2話 チーズケーキサンデー②

 嫌な夢を見た。


 背中に走る鈍い痛み。身体の奥の方でずきずきと痛む。

 涙が頬を伝うような気配。冷たい。あんな夢で俺は、泣いた?

 日の光が目に入り、眩しい。

 額には嫌な汗が浮かぶ。息も乱れる。途切れ途切れに畳の匂いが鼻に入る。

 ――まだ過去を引きずっている俺は、なんて弱いのだろう。



「お、おはっ、おはようございますっ」

「あ?」



 前髪を掴んだ手のすき間から見えた、栗色の髪をした女の子。しばらく目があって――彼女が驚いたような顔をして、俺も驚く。



「ごめっ……あ、別に、その、……」

「怖い夢、見てたんですか?」



 無意識に触れていた彼女のやわらかな頬。彼女が、俺の手を優しく包み込む。

 畜生。なんでそんなにあいつに似た笑顔をするんだ。舌打ちをしかけて、ぐっと堪えた。



「……起こしにきてくれたの? ――って、え?」

「あ、……ぅ」

「お、おい」



 触れたままの手に伝う冷たい一滴。

 栗色の瞬きと同時に、また手が濡れた。

 ぽろぽろと涙をこぼす。どうして、きみが。



「私も怖い夢、見るんです。起きるといつも泣いてて。お父さんがこうやって手を握ってくれると、すごく落ち着くんです。あはは、私も怖い夢……思い、だし、て」



 ついには白く細い喉を震わせ泣き出す。頬に触れたままの手から、彼女の振動とあたたかさを感じる。栗色の瞳から溢れる涙の粒は次第に大きくなっていく。

 身体を起こして彼女の頭を撫でてみると湿った瞳で俺を見る。

 綺麗な、澄んだ瞳をしていた。それでも、情けないくらいに顔はぐちゃぐちゃだった。



「うっ、うぅ……」



 押し殺す声に、胸が痛む。「泣けば」と囁けば嫌だと首を振った。

 手を握れば落ち着いてきたようで、呼吸が整っていく。泣いているせいか、ほのかにあたたかい。小さな手だ。



「も、もう大丈夫です……ご、ごめんなさい」

「いいよ。……あのさ。俺も、言ってくれれば、いつでも手くらい握ってやるから」



 寝起きだからだろうか。

 そんなことを言えたのは。


 朝だからだろうか。

 涙を拭って笑った彼女が眩しかったのは。

 寝起きの頭じゃわからねえや。


 それから彼女は突然驚いたように目を見開き、慌てて離れていく。顔は真っ赤で、湯気が出てきそうな雰囲気だ。

 ――そっか。男、苦手なんだっけ。



「あ、えっと、あの、そうだ!朝ごはん、食べますよね。えっと……」



 ……つうか。

 慰めるつもりが慰められてどうすんだよ。変な子。

 不思議と笑みが漏れた。

 彼女も小さく首を傾げ、真っ赤な顔のまま笑顔を見せてくれた。それから「準備してきますね」と言い残し、部屋から出ていった。



「腹、減ったな……」



 顔を洗ってから台所に行ってみると、目玉焼きとみそ汁と野菜いっぱいサラダ白米付き(なぜか全て大盛り)が用意されていた。

 母さんがいないのは分かっていたが(あの人は土日関係なしに仕事だ)、岳司さんまでいない。家の中はしんと静かだ。



「岳司さんは?」

「今日は部活なんです」

「部活?」

「あ、はい。お父さん、高校の先生だから」

「ふうん……部活ってやっぱりバスケ?」



 栗色がこくりと頷いたのを見、お茶を飲んだ。身体がほかほかとあたたまる。

 教師だからか。あの雰囲気は。あの笑顔は。あの優しさは。


 ――親の遺伝子をたくさん受け継いでいる。

 栗色の女の子を見て思った。

 でも、髪の色は似てないな。


 目玉焼きを潰し、しょうゆをかけた。目玉焼きはしょうゆ派だ。


  ○○○○


 食後は部屋に戻り、軽く柔軟体操。

 全治一週間の打撲は予定通り完治しそうだ。多少痛みは残っているが、以前のような痛みはなくなってきた。足を開き、ボールと共に身体を前に倒していく。

 このボールを見ていると思い出す。

 あいつが言っていた「いっちゃんのボール、つるつるだねえ」という言葉。

 何年前だろう?

