1話 ヒツジとおにぎり⑤
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君は恋をしたことがありますか。彼はそう問うた。恋などしたことが無いので、首を横に振る。
そう。君は損をしているな。寂しそうに彼は言った。
本当にそうなのであろうか? 恋をしないと、損であると? 生まれてこの方、恋などしたことがないが、損をしているなどという認識は全くない。
恋をしたことが無いのだから、比較のしようが無いのだ。
○○○○
恋愛小説らしい、綺麗な装丁。ベッドにうつ伏せてその文庫本の表紙を眺める。
内容はすき。繊細でやさしい文章も読んでいて心があたたまる。
恋愛小説を読むと、擬似体験? してるような感じになる……ってよく言うけれど、それはよく分からなかった。
――だって、恋愛とか恋心とかよく分からないもん。したこもと無いし……。
壱くんはそういうの、どうなんだろう。
私と一緒で童顔だし幼さが残る顔をしてるけれど、壱くんは表情や仕草が大人っぽいから、きっと恋愛とか、したこと、ある……よね。
――今日初めて会ったのに、そんなことを考えてる。
顔が熱くなって、くまさんをだっこした。もこもことした毛が顔に当たる。ふかふか具合が気持ちいい。顔をうずめるとふわふわに包まれて嬉しくなってしまう。
身近に同世代の男の人が少ないから変に考えちゃうのかな。
ふたつ年上の『おにいちゃん』かあ。
くまさん――って呼んでるテディベア――を抱き込むと、ドアがノックされた。
――
くまさんをベッドに寝かせてドアを開くと、肌色があった。足元にいると思い込んでいた鷹丸の気配はない。首を傾げながら目線を上げると、大きなツリ目。しばらく目があって、少し赤いのかなと思い、ようやく思考が追いつく。
「ひゃあ! い、壱くん……?」
「こ、こんばんは……そんなに驚かせたか?」
「あ、……えっと」
混乱してあたふたと変な動きをしていると、壱くんは優しい声で言う。
「亜子ちゃん、女の子だもんな。悪い。そういうの頭回らなくて」
「いえ、あの、私も、ごめんなさい……」
妙な沈黙。
気まずくなって目をそらすと、「湿布、貼ってほしいんだけど」と壱くんが沈黙を破ってくれた。シップ? と首を傾げるとすっとする匂いが鼻をつく。
「背中。打撲してて。えーと。お願いできる?」
「あ、は、はい」
貼りにくいんだろうなあ、背中って。身体が硬いから気持ちがよくわかる。お風呂で背中を洗うだけでも腕がつりそうになってしまうもの。
壱くんを部屋の中に案内していると、突然緊張してきてしまった。だって年上の男の人。ただでさえ男の人に慣れていないのに、それに加えて年上だなんて。
変な動きをしていないかな。お部屋を片付けておけばよかった。
「ここ、どうぞ」
ベッドを叩きながら目を移すと、くまさんが大の字で寝転んでいた。壱くんはそれを見て笑っていた。こんな笑顔もするんだ。
「くま、一緒に寝るんだ?」
「え……私、すごく淋しがり屋で。ひとりのとき、ぎゅっ、て……あれ? あ、その。変ですよね」
「いいんじゃない? 可愛いと思うよ」
――かわいい。
壱くんにそんなことを言われるなんて。
お世辞に違いないのに、胸にやわらかなきゅっという刺激が発生した。喉の奥がじわりとあたたかくなる。
壱くんが持つと小さく見えるくまさん。壱くんがベッドに腰掛けると、ぎしりと軋む。
「ほい。くま」
「あ、そこに……」
「ここでいい?」
くまさんは壱くんの隣で堂々と大の字で寝っ転がった。私にもこれほどの度胸があればなあ。
その後の私は酷かった。
必要以上に慌てて本棚にぶつかりそうになったり、それを壱くんに助けてもらったり、助けられたことにまた慌てて悲鳴をあげてみたり……情けない。
「本当に男ダメなんだ」
「うぅ……はい。ごめんなさい」
くまさんを抱きしめて、やっと落ち着いてきた今現在。
慣れよう、平気になろうとは思ってる。でも、極度の人見知りのせいかなかなか克服できずじまい。一度慣れちゃえばいいんだろうけど……。なかなかうまくいかないなあ。
くまさんのもこもことした毛並みをあごで堪能する。
――変な目で見てないかな……? わ、こっち見てた。
変な目ではないけど、少し赤い目をしている。そういえば、お部屋に来た時も赤かったような気がする。どうしたのかな。
そっと手を伸ばし、壱くんの頬に触れる。
大きなツリ目がさらに大きくなって、頬がビクリと動いた。慌てて手を引っ込める。
「な、なに?」
「あっ、その。ごめんなさい……目、赤かったから」
「……カフンショー」
不機嫌そうにつぶやいた壱くんに不安になった。表情こそ変わらなかったけれど、壱くんのまとう雰囲気にはどこか怖さや凄みといったものがあり、くまさんを抱く手に力が入る。また身体が震えてしまう。
――悪いこと、したかな。
涙が溢れそうになるのを堪え、唇を噛み締めた。
深く俯いていると、頭にあたたかいものが乗る。それはぽんぽんと何度か頭を撫でた。壱くんの手だ。お父さんとは違う手の感触。
やさしい手の感触に浸っていると、壱くんは厳しい表情を崩し、ため息をひとつこぼす。
「本当は、ちょっと、泣いてた。痛くて。……はは、ごめん。ありがと」
痛むのは打撲をしたという背中?
