1話 ヒツジとおにぎり⑤

****


 君は恋をしたことがありますか。彼はそう問うた。恋などしたことが無いので、首を横に振る。

 そう。君は損をしているな。寂しそうに彼は言った。

 本当にそうなのであろうか? 恋をしないと、損であると? 生まれてこの方、恋などしたことがないが、損をしているなどという認識は全くない。

 恋をしたことが無いのだから、比較のしようが無いのだ。


  ○○○○


 恋愛小説らしい、綺麗な装丁。ベッドにうつ伏せてその文庫本の表紙を眺める。

 内容はすき。繊細でやさしい文章も読んでいて心があたたまる。

 恋愛小説を読むと、擬似体験? してるような感じになる……ってよく言うけれど、それはよく分からなかった。

 ――だって、恋愛とか恋心とかよく分からないもん。したこもと無いし……。

 壱くんはそういうの、どうなんだろう。

 私と一緒で童顔だし幼さが残る顔をしてるけれど、壱くんは表情や仕草が大人っぽいから、きっと恋愛とか、したこと、ある……よね。


 ――今日初めて会ったのに、そんなことを考えてる。


 顔が熱くなって、くまさんをだっこした。もこもことした毛が顔に当たる。ふかふか具合が気持ちいい。顔をうずめるとふわふわに包まれて嬉しくなってしまう。

 身近に同世代の男の人が少ないから変に考えちゃうのかな。

 ふたつ年上の『おにいちゃん』かあ。

 くまさん――って呼んでるテディベア――を抱き込むと、ドアがノックされた。


 ――鷹丸たかまるかな?


 くまさんをベッドに寝かせてドアを開くと、肌色があった。足元にいると思い込んでいた鷹丸の気配はない。首を傾げながら目線を上げると、大きなツリ目。しばらく目があって、少し赤いのかなと思い、ようやく思考が追いつく。



「ひゃあ! い、壱くん……?」

「こ、こんばんは……そんなに驚かせたか?」

「あ、……えっと」



 鷹丸ねこだって思ってたし、まさか壱くんが私の部屋に来るなんて……。それに私、さっきまで変なこと考えてた。

 混乱してあたふたと変な動きをしていると、壱くんは優しい声で言う。



「亜子ちゃん、女の子だもんな。悪い。そういうの頭回らなくて」

「いえ、あの、私も、ごめんなさい……」



 妙な沈黙。

 気まずくなって目をそらすと、「湿布、貼ってほしいんだけど」と壱くんが沈黙を破ってくれた。シップ? と首を傾げるとすっとする匂いが鼻をつく。



「背中。打撲してて。えーと。お願いできる?」

「あ、は、はい」



 貼りにくいんだろうなあ、背中って。身体が硬いから気持ちがよくわかる。お風呂で背中を洗うだけでも腕がつりそうになってしまうもの。


 壱くんを部屋の中に案内していると、突然緊張してきてしまった。だって年上の男の人。ただでさえ男の人に慣れていないのに、それに加えて年上だなんて。

 変な動きをしていないかな。お部屋を片付けておけばよかった。



「ここ、どうぞ」



 ベッドを叩きながら目を移すと、くまさんが大の字で寝転んでいた。壱くんはそれを見て笑っていた。こんな笑顔もするんだ。


「くま、一緒に寝るんだ?」

「え……私、すごく淋しがり屋で。ひとりのとき、ぎゅっ、て……あれ? あ、その。変ですよね」

「いいんじゃない? 可愛いと思うよ」


 ――かわいい。

 壱くんにそんなことを言われるなんて。

 お世辞に違いないのに、胸にやわらかなきゅっという刺激が発生した。喉の奥がじわりとあたたかくなる。

 壱くんが持つと小さく見えるくまさん。壱くんがベッドに腰掛けると、ぎしりと軋む。



「ほい。くま」

「あ、そこに……」

「ここでいい?」



 くまさんは壱くんの隣で堂々と大の字で寝っ転がった。私にもこれほどの度胸があればなあ。


 その後の私は酷かった。

 必要以上に慌てて本棚にぶつかりそうになったり、それを壱くんに助けてもらったり、助けられたことにまた慌てて悲鳴をあげてみたり……情けない。



「本当に男ダメなんだ」

「うぅ……はい。ごめんなさい」



 くまさんを抱きしめて、やっと落ち着いてきた今現在。

 慣れよう、平気になろうとは思ってる。でも、極度の人見知りのせいかなかなか克服できずじまい。一度慣れちゃえばいいんだろうけど……。なかなかうまくいかないなあ。

 くまさんのもこもことした毛並みをあごで堪能する。


 ――変な目で見てないかな……? わ、こっち見てた。

 変な目ではないけど、少し赤い目をしている。そういえば、お部屋に来た時も赤かったような気がする。どうしたのかな。

 そっと手を伸ばし、壱くんの頬に触れる。

大きなツリ目がさらに大きくなって、頬がビクリと動いた。慌てて手を引っ込める。


「な、なに?」

「あっ、その。ごめんなさい……目、赤かったから」

「……カフンショー」


 不機嫌そうにつぶやいた壱くんに不安になった。表情こそ変わらなかったけれど、壱くんのまとう雰囲気にはどこか怖さや凄みといったものがあり、くまさんを抱く手に力が入る。また身体が震えてしまう。

 ――悪いこと、したかな。

 涙が溢れそうになるのを堪え、唇を噛み締めた。

 深く俯いていると、頭にあたたかいものが乗る。それはぽんぽんと何度か頭を撫でた。壱くんの手だ。お父さんとは違う手の感触。

 やさしい手の感触に浸っていると、壱くんは厳しい表情を崩し、ため息をひとつこぼす。



「本当は、ちょっと、泣いてた。痛くて。……はは、ごめん。ありがと」



 痛むのは打撲をしたという背中?

