新たな戦い

 巧は二月の日本代表合宿後に発表された、三月に闘うブラジル戦の代表GK二名の中になんとか入ることができた。だが第二GKとしての出発だった。

 さらにブラジル戦の前には五月の国際試合に参加する女子日本代表初のメンバー発表があり、そこに千夏の名前もあった。

 二人が日本代表になると言う夢は、これでほぼ同時に叶ったことになる。

 その後男子日本代表はFP八名を含む十名で直前合宿を組み、三月二十日に埼玉でブラジル代表と戦った。

 結果は1対4と日本代表は敗戦したが、試合開始七分で先制されたものの前半二十分で同点に追いつくなど途中まで善戦していた。しかし前半終了間際に一点を失った日本は、後半二十分にも追加点を入れられたのである。

 終了間際の1対3の場面で巧は途中交代して出場を果たしたが、試合終了間際に絶妙なループシュートを決められ、悔しい思いを残したまま巧の初めての代表戦は終わった。

 それでもブラジル代表は、素晴らしいプレーを随所に見せつけてくれた。その試合を千夏は自宅で、年男さんとネット動画で観戦をしていたという。

 そこでさらに戦ってみたいというモチベーションを高め、五日後に行われる大会に向けての準備に入っていた。そのトーナメントで勝ち上がれば、今度は二人同じチームでブラジル代表と決勝で戦うことができるからだ。

 巧達のチームは西日本リーグ全勝優勝の自信を胸に、三月二十五、二十六日開催の日本一を決めるKP杯を迎えた。

 ブラジル代表、北日本一位、東日本一位と二位、西日本リーグ一位チームと他のカップ戦で優勝した北海道のチーム、また大会当日の予選を勝ち抜いたチーム、総勢七チームによるトーナメント戦が始まったのだ。

 巧達は初戦で予選突破チームと対戦し、完封で勝利した。だが問題なのは次の対戦だった。相手は代表候補合宿にも何度か呼ばれている松岡や、ブラジル戦にも出た日本代表で長く活躍しているベテランの青山選手率いる埼玉のチームだ。

 しかし彼らに勝てば、決勝ではブラジル代表と当たることが初日の結果により決まっていた。さらに決勝でブラジル代表に負けても、この試合に勝てば参加した日本チームの中では最上位になる。その為是が非でも勝ち上がりたかった。

 ブラジル代表との対戦もそうだが、実質日本一になるチャンスでもあったからだ。

 ここまで十分巧も千夏も活躍を見せ、日本代表としての意地は見せられたと思う。昨年の冬に代表育成合宿に呼ばれた頃よりも、二人はブラサカ選手として大きく成長していた。

 巧は元々のセービング力に加え多くの試合や練習をこなしていく内に、選手に対する声出しを学んだことでより強固な守備力をチームにもたらした。千夏はこれまでの練習と巧との特訓により、攻撃能力を格段にアップさせていた。

 こう言ってはなんだが、練習量が他の選手達とは格段に差があったと思う。巧は平日働いてはいたが土日は休みであり、平日でも早朝や夕方の時間は自由に使え、それらを全てブラサカの練習に充てていた。

 千夏は働いていなかったためもっと多くの時間を割くことができ、巧のいない時でも個人練習を常に続けていた。

 そもそもそういう練習漬けの毎日を過ごすことに、二人は慣れている人種だ。特に千夏は視力以外全くの健康体であり、今まで鍛え上げてきたトップアスリートとしての肉体を保っていた。

 巧が二十二歳で千夏は二十三歳と若かったことが、選手としても大きな武器となっている。そんな巧達二人に感化されたチームの他の選手達は、毎週一回行われるチーム練習以外でも、時々巧と千夏の練習に加わるなど積極的に取り組んだ。

 そうした成果が、リーグ参加一年目にして表れている。ただ巧達も含めチーム全員に足りないのは、実戦における経験値だ。

 これは今後代表で経験を積むなり、国内戦で継続して積み重ねるしかない。その点はこれまで長く実績を積んできた埼玉チームが優っていると言わざるを得なかった。

 巧達は日本代表チームも採用しているダイヤモンドフォーメーションを取り入れ、守備専門の二人、守備兼サポート役の選手が一人、攻撃に一人といった布陣でチームは勝ち上がってきた。

 千夏は主に攻撃専門だが、時には守備やサポートも行う。もう一人の田川たがわ選手という攻撃も守備も得意な選手がいて、田川が攻める場合は千夏がサポート役、千夏が責める時は田川がサポート役というこのツートップが、八千草チームの強力な攻撃陣を形成している。

 田川選手は三十二歳で、生まれた頃から全盲だった選手だ。以前は別の障害者スポーツをやっていたが、八千草のブラサカチームが創設した頃、障害者としては少し遅れて参加したメンバーの一人である。

 今はブラサカ一本に集中して活躍してきた、とても頼れる選手の一人だった。他にも障害者の選手が二名、健常者の控えキーパーとFP選手が三名いる。総勢八名が八千草チームの現在の戦力だ。

 

 そしてとうとう埼玉チームと、決勝進出をかけた一戦が始まった。

 キックオフは埼玉からだ。相手チームの攻撃の要であるベテランの青山とあの松岡が、コート中央にセットされたボールのところで肩を並べた。そのボールから半径三mのセンターサークルのラインぎりぎりの中央の位置に、千夏と田川が立つ。

 その二人より少し下がった形で、守備専門の宮前みやまえ、そして九鬼くきという二人の選手が同じく中央付近で攻撃に備えた。

「これから試合を始めますので、観客の皆さまは試合が進行している間は、大きな声を出さないよう注意して心の中で応援して下さい。ゴールが決まった時や試合が中断した際には大きな声で喜んだり声援を送ったりして下さい」

 そんな場内アナウンスが流れた後に審判の笛が鳴り、松岡がボールをちょこんと蹴った。それを青山がすぐに自分の足元に収めると、細かくドリブルしながらやや右斜め前方に向かって突き進んだ。ドリブル音を察知した千夏と田川が、青山に近寄っていく。

「ボイ! ボイ!」

 二人が声を出して、青山のドリブルを阻もうとする。そのやや後ろを守備陣二人が、少しずつ位置を修正しながら移動した。千夏や田川が抜かれても、すぐに対応できるようにするためだ。

 巧もゴール前に立ちながら細かな指示で青山の位置を教え、味方の守備陣の位置取りをアドバイスする。埼玉の他の残りの三選手は、ハーフラインを越えてこない。この攻撃はまず青山一人に任せるようだ。

 すぐに千夏が、青山選手のボールを奪いに突撃する。やや後ろに田川が立って、次の動きに備えていた。これは2ー1ー1という布陣である。相手からボールを奪えば、すぐに攻撃できる最適なフォーメーションだった。

 しかしさすがは日本代表の青山だ。すばやいスピードで、千夏を振り切って前に進む。そこに田川が前に立ち塞がった。そのため青山の前進が一旦止まる。しかしまた左へと移動した青山が、田川を振り切った。

「相手、一時十m!」

 巧の声に、守備専門で鍛えてきた宮前と九鬼が反応し、声を出す。

「ボイ! ボイ!」

二人で青山の前進を食い止めようとした。抜かれた田川が、その間に今度は味方守備の二人の後ろに回り込む。右から宮前、左から九鬼が相手に寄せ、その後ろに田川が控える、逆トライアングル型の守備だ。

 千夏は攻撃に備えて、ハーフライン付近の右端フェンス寄りに移動していた。

「真ん中、抜かれるな!」

 青山が宮前、九鬼の間を抜こうとしていたので巧が声を出す。すると二人は体を張って間を詰め、青山のドリブルを止めた。

「ボール、後ろに離れた!」

 激しく三人が衝突した時にボールが青山の足元から離れ、後方に転がっていくのを見て巧が声を出す。青山は戻りながらボールを追いかけるが、彼の背後にいた田川が巧の指示でボールに近づき、再度ボールをコントロールしようとする青山の所に突進した。

「ボイ! ボイ!」

 田川の厳しい寄りに、背中を向けたままなんとかボールに追いついた青山が、後ろを向けずにやむなく味方陣営の方へとドリブルしていく。

 だがその近くには千夏がいた。彼女はすかさず青山に接近してプレッシャーをかけた。

「ボイ! ボイ!」

 青山の後方からは田川が追いかけ、千夏と二人で青山を挟む形になった。

「ボイ! ボイ!」

 グラウンド中央付近で、二対一の攻防が続く。なんとか自力で振り切ろうとしていた青山だったが、思っていた以上のディフェンスに苦しんだらしい。堪らず味方へとパスを出した。

 ボールは相手守備陣のいるエリアに転がり、松岡がそのボールを受けて青山達のいないサイドに向かってドリブルをしだした。

 この選手は田川と同じ攻撃も守備もできる選手であり、若さから運動量もさることながらスピードとテクニックがあった。

「左サイド沿い、十五m!」

 中央にいた監督である谷口が、松岡の位置を知らせる指示を飛ばす。同時に運動量では負けていない田川が素早く寄せに入った。

「ボイ! ボイ!」

 宮前と九鬼も守備位置を変え、田川が抜かれた場合に備えた。青山はパスを出した後、松岡とは逆のサイドに位置を取り、ゆっくりと歩いている。

 千夏はその気配を察知したのか、もし青山にパスが出された時には反応できるよう同じサイドに位置取りしていた。だが逆に味方がボールを奪った場合、すぐ攻撃へ転じるために、やはりハーフライン近くで立っていた。

 今度はゴール手前十mほどの位置で、松岡と田川、そこに宮前と九鬼が絡んでの三対一での攻防が始まる。松岡も伊達に代表候補として呼ばれた選手ではない。なかなか簡単にはボールを奪えそうになかった。

 それでも何とか三人で彼の攻撃を食い止めながら、前には進ませずに中央付近で右へ左へと移動していく。

 するとサイドにいた千夏が、ふらっと動き出した。松岡が味方守備陣のプレッシャーに押し戻され、やや自分のいる位置に近づいてきたことを察したのだ。

 さらに同じサイドにいるはずの青山の位置を監督の声で確認すると、松岡と青山との間の位置に移動した。その時まさに攻撃に苦戦した彼が青山にパスを出そうとしていたのだ。

「松岡、蹴るな!」

 相手監督が千夏の動きに気づき、そう声を出したが一瞬遅かった。すでに青山への元へとボールは転がっていた。

 それを読んでいた千夏はすかさず走り込み、音を頼りに転がるボールへと足を伸ばし、ぎりぎりのタイミングでパスカットに成功した。

 ボールをキープした千夏は、足元で左右の足の内側を使って細かく蹴る。素早いドリブルをしながら、相手ゴールへと突進していった。こうなると巧は声を出せない。

 千夏の背中を静かに見守りながら、味方ガイドの指示を頼りに動く彼女がシュートを決めて帰ってくるのを待つしかなかった。

 フットサルなら声を出して指示すべき場面だが、それができない分逆にじれったい。そして寂しく切ない思いを巧は抱えることになる。

 すぐそこにいるのに、手が出せないだけでなく声も出せない。力になってやれないもどかしさと同時に、千夏がゴールに向かっていく姿を頼もしく感じていた。

 それでも味方ガイドに指示を委ねなければならないことに嫉妬心を持ってしまうこの矛盾した思いに、なかなか巧は慣れなかった。

 千夏と同じチームに入って一緒にブラサカを始めてから、ずっとこの複雑な思いを胸に練習や試合を重ねてきた。だがいつまで経っても、巧はこの感情を持て余している。

 だが決して嫌なものでは無かった。共に戦っているという結束力は、個別練習に付き合っていただけの頃とは比較にならないほど強くなった。

 それに以前よりもずっと彼女のことが身近に感じられるようになったことは確かだ。そんな相反する思いを胸に、巧は静かに彼女の姿を目で追っていた。

「ボイ! ボイ!」

 今度は相手選手が声を出し、千夏の前に立ちはだかりプレッシャーをかけてくる。今は二対一だ。守備に残っていたブラジル戦にも出た、日本代表のレギュラーでもある遠山とおやまと代表候補として合宿にも呼ばれた経験のある坂口さかぐちという選手二人が相手である。

