第50話『呑舟之魚-ドンシュウノウオ-』

 さて。

 生徒達が帰っていき、宮紡みやつむぐは一人憂いに満ちた顔で書籍をまとめていた。種違いの妹・小金井絢こがねいあやに持って帰るようにきつく言われた書籍だ。

 持って帰っても、自宅マンションの本棚もいっぱいいっぱいで困っている状態なのに。自宅マンションは、この部屋ほど整理整頓が行き届いておらず、生活スペース以外は書籍が積み上がっている状態なのだ。

 隣りの部屋の友人も見兼ねて、たまに茉莉花と共に掃除を手伝ってくれるが、すぐに散らかってしまう始末。この書籍も持って帰るときっと呆れられてしまうに違いない。

 とはいえ、小金井にこの書籍の存在がバレてしまった以上、持ち帰る他ないのだ。

 でなければ、次は確実に燃やされる。それだけは何が何でも回避しなくてはならない。


 宮が溜息をついていると、扉が二回叩かれ宮が返事する前に開けられた。

 誰だと思いながら宮が扉を見ると、そこには背広の男性が立っていた。

 久しく見る顔だ。名前も知っている。北淀露樹ほくでんつゆきといい、刑事をしている宮の後輩だ。

 宮は北淀の顔を見るなり再度溜息をついて「お前が此処に来るなんて珍しいな」とぼやく。

 北淀は部屋に立ち入ると、長机にビニール袋に入った草臥れた名刺を置いた。

 それは、昨日、鹿嶋美須々の面会を求めてやってきた西澤顕人にしざわあきとが持っていたものだった。

 宮はその名刺を怪訝そうに見つめて「何だこれ」と北淀に問う。


「昨日鹿嶋美須々かしまみすずに会いに来た生徒が持ってたものです。先輩から返しておいてください」

「そりゃあ構わないけど、何で西澤の持ち物をお前が持ってるんだ?」

「これを見て、鹿嶋が酷く取り乱しました。落ち着いて事情を聞いたら、それまで何も覚えていないと言っていた彼女が、この名刺の男に例の違法薬物を渡されたと言いました。男は心療カウンセラーだと言っていて薬は抗不安薬だと説明されていたとか」

「抗不安薬」

 北淀の言葉に、宮は鼻で笑うような失笑を返す。


「問題は、何故この名刺を先輩の生徒が持っていたか、です。何か聞いてませんか?」

 北淀に問われて、宮の脳裏には去年の春の出来事、そして同じ生徒である滝田晴臣たきたはるおみの姿が過ぎる。しかし宮は肩を竦めて「さあ、わからない」と返す。

 北淀はその反応に一瞬眉をひそめたが、すぐに首を振って「じゃあ何か聞いたら教えてください」と答える。


 宮は長机に置かれた名刺をビニール越しに触れる。そこに書かれた掠れた文字を見て北淀に「これ何て読むんだ?」と訊く。

「鹿嶋は、安居院綴あぐいつづる、そう言ってました」

「安居院……ねえ」

 宮は口の中で転がすように、その名前を口にする。

 何故か名前だと宮は感じる。でもそれが何処だったか思い出せない。


「鹿嶋美須々はどうなるんだ?」

 宮は名刺から顔をあげて北淀に問う。

 北淀は肩をすくめると「本人は覚えてないと言っている割に、暴行傷害や違法薬物の使用に関して認めている。取り調べには応じているし、反省はしている。でも、こればっかりは裁判次第だからどうなるか」と呟く。

 宮は北淀の話を聞きながら、まあそうだろうな、と思う。


「ところで、北淀、お前車か?」

「車、ですが?」

「じゃあ家まで送ってくれ。今日は持って帰らないといけない本が沢山あって困ってたんだ」

 宮はそう言いながら事務机に積まれた数十冊近い書籍を撫でてにんまりと笑う。

 北淀は顔を青くするが、昔からこの先輩に逆らえるはずもなく、搾り出すように「わかりました」と呟いて項垂れ落ちた。


 ***


 男が一人歩道を歩いている。

 学内は既にどの生徒も帰宅しているようで、道行く人の姿は全くない。

 彼は軽い足取りで、空を仰ぐ。

 空にはほどほど丸い月が夜の学内に光を落としているため、光源がなくてもよく見える。


 彼は歩きながら探しものをしていた。

 鵺を探していた。

 泣き啜り、業に囚われのたうち回る女を探していた。

 そろそろ彼女が摂取する薬がなくなる頃だから届けに来たのだ。

 はじめは一日二錠だった薬も彼女の精神の分裂が進むにつれ、量は増えていった。

 近頃は数時間毎にラムネのように噛み砕いたはずだ。

 素晴らしい傾向だ。

 あの様子だともう家に帰るという思考も残っていないだろう。

 だから彼女が通いつめていたこの大学内に潜んでいると思っていたが、どうにも様子がおかしい。


 とても静かだ。

 夜鳥の声は勿論、『鵺』の声なぞ到底聞こえてこない。


「『源頼政』と『猪早太』がやってきてしまったのか」

 彼は呟く。

 それならそれで良い。

 彼も必ずそのときがやってくると思っていた。が、思いの他、その登場の早さに落胆してしまう。

「ああ、残念だな」

 彼はそう言いながら、オレンジ色の錠剤が入った瓶を掲げて、瓶越しにまあるい月を見上げて笑った。

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鵺の泪[アキハル妖怪シリーズ①] 神﨑なおはる @kanzaki00nao

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