2話 チーズケーキサンデー④

****


 腹の底から熱くなるような錯覚。それを初めて覚えたのは、いつだったか。

 君を壊してしまう前だろうか。

 君が弱った俺を慰めてくれた時かもしれない。


「いっちゃんが一等賞」


 よくわからない文句を言われ、おまえが悪いのだと言われたような気分になった、あの時か。

 確かに感じた君の体温、匂い、声。その瞬間に腹の底が熱くなったのか。


  ○○○○


 腹の底がほかほかとあたたかい感じをまた感じた。

 かっかと熱いわけではなく、夏の始めを感じさせる、生ぬるい風のようなあたたかさ。

 亜子を見ていると時折そんな感覚が身体中を巡る。

 あいつと重ね合わせているせいかもしれない。

 似ても似つかない、黒い髪をしたあいつと。



「い、壱くん! 取り返したよっ」

「お疲れさま」



 鷹丸との激戦(?)を終え、亜子は自分の部屋に戻ってきた。そんなにハードな戦いだったのか、よろよろとよろめく亜子の肩を支えてしおりを受け取る。

 メロスとセリヌンティウスの感動的ラストシーンの如く、一瞬赤面した。亜子が。



「わ、わわわわっ!ごめんなさい!」



 その直後に聞こえた、玄関の開く音。

 そんなに驚いたのか、肩をぴょんと跳ねさせた。いつもふよふよと漂っているだけの頭頂部の髪をぴょこんと立たせている。全く、忙しい子だ。



「お父さん帰って来ちゃった……! あっ、あの、しおり、お願い!」



 岳司さんの「ただいま」が聞こえたかと思えば、聞き慣れない男の声もする。


 ――誰だろう?


 玄関へ向かう亜子の背に目を向けたが、しおりを託されたことを思い出し、任務を遂行することにした。


 読みかけのページを開いたままベッドに伏せられている文庫本。

 それを拾い上げ、そのページに目を落とす。

 初々しい初恋の味が描かれていた。

 やはり恋愛小説は俺には向かないようだ。数行読んだだけでむずむずとした。もやもやとした。

 しおりを挟みながら、初恋について数秒考える。


 果たしてあれは初恋だったのか。

 今では笑顔を贈ることのできない相手の名を思い浮かべ、首を振った。

 いつまで引きずるつもりだ。

 俺はもう、人を好きになることをやめたのだ。恋心なんてもんはドブに捨てた。



「壱くん、お昼パスタで大丈夫ですか?」



 1階から聞こえた亜子の声で、奥歯が痛むほど噛み締めていたことに気がつく。

 軽くため息をつき、文庫本を枕元に、『走れメロス』を本棚に戻した。

 それからすぐ「マジっすか!」と叫ぶような野太い声が聞こえた。


 何事かと階下に下りてみれば、先ほどの声の主。

 茶髪にイヤーカフスといった出で立ちをした男は柏原将斗と名乗った。養護教諭兼カウンセラー。やさしい保健室の先生らしい。

 はたして教師がこんなにちゃらちゃらとしていても良いのか?

