第169話 おかえり。そして、ただいま
「ヴィンセント、大好き」
その言葉を聞いた時、ヴィンセントは幸福に打ちのめされたような、初めての心地を味わった。
二巡目のヴィンセントは、乗り越えられない壁としてヴィンスをライバル視していた。ヴィンスのことを、全く違う人生を歩んだ、別の人物だとすら思っていた。
だからこそ、三巡目でオリアナと接す時、自分がどちらのオリアナを相手にしているのか、わからなくなる時があった。
オリアナを恋しいと思うその心が、どちらに向いているのかわからなくて、泣きたくなったことさえあった。
(でもずっと、オリアナはここにいた)
『ヴィンセント、大好き』
目の前にいるオリアナからは初めて聞いたのに、同じだった。
もう二度と会えないと思っていたあの時の彼女と、全く同じ響きだった。
――出会った順番が違う。
――過ごした時間も違う。
――乗り越えた出来事も違う。
けれど、ヴィンスはヴィンセントで、オリアナはオリアナだった。
そんな、当たり前のことがわかるのに、こんなにも長い時間をかけてしまった。
「オリアナ」
震えたみっともない掠れ声で呼ぶと、オリアナはすぐに「うん」と返事をしてくれた。
「君が好きだ」
ほとんど吐息だけの言葉を、オリアナは掬い上げてくれた。オリアナの空色の瞳に涙の膜が張る。
「いつの君も、どんな君も、愛しいと思う。可愛くて、大切で、優しくしたくて、仕方がない」
「私も、ヴィンセントが好き」
ヴィンセントは瞼を閉じて、こみ上げる思いを堪えた。
かつてヴィンセントは、オリアナに「好きと言うな」と言ったことがあった。あれから彼女は、その言葉を使うことは一度も無かった。
だからヴィンセントは知らなかった。
本当に好きな相手から「好き」と言って貰えることが、こんなにも嬉しいものだと、ずっと知らなかった。
(いつか、いつか君が許してくれたら。僕の知る君との思い出を、聞いて欲しい。君がどんな風に、僕を助けようとしてくれたか、僕を愛してくれたか――今の君にもどうか、知って欲しい)
祈るように胸の中で呟くと、ヴィンセントはそっとオリアナの両頬から手を放した。
距離が離れ、少しばかり冷静になると、少し気恥ずかしい。互いに照れ笑いを浮かべる。その拍子にオリアナは手に持っていた手紙を思い出したらしく、手紙をぎゅっと握りしめる。
「――誕生日と、寮に届けてくれてた花束、やっぱりヴィンセントだったんだね」
「……気付いていたのか?」
「そうだったらいいな、って。思ってたの」
照れたようにオリアナが笑う。どんな表情も可愛くて、ヴィンセントは目を細めた。
「あれが僕に出来る、君への精一杯の誠意だった」
「嬉しかったよ。十年も……ありがとう。あの花束だけが、誕生日プレゼントの中で楽しみだったの」
「……喜んで貰えていて、僕も嬉しい」
自然に手を握り合う。
二人の手の間に出来た、ぎこちない隙間が愛しい。
「なんで、十年も前からくれてたの?」
「君に贈りたかったからに決まっているだろう」
「だって十年も前なんて、知り合ってもなかったじゃん」
「……僕は君を知っていた。ずっと前から」
どう伝えるか考えあぐねてそう言うと、オリアナはまん丸に見開いた目をヴィンセントに向ける。
「……じゃあもしかして、一度離れ離れになっちゃった、可愛くて可愛くて仕方が無い同い年の女の子って、私?」
ヴィンセントはぎょっとした。顔が真っ赤に染まる。
「なっ……! なんだそれは」
「……あってるんだ」
ヴィンセントの反応を見て、オリアナの頬も朱に染まる。両手で頬を押さえ、「ひゃー」と悲鳴を上げたオリアナは、真っ赤な顔でヴィンセントを睨んだ。
「ヴィンセントが教えてくれたんだよ。出会ってすぐのころ」
「いつまで覚えているんだ、そんなこと!」
「覚えてるに決まってる。だからビーゼルさんのこと、好きなんだって思ってたんだし……」
「何故そんな、とりとめも無い世間話を覚えてたんだ。あの時は別に、僕のことなんて好きじゃなかっただろう?」
出会ってすぐの意識してもいない男の片思い相手なんて、すぐに忘れるだろうと思っていたヴィンセントに、オリアナは首を傾げる。
「……そういえば、なんでだろう」
口をむむっと引き結んでオリアナが考え込む。ヴィンセントが人差し指で口の傍をつつくと、オリアナはぱかりと口を開いた。