 あれは――俺が中3の頃。彼女の全てが終わった頃。

 未だにこんなボールを使い続ける俺は、変なのだろうか。


 ボールを持って1階に下りると、家事を終えたらしい亜子ちゃんが近寄って来る。先程泣いていたのが嘘のように、嬉しそうに笑っている。



「バスケの練習ですか?」

「うん。来る?」

「はい!」



 運動靴を持ってるか不安だったが、さすが高校生。コンバースを所持していた。

 だがしかし、小花柄のふわふわとしたスカートはいかがなものか。しかも本人は事の重大性に気がついていない。

 数歩先を跳ねるように歩いている。

 こういうのを天然と呼ぶのだろうか。

 公園は今日も静かだ。こんなに天気がいいのに、俺たちしかいない。

 抜けるような青空の下、ぴょこんと立った髪の毛を揺らしている亜子ちゃんと俺。

 周りからはどう見えるのだろう。

 先にバスケットコートに着いた彼女はくるりと回ってなにやら楽しそうだ。

 さっきからずっと笑っている。



「おーい。やるなら、手。ぐっぱーして温めといて。冷えてると突き指するから」

「ぐっぱー?」

「握って開く。わかった?」

「う……今日は見てるだけにします……」

「今日も、だろ?」



「あ」とつぶやいて、栗色の髪を揺らしまた笑う。今回は照れ隠しの笑顔。

 俺もつられながらボールをつく。

 なぜだろう。彼女の笑顔を見ていると、こちらまで笑顔になる。



「見てるの楽しい?」

「はいっ! 私、運動ダメで……羨ましいなあって」

「ふうん。――あ、なあ。敬語。むずむずするんだよな。ふたつしか違わないんだしタメ口でいいよ」

「え……はい。あ。すみません、あ……ご、ごめんね?」

「徐々にでいいよ」



 ボールをリングに向けて放ったが、今日は外れた。

 意外そうな顔をして俺を見る亜子ちゃん。



「外れちゃった」

「そりゃ外すよ」



 あいつとは、違うんだから。

 上がった息を隠しまた放る。今度は外さない。

 隠したかったのは、息だけだったのだろうか。


 朝飯が腹の中でいい感じにミックスされた頃、練習を終わりにして家に戻った。

 昨日はよく見ることが出来なかったが、庭にコスモスやかすみ草が咲いている(ほかにもいくつかプランターに植えられていたが、名前がわかるものがそのふたつだった)。緑の多い庭を眺めていると、



「このあとなにしますか?」



 そう問われ、どうしたものかと唸った。

 ――どうして俺といることにこだわるのだろう。断ったらまた泣かれてしまいそうだ。また眉をたらしている。



「きみは、」

「あ、本読みます? お父さんのもあるし、芥川さんとか太宰さんとか。夏目漱石もあるよ。同じ苗字だからお父さん大好きで」

「あ、ああ……」



 特に断る理由もなく、彼女のあとをついていく。眉は元に戻り、嬉しそうに笑っている。

 彼女の言った通り、本棚には日本の文豪がずらりと並んでいた。読了済みのものもあれば未読のものもある。

 新たな分野開拓をするのもいいが今日は読み慣れた本の気分だった。

 ――が、ふと思い出し、



「昨日のは?」

「え? えっと、あれは……壱くん、恋愛小説読むの?」

「たまに、かな」



 嘘。

 昨日からこの子に嘘ばかりついている。

 例の本の詮索はやめ、『走れメロス』を手にとる。俺には友人のために走る甲斐性はあるだろうか。いろいろと考えながら読書にふけった。


 荒れ狂う川の中を行くメロスを応援していると、背中があたたまっていることに気がつく。手を回せばふさふさしたものに触れる。



「ん?」

「あ、たーくん」

「たーくん?」



 彼女が「たーくん」とやらを引きはがし、「めっ」と怒る。

「たーくん」の正体は朱茶色と白のしましま模様をした猫だった。



鷹丸たかまるって名前なんです」

「……デブってねえ?」

「あはは。そうかも」



 猫にしては重い鷹丸を抱き上げ、見つめてみる。相手もふてぶてしい顔をして睨みつけてくる。

 ――へえ、緑色で綺麗な目をしている。

 昨日は見かけることがなかったが、どこかにでも隠れていたのだろうか。



「おまえも家族なのか」

「家族……家族かあ。ねえ、壱くん。家族でちゃん付けって、変かな?」

「ん? どうだろ。亜子の方がいい?」



 彼女は花が咲いたように明るく笑い、深く頷いた。



「じゃあ、亜子」

「うん!えへへ……壱くんはなにか飼ってる?」

「アパートだからなんも。母さんと二人暮らし」



 鷹丸の頭を撫でるとごろごろと喉を鳴らす。人懐こいようだ。

 鷹丸を膝に乗せ、読書を再開した。


  ○○○○


 荒れ狂う川や悪魔の囁きと闘うメロス。

 背後では読書の邪魔をしてくる鷹丸と亜子の格闘だ。



「もう!たーくん、だめ」



 気まぐれなそいつは亜子の服についているぽんぽんで遊ぶ。きらきらと目を輝かせる鷹丸はやはり猫だ。

 そうして瞳をまた輝かせ、亜子のしおりを奪った。



「待って、たーくん!……わっ!?」



 そうして亜子のバランスまでもを奪っていく。

 慌てて手を伸ばし、彼女が転んでしまわぬよう支える。

 スカートがふわりと舞い、一瞬だけ白い太ももが露わになる。


 そして――

 ――そこに。


 白に映える、真っ赤な痣。

 一瞬目を疑い、すぐさま伏せた。


 ――なんだ、あれ?


 そして軽い身体が胸に収まる。

 細くて小さくて、強く抱いたら壊れてしまいそうな、頼りない身体。

 胸に感じる心音はとてつもなく速い。

 栗色の瞳が数度長いまつげに隠された後、いきなり俺を見た。


「あああありがと、ございます」

「――いや。早く行かなきゃ、鷹丸のとこ。しおり、ほら」


 軽かった。

 ぎゅっと抱きしめていたはずなのに。もう感覚が無い。

 猫を追いかける彼女の背中を見、なんだか切なくなった。


 そして先程の心音は自分のものでもあったことに今更気がつく。


 ……全く、俺は。


 鷹丸を追い掛ける元気は、妙な赤の強盗に奪われてしまい。

 猫背気味の背中をさらに丸め、床に腰を下ろす。


 太ももの赤と、栗色の瞳と、速かった心音が脳裏にこびりついてなかなか取れなかった。


 友のために走る勇気はなさそうだ。

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