 青山は前線に残ったままで、松岡はまだ守備に戻り切れていない。ここがチャンスだ。味方ガイドが声を出し、相手の位置や千夏のゴールまでの距離や角度を声で知らせる。彼女がシュートを打つ際に必要な情報を与え続けた。

 千夏が持ち前のスピードで左へ右へと移動することで、相手守備陣が体でぶつかってくることを防いでいた。

 男性が体に本気でぶつかってくれば、彼女のような小さな女性は簡単に吹っ飛ばされる。そこで反則をとってもらえればいいが、きちんとボールに向かって守備をしていれば、少々の接触くらいではなかなか笛は吹いてもらえない。

 千夏はそのような接近戦にならないよう、すばやく動いて相手との距離を保つようにドリブルをしていた。相手は何とか食らいつこうと近づき迫ってくるが、音を頼りに寄ってきても、スピードに勝る千夏は既にそこにはいない。

 だから相手選手は音の進む方向で、彼女が次に進む方向を先に予測して動く。だがそこはさすがに天才少女と呼ばれた千夏だ。ボールを素早く止めて、左に少し転がしてからすぐ右に大きくドリブルした。

 また今度はそこからすぐ左に方向転換し、ドリブルする。これをやられると、予測すればするほど千夏の術中に嵌まる。実際のボールの位置とは逆方向へと守備する選手は体を振られ、気づいた時にはもうすでに彼女は足の届かない位置に移動してしまっていた。

 ボールの音による予測反応が高い選手相手だと、さらに効果がある。レベルの高い遠山と坂口であったことが逆に幸いしたようだ。

 三度、四度とそのドリブルを繰り返し、遠山達守備陣を翻弄した千夏は二人を抜き去り、ゴールキーパーと一対一になった。相手キーパーは、自分が動けるゴールエリアのラインぎりぎりに立ち、シュートコースを消そうとしている。

 ここまでくると、味方ガイドの指示も一つしかない。

「打て! 打て!」

 興奮しながら、ゴールの真後ろに立って声を張り上げる。そこがゴールの中央だと千夏には判るが、それより右にゴールを決めるか左に決めるのかは、彼女自身が判断するしかない。キーパーがどのコースを塞いでくるかは暗闇の中、頭で想像するしかないのだ。

 それでも千夏は何百回ともなく、こうした練習をしてきた。軽く右のインサイドで左にボールを動かした瞬間、左足のインサイドで軽く蹴ったボールは、ブロックしようと手足を懸命に広げていたキーパーの股の間をコロコロと転がり、ゴールへと吸い込まれていった。決まった! ゴールだ!

 選手は点が決まったことを、周りの歓声で察知する。それまではガイドや選手達の声とボールの音しか聞こえない比較的静かなグラウンドが、突然ドッっと湧くからだ。

「よし! 決まった! ナイスシュート!」

 味方ガイドがグラウンドの中に入り、千夏の元によっていく。そして抱きつかんばかりに喜び、田川や宮前達もその声の元に集まった。先制ゴールだ! 巧もゴールエリアから飛び出して、千夏の元に駆け付けた。

「ナイスドリブル! いいシュートだったよ!」

 抱きつく訳にもいかないので、巧が千夏の両肩をポンポンと叩く。彼女は少しはにかんで喜んではいたが、すぐに顔を引き締めた。

「まだ始まったばかりだよ! これから、これから!」

 そうやって手を叩いて声を出し、気合いを入れた。

「そうだ、まだまだだ。絶対守るぞ!」

 各選手が気合を入れ直し、巧も含めそれぞれの守備位置に再び戻る。このゴールは上手くパスカットしてからの、奇襲攻撃が成功したケースだ。

 相手の守備もまだ千夏のドリブルに慣れていない、序盤での展開だったこともある。この後はそう簡単にいかないだろう。

 なんといっても相手チームには、青山と遠山という日本代表のレギュラー選手が二人もいる。代表候補経験者が松岡と坂口とキーパーの他に控えにも一人いて、層が厚くレベルの高い強豪チームだ。

 先制されたこともあり、相手はこれから必死になって攻めてくるだろう。守備も千夏に対するマークが、より厳しくなると覚悟しなければならない。

 そう危惧していた通りその後の試合展開は、完全に相手チームの猛攻撃をなんとか必死に耐える時間が大半を占めた。

 先制されたことで千夏がボールを持った時の寄りはさらに激しくなり、何度も千夏は弾き飛ばされて倒された。FKを貰ったケースも二度あったが、そのまま流される場合も多く、その度に千夏の体力はどんどんと削られていく。

 特にサイドフェンス沿いに追い込まれると、三人がかりで取り囲まれ何度も押しつぶされた。そうなるとそれまでできていた素早いドリブルも、体力の消耗により切れが悪くなり、シュートも精度を欠いていく。

 そのため一度千夏は監督の指示で選手交代し、グラウンドを下がった。選手交代は何度でもできるのがブラサカのルールだ。体力の回復を図るため、そして守備力はやや劣り男子選手に比べて体力的にハンデがある千夏をこの場面で変えたのは、正しい選択だと思う。

 守備はというと、青山のドリブルを最初は三人でもなんとか止められていた。だが徐々に癖を読まれ始めたのか抜かれることも多くなり、シュートを何本も打たれた。

 そうした展開になると、こちらは四人全員で守備に回らざるを得なくなる。当然攻撃する回数は減った。一方的に攻められ、守る時間ばかりが多くなるのは必然の流れだ。選手を休ませる為にも、前後半で一回ずつ使える一分間のタイムアウトも取った。

 巧は何度となく飛んでくるシュートをなんとか弾き、キャッチしてゴールを守るしかない。やがて攻められ続けた時間がようやく終わりに近づき、なんとか無失点のまま前半終了の笛が鳴りそうなところまでやってきた。

 しかしまだ前半戦だというのに、こちらの選手は千夏の他にも何度か選手交代をしたにもかかわらず、疲れきっていて相手チームとは動きが全く違った。

 やはり強豪の選手層は厚い。それに比べ自分で言うのも何だが、このチームが勝ち上がれたのは、巧の圧倒的なキーパーの守備力と、千夏の素早い攻撃力があったからだ。この二大要素に頼り過ぎていた感があったことは否めない。

 前半最後の場面で、その選手層の薄さが出てしまった。青山に振り切られてばかりで止められない守備陣の一人が、ゴール前で追いかける際に手で青山を押し倒してしまったのだ。

 当然のように笛は吹かれ、第一PKの反則をとられた。キッカーはやはり青山のようで、審判の手を借りてボールを所定の位置にセットし蹴る構えを見せた。

 第一PKは前半これで二回目だ。一回目は何とかセーブしたが、それでも厳しいコースに蹴られて危うく決められそうだった。

 とは言ってもPKの練習は、千夏相手に何度も繰り返し練習してきた。フットサル時代でも同じ距離からもっと強烈なスピードのシュートを、練習も含め今まで何百回となく受けてきたことがある。巧にとっては得意な場面だ。

 それでも守備率一〇〇%とはいかないのがPKである。青山もこれまで国際試合などを含め、何度もレベルの高いキーパー相手に点を決めてきたはずだ。それに以前、代表の育成強化合宿に青山が参加した時、何度か彼のPKやシュートを止めた巧がブラサカを本格的にやり始めたと聞いてから、かなり研究をしていたとも聞いている。

 同じ代表の仲間になってからも、巧のキーパーセーブの動画を何度も晴眼者のコーチに観て貰い、その動きを詳細に学んでいたらしい。

 同じリーグでもないし、直接当たることなどほとんどない選手相手にそれほどまでやっていたのだ。今回の試合の為だけでは無く、合宿時に何度か止められたという悔しさが、彼の中にあったことは確かだろう。

 それだけではなく、その執念は彼の日本代表選手としての高いプライドと、晴眼者からゴールを奪ってやるという、ブラサカ選手の根本的な闘争心から来ているのかもしれない。

 そこまでライバルとして評価してくれている青山に、巧も真剣に立ち向かった。心を落ち着け、一度目を閉じて深呼吸をした後、ゴールラインに立って構える。

 どちらに飛ぼうということは決めずに、いつも通り神経を研ぎ澄ます。目が捉えた情報を元に、体が反応する方へと飛んで弾き飛ばすだけだ。

 彼らは巧には無い、耳から、そして気配から察しイメージするという力を持っている。それなら巧は彼らには無い、目で見る力を如何なく発揮して対抗するしかない。それがこのブラサカの、視覚障害者対晴眼者の対決という他のスポーツには無い魅力なのだから。

 相手ガイドがゴールポストをコンコンと叩き、青山にゴール位置を伝え終えた。しばらく間をおいて、審判によりピーっと笛が吹かれる。

 青山はボールに添えていた手を離した。先ほどはノーステップで蹴ってきた。強化合宿でも何度か見てきたけれど、それがPK時における彼のプレースタイルなのだろうと思っていたが甘かったようだ。今度は違った。

 彼はボールの位置を確かめた後に、一歩だけ下がった。そして彼は軸足である左足をボール横に踏み込み、右足を大きく振りかぶって蹴り込んできたのだ。巧は青山のワンステップでのPKを、この時初めて見たことになる。

 ノーステップで来るだろうと集中していた神経が、予想外の動きにタイミングを外されて一瞬途切れたのだろう。反応がいつもより少し遅れた。

 またノーステップ時よりも踏み込んでいる分、シュートのスピードが先ほどよりも速い。ボールは腰辺りの高さを通って、巧が懸命に伸ばした右手の指先をかすめた。

 やられた! そう思った瞬間、バン! と音がなり、ボールはポストに当たって跳ね返った。

 僅かに触れた分、ボールの軌道が逸れたらしい。なんとかゴールを阻止することができたが、まだボールはコート内を転々と転がっている。

 巧は慌てて掴みに行こうとしたが、すんでのところでゴールエリアから出てしまった。ここから先、キーパーは手が出せないので飛びだせば反則になってしまう。

 跳ね返ったボールをシュートするよう、相手ガイドによる選手達に指示する声が巧の後ろから飛んだ。キッカーの青山がいち早く反応して、ボールに近づいて来た。

 味方の守備陣も一歩遅れてボールに寄っていく。だが青山が先に追いつき、今度は左足で再度シュート打って来た。

 巧はゴールエリアのライン前で、コースを消すために体を張って構えていた。その左足に向かって、ボールは低い弾道で飛んで来る。すばやく足を延ばしてブロックしようとしたが、僅かに届かない。

 今度は触ることもできなかった。くそっ! そう思いながらボールの軌道を目で追いかけた。すると今度は逆サイドのポストを僅かに掠め、ボールがゴール外側のラインを割って飛んで行った。

「ああああっ!」

 一斉に観客達が大きな声で、僅かに外れた惜しいシュートに悲鳴を上げ、残念がっている。その中に巧達のチームを応援してくれるサポーター達の、安堵する声も混じっていた。

「ナイスキーパー!」

 主催者兼監督の谷口から、巧に向かって大きな声が飛んだ。同時にシュートが外れたことを知った、千夏を含めた選手達からも声をかけられた。

「巧、ナイスー!」

 そこでピーっという笛が鳴り、二十五分の前半がようやく終了した。互いのチームのコーチやマネージャー達が選手達をサポートするために、グラウンドにどっと入ってくる。そして一人一人に肩を貸し、それぞれのベンチに戻っていった。


 なんとかピンチを脱し1対0で後半を迎えられたことは、巧達のチームにとっていいゲーム展開だ。これ以上点を取るのは難しいだろう。ならば巧がこの一点を、守り切るしかない。

 もちろんあと一点でも二点でも入れてくれればいいが、前半のような形ではそれもなかなか厳しいだろう。相手はやはり強い。しかも相手チームと比べて選手層が薄い分、疲労してくる後半戦は、巧達のチームにとって不利だ。

