずっと同じ目標を持って、一緒に歩んで行こうってことなんだ」

 巧がそう熱弁すると、千夏はうっすらと笑った。

「じゃあ、まずは結婚を前提にお付き合いってことでええのかな? で、二〇二四年まで付き合いがうまく続いたら結婚ということ? そうやよね。パラリンピックに出るのが目標なんやから、そのタイミングで万が一妊娠なんかしてしもうたらまずいもんな」

「い、いや、それはちょっと先すぎるよ。まあ子供のことはあるけど、それはまたその時に考えるとして。でも時期はともかく、まずは結婚を前提としてお付き合いして下さい! だから、お願いします!」

 巧は頭を下げて右手を伸ばしたが、これでは千夏には判らないと気づき、彼女の右ひざに手の平を上にして置いた。すると自分の両手を巧の手にすっと重ねて言った。

「こちらこそ、お願いします」

 了解してくれたのだ! 頭を上げて千夏の顔を見上げると、恥ずかしそうにほんのり顔を赤くして、目には涙がうっすらと溜まっていた。

 そんな彼女がとてつもなく愛おしくなった巧は、重ねてくれた両手を右手で掴んだまま立ち上がり、彼女の右隣に腰かけた。空いた左腕を、彼女の左肩にそっと回す。さらに体を引き寄せ、ピンク色になっている右頬に軽くキスをした。

 彼女の体は少しびくりとして驚いていたようだったが、今度は顔を真っ赤にして俯いていた。それでもしばらくすると千夏は頭を上げて巧の右手から両手を離し、探りながら両腕を首に回し顔を近づけ、左頬にキスを返してくれた。

 そして強く巧を抱きしめてくれながら耳元で囁いた。

「巧、ありがとう」

「こちらこそ、ありがとう」

 彼女に負けないくらい強く両手で抱き締めた。柔らかい彼女の体の感触にずっと酔いしれながら、巧は生れて初めての至極の時を過ごしていた。

 その後は階下に降りて、正男さんと朝子さんに改めて千夏と結婚を前提にお付き合いすることになったと報告した途端、二人に号泣されてしまった。

 喜んでくれたことは巧も千夏も有難かったのだが、そんなに泣かなくてもというほどの喜び様に、引いてしまうほどだった。

 次には正男さんの強い勧めで四人揃って巧の家に戻り、自分の両親に二人のことを報告する破目になった。正男さんが千夏へのプロポーズは両親にはまだ言っていないと聞いて、それはいかんと急きたてられた結果だ。

 しかし報告を受けた両親は巧の気持ちに気づいていて、千夏に振られない限りはいずれそうなるだろうと覚悟していたらしく、全く驚きもしなかった。逆に母親などは

「千夏ちゃん、巧みたいなのでホントにいいの? この子、小心者だよ? いざとなったら、頼りないかもしれないけどいいの?」

と何度も念を押して確認する始末だ。千夏も慣れたもので、

「小心者なのは昔から変わらないですから。巧が頼りない分は私がカバーします」

と言い返したものだから正男さんが恐縮し、千夏は朝子さんにまで説教されていた。

 そんな様子を巧は父と苦笑いしながら見つめていた。しかしこれからもこうやって生活していける、とこの時そう確信したのだった。

 厳密にいえば婚約という形だが、周囲の人達には口頭で報告するだけで済ませ、特別なことは何もしなかった。

 何より嬉しかったことは、チームのみんなも巧の会社の人達も、さらにご近所の方達にさえ報告を聞いた人が皆、口を揃えて喜び、心からお祝いしてくれたことだ。皆がこれからも二人のことを応援すると、声をかけてくれた。こんな幸せなことはない。

 そう千夏と話し合っていた時だったから、巧があの人のところにも報告に行きたいと言いだした時は、さすがに彼女は顔を曇らせた。

 だがこのことを避けて通る訳にはいかないと、何度も彼女を説得した。さらにその後の二人の生活を考え、どうやっていくかも真剣になって話し合った結果、やっと納得させることができたのだ。

 そうして巧は会社の休みをとり、二人揃って千夏が代表合宿に入る直前の日、彼女の母、真希子おばさんがいる病院へと向かった。事前に巧達が訪問することだけは、おばさんの世話をしている親戚を通じて伝えておいた。