「凄い人だから許されている」とは亜子談だ。

 さらに「カシワバラって呼ぶと怒るの。将斗さん、カシワラだから」。「怒られたくなかったら将斗さんって呼ぶといいよ」と付け加える。

 その助言を受け、俺も将斗さんと呼ぶことにした。

 そんな彼はダイニングテーブルに紙袋を置く。中身を取り出し、机の中央に置いた。



「細川からわいろね。あと松本から伝言」



 わいろとやらはチーズケーキの形状をしている。表面はきつね色に焼け、実に美味そうだ。おいしそうな香りが鼻をくすぐる。

 わいろに見入っていると、カルボナーラをフォークにくるくると巻き付ける亜子が「松本くん?」と反応した。

 将斗さんはパスタを口の中に押し込み、大きく頷く。「伝言は二人きりの時にね」

 その様子を見ていた岳司さんは唸るような声をあげて眉をひそめる。



「松本か……変な伝言頼まれてない?」

「大丈夫っす。俺が引き受けたんですよ?」



 岳司さんは「そっか」と手を打ち、うんうんと頷く。

 そんなふたりを見、俺は亜子に耳打ち。



「あのふたりどんな関係?」

「将斗さんとお父さん、おんなじ学校……ていうか、私の高校の先生」

「……いいの? そういうのって」

「だって、……から」



 かすかに聞こえた語尾。

 その後急に泣きそうな顔をするものだから、口を閉じるしかなかった。将斗さんの視線がチクリと俺を刺す。



「亜子ちゃんいじめたな」



 声自体は落ち着いていて大人っぽいのだが、それとは裏腹に子供じみたことを言いながら俺をフォークで指さすのは他でもない将斗さんだ。

 低い声とのギャップにたじろぎ、食べていたボロネーゼが気道に入る。



「べ、べつにいじめては……」

「なぁんてね」



 にっと笑うと本当に子どものようだ。

 亜子と同じ歳だと言われたら信じてしまうだろう。



「ご、ごめんなさいっ。私のせいで……あの、ごはん冷めちゃうから、その……」

「お? ごめんね。食います食います」



 と言いながら亜子のカルボナーラをひと巻き。当の亜子はにこにこと笑顔を取り戻す。

 亜子の機嫌をとるのが上手なようだ。

 へらへらとしているかと思えば急に鋭い瞳をする。掴みどころがないと言えばいいのか。掴んだ瞬間煙にまかれそうだ。

 そのくせ、突然核心をつく。苦手な部類ではあるのだが、嫌いとは言いがたい。

 茶目っ気があるからか、どうしても憎めない人だ。それに、人の気を引くのがうまいというか、機嫌をとるのがうまいというか。

 絶妙なタイミングでそれを差し込んで来る。



「ほれ、いつまでもむすっとしてないでこれでも食ってにこにこしてろ」



 昼食をすませ、ぼーっとしていると先程のチーズケーキが眼前に置かれた。

 ちなみに俺はチーズケーキに目がない。

 差し出されたチーズケーキを見、よだれがしたたる。喉を鳴らし、じっと見つめた。



「……これ、亜子にじゃないんすか」

「表向きはな」

「は?」

「わいろなんだよ」

「わいろ?」



 将斗さんはにっと爽やかに笑うだけで、わいろについては一切語ってくれなかった。

 わいろって、あのわいろだよな。金品を渡す見返りにどうのこうのってやつ。

 将斗さんが「細川」と呼び捨てにするのならば、年下かもしくは同年代だろう。

 となると、生徒からか? 亜子に? 表向きは?


 考えても考えても真相にたどり着けそうにない。

 諦めてため息をつくと、将斗さんは「わいろ」を指差しいう。



「冷蔵庫に入れといて。食うなよ、怒られるぞ」

「いろいろ矛盾が」

「気にすんな」



 またあのへらへらとした笑顔をして話をぼかす。



「壱は怖い顔してっけどいい奴なんだな」

「……遺伝です遺伝」

「はいはい。んじゃ、悩みがあったらいつでもどーぞ。こう見えて俺、一応カウンセラーなので」



 ――どうしてこう、この人にはすぐなんでも見抜かれてしまうのか。

 もう一度ため息を着いていると、将斗さんは白衣を羽織って


「ため息は幸せが逃げるぞ。あとでケーキ食って幸せ補給しとけよー」

「しあわせ、補給?」

「甘いもん食うと幸せになるんだって。亜子ちゃんの受け売りだけど」

「――自分が甘いもん好きなだけなんじゃ」

「かもな。はは、あの親子の遺伝もスゲーや」


 毒気のない笑顔をして、食器を洗っていた亜子の元へと行ってしまった。

 彼が白衣を着ると、不思議と医者らしく見えた。


 ――幸せ、か。

 俺にとっての幸せはなんだろう。逃げてしまうような幸せが、果して体内に残っているのか。


 手を伸ばせばチーズケーキには届く。

 だけど俺が求めている幸せは、物質的なものじゃなくて。

 不確かなあやふやな、もっともっと遠くにあるようなもの。それこそ、山の向こう側にあるような。

 もっと近くをぐるぐると回っていてくれたら、人類はどれほど幸福に満ちていただろう。

 だが、手を伸ばして掴めてしまうような幸せも、それはそれでつまらないものだ。


 食欲と戦いながらチーズケーキを冷蔵庫にしまっていると、後片付けを終えたらしい亜子の高い声と将斗さんの低い声が聞こえる。



「松本からの伝言聞く? 声真似までしてやるよ」

「えっ、将斗さんが?」

「ばっちり!」



 俺の知らない彼女の生活がそこで話されていた。

 ひとり疎外感を感じていると、亜子が俺に向かってほほ笑む。

 それはやはりあいつの笑顔に似ていた。


「ん? 亜子ちゃん機嫌いいね?」

「ひとりじゃなかったから」

「?」

「淋しく、なかったの。みんながいてくれたから」


 俺を見ていた。親譲りの優しい瞳で。

「ありがとう」と確かに彼女の唇はそう動いた。

 俺はなにもしていない。ただ、そばにいただけ。



「壱は兄ちゃんになるのか?」

「俺は……、」

「いい兄ちゃんになれよ。可愛い可愛い妹を守る、優しい兄ちゃんに」



 将斗さんにそう囁かれ、耳を塞ぎたくなった。

 ――守る、か。

 一番言われたくない言葉。人ひとり守ることさえできないこの俺に。そんな重役を押し付けるな。



「よし!伝言タイムといこうか。亜子ちゃん、行こう」



 亜子と将斗さんは2階へと消えていった。

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