「巧君、ナイスセーブ! ここで一点を守ったのは大きいよ。このまま守ってくれというのは酷なお願いだろうけど、なんとか頼む。ディフェンス陣は、後半もしっかり頼むぞ」

 谷口からの声かけに、休息を取っていた選手達が水を口にしながら静かに頷いた。その姿は疲れ切っていて、声を出すのも辛い様子だ。しかし千夏は一人声を張った。

「キーパーにばっかり頼っていちゃ駄目だよ。もちろん守備もやるけど、少なくともあと一点。あと一点取って、巧を楽にしてやんなきゃ」

 そういう千夏も、疲労で足が動かなくなっているのは判っていた。足腰には自身がある彼女も、さすがにあれだけタフな男性陣から何度も衝突してひっくり返されていたら、体力が消耗するのも当然だ。それでもあえて、巧も鬼になって声を出す。

「そうだ。あと一点は取りに行こう。相手の攻撃陣は強烈だから、守備に時間をかけてしまうのはしょうがないし、相手守備陣も固い。だから徹底的に守って、相手の隙をついてのカウンター一発。そこにかけるんだ。守りながらもそのことを頭に入れて、絶対チャンスを逃さないようにしよう。千夏、田川さん、頼みますよ。他の選手は徹底的に体を張り、くらいついて守って欲しい。最後のゴールは僕が必ず守るから」

 おう! よし! という返事が戻ってきた。なんとか声を絞り出し、後半戦に向けて自分達に喝を入れるかのように、それぞれが気合を入れ直す。

 その選手一人一人に、コーチや今回ボランティアで参加してくれているドクターやメディカルスタッフが声をかけ、怪我や体調の具合を確かめていた。

 特に千夏の体は、尾上おがみという女性のメディカルスタッフによって入念にチェックされていた。彼女は巧や千夏のマネジメントをする会社から派遣された専任スタッフで、普段の練習時から主に千夏の体調管理を診てくれる人だ。

 一応、巧が怪我や捻挫などをした時にも対応してくれることになってはいるが、ほとんど千夏御用達と言っていい。尾上は二十五歳で千夏と年齢も近いことから、最近ではプライベートでも仲良くしているようだ。

 その彼女の紹介により、普段は帯同しないドクターまで今回会社は用意してくれていた。ただ尾上には会社から手当てが支払われるが、ドクターは交通費以外あくまでボランティアとして、この会場まで来てくれている。本当に頭が下がる思いだ。

 他にもボランティアスタッフが多く集まり、その人達のおかげで巧達のチームは助けられていた。やはり視覚障害者一人に対し健常者が一人以上はついていないと、何かあった時に対処が難しくなる。

 そうしたサポート面が充実してきた点は、チーム主催者でもある谷口がこれまで地道に声をかけてきてくれたおかげだろう。もちろん巧と千夏が個別にスポンサー契約を結んだことにより、協力してくれるスタッフも増えたことは確かだ。

 しかも今回のように地元では無く、遠征先まで自費で来てくれている方々には本当に感謝の言葉しかない。

 ここまでして応援してくれる人達の為にも、是が非でも巧達のチームは勝ち進まなければならない。それ以上にスポンサーまでついている巧と千夏は、特に活躍しなくてはいけない立場なのだ。

 巧は千夏のメディカルチェックが終わったのを確認し、その後で尾上がこちらに来たので尋ねた。

「千夏の状態はどうですか? どこか怪我はないですか? あいつ、どこか無理してないでしょうね」

 尾上が巧を地面に座らせ、足をさすったり、体のどこかに怪我がないかを触診したりしながら答えた。

「無理するな、という方が無理ですね。彼女がこれだけのレベルの男性を相手にやっているんですから。でも大丈夫です。何箇所か打ち身はしていますが、後半戦に響くほどではありません。捻挫などの大きな怪我も、今のところ無いです。確かに疲れてはいます。でも少し休息すれば、体力のある彼女ですから回復は早いと思いますよ」

 尾上は当然のようにそう語る。千夏との付き合いも深い彼女が言うのなら心配ないだろうと胸を撫で下ろす。一通り巧の体をチェックした尾上が、今度は逆に質問してきた。

「巧さんはどこも怪我をしている所は無さそうですが、無理していませんか。千夏ちゃんが心配していましたよ。お互い、気にする所は同じなんですね」

 尾上は巧達二人よりも年上なのに、巧にはさん付け、千夏にはちゃん付けで呼んでいる。ちなみに巧達は尾上さんと呼んでいる。

 咄嗟に首を横に振り、顔色を隠すために立ち上がった。

「どこも痛めていませんし、無理もしていませんよ。あいつはいつまで経っても、僕を弟扱いしていますからね。後で自分の心配だけしてろって言っといて下さい」

 だが尾上は笑いながら一緒に立ちあがり、ちらっと千夏の方を向いた。つられて巧もその方向に目を向ける。すると彼女はゆっくりとストレッチをしていたが、なんとなくこちらの会話に聞き耳を立てているように見えた。

「彼女も同じこと言っていましたよ。“どうせ巧は私のことをすぐ心配してくるから、自分の心配をしてなさいって言っておいてください”だって」

 尾上はまだ何か言いたげに含み笑いをして、再び千夏の方へと向かった。そして二人で何やら話をし、笑っていた。

 その様子を見てどうやら千夏がリラックスできているらしいと判り、巧はもう少しストレッチしてから二人に近づいた。

「千夏、ちょっと良いかい。後半のことだけど。あれ、やってみるか」

 座っている彼女の右横に尾上が腰かけていたので、巧は左側の横に座って話しかけた。

「うん、それ、私も考えとった。やるなら後半開始から早目やね」

「そうだな。前半と同じ、奇襲作戦でないと通用しないと思うから。一発勝負だと思って後半の、僕がスローする場面の二回目がきたらやるぞ」

「うん。判った」

 前半では、これまで何度となく繰り返し練習してきたサイレンスローからのシュートを、一度も出してない。キーパースローはこの試合の最初の頃、千夏をめがけて何度か投げてきたが普通のスローだ。しかも千夏が点を決めてからは、相手に徹底マークされていたので、そこからシュートに持って行けるスペースがほとんど与えられなかった。

 その為キーパーからのスローは、マークされていない田川や宮前に渡してから、千夏のいる前線にパスを送るという方法を取ってきた。

 だからなのか田川から、または宮前から千夏に上手くパスが通らず、通ってもすぐ千夏が囲まれてボールを奪われる場面が前半では多かったのだ。

 巧らのチームにおける最大の得点源は千夏だと判っているので、最終的には彼女の所にボールが集まるということを、相手も十分に研究して理解している。

 それでも今まで対戦したチームにはうまく機能していた戦法だが、今回の相手だとそう簡単には通じないようだ。こちらも相手チームの研究はしており、ある程度の覚悟はしていた。けれどもこれほど力の差があったことは、想定を大きく上回り驚くしかなかった。 

 相手はこちら以上に研究し、今までに無いほどの気合を入れて挑んできていることは確かだ。しかしそんな強豪相手に、なんとか一点リードしたまま折り返せたことは上出来である。

 相手も先制されてなかなか追いつけず、焦りもあるだろう。向こうは同点ならば巧相手のPK戦は不利だと思うはずだ。その為後半は、より攻撃的になってくるに違いない。

 そこをなんとかしのいで、数少ない速攻のチャンスを活かしてもう一点取りに行きたかった。

「あとは田川さんと、あれも使えないかな」

 巧は千夏にそう耳打ちした。休息している彼の様子を見る限り、多少の疲労はあるようだが、まだまだ行けそうな感じだ。

「だったら、早い時間にそれも試してみる?」

「そうだな。試すなら体力と集中力のあるうちにやる方がいい」

「スローの攻撃の次に、田川さんとやってみようか」

「畳みかける訳だな。よし、彼には僕から話してみよう」

「お願い。その攻撃の後は徹底的に守るから。巧もお願いね」

「ああ。先行逃げ切りだ。ちょっと辛い戦法だけど、これしかないだろう。じゃあ田川さんの所に行ってくる」

 巧は立ちあがって軽く千夏の肩を叩き、まっすぐ彼のいる場所へと移動した。田川はメディカルチェックを終え、一人で地面に座り込んでストレッチを繰り返している。

「田川さん、ちょっと良いですか」

 そう声をかけてから彼の右肩に軽く触れた後、そのまま右横に坐った。彼は首を縦に振りながら、ストレッチを止めて巧の話を聞く体制を取ってくれた。

「後半の攻撃ですが、早めにまた奇襲をかけたいと思います。千夏と相談したんですが、後半が始まって二回目のキーパースローの時に、千夏と例の奴をやりたいと思います」

「いいよ。彼女もかなりマークされているみたいだけど、一回はやる価値はあると思う。前半はできなかったからね」

「はい。そこでですね。その攻撃が成功してもしなくても、次のスローの時は例の田川さんとのコンビネーションをやりたいのですが、いけますか?」

 彼はにやりと笑い、巧の肩に手をまわして引き寄せた。

「いけるも何も、あれだけ練習させられたんだから一回は試したいよね。やってみるよ。里山の攻撃の後、というのがミソだね。この二回の内一回でも成功すれば、今日の巧君なら守り切ってくれるだろ。期待しているよ」

 田川はそう耳打ちした後、バンバンと巧の背中を強く叩いた。痛がりながら、

「ありがとうございます。できれば後半でこのセットを二回できると最高ですけど」

 そう言って立ち上がると、田川さんは目を丸くして

「本気か?」と聞くので、

「本気ですよ、頼みましたから」

と笑って言い残し、もう一度彼の右肩に軽く触れその場を移動した。一応この流れを監督とガイドにも伝えておかなければいけない。

 意思の疎通をしっかりとして置くことが、このブラサカに限らずチームスポーツに必要な要件の一つだ。ただでさえ互いが見えないという、選手同士を遮る暗闇の壁が存在するこのブラサカにおいては、コミュニケーションを密に取ることが大きなカギを握る。

 音や声と言った情報だけでなく、選手同士それぞれが共通のイメージを持って取り組むことが大切なのだ。

 巧らのような健常者でも、ある一つの事柄について同じイメージを持つことは決して簡単では無い。当たり前だが、他人の頭の中は晴眼者であっても見ることはできないからだ。

 人それぞれ異なった環境で育っているため、思考や捉え方、持っている情報などは十人十色なのは当然で、そこから共通するイメージを持ち合うことがどれだけ困難なことか。 

 だが千夏達は視覚から得られる情報を遮られることで、限られた情報を元にイメージし、予測するという訓練をブラサカという競技を通じてこれまで習得してきた。そして特別な武器を持つために続けてきた、練習の成果を見せる時は今しかない。

 正直まだ練習時での成功率は、それほど高くなかった。それに一度読まれてしまえば、何度も通用する手ではない。

 だから今大会や西日本のリーグ戦でも、公式戦ではここまで一度も試してこなかった。それをこの大一番で成功させる確率は、限りなくゼロに近い。それでも試してみる価値はある。挑戦したからと言って、チャレンジャーである巧達に失うものは無いのだ。

 次に巧は宮前と九鬼にもその作戦の説明をし、他の選手達にも耳打ちして伝えた。こうしてチーム全体で共通認識を持てば、例え失敗しても非難する者はいない。しかし成功すれば喜びは何十倍にも大きくなるはずだ。

 ハーフタイムを終え、後半戦の為にそれぞれが所定の位置に着く。今回は千夏達のキックオフから始まるために、田川と二人が中央で肩を寄せた。その前方に青山と松岡が陣取り、ボールを奪う体制を取っている。

 ピーっと笛が吹かれ、田川がちょこんと触ったボールを千夏がすぐ足元に引き寄せ、細かくドリブルをしながら前に進む。そこに青山が真っ先に突っ込んできた。

「ボイ! ボイ!」

と相手を威嚇するような激しい声を出す。通常はそこまで大きな声は出さない。声を出すことで、守備者は自分の位置をボール保持者に知らせるのだから、声が大きければその分攻撃者が避け安くなるはずだ。