 用件は何かと探りを入れられたが、詳細は告げずに単なる報告だと言い張った。その為おばさんの兄と妹の同席という条件を付けられた。けれどもその方がいいと思った巧達は、なんとか面会の約束を取り付けたのだった。

 最初は正男さん達も一緒について行くと言っていた。だがおばさんの親戚とは、これまでに様々な確執があったと聞いている。その為それを断った上で、事前にどういうつもりで先方に行くかを説明しておいた。

 それでも心配だからと渋っていた正男さんをなんとか宥め、二人は病院へやってきたのだ。

 約束通りの時間、病院のロビーに付いた巧達はすぐに彼女達の姿を見つけた。約四年ぶりに合う真希子おばさんは、以前見かけた時と変わらず痩せ細っていたが、顔色は少し良くなっているようにも見えた。

 ソファに座っていたおばさんの両脇にいた男女が、巧達を見つけ立ち上がった。おそらく千夏の伯父と叔母に当たる方なのだろうと見当をつける。

 巧はその二人と初対面だったが、千夏の顔は先方も覚えていたのだろう。なにしろ白杖を持っていれば、どうしても目立つからすぐに判ったはずだ。

 巧は頭を下げ、千夏と並んで彼らにゆっくりと近づきながら、向こうにおばさんとその伯父と叔母らしき人がいることを彼女に小声で告げると、静かに頷いていた。

 すぐ近くまで辿り着いた巧達は、おばさんの叔父と名乗った方から勧められ、彼らが座っていた場所の正面にあるソファに腰を下した。すぐに口を開いたのは千夏だった。彼女は軽く頭を下げた。

「お母さん、伯父さん、叔母さん、ご無沙汰しています」

 続いて巧が初見の二人に名乗って、おばさんにも挨拶した。

「お電話した飯岡巧、と言います。おばさん、お久しぶりです。今日はお時間をいただきありがとうございます」

 おばさんは久しぶりに会う娘の顔を見て緊張した面持ちでいたが、名乗った巧の顔を見て顔を綻ばせた。その顔には幼い時にお世話になった、あの頃の優しいおばさんの面影が少しだけ残っている気がした。

「巧君、大きくなったわね。昔はあんなに小さかったのに、こんな立派になっちゃって」

 しかしそんな和やかになりかけた会話も、千夏の叔母による強い言葉に遮られた。

「報告したいことって何? どうしても直接会って言いたいってことだったけど」

 巧はちらりと叔母の顔を見て、その後伯父の顔を見ると、相手方はこちらが何を言い出すかを警戒しているようだったため、すぐおばさんへと視線を戻して用件を告げた。

「おばさん。報告したい事はですね。僕と千夏が婚約をしたことです。ただ結婚は、もう少し後になると思います。というのは二人とも、ブラインドサッカーという競技をやっていて、千夏はこの五月に国際試合が、僕は九月に大きな大会が控えています。そして僕は三年後に開催される、東京パラリンピックに日本代表として出場することを目指し、彼女もその次のパラリンピックで、日本女子代表として出場することを目標にしています。今後は二人で一緒に、日本代表として活躍しようと約束しました。そのためにもこれから二人で支え合い頑張って行くために結婚しよう、と誓ったのです。今回ご連絡したのは、そのご報告を直接お会いしてお伝えしたかったからです」

 そこで言葉を切った巧の顔を、珍獣でも見るかのような目で真希子の両脇にいた伯父と叔母が見つめていた。当のおばさんも驚いてはいたが、すぐに顔を崩し、

「そう」 

とだけ言って、静かに笑った。巧はすぐに言葉を続けた。

「ですから今後は棚田夫妻と僕と僕の家族が、千夏の家族になるつもりでいます。おばさんと千夏の間で取り決めた財産とか、そういう話は何も変わりません。以前取り決められた内容そのままですし、変えようとも思いません。つまり今後も引き続き、このままお互いがそれぞれの人生を送ることになります」

 巧が毅然とそう告げると、伯父と叔母はあからさまにホッとした態度を取っていた。おそらくこの二人は、真希子に割り当てられた里山家の財産の事や、千夏の面倒を押しつけるような話が出てくるのではないかと心配していたのだろう。

