1話 ヒツジとおにぎり②
土曜日の昼下がり、快晴。頭上には見事な青が広がっている。
夏目邸の目の前にある公園にやってきたが、子どもの気配はしない。今いるのは俺と小さな少女のふたりきり。もしかしたら妹になるかもしれない女の子。夏目亜子ちゃん。
俺との距離は、おおよそ大股で5歩分。
縮まりそうな雰囲気は全くない。
ずっと不安そうに自宅を見つめている。
「逃げ出したい」「家に戻りたい」といった雰囲気を醸し出している。
――そんなに俺は怖いか。
確かに目はツリ上がってるし、背も高いほうだ。おまけに口も悪い……ああ、よく考えなくても怖い要素ばかりではないか。
だが、笑顔には自信がある。得意になってしまった作り笑顔の出来は秀逸だ。
しかし彼女はこちらを見てはくれない。
肩まで伸ばした栗色の髪がさらさらとなびく。
彼女は肌が白く、明るめの髪色をしている。いわゆる透明感がある、というやつだろうか。
ふわふわとしていて、風が吹いたら飛ばされてしまいそうだ。また風が吹いて、彼女のスカートをふわりとさらっていった。
幸せになるための1歩と言えば豪華かもしれないが、彼女に背を向け1歩進む。
彼女も小さな歩幅で歩み寄る。
楽に踏み出せた。
すべり台を通り過ぎ、ブランコを越え、砂場の前。木製のベンチに腰を下ろせばすまなそうな顔をした彼女が目の前に立つ。
「なに?」と栗色の瞳を見るが、それはすっと横に動く。
目を合わせることさえ拒絶されるとは。
――……本格的に怖がられてる?
慌てて笑顔を作り、ゆっくりと言葉を待つ。
きゅ、とまた眉を下げて、スカートの裾を握り込んでいた。
「わ、私っ、男の人、苦手で。人見知りもすごくて……でも、壱くんのこと、嫌いじゃないですし、あの、その……」
「あ、……ああ」
怖がられては、いない?
安堵のため息を漏らす。
それから自分の首に触れた。熱い。
彼女の瞳がくすぐったい。小動物のような瞳をしている。
「……座りなよ」
隣を叩くと、彼女はこくりと頷いた。腰を下ろした彼女の頬は、ぽっと色づいている。
そんな表情をされるとこっちまで照れてしまう。思わず額を押さえた。手が湿った。
――まさか緊張してる?
隣をちらりと見遣れば俯いた彼女がいる。
気まずそうにぱちぱちと瞬きをしていた。
「ねえ、きみ、いくつ?」
「16……えっと、高校2年生です」
「は!?」
俺も童顔で実年齢より下に見られることがあるが、彼女はその上をいっていた。
――そうか、高校2年生。
ということは2歳しか違わないわけだ(もう少し下だと思っていたことは内緒)。
ぽーっと空を見上げる彼女は、やはり実年齢よりも幼く見える。身長や容姿のこともあるかもしれないが、こういった雰囲気も幼さの要因なのだろうか。
なにを見ているのだろう?
