chapter1:ヒツジとおにぎり
1話 ヒツジとおにぎり①
幸せになるための1歩。
それを踏み出すことは、どんなに勇気が要ることだろう。
秋も近づく土曜日。
よく晴れた日。
母さんは1歩、踏み出した。
「再婚するかも」という母さんの言葉に、「またかよ」と眉間にシワを寄せた俺は親不孝者かもしれない。
親父が死んでから何年経つだろう。
当時幼かった俺は、もう大学生になってしまった。
時の流れというものは早くて。あっという間だ。
いまさら、親父の遺言を叶えなくてもいいのに。母さんときたら。
今回で3回目。過去2回は失敗に終わった。お断りの理由はどちらも俺。
目つきが悪い。
口が悪い。
態度が悪い。
そんな理由だったか。目つきが悪いなんて、俺にはどうしようもできないことなのに。口と態度に関しては、まあ、反省はしている。
きっと邪魔なだけだったのだろう。
俺さえいなければ、母さんは今ごろ幸せになれていたのだろうか。
「
そんな曰く付きの再婚騒動に今日も付き合わせようと、俺の身体を軽自動車に押し込む母さん。
なぜ母さんは天井の低い、しかも狭い軽自動車ばかりを好むのだろう。おかげで猫背だ。
後部座席に寝転び、窓の外を見上げる。
空の青がいやに綺麗だ。
エンジンの振動が眠気を誘う。
「ごめんねぇ。今日くらいしか休みが合わなくて。娘さんはいつでも大丈夫なんだけど。ほら壱! スマイルスマイル! こわい顔してたら嫌われちゃうよ」
「……なんで今回はこんなに突然?」
「さささ、サプライズよ」
嘘つけ。
俺が渋るとわかっていたからだろう。
ルームミラーを一睨みすると、母さんが折れた。
「だって壱、『嫌』って。だから……」
「……あー、はいはい」
俺が悪かったですよ。
腹の上に置いたリュックサックを撫で、窓の外を見た。ゆったりと景色が変わっていく。
――新しい人の家、近いのかな。
いつもなら高速道路やバイパスを使うため、一般道は新鮮だった。
見慣れた景色が流れていく。
「そうだそうだ。娘さん、かなり人見知りな子だからヨロシクね」
「ヨロシクって、」
俺にどうしろと。
流れてくる並木をなんとなく目で追ったが、数秒で見えなくなった。
娘。
前2回はどちらも独り身で、子どもがいるパターンは初めてだ。それならば少しは事情が変わってくるのかもしれない。
「その子ね、すーごく可愛いんだよ」
「ふうん」
「壱より年下」
「げ」
すっげえ年下だったら嫌だなあ、とさらに眉間にシワが寄った。
シワを寄せたついでに(関連性は謎だ)、あくびが漏れる。昨日はあいつが長電話を仕掛けてきやがったせいで寝不足だ。止まらぬマシンガントークを受ける身にもなって欲しい。
目的地に着くまで一眠りしよう。と目をつむり、うつらうつらとしてはみたが、もう目的地に着いてしまったようだ。
眠さがほのかに残っている。目の奥がじんわりと痛む感じがした。
○○○○
立派な家が建ち並ぶ静かな住宅街。
母さんはその中の庭付き一戸建て、恐らく広い部類に入るであろう家の駐車場に車を停め、俺を引っ張り出した。
話が通じそうにない、如何にも危険だとわかるような人物が出てきたらどうするべきか。母さんを無理矢理にでも引っ張って逃げる。これが最善か。
――などといらない妄想をしている間に、母さんは迷いなく玄関のチャイムを鳴らしていた。
玄関横の郵便受けで見つけた《
扉の向こうでは人の動く気配がする。
がちゃり、鍵の開く音。
ゆっくりと扉は開かれた。
どんな人かと視線を移す――が、突然のあくびに見舞われた。
口を押さえ、目頭に涙を溜めながら彼を見る。きっと前の二人はこの態度が気に入らなかったのだろう。
しかし彼は嫌な顔をひとつせず、さらには優しげな笑顔をたずさえ、「やあ、壱くんだよね。寝不足かい?」と尋ねてきた。
――"いい人"、だ。
本能でそう感じてしまうような、そんな人だった。前の二人とは違う。
「どうも。
下げた頭を上げ、岳司さんを見る。爽やかな笑顔だ。目線の高さは同じくらい。180センチくらいはあるのだろうか。
ぼんやりと見定めていると、突然背中に痛みが走る。ビリッと首元に電気が走ったような気がした。犯人は母さんのようだ。
「イテ、」
「ごめんなさいね、壱、いつもこうで。変にマイペースっていうか」
――怪我してるとこ叩くか? この母親は。
むっと睨むと、母さんは歯を見せて笑う。「笑顔!」と口を動かしてから、岳司さんの後ろをじっと見つめた。
なにも無いはずの空間をただただ見つめている。この人には心霊の類が見えるのだろうか。
「こんにちは、亜子ちゃん」
誰に声をかけたのだろうと訝しがっていると、女の子の声でたどたどしい「こんにちは」が返ってきた。意識をしていないと消えてしまいそうな、そんな小さな声だった。
「亜子、壱くんにも挨拶」
「こ、こんにちはっ」
岳司さんの陰からひょっこりと現れたのは、色素の薄い髪の色をした女の子だった。
身長は岳司さんの肩くらい。
不安そうに下がった眉。きゅ、と眉間に力を入れているようだ。
放っておいたら泣き出してしまいそうな大きな瞳に見つめられ、とっさに彼女と同じ挨拶を返す。きちんと笑えていただろうか。
目線を合わせるために屈む。
小さな手は、スカートの裾をきゅっと握って震えていた。
笑顔、笑顔。母さんに言われた言葉を胸に、口角を上げる。1歩。近寄って。
「俺、壱です。難しい漢字のイチで、壱。わかるかな。えっと」
「わ、私っ……あの、その、……あ、亜子です!」
答えると同時にまた岳司さんの後ろに隠れてしまった。
俺の位置からは目視不可能だ。
――なるほど。
先程の母さんは第六感を働かせたのではなく、視覚で彼女を捉えていたのか。
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