そっと背中に触れると、今まで見たことのないようなやさしい笑顔をする。ごつごつとした背中は、手と同じあたたかさをしている。
「辛かったら、いつでも言ってくださいね」
痛む場所を撫でるくらいなら、いつでもするから。それくらいしか、私にはできないけど。
「……ん。も、いいよ」
壱くんが頷いたから手を離す。
初対面の男の人に自分から触れたのは初めてかもしれない。あたたかいぬくもりが残る左手を見ながら驚いた。
「亜子ちゃんてさ、……いい子だよね」
「え?」
「あ、――多香子も読んでたな。これ」
さっきまで私が読んでいた本を見つけたらしく、壱くんが手を伸ばす。本に目を落とす横顔を見ながら、初めて聞く名前に首を傾げた。
「タカコ……さん?」
「友だち」
自然と出てきた女の人の名前。
やっぱり、恋愛したことあるのかな。
私がそんなことを考えていると、壱くんは「ちょっと読んでいい?」と訊く。邪念を振り払うとともに大きく頷くと、壱くんは長い指で表紙をめくった。
ぱらぱらと小気味いい音を立ててページをめくっていき、しおりが挟んであるページで手を止めた。しばらく文章を読んだかと思えば辛そうな顔。不思議に思っていると、本と湿布が渡される。
「お願い」
湿布のビニールを剥がして目線をあげた頃にはもう壱くんは上半身裸だった。
思わず変な声をあげてしまい、慌てて口を押さえる。
――やっぱり、苦手だ。
強くつむった目を恐る恐る開き、頭を下げた。
「す、すみません」
「いや、俺も悪かった」
白い肌が嫌でも目に入る。
あ……腹筋、割れてる。思わず凝視してしまい、耳の端が熱くなった。
少しずつ目線を上げると、筋肉質な胸板。
そして、少しだけ赤みを帯びた首筋。
照れたようにその首筋に触れている。
「あんまり見られると恥ずかしいんですけど」
「だから早くしろ」とは言わなかったけど、そう言いたげな表情をしていた。そうして私に背を向ける。広くて白い、その背中。
打撲したのはどこだろう、なんて考える暇はなかった。
キズアトが、真っ先に目に入った。
ぎざぎざな輪郭をして、白くて広い背中に斜めに走る、それ。
大きな傷だった。
立派な背中で、痛々しく自己主張して。打撲の痕よりも目立つその傷。
それは右の肩甲骨から左の肩甲骨のまで届き、猫背気味の背中によってより強調されていた。
絶句して、泣きそうになって。
目をふさいで――もう一度開いた。
そっとそれに触れると、赤らんだ顔が振り向く。しまった、という表情。
「あ。あー……ごめん。見せるつもりはなくて……その、寒いから。早く貼って」
「あ、は、はい」
その傷の、少し上。首の付け根あたり。色の変わっている箇所に湿布を貼る。
丸まった背中に触れた瞬間、少しだけ背中が反った。
「――アリガト」
「……はい。あの、」
「でかい傷はさ、ヒトを助けたときにできた傷なんだ。……誇りかな。俺にとっての、誇り」
そう言う壱くんの横顔は、淋しそうで、でも 少しだけ嬉しそうでもあった。
背中を見つめていると、いつの間にかこっちを向いていて、頭を撫でられて。壱くんの笑顔が見えた。
「気にしないで」
「……凄いです。私は――誰も助けたこと無いですし……それに、私は」
人を、ひとり。
「どうした?」
「い、いえっ」
壱くんは不思議そうな顔をして私を見ていた。そして身体をぶるりと震わせ、服を着た。
「じゃあ部屋戻る。ありがとな。おやすみ」
「おやすみなさい」
先程の淋しそうな表情が嘘のように笑っていた。きらきらと、眩しい笑顔。
ぱたんとドアが閉まり、その笑顔が見えなくなる。
――誇り、かあ。
その響きはなんだか恰好いい。
でも……どうして淋しそうな顔をしたんだろう。
「壱くん、か」
背が高くてツリ目で、髪の毛はつんつんしていて、怖い雰囲気のある人だけど、話してみると優しい人で。
笑うと、幼いけれどきれいな顔をする人。
壱くんの笑顔を思い出しながら文庫本を開く。本当は早く寝ないといけないんだけれど。今日はなんだか眠れない。まだまだ今日を終わらせたくない。
壱くんがしていたように、ぱらぱらとページをめくっていく。そしてしおりを挟んだページで止まる。壱くんが読んでいたページ。
そっと、目についた一文字を指で撫でる。
「……恋」
まだ私の知らない気持ちだった。
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