 そんな中、真希子おばさんと千夏だけは複雑な表情をしていた。巧はさらに口を開いた。

「ただ一点、今の内にお伺いしたいことがあります。早くとも一年以上先のことになると思いますが、僕達が結婚式を上げる時、おばさんは出席したいとお思いですか」

 巧の鋭い口調の問いかけにおばさんは目を剥き、そしてはっとした表情を浮かべた後、俯いた。その言葉に両脇にいた二人も動揺している。とても判りやすい人達だ。

 この人達はもう、千夏とは関わり合いたくないと思っている。前回の財産を分ける話し合いでも、はっきりそう言ったと正男さんから聞いていた。

 だが千夏が巧と結婚式を上げ、実の母が出席したいと言い出せば、この二人またはそのどちらかは、付き添う必要が出てくるだろう。それを明らかに嫌がっているのだ。

 しばらく俯いて何かを考えている様子だったおばさんが顔を上げ、巧の質問には答えず逆に尋ねてきた。

「あなた達は、私を招待してくれるつもりなの?」

 巧は言葉に詰まり、横にいる千夏を見た。今度は彼女が表情を固め、俯いてしまった。このことはこの場所に来る前に、何度も二人で話し合った。最終的にはおばさんに直接会い、婚約の報告をすることは二人の意見が一致した。だが招待するかどうかの結論は、最後までまとまらなかったのだ。

 そこでまずおばさんに合って報告する際に、出席するつもりがあるかどうかを聞いてみて、それから考えようと結論を先延ばししていたのである。しかしこんな質問が返ってくるとは想定していなかった。

 言葉を返せずにいる巧達を見て、おばさんはなんとなく察したのだろう。自分自身も今すぐには結論が出せないと思ったのか、さらに質問を重ねてきた。

「先ほどの話では、少なくとも結婚するのは一年以上先の話になるようね。しかも色々な条件がついているようだから、二人は結婚しない可能性もあるの?」

 これには巧が即答した。

「いえ、パラリンピック出場は、結婚のための絶対条件ではありません。僕は今すぐにも結婚したいと思っています。ですから結婚は必ずしたいと思います。いえ、絶対します」

「じゃあ何故、少なくとも一年後なの?」

 おばさんの口角は上がっていたが、目が笑っていない。巧は自分の膝をつねりながら小心者の自分が出てこないよう必死に押さえ、勇気を振り絞り彼女の目を見て答えた。

「僕が社会人として働きだしてまだ四年、それに二十二歳とまだ若輩者だということもあります。それだけじゃなく千夏と結婚することは、一緒に生活をしてみるなどして、もっとお互いが細かなことまで理解した上での強い覚悟が必要だと思っています。僕が障害を抱えた彼女を、それこそ心もバリアフリーにして支えられるかどうか。彼女もまた僕に遠慮すること無く、心から僕のことを信頼して一緒に暮らせるのかどうか。さらに二人には、共通の高い目標があります。その目標に向かって生活できるかどうかを二人で確認し合うために、それだけの期間が必要だと考えたからです」

「それで一年? じゃあ、結婚しない可能性もあるということね」

 おばさんは嘲るような微笑を見せる。巧は頭に血が上りそうになりながらも反論した。

「心は二人とも一致しています。しかし周りを取り囲む社会の現実は、相当厳しいことも十分承知しています。彼女は障害者というだけでなく、マスコミからも注目されていますから、今後活躍すればするほどより周囲の人達から、好奇の目に晒されるでしょう。だから先ほども言いましたように、この一年は二人が日本代表で居続けながら、高い目標を目指し、かつ夫婦としてやっていけるかを確かめる期間だと考えています。でも僕達は必ずその困難を乗り越え、絶対結婚します。そうなった時、おばさんは千夏の母として、心の底から祝っていただけますか。そのことを今日は報告と同時に、お尋ねしたいと思って参りました」