 しかし青山は前半に相当プレッシャーをかけ転倒させてきた千夏に対し、大声を出すことで恐怖心を煽る作戦に出たようだ。今までの対戦相手では遠慮はしないまでも、女性である彼女に対してここまで強く当たってきたことはなかった。今回が初めてである。

 そこを逆に意識してなのか、青山達は千夏の動きを封じ込める作戦を取って来ていた。だがそれは負けん気の強い彼女にとっては、ただの発奮材料にしかならなかったようだ。 

 千夏は大声を出す青山を避けることなく、真正面から突進をしていった。すると逃げていく彼女を追いかけるつもりでいた彼にとっては想定外だったのだろう。足がそこで止まってしまった。

 そこで彼女は軽くボールを足の甲に乗せて浮かせ、一瞬音の出ない間を作ってからすばやく青山の股の間にボールを通し、その横をすり抜けながら再びボールを足元に戻して細かくドリブルで前に進んだ。

 慌てて松岡、坂口が千夏の前に立ちはだかる。ハーフタイムの間にマッサージをしてもらって休みを取った分、彼女は前半の疲労から回復していて元気だった。

 得意の右、左と素早く動くドリブルに相手は振り回され、あっという間に四人目の遠山と相手キーパーの前まで辿り着いた。

「打て! 打て!」

 味方ガイドの声を聞き、千夏は遠山が近づいてブロックして来る前に、素早く右足を振り抜いた。鋭いシュートが相手ゴールに向かってまっすぐ飛んでいく。だがコースが甘く、ボールは相手キーパーの左手に弾かれゴール外へと飛んでいった。

「おしい! ナイスシュート! コーナー! コーナー!」

 相手選手に触れて外に出たため、味方のコーナーキックから開始される。キッカーは田川、そのすぐ横に千夏が付く。

 相手選手がゴール前に二枚壁を作り、青山と松岡が田川と千夏の攻撃に備えていた。味方の守備陣である宮前と九鬼もゴール前の壁の横に張りつき、攻撃の援護に備える。

 田川がちょこんとボールを蹴り、千夏がすぐにドリブルを始めた。その千夏の前を田川が人間の壁となり、相手選手が近づけないように立ち塞がる。

「ボイ! ボイ!」

と今度は控えめな声で青山と松岡が千夏に寄っていくが、それを田川が体で防ぐ形になり、千夏は横へ横へとスライドしながらどんどんゴールに近づいた。ゴール前の壁の横に立っていた宮前と九鬼が、壁になっていた相手守備陣の動きを封じている。すぐには千夏の元へ寄れないように邪魔をしていた。

 この作戦は、FK時においてよく取られる戦法の一つだ。その際、あくまでボールを持っていない味方は、ただそこに立っていて邪魔をするだけで、手を使ったり足で引っかけたりしてはいけない。

 ただ体で相手の進行方向に立ちふさがり、あくまで見えない者同士がぶつかってしまったとの体裁を取らなければならないのだ。

 上手く味方の体を壁にしてゴール左へと移動した千夏は、

「打て! 打て!」

というガイドの声を頼りに、今度は左足を振り抜いてシュートを打った。

 低く飛んだ弾道は相手キーパーの右足元に向かって飛んでいったが、コースを読まれていたのか、飛び付いた相手キーパーによってキャッチされてしまう。

「惜しい! ナイスシュート!」

 ガイドの声で千夏は悔しがるが、すぐに相手の攻撃に備えなければならない。宮前も九鬼も慌てて自陣に駆け戻った。田川はいち早くゴール十mほど手前まで戻っていた。

 千夏はゆっくりと小走りでハーフラインまで戻り、そこで待機する。まずは2ー1ー1の陣形を取った。

 相手キーパーのスローにより、巧から見て左サイドラインに移動していた青山がボールを受け、一人でドリブル攻撃を仕掛けてきた。松岡は千夏のいる周辺に立ち止まってマークしており、その後ろに相手守備陣が構えている。

 向こうも攻撃時は2ー1ー1の体制を取っていた。まずは近くにいた田川が寄っていく。

「ボイ! ボイ!」

 千夏は青山の斜め後ろからサイドライン側に追い込むように移動した。

「ボイ! ボイ!」

 宮前が前に出て田川の横に並び、青山のドリブルを阻止しようとブロックする。その後ろを九鬼が最後の砦として守備態勢に入っていた。

 前二人、斜め後ろに一人と三人に囲まれた青山が、サイドボードにぶつかりながらも前にどんどん進んだ。それを三人がかりでボールを奪おうと寄っていくが、青山の足元にあるボールがなかなか取れない。

「ボイ! ボイ!」

 三人の声が重なり、コーナー近くまで青山を追い詰めていく。そこで巧はそれまでハーフライン辺りにいた松岡が、いつのまにかゴール前に上がってくる姿を視野の端で捉えた。

 これはパスするつもりか、と気づいた巧は九鬼に松岡のマークに着くよう指示をしようと考えたが、ぐっとそれを抑える。

 フットサルならそう指示するか、もしパスがでたら自分が飛び出してパスカットする動きをしただろう。

 しかしブラサカの場合、松岡の位置を味方に指示するため声を出せば、それは相手にもその情報を伝えることを意味する。だからと行って巧が飛び出せる範囲はフットサルのように広くはなく、ゴール前二mまでの狭いゴールエリアの中だけだ。

 そうしている間に松岡が、第一PKのある辺りにポジションを取った。これは間違いなくパスを受け取るに違いない。

 判っていても飛びだせない巧のイライラは募るが、ここで九鬼に指示を出してもパスをカットできるかどうか判らない。また松岡が囮だった場合、青山があの囲みを突破してきた時に九鬼が止める頃には、フリーで青山にシュートを打たれてしまう。

 悩んだ末に、巧はコートを数字で割り振って事前に決めてあった暗号を口にし、九鬼にその位置へ移動するよう伝える。彼は意図を汲み取ったのか、松岡と青山の間を結ぶラインに陣取った。

 巧はパスカットをする道を選び、後は青山が一人突破して切り込んでくれば、一対一で対処しようと腹を括った。またパスが出されてカットできずに松岡に渡ったとしても、今度は松岡と巧の一対一になるだけだ。

 どちらにしても巧は一対一で守ると心に決め、どっちが来ても対応できる構えを取った。

 すると巧の後ろにいる相手チームのガイドが、何やら指示を飛ばした。やはりこれも暗号のようなものだろう。巧はすかさず声を出す。

「パスを出させるな!」

 だがそれより一瞬早く、青山が囲んでいる三人の足元をすり抜けるような鋭いボールを蹴り出した。

「九鬼の左足元!」

 巧が指示を出したと同時に、九鬼はなんとか音を頼りに左足を出した。だがわずかの差で届かず、ボールは巧と松岡とのちょうど中間に転がってきた。

 飛び出して蹴り返したいところだが、巧はこれ以上前に出られない位置で構える。松岡は転がってくるボールの音と、ガイドの指示を聞いてすばやく前に進んだ。

 しかしボールの勢いが速く、松岡が追いつく前にボールは通り過ぎていった。助かった。松岡が慌ててボールを追いかける。

 すぐに巧は九鬼に指示を出すと、彼は懸命にボールを追いかけ、青山を囲んでいた宮前と田川もゴール前へと戻ってきた。守備をしていた千夏は、すかさず静かにサイドライン際を上がり、次の速攻に備えてハーフラインに陣取る。

 松岡がボールに追いついて振り向いた頃には、九鬼も田川も追いついていた。

「ボイ! ボイ!」

 今度は二人で松岡をブロックする。その後ろに宮前が構え、二人が抜かれた後の対応に備えながら、青山がゴール近くまで来ていることを察知し、そちらへも神経を尖らせた。 

 青山は巧の手の届かないゴールエリアの僅か外の、松岡とは逆のサイドに位置を取っている。敵ながら絶妙な位置取りに巧は感心した。

 だがここから相手はどう来るか。もう一度松岡が青山にパスを出すのか。これが晴眼者の選手ならそれほど難しい場面でもないが、ブラサカではあまりにも難易度の高い戦術だ。

 本当にパス攻撃でやってくるのか。いや松岡がなんとかシュートを放ち、そのこぼれ球対応の為に、青山がここにいるのかもしれない。

 巧はこの陣形を見てここで相手攻撃を防げば、あの作戦には絶好の機会だと考え、咄嗟に声を出した。

「二回目じゃなく、ここで行くぞ!」

 おそらく一部の人間しか判らない指示だろうが、少なくとも千夏には伝わったはずだ。守備をしている今のタイミングしか、巧からは声を出せない。作戦変更の指示を出すならここでしかなかった。

 おそらく意味不明な巧の指示に、味方以外は理解できなかったはずだ。相手陣営が戸惑っているように見えたが、気を取り直したのか松岡がスピードを上げ、ゴール中央に向かって突き進んできた。

 打ってくる。そう予感したとおり、相手ガイドの

「打て! 打て!」

と指示する声と同時に、松岡が九鬼と田川の守備を振りきってシュートを打ってきた。

 巧はこのコースだろうと読んでいた通り、青山のいる方へとボールは飛んできた。ここで晴眼者ならそのボールに横から飛び込み、少しでも触れてコースを変えればゴールできたかもしれない。だが幸いボールは青山の前を通り過ぎ、巧は真正面でキャッチした。

 すかさず巧はサイドラインにいる千夏に向かって、サイレントスローした。ボールは上手く音もせずに静かに飛んでいき、千夏の足元手前で地面に着いてから、カランと音をだした。

 彼女はすばやくトラップして振り返り、左側四十五度の角度からゴールに向かった。ボールを足の甲に乗せて浮かしながら、音がなるべく鳴らないドリブルで突き進む。

 コート中央部分でまずは相手監督、その後相手守備陣に入った時にキーパーの指示が飛んだ。しかし守備に残っていた遠山と坂口は、千夏のいる位置が正確に捉えられなかったのだろう。難なく彼女は二人を置き去りにして、キーパーと一対一になった。

「打て! 打て!」

 味方ガイドが叫ぶ。その瞬間先程とは違い、ドリブルのスピードの勢いをそのままに、彼女は左足を振りぬいた。

 トゥキックで鋭く蹴られたシュートは、ボールの右側をこするように打たれた。その為僅かに左へとカーブを描きながら、相手ゴール右のサイドネットに突き刺さったのだ。

 相手キーパーもシュートタイミングが読みにくかったのと、飛んだコースが絶妙だった分、一歩も動けずにボールを見送った。

「ナイスシュート!」

 会場が先ほど以上に、どっと盛り上がり大きな歓声が沸き上がった。味方ガイドと監督がグランドの中に入って千夏の所に飛んでいき、喜びを爆発させている。

 先程までゴール前にいた田川も彼女に駆け寄ったが、宮前と九鬼は守備に神経を使いすぎて疲れたらしい。体力を温存するためか、今度は味方守備エリアにいたまま声をかけていた。

「ナイスシュート! 良くやった!」

 巧は体力の温存をする必要はなかったが、駆け寄ることをせず、その場で宮前達と同じように声をかけただけで済ませておいた。

 これで2対0。相手チームは、巧から少なくとも二点は取らなければいけない。いやPK戦にもつれ込みたくなければ、三点必要だろう。

 これでまた青山達は、さらなる激しい攻撃を仕掛けてくるに違いない。その為に巧は気を引き締め、次の作戦を成功させるため頭を切り替えていた。

「まだまだ! 次だよ!」

 そう声をかけると、味方陣営に戻ってきた千夏と田川の顔が引き締まる。宮前と九鬼もまたその意図を理解したのか、自分の顔や胸、足を叩いて気合いを入れ直していた。  

 しかしここで、相手チームが前半には一度も取らなかったタイムアウトを取った。これで一分間の休憩時間が与えられる。残り時間を示すタイムボードの時間が止まった。

 相手は今後の展開の打ち合わせを行い、細かく指示を出すのだろう。だがこちらにとってはいいタイミングで体を休めることができ、ホッとしていた。その間各選手達は監督の指示を聞きながら水分を補給し、マッサージを行うのだ。