同じようにしてみると、大きな雲が見えた。ゆったりとしたスピードで形が変わっていく。それが楽しいのか。たまに唇をもごもごと動かしている。幼い子どものような子だ。足までぱたぱたとさせている。
特に会話もなく、時間だけが過ぎていく。それでも嫌な類いの沈黙ではない。
ぽかぽかとあたたかな時間だった。その間、ヒツジの形をしていた雲はおにぎりへと変形した。今もなお次なる形態に進化しようとしている。
背もたれに体重を預け、ずるずると身体を滑らせていくと、びりりと電気が流れたように背中が痛んだ。
忘れていた。思わず声が漏れてしまう。
雲を見つめていた瞳が、驚いたように俺を見た。
「なんでもない、大丈夫」
「どこか悪いんですか? 病気とか、怪我とか……?」
「……。背中をね、打撲した。でももう治るから」
「……お大事に、です」
日の光に当たった栗色の髪が、きらきらと輝いていた。そして父親譲りの優しい笑顔をする。
腹の底が、とくんと。熱くなったのは、勘違いだろうか。
それを誤魔化すために頭を軽くかいてみて、リュックサックを漁る。今日も入れておいたはずだ。お目当てのものに触れ、自然と笑みが漏れた。
亜子ちゃんに向かってそれを投げると、両手で抱えるようにキャッチした。
「わっ。バスケットボール?」
どうにも彼女の手には似合わないものだったようだ。膝の上に乗せてころころと転がしている。
ボールの表面が擦り減っているのが気になるのだろうか。小さなその手で何度も撫でていた。
「お父さんもバスケット好きなんですよ」
「ああ、言ってたね」
先程の自己紹介を思い出し、頷く。
一通り撫で終え満足したのか、ボールを差し出した。俺の手にはよく馴染む。
そして座りながら数回ボールをつく。
嬉しそうに微笑んでそれを見る彼女に「やってみる?」とボールを渡すが、また膝の上に乗せ撫で始めた。
変わった子だ。
前屈みになりながら空を見上げる。おにぎりは栗のような形になっていた。
それにしても、何故こんなに嬉しそうな顔をするのだろう。ぼんやり彼女を眺めていると、突然手を止めて俺を見た。「あ……」と思わず声が漏れた。
「あの、今日、もう帰っちゃうんですか?」
「は?」
「一恵さん、来たから……」
同じ方向を見てみると、確かに母さんがいた。公園の入口にある車止めの間を抜け、こちらに近づいている。
そんな母さんを、亜子ちゃんは悲しそうな目をして見つめている。放っておけば涙をたらたらと溢れさせてしまいそうな。そんな、悲しさで沢山の瞳だった。
ずっと見ているのも耐え切れず、そっと目を反らす。いい子ではあるけれどなんだか苦手だ。
「まあ、そりゃ、来たからには、帰らないと」
「そうですよ、ね」
俺の答えは逆効果だったのだろうか。視界の端に映り込む彼女の眉はどんどん垂れていく。
まずい。このままでは母さんに誤解されてしまう。それだけは避けたい。
「えっと。まだ帰らないから、いるから。だから、泣く、なよ……?」
「ほんとですか?」
「ああ」
「明日まで、いてくれますか?」
「え」
――明日まで?
「だめ、ですよね」
またそうやって泣きそうな顔をする。
この子はずるい。
男がそんな顔に弱いのだと知っているのだろうか。それとも天然か?
だったら余計にタチが悪い。
母さんがベンチに到達する手前、俺は額を押さえながら頷いた。完敗だ。
「わかった。いるよ。明日暇だし……」
ふと、「明日までいろ」ってことは「泊まってけ」ということではないかと今頃になって気がついた。
額から手を離すと、母さんのとびきりスマイルが待っていた。……いやな予感がする。ひんやりとした汗が背筋を下っていった。
「あれ、壱、亜子ちゃんと仲良くなったんだねえ。珍しい。今晩は一緒に寝ます?」
「はあ!? ばか。出来るか!」
それから母さんを無視し、「あの家何部屋あるの」と亜子ちゃんに尋ねる。
そんなに嬉しいのだろうか。満面の笑みをしながら、指を折って数えはじめた。
「5か、6です」
「ふうん……あ。岳司さんに許可とか、」
「あら、問題ないわよ。さっき話しててね、壱さえよければ泊まってかないかって、岳司さんが」
乙女の笑顔をして母さんはほくほくと惚気を語る。無視だ。
「なあ。さっきの冗談だから。気にすんなよ」
「さっきの?」
「ああほら、一緒に寝るとか……」
「?」
言いながら妙な想像がよぎり、赤面してしまった。馬鹿は俺か。
「お布団、お客さん用のがありますから、その、心配しないでください!」
「あ、いや……そういうことじゃなくて」
そういうことに、しておくか。
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