 自分達の決意を伝えることで、彼女の疑問には答えたつもりだ。だからもう一度最初の質問を繰り返した。おばさんは巧の最後の言葉を聞き、顔を歪める。

 そこで心は決まった。千夏がこんな彼女の表情を見られない現実に感謝する。敏感な千夏のことだから、おばさんの様子は肌で感じているかもしれない。

 それでも世の中には見ないで済むのなら、それに越したことはないものが確かに存在するのだ。

 おばさんは動揺した表情を立て直し、巧の質問に答えた。

「一年後、本当にあなた達が結婚すると決まったら、その時改めて考えるわ。もしものことには、お答えしようがないですから」

 その言葉を聞いて、横にいながらずっと固まっていた伯父と叔母は、安心したのだろう。急に口を挟んできた。

「そうだな。結婚したいと思っているとの報告は、確かに聞いた。婚約ということかな。でも真希子が出席したいかどうかを聞くより、本当に君達が結婚できるかどうかを見せるのが先だろう。話はまたその後だ」

「そうね。一年後でしたか。招待状の一枚でも送ってこられたら、その時考えればいいのよ」

 二人のここぞとばかりの皮肉を聞いた巧はそこで立ち上がり、頭を下げた。

「判りました。もうお伺いすることはないと思います。おばさん、お世話になりました。お体にお気をつけてください。それでは失礼します」

 千夏も同じ気持ちだったのだろう。それまで黙っていたが、巧の後に立ち上がり、

「今までお世話になりました。お母さんも元気にね。私のことは心配しないで。これからは巧と巧のご両親、棚田のお爺ちゃんお婆ちゃんと一緒に幸せに暮らします。さようなら」

 そう言って頭を下げ巧の右腕を引っ張るので、彼女の腕を絡めて誘導しながらソファの間を通り抜け、病院の玄関口へと向かった。

 後ろではなにやらぶつぶつと言っている声が聞こえたが、二人は彼らを無視して外に出てすぐ病院前に待っていたタクシーを拾い、後部座席に乗り込みしばらく沈黙していた。が、先に千夏が口火を切った。

「招待状は出さない、でええよね」

「うん、そうしよう」

 即答したことで千夏も納得したのか、腕を巧の右腕に絡めて肩に頭を乗せ、寄りかかってきた。巧は絡めてきた腕に左手を添え、静かに目を瞑った。覚悟はしていたが、残念ながら人との間には判り会えない関係が現実に存在する。

 他人なら距離を置くことで済むが、肉親ともなると簡単に割り切れない分厄介だ。それでもそう決断せざるをえないこともある。肉親といえども、思い切って距離を置くことでお互いが平穏に暮らせるという現実があるのだ。

 悲しいことだが世の中では親が子を、子が親を殺す事件が度々起きている。また親が子の育児を放棄し、子が親に暴力を振るう関係もまた無くなりはしない。

 それは血が繋がっている、というだけで無理に繋がろうとして起こるからではないか。逃げるのではない。他人との関係同様、争わないために関わらないまたは一定の距離と時間を置くという方法をとれば、平和的に解決できることもあると思う。

 巧と千夏は真希子との距離を置くことにより、最後まで結論が出なかった答えを出すことができた。巧はこれでいいと思っている。千夏もまたそう選択したのだ。

 彼女が失ったものがあるとすれば、その分巧と巧の家族を新たに得たと思ってもらえればいい。パラリンピックの理念としてもこういう言葉がある。

「失われたものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ」

 巧はイギリスの哲学者、ハーバード・スペンサーの逸話を思い出した。八十三歳と長生きをし生涯独身を貫いた彼に対して、友人が独身で過ごしたことを残念に思うかと質問したところ、彼はこう答えたという。

「まるっきり反対ですな。世界のどこかに私と結婚したかもしれない女性がいて、しかもその女性が私と結婚しなかったばかりに今、幸福に暮らしているのを思い浮かべるだけで私は本当にうれしいのです」

 彼は重ねて、こうも言ったらしい。

「オールド・ミスやオールド・ミスターを見ると私は思う。“彼女(彼)”は気の毒だ。しかし、地球上からもう一人の不幸者を救ったことは確かだ“」

 世界の偉人達の名言の中には、結婚は不幸なものだと述べている言葉は驚くほど多く、結婚は素晴らしいと説いている言葉が想像以上に少ない。

 でも巧はこれらの言葉を正男さんから借りた本の中から見つけ出して読んだ時、逆に思ったのだ。一人の女性と結婚して幸せにすることがそれだけ難しいことならば、結婚して一人の女性を幸せにすることさえできれば、それだけで人生これ以上誇れるものはないのではないか。