 タイムアウトの時間が終了した。青山が悔しさを表情に出したまま、ボールをセンターに置いてキックオフに備えている。横にいる松岡も険しい表情をしていた。

 あの二人は確かに悔しいだろう。先ほどの攻撃をかわされ、前半と同じように奇襲攻撃で再び点を失ったのだ。青山や遠山は、代表のレギュラーとしてのプライドもあるだろう。

 しかも二点差になったことで、この試合がより厳しいものになったことを、彼らが一番理解しているに違いない。

 ピーっという笛とともに動きだしたボールは、青山のドリブルから始まった。巧から見て斜め左方向にドリブルを進めている。最も近い場所にいた田川が、真っ先に寄っていく。

「ボイ! ボイ!」

 その声を合図に、宮前と九鬼も田川の後ろに付く。まずはトライアングルでの守備陣形を取る。千夏は追いかけるような形で、青山の左後ろからプレッシャーをかけていた。

「ボイ! ボイ!」

 田川達のプレッシャーにより、徐々に青山がサイドライン側に追い込まれていく。まだゴールより十m以上ほど離れた場所で、攻防戦が繰り広げられた。そこで巧は既視感を持った。視野の端に松岡の姿が見えたからだ。

 しかし先程と違うのは、ゴールより離れた場所で彼はセンターサークルより少し前にいることだ。けれども青山がサイドライン寄りにドリブルすることで相手選手を引き寄せ、その間にぽっかりと空いた中央のスペースに、松岡一人が待っている構図は全く同じだ。

 今度は迷わず九鬼に指示する。巧の声が届いて理解したのか、九鬼が田川達の後ろの位置から少し中央よりに移動し、青山から松岡へとパスが出されたらカットできるコースに立った。

 宮前が前に出て田川と二人で青山のボールを取りに行き、千夏も横からプレッシャーを与えている。三人で囲み青山のドリブル突破を防いでボールを奪いに行くが、キープ力のある青山をなかなか捉えきれない。

 上手く体を使いながら細かくドリブルを繰り返し、右に左に動きながらも少しずつサイドラインに追い込まれるように移動している青山だったが、巧にはわざとサイドに誘っているようにしか見えなかった。

 その予感は的中した。ちょこまかと動いていた青山がサイドボードに追い詰められかけた時だった。

 突然サイドにある壁に向かってボールを蹴り、すばやく前にいた田川と宮前の横を通り過ぎる。そこで再び壁から跳ね返ってきたボールを捉えると、まっすぐゴールに向かってドリブルで突き進んできた。

 ワンアクションで取り囲んでいた三人を完全に置き去りにし、あっという間にフリーになったのだ。

 九鬼はというと、松岡を意識してやや中央寄りにポジションを取っていたために完全に裏をかかれ、青山を斜め後ろから追いかける形になった。

 その後ろを田川と宮前が走り、なんとかゴール前に戻ろうとしている。だが既に青山は、巧から見て左四十五度の位置からまっすぐドリブルをして迫って来ていた。

 厄介なのは、中央にいた松岡までもがゴール前に上がっていたことだ。ここはパスか、それとも青山と一対一か、その両方の可能性を頭に入れて巧は守らなければいけない。

 巧はゴールエリアぎりぎりでは無く、そこから一歩下がって青山の正面からシュートコースを消しながら構えた。万が一横にパスを出された時、すかさず移動して松岡からボールを奪うスペースを作っておくためだ。

 青山はどんどんと近づいてくる。九鬼も田川達もまだ追いつけない。松岡はスルスルと上がり、五mほど手前まできていた。

 ゴール前は完全に二対一となって、守備には圧倒的不利な状況を作られてしまった。さすがは日本代表レベルの選手達だ。

 パスか、シュートかと巧は青山の動きに集中して神経を尖らす。相手ガイドが

「打て! 打て!」

と言っているが、その通りに来るかは判らない。声に惑わされてはいけない。巧には目がある。その情報を駆使しながら動くことができるのだ。

 視界の端で松岡の動きも捉えながら、まずは青山との一対一に備えた。彼がゴールエリアのすぐ手前まで来た。巧は残していた一歩分、前に飛び出して体全体でブロックをしに行く。同時に青山がシュートを打ってきた。

 至近距離で放たれたボールが勢いよく飛んできたが、咄嗟に反応して伸ばした巧の右手の指先に触れた。ゴールから逸れたボールは転々と逆サイドを転がる。

 しかしそこに松岡が詰めていた。急いで巧は右に跳び、体を横倒しにしてゴールを塞いだ。

 だがほんの一瞬だけ早く追いついた松岡がダイレクトで打ち、ボールはゴールへと吸い込まれていった。

「ナイスシュート!」

 どっと観客が湧く。巧達がゴールした時より、倍以上の大きな歓声がグラウンド中に響き渡った。その声の数が、相手サポーターの多さを物語っている。

 やはり代表選手を抱える人気チームであり、巧達よりもずっと歴史のあるチームだからそれは当然のことだ。

 しかしその歓声で、ここにいる多くの観客が相手チームを応援していて、巧達が負けることを期待しているように感じられた。

 サッカーやフットサルをやっていた時にも何度も味わったことのあるこのアウェイ感は、選手の気持ちを落ち込ませる効果があった。特に今のような点を決められた時などがそうだ。

 完全にやられた。巧や千夏が特訓していたように、青山と松岡はずっと繰り返し今の動きを練習してきたのだろう。そうでなければ、あそこでダイレクトなど打てるはずがない。

 目の見える選手なら、簡単にボールを押し込むことはできる。しかし目の見えない選手が咄嗟に弾かれたボールの音を察知し、そこに飛び込みトラップするだけでも至難の業だ。

 それなのに、まるで見えているかのようなダイレクトシュートは見事だった。あそこで松岡がボールを一瞬でも止めていたら、飛びこんだ巧は間に合っていただろう。シュートもブロックできていたに違いない。

「まだ、まだ一点差! 負けたんじゃないよ! もう一点取ろう!」

 巧が下を向いて悔しがっているのを感じとったのか、前線に残っていた千夏が手を叩き、チーム全体に喝を入れた。その声に呼応して、監督やコーチ達も一斉に声援を送ってくれる。

「今のはしょうがない! また一点取りに行こう! 残り十三分!」

 サポーター達もまた、大声で応援をしてくれた。巧は顔を上げてグラウンドを見渡す。すでに千夏と田川はセンターサークル内で次の準備をし、宮前と九鬼もいつものポジションについていた。

 この一点は、公式戦で巧が初めて許したゴールだった。だからといって落ち込むのは、余りにも調子に乗り過ぎだ。キーパーがずっと無失点でゴールを守り続けることなど、まず不可能である。

 フットサルで少しばかり活躍していた経験があるという、のぼせた気持ちを持っていてはいけないと頭では判っていた。しかしこうして実際初めて失点したことで、思っていた以上に堪えている自分に気づき、巧は心の中で喝を入れた。

 想像以上に自分は天狗になっていたのかもしれない。両手で自分の頬を強く叩き、気合いを入れ直した巧は、次の作戦実行に意識を移した。

 やられたらやり返す。巧達だって特訓してきた武器がまだある。それを決めてまた青山達を焦らしてやるしかない。

 ピーっと笛が鳴り、千夏が右斜めに向かってドリブルを始めた。が、青山と松岡が一斉に飛び出して、すぐに二人で千夏のボールを取りに来る。高い位置で早めにプレッシャーをかけ、ボールを奪って速攻に移る作戦のようだ。

 相手はもう一点決めて、早く同点にしたいはずだ。追い付けば、地力に勝る相手チームの方が勢いに乗る分、ゲームを優位に運ぶことができるだろう。

 攻防が続き試合時間は残り十分を切った。次の一点が勝負の分かれ目になる時間帯だ。よって向こうも必死でボールに食らいついてきた。

「ボイ! ボイ!」

 激しいプレッシャーに、千夏は無理せず後ろにいた田川にボールを戻す。そして青山と松岡から離れ、素早く左サイドに展開した。中央にいる監督が指示を飛ばし、彼女へのパスを促す。

 同時に相手監督も中央エリアで指示をすると、相手守備の遠山、坂口が千夏のいるサイドに近づいた。パスカット、または千夏がボールを持った瞬間を狙いすばやくアタックをかけてボールを奪うつもりだろう。

「ボイ! ボイ!」

 今度は青山と松岡がボールを持っている田川へと近づき、プレッシャーをかけてきた。素早い寄りにパスを出せなかった彼は、やむを得ず逃げるように右斜め後ろ方向にドリブルし、サイドライン側に逃げる。

 青山と松岡がしつこくプレッシャーをかけ続けてきた。その時、逆サイドのいた千夏がスルスルと移動してグラウンドの中央を通り過ぎ、田川のいる右サイドのサイドライン際に位置を移した。

 田川が右サイドの味方陣営の半分付近でボールを持ち、千夏は相手陣営の半分付近の右サイドにいる。二人の距離は約二十mあった。ちょうどグラウンドの縦が全体で四十mあるのでその半分だ。

 田川のいる位置が守備陣内に入ったため、巧から指示が出せる。

「十二時二十! 千夏!」

 その一言で彼は理解したのだろう。青山と松岡のブロックを避けるように、サイドラインの壁伝いにボールを前方に蹴り出した。ボールは転々と転がり、サイドライン側にいた千夏の足元に届いた。

 長い縦パスが見事に通ったのだ。しかしやはり相手守備陣の反応は早かった。

「ボイ! ボイ!」

 遠山と坂口がすぐにボールを持った千夏に寄っていく。彼女が逆サイドから移動している際、相手の指示ですぐにその後を追いかけるように彼らも移動していたからだ。

 しかし一対二となれば千夏は俄然力を発揮した。細やかなドリブルでさらりと遠山を抜き去り、その次の坂口さえも置き去りにする。やがてフリーになった。

 といってもその位置があまりよくない。抜け出した場所が右コーナー近くだったため、そこからゴールに向かってドリブルしても角度がない位置だ。

 シュートするには一度中に切り込む必要があり、その間に相手守備陣が追いついてくるだろう。

 そんな時、ゴール前に走り込んできたのが田川だった。その後ろを松岡が追う。まさしく先ほど巧達がやられたパターンのお返しだ。千夏がどんどんキーパーに近づいていく。さあ、千夏が打つか、中央の田川にパスを出すか。相手キーパーは

「戻れ! 戻れ!」

と味方選手に声を出しながら、先ほど巧が悩んでいたように千夏のシュートに備えながら、同時に田川の位置も確認していた。大きく手を広げ、シュートコースを消しながら守る構えを取っている。

 千夏がゴールエリア直前までドリブルで突き進んだため、キーパーが前に出た。そこで彼女は大きく振りかぶり、シュートを打つふりをして軽く横にパスを出した。

「二m! 十二時!」

 味方ガイドが、田川にボールの位置を知らせる。そこに走り込んでいた彼が、ボールを押し込むように足を出した。だが僅かにボールの芯を捉えることができず、無情にもゴールポスト左に大きく逸れた。惜しい!