 そっと背中に触れると、今まで見たことのないようなやさしい笑顔をする。ごつごつとした背中は、手と同じあたたかさをしている。



「辛かったら、いつでも言ってくださいね」



 痛む場所を撫でるくらいなら、いつでもするから。それくらいしか、私にはできないけど。



「……ん。も、いいよ」



 壱くんが頷いたから手を離す。

 初対面の男の人に自分から触れたのは初めてかもしれない。あたたかいぬくもりが残る左手を見ながら驚いた。



「亜子ちゃんてさ、……いい子だよね」

「え?」

「あ、――多香子も読んでたな。これ」



 さっきまで私が読んでいた本を見つけたらしく、壱くんが手を伸ばす。本に目を落とす横顔を見ながら、初めて聞く名前に首を傾げた。



「タカコ……さん?」

「友だち」



 自然と出てきた女の人の名前。

 やっぱり、恋愛したことあるのかな。

 私がそんなことを考えていると、壱くんは「ちょっと読んでいい?」と訊く。邪念を振り払うとともに大きく頷くと、壱くんは長い指で表紙をめくった。

 ぱらぱらと小気味いい音を立ててページをめくっていき、しおりが挟んであるページで手を止めた。しばらく文章を読んだかと思えば辛そうな顔。不思議に思っていると、本と湿布が渡される。



「お願い」



 湿布のビニールを剥がして目線をあげた頃にはもう壱くんは上半身裸だった。

 思わず変な声をあげてしまい、慌てて口を押さえる。

 ――やっぱり、苦手だ。

 強くつむった目を恐る恐る開き、頭を下げた。



「す、すみません」

「いや、俺も悪かった」



 白い肌が嫌でも目に入る。

 あ……腹筋、割れてる。思わず凝視してしまい、耳の端が熱くなった。

 少しずつ目線を上げると、筋肉質な胸板。

 そして、少しだけ赤みを帯びた首筋。

 照れたようにその首筋に触れている。



「あんまり見られると恥ずかしいんですけど」



「だから早くしろ」とは言わなかったけど、そう言いたげな表情をしていた。そうして私に背を向ける。広くて白い、その背中。

 打撲したのはどこだろう、なんて考える暇はなかった。


 キズアトが、真っ先に目に入った。


 ぎざぎざな輪郭をして、白くて広い背中に斜めに走る、それ。

 大きな傷だった。

 立派な背中で、痛々しく自己主張して。打撲の痕よりも目立つその傷。

 それは右の肩甲骨から左の肩甲骨のまで届き、猫背気味の背中によってより強調されていた。

 絶句して、泣きそうになって。

 目をふさいで――もう一度開いた。

 そっとそれに触れると、赤らんだ顔が振り向く。しまった、という表情。



「あ。あー……ごめん。見せるつもりはなくて……その、寒いから。早く貼って」

「あ、は、はい」



 その傷の、少し上。首の付け根あたり。色の変わっている箇所に湿布を貼る。

 丸まった背中に触れた瞬間、少しだけ背中が反った。



「――アリガト」

「……はい。あの、」

「でかい傷はさ、ヒトを助けたときにできた傷なんだ。……誇りかな。俺にとっての、誇り」



 そう言う壱くんの横顔は、淋しそうで、でも 少しだけ嬉しそうでもあった。

 背中を見つめていると、いつの間にかこっちを向いていて、頭を撫でられて。壱くんの笑顔が見えた。



「気にしないで」

「……凄いです。私は――誰も助けたこと無いですし……それに、私は」



 人を、ひとり。



「どうした?」

「い、いえっ」



 壱くんは不思議そうな顔をして私を見ていた。そして身体をぶるりと震わせ、服を着た。



「じゃあ部屋戻る。ありがとな。おやすみ」

「おやすみなさい」



 先程の淋しそうな表情が嘘のように笑っていた。きらきらと、眩しい笑顔。

 ぱたんとドアが閉まり、その笑顔が見えなくなる。


 ――誇り、かあ。

 その響きはなんだか恰好いい。

 でも……どうして淋しそうな顔をしたんだろう。



「壱くん、か」



 背が高くてツリ目で、髪の毛はつんつんしていて、怖い雰囲気のある人だけど、話してみると優しい人で。

 笑うと、幼いけれどきれいな顔をする人。


 壱くんの笑顔を思い出しながら文庫本を開く。本当は早く寝ないといけないんだけれど。今日はなんだか眠れない。まだまだ今日を終わらせたくない。

 壱くんがしていたように、ぱらぱらとページをめくっていく。そしてしおりを挟んだページで止まる。壱くんが読んでいたページ。

 そっと、目についた一文字を指で撫でる。



「……恋」



 まだ私の知らない気持ちだった。 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る