 そう思ったからこそ千夏にプロポーズしたのだ。巧は心に誓った。世の中の誰を敵に回しても彼女を、二人の幸せを必ず守ると。


 タクシーが千夏の家の少し手前に止まった。巧が料金を支払ってから先に降り、彼女を誘導する。安全確認の為に周辺を見回しながら、ゆっくりと車を降りてタクシーが走り去るのを見届け、彼女の左手を巧の右肘に掴ませた。

 そこから千夏の家の玄関に向かって歩きだした、そんな時だ。背後から急に音が聞こえた。咄嗟に振り向きながら、千夏を庇うように彼女の背後へ回る。すると突然湧いて出てきたかのように現れた自転車が、こちらに向かって突進し今にもぶつかりそうな距離まで接近していたのだ。

「危ない!」

 彼女を避難させる間もなかったため、巧は千夏を自分の背中で守りながら自転車を受け止めようと構えた。

 ドンッ、と鈍い音がして巧は跳ねられ、思いの外大きな衝撃を受けたために道路へと倒れた。その後胸と首に激痛を感じた巧は、呼吸ができずにいた。

「巧? 大丈夫? 巧? 巧! 誰か! 誰か!」

 千夏の叫び声が、遠くでぼんやりと聞こえる。そのまま巧は意識を失った。


 巧が目を覚ましたのは、病院のベッドの中だった。真っ先に飛び込んできたのは千夏と母の顔だった。その横には棚田夫妻と白衣を着た医者らしい姿も見える。

「良かった。千夏ちゃん、巧が目を覚ましたわよ。巧、見える? 喋られる?」

 母のうるさい声が聞こえた。見えるし、聞こえる。ああ、でも喉と胸が痛い。そう巧が答えようとしたが、言葉にはならなかった。

「あああうううう」

 潰れたような音が、口から洩れる。その様子を見ていた母が眉間に皺を寄せ、悲しい表情をした。

「やはり喉が潰れていますね。声帯をやられたので、しばらく声は出せないと思って下さい。どこが痛みますか? 痛いところを指さしてください」

 淡々と話す医者が、ゆっくりと電動ベッドを起こしてくれた。その言葉に巧は茫然としながらも自分の胸と喉、さらに痛む足首を指差す。

 起き上がったことで、自分の体全体を見回すことができた。手や足は動く。目や耳も正常のようだ。足首はテーピングで固定された上に包帯が巻かれていたが、スポーツ選手としての経験から見た目や感覚からも、骨は折れていないと判った。

 だが首は固定されていて、痛む自分の胸を見ることができない。

「足首は軽い捻挫ですから全治二週間、胸も打僕で済んでいますから同程度だと思います。ただ声帯部分の損傷が激しいです。こちらはしばらく様子をみないと」

「喋られないんですか? もう治らないんですか?」

 医者の説明を遮り、母が金切り声で叫ぶように問い詰める。

「お母さん、落ち着いて下さい。幸い頭は打っていないようですから、その点から後遺症が残ることはないでしょう。ただ喉の声帯に関しては、手術後のリハビリなど今後の治療の過程を経てみないと判りません。言葉が聞き取れる状態まで回復する可能性もありますが、後遺症が残ることもあります。ですから今の時点では、なんともお答えできません」

 その後の医者と救急車を呼んで病院に運んでくれた棚田夫妻の説明によると、巧とぶつかった自転車は電動機付きだったらしい。

 倒れた巧の胸の上を通った際、不運にも声帯を踏み潰す形でその重い車体が柔らかい喉の部分を通過し、車輪跡もくっきり残っていたという。幸い千夏は無事で、彼女の家で二人の帰りを待っていた棚田夫妻が、助けを呼ぶ声に驚いて出てきたようだ。