 だが日本代表選手達の見せたプレーに近いレベルのコンビネーションができるようになったのだ。練習の成果は間違いなく出ている。

「惜しい! 惜しい! ナイスパス! ナイスシュート!」

「ああ、」

 味方ガイドの声と観客の残念がる声が、枠から外れたことを知らせる。田川は悔しい表情を見せながらも、急いで自陣に戻るために走った。千夏も顔を一瞬伏せたが、それでも小走りでハーフラインまで戻る。

 相手キーパーのスローが、前線にいる青山に通った。千夏が真っ先にボールを奪いに行く。

「ボイ! ボイ!」

 その後ろに田川と宮前、最後尾に九鬼というダイヤモンドディフェンスの陣形を取る。ここからは守りに守って、一発のカウンターにかける戦法を取る時間帯だ。

 千夏が果敢に体を寄せていくが、青山に弾き飛ばされて転倒した。今日はこれで何回目だろう。しかし無情にも笛はならない。これが現実だ。

 他の男性選手なら何とか踏ん張れるところでも、体重が軽く体格で劣る彼女には耐えられない。しかし厳しいことを言えば、これから世界で戦っていくからには、いちいち転んでいたのでは通用しない。

 ディフェンス時の体の使い方が、今後の大きな課題となることを青山は教えてくれているのだ。

 千夏を抜いた青山に対し、宮前と田川がすぐに二人がかりでブロックする。

「ボイ! ボイ!」

 そんな二人を避けるように横へ横へとドリブルする青山を、今度は最後尾にいた九鬼がプレッシャーをかけた。その後ろに宮前と田川が再び回り込む。

 千夏も本来なら前線にそのまま残っていてもいいのだが、転倒から立ち上がった彼女は再び青山の背後からプレッシャーをかけていた。

 巧は松岡の位置を確認する。彼はハーフライン中央に残ったままだ。他の守備陣もその後ろに並んでいた。今回は青山一人の攻撃に任せるつもりなのだろうか。

 彼はなかなかしぶとくキープを続け、左端のサイドライン近くまで逃げたかと思うと切り返し、また中央に向かってドリブルで突き進んでくる。そこを田川がブロックし、ボールが青山の足元から離れた。

 懸命に追う青山を千夏と宮前がプレッシャーをかけ、右端のサイドラインまで追い込む。その間に田川、九鬼が守備陣形を整えた。味方ゴールを背にした四人の壁を青山はなかなか破れない。そこで相手監督の指示で一旦、中央にいる松岡にボールをパスした。

 ボールを受け取った松岡が、今度はグラウンド中央をゴールに向かってドリブルしてきた。巧が指示を飛ばし、田川と九鬼の二人でブロックに動いた。その後ろに回りこむように宮前が守備位置に着く。千夏は念のため、右サイドに残った青山をマークしていた。

 松岡がゴール手前十mほどまで来た時、ボールを急に真横へと蹴り出した。そこには青山と千夏がいた。二人はほぼ同時に反応し、そのボールを取りに行く。

 先に触ったのはやはり青山だった。一瞬だけ千夏より早くボールに触ると、反転しながらボールを足元にキープし、再びゴール目指してドリブルを始めた。

 そこで一対一になってしまった千夏は焦ったのか、無理に止めようとして伸ばした右足が青山の左足にかかり、相手を転倒させてしまった。ピーっと笛が吹かれ、審判が第一PKを宣告した。

「おお! チャンスだぞ! 今度こそ決めろ!」

 観客と相手スタッフ達がどっと沸きだす。審判が転がっていたボールを手に取った。相手のスタッフがグラウンドに入る。転倒した青山を立ち上がらせて何やら話しかけた後、彼をそのまま第一PKの場所へと連れていく。

 千夏は悔しがっていたが、監督に励まされたのだろう。頷きながらハーフラインの位置につき、巧の方に向って叫んだ。

「巧! 頼んだよ!」

「おう!」

 巧はそう叫び返し、構える青山がセットしたボールに集中した。エリア付近に田川、宮前、九鬼の三選手が戻り、跳ね返りのボールを狙う。対して相手チームは松岡が青山の後ろに移動し、こぼれ球を狙いながらもカウンターに備えられる位置に立った。

 さあ、こい。今度もワンステップか、それともノーステップで打ってくるかを予測するために青山の動きを観察した。神経を集中して、巧は止める、絶対止めて前線の千夏にスローしもう一点狙いに行くんだ、と呟きながら構える。

 相手ガイドがポストをカンカンと叩き、ゴール位置を知らせる音が耳触りに感じた。いつも以上に神経質になっているのか、僅かに巧をイラつかせる。

 ピーっという笛が鳴った。青山がセットしたボールから手を離してすぐ、シュートを打ってきた。今度はノーステップだ。読まれないようにタイミングをずらしてきたのだろう。

 ボールは咄嗟に反応して懸命に伸ばした巧の左手を掠め、飛んでいく。背後でバサッ、という音が聞こえた。

「おおおおおお!」

「ナイスシュート! 同点だ!」

 グラウンドが一気に大歓声で包まれた。やられた。巧が後ろを振り返ると、ボールはサイドネットに突き刺さっていた。

「くそっ!」

 今まで止めてきた青山に、初めて点を決められた。さすがベテランの代表選手としか言いようがない。

 代表の強化合宿の時よりさらに早いスピードで、微妙に巧が反応するタイミングを外しながら絶妙なコースを狙って蹴ってきた。完敗としかいいようがない。巧は俯くしかなかった。

 試合の残り時間は五分もないだろう。この時間帯で二対二の同点に追いつかれたのは痛かった。だが負けたわけでは無い。最悪同点でも相手は代表候補に選ばれたこともあるキーパーだが、PK戦になれば巧の方が有利だという自負もあった。

「まだ、負けたわけじゃないよ! 一点取りに行くよ!」

 手を叩きながら、千夏が大きな声で選手に声をかける。しかし宮前と九鬼は完全に下を向いたままだ。さすがにここまでの相手による猛攻に疲れたのだろう。

 ここでの失点は、心を折るには十分すぎた。監督が彼らの様子を見て動き、二人を別の選手に交代させる決断をした。さらにここでタイムアウトを取った。

 時間を置いて、同点に追いつかれたショックから立ち直させる意味もあったのだろう。加えて疲労を取ることも必要だった。一分間の間に監督やコーチがそれぞれの選手に声をかけ、選手達は水を取りながらマッサージで疲労を和らげようとしていた。

 タイムアウトの時間が終わり、センターサークルでは田川と千夏がボールをセットしながら何やら話をしていた。体力に自信がある田川はまだいいとしても、千夏は相当疲労が溜まっているはずだ。

 前半は一度交代して休む時間帯を取ったが、後半に入ってからは選手交代のタイミングがなかった。同点に追いつかれたこのタイミングで、千夏を外すにはリスクがあったからだ。

 彼女がいなければ攻撃する時間は少なくなり、その分守る時間が多くなる。そこで今勢いのあるチーム相手に、一点を守り切れるかどうかは難しい。 

 ピーっと笛が鳴って、今度は田川がドリブルで切り込んでいく。千夏はその後ろをゆっくりとついて行った。すぐに青山と松岡が田川のボールを奪いに来る。

「ボイ! ボイ!」

 同点に追いつき勢いづいている二人のプレッシャーに負け、田川はあっけなくボールを奪われた。そこを千夏がフォローに行く。

「ボイ! ボイ!」

と千夏が寄っていくが、やはりスピードが衰えているのか、元気を取り戻した相手のスピードの方が勝り、一気に突き放された。

「ボイ! ボイ!」

 守備の二人が青山のドリブルに食らいつく。交代したばかりの元気な二人がなんとか青山の攻撃を食い止めるが、やはりボールを奪うところまでにはいかない。

 田川も下がって守りについたが、千夏はハーフラインで速攻に備えるために残っていた。同点に追いついた相手にとっては、ここでさらにもう一点取るために畳みこみたいところだろう。

 ただカウンターによる攻撃を意識してか松岡は千夏のマークに付き、攻撃は青山一人に任せていた。逆に言えば青山一人でも行けると踏んだらしい。

 じわじわとゴールに近づいて来る青山を、守備陣が止めきれない。とうとうシュートまで打たれてしまった。だがボールは正面からわずか左に飛んできて、なんとかキャッチした。ここだ。

「サイレント!」

 これが最後の攻撃になるかもしれない。巧はサイレントスローで、中央にいる千夏にボールを投げた。彼女はうまくトラップし、反転した。近くでマークしていた松岡が千夏の居場所を見失ったようで、相手監督からの指示を元によたよたと寄っていく。

 その間に先ほどまでゴール前にいた田川が千夏を追い越し、相手ゴール前に走った。千夏は音をたてずに、そのままじっとボールをキープしたままだ。

「今だ!」

 監督の指示で千夏がボールを前方に蹴る。サイレントパスだ。その先には走り込んでいた田川がいた。これをみごとに彼は足元でトラップした。

 何度も何度も練習で繰り返してきた、巧達の武器の一つだ。相手守備陣には遠山と坂口の二人が残っていたけれど、田川はその裏に走り込んで受けていた。その為完全に彼の位置を見失っていたようだ。

 田川のボールトラップした音でようやく気が付いたのか、慌てて後ろを振り向き彼に向かって寄って行く。

「ボイ! ボイ!」

と声をかけるが時すでに遅く、ボールを足元に収めた田川は振り向き相手ゴールに向かってキーパーと一対一になってシュートを打った。

 だが惜しくもシュートがバーに跳ね返り、ボールは転々とグラウンド内を転がっていく。そのこぼれ球に、いち早く反応したのが千夏だった。

 彼女はすぐに追いつきボールキープすると、ゴールに向かってドリブルし始めた。その横を並走しながら松岡が追いかけていた。

「ボイ! ボイ!」

 遠山と坂口も守備体勢を立て直し、三人がかりで千夏のボールを奪いに行く。千夏は最後の力を振り絞り、左へ右へと細かく揺さぶる。一人、また一人と抜き去り、最後の一人を抜き去ってキーパーと一対一となった。

「打て! 打て!」

 味方ガイドの声が響く。千夏がまさにボールを蹴ろうとした瞬間、後ろから来た坂口の伸ばした手で押し倒されてしまった。

 ピッー! と審判の笛が鳴り、第一PKを指示した。

「おお! チャンスだ! これを決めれば勝ちだぞ!」

 味方サポーター達が騒ぎだす。監督やガイドも、このチャンスに思わずガッツポーズをしていた。味方のコーチとメディカルスタッフが慌ててグラウンド内に入り、転倒した彼女の様子を確認するために駆け寄る。

 千夏は彼らの問いかけに頷いたり、首を横に振ったりしていたが、しばらくしてすっと立ち上がった。どうやら怪我はしていない様子だ。巧は一瞬緊張した肩の力を抜いた。

 彼女は自分が蹴ると審判に意思表示をし、第一PKの場所まで案内されてボールをセットする。残り時間はもうほとんどない。これが決まれば勝ちという、大事なPKだ。

 ここは守備陣も全員、こぼれ球を押し込むために前線へと上がっていった。ゴールエリアから出られない巧は、この場所から彼女の背中を見守りながら祈ることしかできない。 

 頼む、決めてくれ。そう願いながら両手を組んだ。

 大切な一発だと判っているのだろう。四十m近く離れていても、千夏の緊張感が巧の所まで伝わってくる。それだけでない。試合会場を取り巻く全員がこのPKに注目し、彼女とキーパーとの対決を見守っていた。

 巧達のチームやサポーターは入れ、決まれと祈り、相手チームやそのサポーター達は、止めろ、外れろと祈っているはずだ。

 ガイドによりゴールポストが叩かれ、ゴール位置を知らせる行為が終わる。ピーっと審判の笛が鳴った。千夏がボールに添えていた手を離す、と同時にノーステップのトォキックでゴール右隅の下を狙った。低い弾道でボールが鋭くゴールに向かう。

 キーパーが左手を伸ばすが、わずかに早くその手をすり抜けた。ボールは右コーナーポストぎりぎりに飛んでいく。入れ! 巧は思わず叫んだ。

 が、その願い虚しくボールはポストを掠め、ゴールを外れてラインを割った。あまりにも狙い過ぎたのがいけなかったか、枠を捉えることができなかったのだ。

「ああああああ、」

「惜しい!」

「よし! 外れた!」

「ナイス!」

 大きなため息や残念がる声以上に、相手チームからは大きな歓声が上がった。ガイドやコーチ、監督も選手も皆が肩を落とす。千夏もまた悔しいのか、ダンと強く地面に右足を叩きつけるように踏み込んだ。しかしまだ試合が終わった訳ではない。