 その際に巧が気を失っている現場の様子で状況を把握し、救急車を呼んだという。しかも驚いたことに自転車の運転をしていたのは、あの喜多川望だというのだ。

 彼女も衝突の衝撃で道路に転倒したらしい。その際に体を打ちつけたため動けず、その場でうずくまっていたようだ。そして駆け付けた救急車とは別の救急車に運ばれ、今は警察の事情聴取を受けているという。

 ぶつかった相手が望だと知った千夏は、自分を狙ってわざとぶつかろうとして起こった事故の可能性があると主張し、警察がその確認を行っているようだ。

 突然の衝突だったので、運転者が望だとあの時は判らなかった。だが今思うとそうだったのかもしれないという程度の記憶しか、巧には無かった。

 後に彼女は故意によるものではないと主張し続けたが、事故を起こした自転車が盗難されたものであったことから彼女は逮捕されたという。その上家宅捜査により、彼女のパソコンから千夏に対する誹謗中傷の書き込みが、多数あったことも明らかになったようだ。

 また彼女の友人からも、巧の婚約を知って逆上していた望は、自分の持っていないものを持っている千夏のことを嫉妬していたのではないかという証言も得られたという。

 結局千夏を故意に狙った犯行の疑いがかかり、巧に対する傷害罪と千夏に対する殺人未遂の疑いで再逮捕されたらしい。

 徐々に状況が判ってくると段々、声が出ないという現実がいかに大変なことなのかが、巧にも理解できた。このまま喋ることができなくなれば、ブラサカの日本代表どころか、今後のキーパー生命が絶たれたと言っていい。

 そのまま巧は長期入院することになった。千夏は四月末の女子代表合宿を終え、五月二日から八日までオーストリアのウィーンで行われる国際大会へ出発する前日に、棚田夫妻と共に巧の病室に寄ってくれた。

 会話は、母が新しく購入してくれたタブレットを使って行った。巧が話したい時は内容を入力し、音声ガイドで読み取って相手に伝えるのだ。

 しばらく四人で他愛もない会話をしていたが、途中で気を利かせてくれたのか棚田夫妻は席をはずし、病室で千夏と二人きりになった。

 巧の声のリハビリは始めたばかりで、一進一退となかなか思うように進んでいない。だが手術の結果、話せるようになる望みは多少なりともあるという。

 巧はその可能性にかけて取り組んでいくしかない。だが期せずして自分自身もこのまま障害者となることもあり得る状態から、巧は千夏に向けて謝罪の言葉をタブレットに入力した。その文章を音声ガイドが読み取った。

「ごめんよ。リハビリは頑張るけど、このままでは千夏と一緒に目指していた目標を叶えることができなくなるかもしれない。こんな僕なら君の支えになるどころか、足手まといになってしまう。その時は僕との婚約を破棄してもらっても構わないから」

 すると彼女は真っ赤な顔をして怒った。

「馬鹿なこと、言わんといて! 絶対巧の声は出る! それに万が一声が出えへんようになっても、絶対、絶対、別れたらんからな! あんたの覚悟はそんなもんやったんか! あんたの声が出えへんようになったら、私があんたの声になったる。そしてあんたが私の目になってくれたらええんや! 夢は諦めへん。以前と同じ夢じゃなくなったかて、巧と私でまた新しい夢を、目標を持てばええんや。もしあんたが障害者になっても、私がおる! 私はブラサカと出会って、お爺ちゃん達や巧や仲間達がおったから、ここまで生きてこれたんや。諦めたらあかん! みんなの声は私の光やったんや。例え巧の声が聞けんようになっても、あんたが私の光であることは変わらへん! もう巧の存在自体が私にとって光なんやで! 頼むからそんな事言わんといて!」

 号泣しながら発する千夏の言葉に、巧は心を打たれた。小心者が弱気になってしまい、千夏をひどく傷つけてしまった馬鹿な発言を悔いた。巧はタブレットに入力する手間を省き、言葉にならない音を発しながら彼女に泣いて謝り抱きついた。

 そうだ。巧は誓ったはずだった。世の中の誰を敵に回したとしても彼女を、二人の幸せを必ず守ると。そう、こんな怪我には負けない。

 声が出ない障害という名の敵が一生付きまとったとしても、巧は千夏と共に生き必ず幸せになって見せると、この時改めて心に誓ったのだった。(了)

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