「すぐ戻れ!」

 田川がいち早く立ち直り、そう周りの選手に声をかけながら自陣に走った。全員が相手陣内まで上がっていたために、味方の守備エリアはがら空きだ。

 そこにハーフラインで陣取っていた青山に向かって、素早くリスタートをした相手キーパーによる鋭いスローが投げられた。青山は完全フリーでボールをトラップした。

「戻れ! 戻れ!」

 監督の谷口が、慌てて他の二人の守備陣に声をかける。青山は勝利の為に最後の一点を決めようと、素早いドリブルでまっすぐゴールに向かって突進してきた。

 巧は一対一になる覚悟し、ボールに集中する。だがシュートを打とうとする間際に田川がなんとか追いつき、

「ボイ! ボイ!」

と怒鳴りながら青山に向かって彼の動きを止めた。しつこく食いつく田川を振り切ろうとする間に一人、また一人が追いついて三人で守備に付いた。

「無理して打たなくてもいいぞ! キープしろ! キープ!」

という相手ガイドの声が、巧の背後から響く。青山は残り時間が少ないことも考慮して、ボールを奪われないように持ち続けるだけでも良い。

 タイプアップになれば引き分けになり、PK戦に突入する。無理してボールを奪われて攻撃されるよりも危険は少ない。

 しかし青山は、それだと勝てない。そう思ったのだろう。もう一点を取りにかかってきた。彼の代表としてのプライドが、もう一点という勝利への執念に火をつけたに違いない。

 彼はガイドの指示に反し、田川達を強引に振り切って左四五度の角度からシュートを打ってきた。どうしても我慢ができなかったようだ。しかし体勢に無理があった分、ボールの勢いは弱くコースも甘かった。

 巧は右横に飛んできたボールを、伸ばした両手でキャッチした。

「あああ、惜しい!」

「なぜ打つんだ!」 

 観客の声に加えて、相手ガイドの怒鳴り声がした。

 巧はすかさずボールをスローする。ハーフラインの右サイドラインぎりぎりに陣取っていた千夏がトラップし、そこから斜め左の相手ゴールに向かって一直線にドリブルをしだした。

 残り時間はわずかだ。おそらくこのワンプレーが最後だろう。相手は松岡、そして遠山、坂口がしっかりとした守備陣形を作っている。まずは近くにいた松岡が

「ボイ! ボイ!」

と言いながら突っ込んできた。しかし千夏はどこにそんな力が残っていたのかというほどの気迫を放ち、一度ボールを止めてからすぐにドリブルを始めるストップアンドゴーのワンステップで、あっという間に松岡を置き去りにした。

 最後の力を振り絞り、ドリブルで突き進む。今度は左サイドにボールを転がしてから、素早く右に切り返す。そこからまた左に鋭く方向転換することで、遠山、坂口をもあっという間に抜き去った。

 彼らも最後の最後で疲れも出て、集中力も切れかかっていたのかもしれない。だがそれにしても、ここにきての見事なステップにより、千夏は三人をごぼう抜きにしてキーパーと一対一になった。

「戻れ! 戻れ!」

 そう叫びながら相手キーパーは、千夏の前方に立ちはだかっていた。彼女はスピードに乗ったドリブルのまま右足でシュートを打つ、と見せかけて右に切り返した。

 そこで相手キーパーはタイミングをずらされ、また僅かに右側に体重移動した。その逆を突くように、彼女は左足でキーパーの左足元に向け、シュートを打とうと振り被った時だった。

「ボイ! ボイ!」 

と叫びながら背後から戻ってきた坂口が、先ほどよりも激しく突き飛ばすように千夏の体にぶつかったのだ。

 軸足一本で立っていたタイミングで衝突された彼女は、たまらず受け身も取れない状態で転倒した。

 ピーッ! と鋭く審判の笛が鳴る。完全な反則で、しかも背後からのプッシングという悪質な行為だった。ゴール裏にいた味方ガイドがたまらずグラウンドの中に入り、千夏の元に駆け寄った。

「大丈夫か?」

 周囲からは、大きなブーイングが巻き起こる。審判が坂口に対して厳しい口調で注意を行っていた。

 当然第一PKの位置を指示し、千夏の元に駆け寄る。審判も彼女の状態が気になったのだろう。うずくまったまま、右足首を押さえていた。おそらくシュート体勢に入っていた時の軸足を、激しい突進の際にひねってしまったのかもしれない。

 田川や他の二人は、不穏な空気を察して彼女のいる場所に向かって歩いていた。監督も他のコーチ、そしてドクターとメディカルスタッフ達もグラウンド内に駆け込む。

 完全にゲームが中断している状況だったため、巧も走り寄った。その途中で選手の一人に追いつき、声をかけてから彼の左手を自分の右肩に添えてゆっくりと歩く。

 他のスタッフが田川達の元に歩み寄り、同じように彼らの手を取って千夏の元に向かっていた。

 巧が一人を連れて千夏を取り囲んでいる輪に辿り着いた時、彼女はもう立ち上がっていた。チームメイト達全員が、心配そうに見つめている。そんな気配を察知したのだろう。

「大丈夫。ちょっとひねっただけだから。それよりPKだよ。これが最後の最後だろうから、次は絶対決めるからね」

 大きな声を出して手を叩き、みんなに喝を入れていた。

「おお、大丈夫なのか。良かった」

 田川や他の選手達は千夏の本当の姿が見えないため安堵していたが、彼女の足を見ていたドクターやメディカルスタッフは少し険しい顔をしている。巧や監督達は本当に大丈夫なのか、疑わしい目で彼女を見つめた。

「大丈夫ですか? 彼女は蹴られますか?」

 谷口がドクターに確認する。ドクターは首を傾げながら、

「少し痛みはあるようなので、ひねったのは間違いないと思いますが、」

と言いかけたのを千夏は遮った。

「大丈夫です。できます。蹴られますから。やらせてください」

 彼女は真剣な顔で、谷口の方に向って言い放つ。本人が大丈夫と言っている以上、触診したドクターやメディカルスタッフも、駄目だとは言いづらいようで口をつぐんだ。

「腫れてはいないのですね?」

 巧は一緒にいた選手の手を他のスタッフに預けてから輪の中に割り込んで、ドクターに聞いた。

「腫れてはいないようですね」

 その言葉を聞いてから巧は地面にしゃがみ込み、ロングソックスがまくられたまま立っている彼女の右足首を強引に掴んだ。

「わっ、何するの!」

 急に触られたことで驚いていたが、それを無視して痛めている足首を軽く動かした。触った感触ではドクターの言う通り、腫れてはいないようだ。

 それでも筋を痛めている可能性はあり、本人がやせ我慢していることも考えられる。だから巧は自分の目で彼女の足の状態を確認し、本当にキッカーが務まる状態なのかを判断したかったのだ。

 千夏も足首を触っているのが巧だと気づいたのだろう。

「巧、本当に大丈夫やって。本当にあかんかったら、こんな大事な場面で無理して蹴ろうなんてせえへん」

 足元にいる巧を見下した。巧が顔を上げ、もう一度彼女の足首を軽く回すように捻る。少しだけ痛みを感じるようだが、それほどひどくないようで眉間を僅かに歪ませた程度だった。

 その表情を見る限り、本人が言うように蹴られないほどは痛めていないようだ。それでももう一度確認しない訳にはいかなかった。

「本当の本当に、大丈夫だろうな。千夏はさっき、はずしているんだからな」

 厳しい言い方で、逆にプレッシャーになるかもしれないとも思った。だがそれくらい言っても蹴るというくらい、自信が持てる足の状態でなければこの大事な場面は任せられない。千夏は少し言葉に詰まったようだが、一度深く呼吸をしてから、

「大丈夫。今度こそ決めるから」

と、静かにそう告げた。

「そうか。それなら任せて大丈夫だな。監督、いいですか? 千夏がキッカーで」

 巧は立ち上がって、谷口の目を見て確認する。あくまで最終的に判断するのは監督だからだ。問われた谷口は、二人のやり取りを見ていていけると確信したらしい。大きく頷いて千夏の肩をぽんと叩いた。

「よし。それなら任せたよ」

 その言葉を合図にチームスタッフ達は選手に声をかけながら、グラウンドの外に出ていった。巧も自陣のゴールエリアに戻る。その途中で田川達三人に一人ひとり声をかけた。

「これが最後のプレーかもしれない。こぼれ球は絶対拾え。拾ったらシュートしろ」

 それぞれが強く頷く。巧は自陣ゴール前から、改めて千夏の背中を見守った。先ほどのように祈りはしない。もう運は天に任せた。ここで見ているしかないのだ。

 それぞれが第一PKに備えて、ポジションを取る。今度は青山までが自陣に戻っていた。当然だろう。誰もがこれがラストプレイだと思っている。

 もしボールがこぼれ、それをキープして時間を稼げば同点でPK戦に突入する。千夏が決めるか、味方がこぼれ球を押し込めば巧達が勝ち上がり、ブラジル代表が待つ決勝へ進出できるのだ。

 ぐっと会場の緊張感が高まり、皆が息を飲んで静かに見守っていた。ガイドがゴールの位置を知らせるためにポストをカンカン、と叩く音が高く響きわたる。第一PKの位置にはボールをセットした千夏の様子を確認した審判が、笛を口に持っていく。

 ピーッ、と吹かれた音と同時に、千夏がセットしていたボールから手を離す。今度は一歩だけ下がった。ワンステップで蹴るようだ。

 千夏がフーっと軽く息を吐いたように見えた。そこから彼女は勢いをつけ、一歩左足をボールの横に踏み込み、右足をするどく振り抜いた。今度はトォキックでは無く、右足の甲で蹴るインステップキックだ。

 ボールは先ほどとは真逆の、ゴール左上に向かって飛んでいく。キーパーも逆方向に来ると読んでいたようだが、コースは低めを予測していたらしい。

 横へ飛んだキーパーの上を通り越し、ボールはゴール左上のサイドネットを揺らした。決まった!

「ナイスシュート!」

「おおおおおおお!」

 観客が一斉に沸く。味方サポーターが、土壇場での一点に興奮して大きな歓声を上げた。味方ガイドや監督達も飛び上がるように喜んだ。

 一気にグラウンド内に入り、千夏の元に駆け寄る。彼女も大きく右手を高く上げて巧の方を振り向き、何か叫びながら喜んでいた。

 近くにいた田川達が千夏の元に集まる。彼女の周りに輪ができ、その中にいる女性スタッフ達が抱きついていた。男達はその周りを取り囲み、

「千夏! ナイスシュート!」

「よく決めた! さすが千夏!」

と絶賛の声を上げた。

 爆発的に味方チームが喜びに沸いている中、巧は駆け寄ることもできず、ゴールエリアの中で膝をつき、顔を覆った。

 やってくれた。千夏が決めてくれた。巧が二点取られるという失態を犯した展開から、千夏自身がチャンスを作り、千夏自身が点を取ってくれたのだ。嬉しさの余り、巧は涙が溢れて止まらなかった。

 巧が泣き崩れている姿が見えない千夏は、他のみんなと一通り喜びを分かち合った後、センターサークル近くまで戻ってきて、

「あれ? 巧は?」

と聞いていたが、目の見えるスタッフ達は含み笑いをしながら誰も教えなかった。

「何! せっかく決めたのに、喜んでへんの、あいつ!」

 そう怒りながらも、まだ試合終了の笛が鳴らないため全員がポジションに付いた。ゴール奥に置かれた残り時間を示すタイムボードを見ると、まだわずかに時間が残っている。 

 青山達が急いでボールを中央にセットしていた。しかし試合は完全に中断した状態なので、時計は止まっていて審判の笛は吹かれない。

 ただ喜んでいる巧達のチームスタッフに対して、グラウンドの外に出るよう促していた。まだこれから相手のキックオフが始まるのだ。

「守るよ! 絶対守るよ!」

 千夏が気分を入れ替えて、そう喝を入れる。監督は休みを取る意味もあり、再び守備の選手を一人ずつ交代させ、宮前と九鬼をグラウンドの中に戻した。

 二人は最後の守備に欠かせない選手だ。それに3対2と勝ち越した喜びで、彼らも疲れが吹っ飛んだのだろう。グラウンドから下がった時とは別人のような明るい表情をしていた。

「守るよ! 巧! 声はどうした!」

 千夏が痺れを切らしたように後ろを振り返り、こちらに向かって大声を出した。巧は何とか立ち上がり、キーパーグローブを外し涙を拭いてから再度はめ直し、大きく手を叩いて声を返した。

「守るぞ! 後少しだ! 気を抜くな!」

 なんとか涙声であることをごまかせたようで、千夏はようやく納得した表情をして前を向く。ピーッと笛が鳴り、青山が鬼の形相でドリブルし始めた。

 千夏が真っ先にチェックに行った。その後ろに宮前、田川が付き、最後尾に九鬼が付く。

「ボイ! ボイ!」

 声を出しながら守備をする千夏を、青山が強引に抜き去ろうとする。彼女がしつこくくらいついて行く。一点を取りに急いでいる青山の気迫に焦ったのだろう。

 無意識だと思われるが、伸ばした千夏の手が青山を突き飛ばすような形になった。青山が少しバランスを崩す。そこに千夏がさらに体を寄せって行った。そこでピーッ! と審判の笛が鳴った。

 よし! これで試合終了だ! タイムボードが残り時間ゼロを指している。このグラウンドにいる誰もがそう思ったはずだ。しかし審判は意外な言葉を口にした。

「ノースピーキング!」

 試合終了の笛では無く反則を知らせる笛だと判った巧達は、さらにその次に取った審判の言葉を聞いて頭を抱えてしまった。

 審判は第二PKを取り、その位置を指しているではないか。

「おおおおおお! これを決めれば同点でPK戦だ!」

「チャンスだ! 最後のチャンスだぞ!」

 圧倒的に多い相手チームのサポーター達と一緒に、青山達も大きくガッツポーズを取っていた。

 第二PK。冷静に数えてみれば、確かこれで巧達のチームの後半における累計反則が四つになっていたはずだ。そのため第二PKが、相手チームに与えられてしまった。

 累計反則が三つまでは、壁を作ってもいいFKが与えられる。だが前半、後半それぞれの時間帯で四つ以上溜まると第二PKが与えられる。

 これはまさしく相手にとっては敗戦を覚悟していたところで得た、最後の最後に来た大チャンスだろう。

 谷口とコーチ達が審判に対して抗議の声を出している。しかし一番近くで見ていた巧は何も言えなかった。確かに千夏が一度目にアタックしていく時は、ボイと掛け声を放っていたのは確かだ。

 でもその次に寄せていった時に彼女は確かに、ボイと口にしなかったことを巧は気づいていた。

 それどころか、その前に手で青山を押した形になった時点で反則を取られる可能性もあった。笛を吹かれた時は、一瞬まずいと思ったくらいだ。その為笛の後に、ノースピーキングと言われた時は正直ホッとした。

 だがこの残り時間の無い場面で、第二PKを取られることは考えてなかった。本来なら冷静にチームの累積反則を数え、その危険性を理解しながらゲームを進めていなければならなかった。

 だがやはり大事な一戦で緊張する場面が続いたことにより、そのことが頭から抜け落ちていた。その油断が、今回のピンチを招いたと言っていい。

 監督達の抗議もむなしく、審判は第二PKの位置に青山がボールをセットするのを手伝っていた。その近くで千夏が肩を落しながら、巧のいるゴールに視線を向けて謝った。

「ごめん、私のせいで、ごめん、」

 だが巧は大きな声で怒鳴ってやった。

「まだ決まった訳じゃないんだ。謝るんじゃない! 大丈夫! 必ず止めるから!」

 千夏はそれを聞いて少し安心したのか、素直に田川達と共にこぼれ球を拾える位置にポジション取りをした。

「さあ! 決めるよ! 決めるよ!」

 相手チームとサポーターが、再び湧きあがって声援を送った。味方スタッフ達は悔しがりながら、巧が守ることを祈るように両手を握ってこちらを見ていた。

 キッカーはやはり青山だ。それでも先ほどまでの第一PKと違い、ゴールまでの距離が八mとやや遠い分守りやすい。

 第一PKは六mだからこの二m分は、キッカーにとって遠く感じるはずだ。少なくとも巧にはそう見えた。

 しかし青山にとっては見えない分、その違いが巧の捉え方とは大きく異なるのだろう。もしかすると青山にとって、それほど大きな違いはないのかもしれない。

 かえって目に見えてしまう巧の方が、その距離に惑わされているとも言える。そういえば第一PKと第二PKとの距離感について感覚的にどう違うのかと、千夏に聞いたことがなかった。

 普段の試合では巧達のチームの第一PKは、基本的にコントロールと相手キーパーのタイミングを外す技術の高い千夏が蹴る。だが第二PKは、田川が蹴る場合が多い。

 千夏も何度か蹴ったこともあるが、第一PKと比べると格段に決定率が下がった。どちらかというと、田川の方が第二PKをやや得意としている。

 男性と女性のキック力の差かもしれないが、晴眼者だった頃にサッカーに精通していた千夏は、その二mの距離を遠いと心理的に感じてしまうのだろう。その分余計な力が入るため、比較的苦手なのかもしれない。

 田川は生まれた頃から全盲だった分、二mという距離の違いに心理的なプレッシャーを感じずに蹴っている。その為そんな違いが起こるのだろうか。ただこれは晴眼者である巧の想像でしかなく、本当に判るのは当事者のみだ。

 そんなことを考えながら、巧は思った以上にリラックスしている自分に驚く。周りを見渡すと、相手選手も全員が上がってこぼれ球を狙っている。

 一度大きく息を吸い、ゆっくりと息を吐きだした。ボールを第二PKの位置にセットした青山は、今までにないほど緊張した顔をしている。

 これを決めれば同点に追いつき、PK戦になるだろう。逆に決められなければ敗戦が決定するのだ。そんな大事な最後のプレーだから、慎重になるのはしょうがない。

 巧はゆっくりと腰を落としながら、ボールに集中した。背後では相手ガイドによりポストをカンカンと叩く音が聞こえていたが、先ほどよりは気にならなかった。

 それほど集中できているともいえるが、そう思うと先ほどは集中力が欠けていたのだろう。

 ピーっと笛が鳴る。青山はセットしていたボールからゆっくりと手を離し、一歩下がった。距離がある分、ワンステップで蹴ってくるのだろうことは予想していた。

 彼は大きく左足を踏み込んで右足を振り抜いた。ボールが彼の甲に当たり、少し高めに浮きながら巧の右上に飛んでくる。

 巧は左足を蹴り、右斜め上に飛びあがって右手を大きく伸ばした。ボールは右手の指先に触れる。その瞬間、外に押し出すように手首を捻った。するとボールは僅かに軌道を変え、ゴールポストの上を通過していった。止めた!

「よしっ!」

「おおおおおお! 止めた!」

「ナイスキーパー!」

「ああああ、」

 グラウンドを取り囲む観客達の歓声と、悲鳴のような声が入り混じる。青山はがっくりと肩を落とし、他の選手も地面に崩れ落ちたりして悔しがっていた。

 巧はすぐに千夏の姿を探した。彼女はその場で大きくガッツポーズを取り、

「巧、ナイスキーパー!」

と叫んでいた。谷口やスタッフ達もゴール前に駆け寄ってこようとしたが、まだ試合終了の笛はなっていない。

 巧の手に触れてからゴールラインを割ったから、本来なら相手にコーナーキックが与えられるが残り時間はないはずだ。巧は審判の方をじっと見つめた。

 そこでピーッ、ピーッ、ピーッ! と審判の笛が鳴り響く。こんどこそ試合終了の合図だ。巧達のチームとそのサポーター達が大きく喜びの声を上げた。

 一斉に谷口やスタッフ達が、グラウンドの中へとなだれ込んでくる。谷口は真っ先に巧を強くハグした。

 コーチ達がその上から、圧し掛かるように取り囲んだ。他のスタッフ達が千夏や田川達の手を取り、一緒に巧の周りにできた円の外に立っていた。

 巧は監督に軽くハグを返し、他のコーチとも一通り歓迎を受けて軽く抱き合った後、本当は真っ先に駆け寄りたかった千夏の元に駆け寄って声をかけた。

「どうだ。止めただろ」

「さすがやね。私が鍛えたった甲斐があったやろ」

 そんな憎まれ口を叩く千夏の目には、涙が溜まっていた。

「勝ったぞ!」

「決勝進出だ!」

 興奮する巧達を、審判が笑いながら整列をするように促した。その指示により監督達は一度グラウンドの外に出る。

 スタッフ達は三人だけが残り、田川達に肩を貸してハーフラインへ歩いて行った。千夏の左手は巧の右肩に乗せられ、一緒に列に並んだ。

 相手の選手達と向かい合って礼をした後、巧は左前にいた青山の元に近寄り、肩を軽く叩いてからハグをした。

「ナイスシュートでした。試合には勝ちましたけど、今日の青山さんには負けましたよ。すごい気迫でした」

 耳元でそう巧が呟くと、彼もまた巧を抱き返し、

「何言ってるんだ。負けは負けだ。だが次は入れるからな。覚悟しておけよ」

 そう言って離れ際、強めに腕を叩かれた。だがその顔はもう笑っていた。

「はい、覚悟しています。でもこれからは日本代表として、お互い味方として戦うことの方が多いと思いますけど」

「そうだな。しかし、あの里山にはやられたよ。女子チームに入れておくのはもったいないよ。男子の日本代表に入ってもらえないかな。そうすれば日本が世界で通用するチームにまでレベルは上がると思うんだけど」

「それは褒めすぎです。でも千夏は女子日本代表として、五月の初の国際試合では活躍すると思いますから」

「ああ、それも楽しみにしているよ」

 巧は左手で青山の右腕を掴んで、右手で彼の手を握った。彼も強く握り返してくる。すると近くにいた松岡もスタッフに連れ沿われて巧に握手を求めてきた。

 巧は伸ばされた手を掴んで握手し、青山に対して言ったように声をかける。

「今度は味方としてやりたいな」

 彼は何も言わずただ強く頷いた。手を離して周りを見ると、それぞれの選手がお互いハグしあったり、握手をしたりして健闘を称え合っている。

 激しく戦った相手も、試合が終われば同じブラサカを愛する仲間達であることには変わりない。エールを送りあった後、巧達は監督やコーチ達の元に戻り再び抱き合って喜んだ。

「勝った!」

「決勝だ!」

「胴上げだ!」

 最後の誰かの上げた声を合図に、監督の周りをコーチ陣が取り囲む。巧もその輪の中に入った。千夏や田川達は危ないからと、メディカルスタッフ達に手を添えられて少し遠巻きの位置で騒ぐ様子を聞いていた。

「ワッショイ! ワッショイ! ワッショイ!」

と三回高く持ち上げられた谷口が下され、さあ次はコーチの誰にと思っていたら、皆がいっせいに巧を取り囲んだ。

「最後はよく止めた! ありがとう!」

 有無を言わせず、足や腕を掴まれて横倒しになりながら、同じく三回巧は宙を舞った。胴上げされるなんてことは生まれて初めてだったため、小心者で怖がりの面が出てしまい、嬉しさよりも落とされないかという恐怖の方が強く、顔は引きつっていた。

 その様子が面白かったのか、谷口達は無事下ろされた巧を指さして笑っていた。おそらくその様子を見ていたスタッフ達が、千夏達にも耳打ちしたのだろう。遅れて千夏も田川達も手を叩いて笑う。

「巧は昔からビビリやもんね。図体ばっかりでかくなってもそこは変わらんなあ」

 千夏がいつもの憎まれ口を叩くと、さらに笑いが広がった。こうなると巧は頭を掻きながら黙る他ない。なにせ本当のことだからだ。

 いつも巧はこうやって弄られてきた。でも今は昔のような嫌な感じは全くしない。それは周りの人達が、心の底から巧を信頼してくれていることが判るからだ。

 ブラサカは相手との信頼、コミュニケーションがないと成り立たないスポーツだ。巧がやってきたサッカーやフットサル以上に、選手とスタッフ、そしてサポーター達を含めた絆がずっと強く感じられた。

 巧はこの道を選んで間違いがなかったんだと、この時ほどそう強く感じたことは無かった。

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