「噛んでない」
従順な犬のように口の中を見せるオリアナの頭を、ひと撫でする。満足そうに顔を綻ばせていたオリアナが「ん?」と首を傾げた。
「――ていうことは、前に聞いたレモンのマフィンの手紙も、もしかして私に書いてたの?」
「……何故?」
「だってあれ、好きな人に書いたものだったんでしょ?」
何もかもがだだ漏れな事態について行けず、ヴィンセントは赤い顔を片手で隠す。
「……何故、そんなことまで知っているんだ」
「顔見てたらわかるよ、そんなの」
「僕はそれほどにわかりやすい顔を……?」
全く自覚が無かったことを言い当てられて、赤くなる頬を抑えられない。
「ねえ、いつから私を好きだったの?」
「……それは」
ヴィンセントは口ごもった。
(前の人生から――なんて、言えるはずも無い)
自分の死ぬ日を知らされるなんて、狂気の沙汰だ。ヴィンセントが話す巻き戻りの人生の話を、オリアナが信じてくれれば信じてくれるほど、彼女は不安になるだろう。
(まだ――
「――必ず話すから。少し待っていてくれないか」
途端に真面目な声色を出したヴィンセントに、オリアナはきょとんとする。
「無理ならいいよ?」
「君が聞いてくれるなら、話したい」
オリアナは「わかった」と頷いた。
「少しってどのくらい?」
「春の
「日付まで言うんだ」
「言っておいたほうがいいかと思って」
「うん。……わかった」
神妙に返事をしたオリアナが、上目遣いでヴィンセントを見た。
「ねえ――」
「どうした」
可愛いな、と思いながらヴィンセントはオリアナを見下ろす。
「恋人、ってことでいいんだよね?」
「……そうだな」
恋人、その言葉に感慨深くなる。二巡目のオリアナを、ヴィンセントは心の中で恋人のように扱っていたが、名実ともに恋人になったのは初めてだった。
「えへへっ……浮気しないでね」
「するはずがないだろう」
「知ってる? 第二クラスの常識では、腕組むのも浮気なんだよ」
ヴィンセントは驚いた。腕を組むなんて、女性をエスコートする時にあまりにも日常的に行いすぎていて、浮気に分類されるとは思ってもいなかった。
「――気をつける。他に駄目なことはあるのか?」
「外出の時、お迎えに来させるのも浮気。私以上に気安いしゃべり方するのも浮気。優しくするのも浮気。気を持たせるのも浮気。笑顔を見せるのも浮気。ダンスのレッスンしてあげるのも浮気。今日みたいに女子に囲まれた時は、『僕はオリアナちゃんが好きなので退いてください』って言わないと浮気」
「……それは本当に、第二の常識か?」
「私の気持ちを知っておいて損は無いと思う」
「その通りだ」
ヴィンセントは柔らかく笑った。こんなに長い間オリアナと一緒にいたのに、恋人になった後の話をするのは初めてだった。
「オリアナ」
「何?」
「そうして、不安なことがあればすぐに話してくれ。甘えてくれていい。君を支えられることが、何よりも嬉しい」
オリアナは赤らめた顔で、声にならない悲鳴を上げる。
「すごい、ヴィンセントがすけこましってる……」
「また凄い言葉を作って……君をたぶらかしても、もう問題は無いだろう?」
「ひょええ……ヴィンセント、キャラが違ううう」
「君も、僕に遠慮無くものを言ってくれるようになった。僕はそれも、嬉しい」
ひええ、と口から悲鳴を出し続けるオリアナの腰を抱き、肩を寄せる。顔を真っ赤にしたオリアナが、やおら顔を上げる。思っていたよりもずっと近くにヴィンセントの顔があったのか、オリアナは目をぎゅっと瞑って視線を避けた。
「オリアナ、キスするよ」
これも言っておいた方がいい気がして宣言すると、オリアナはせっかく瞑っていた目を見開いて、ぶるぶると震え出す。
「な、なんで言ったぁ」
(可愛い)
やはり言っておいて正解だったと思いながら、ヴィンセントはオリアナに顔を寄せた。
唇が触れあう。
触れ合った場所から、じんとした痺れが広がる。胸を満たす充足感に、また涙が出そうだった。
触れた唇は互いに緊張のせいで硬かった。一度離したが、名残惜しくなってすぐにもう一度口づけた。先ほどよりも温かくなり、うんと柔くなった感触が嬉しくて、ヴィンセントはオリアナの頬に手をかけた。
(甘い)
柔らかくなった唇の隙間から、オリアナの唾液が滲む。
もう一度唇を離し、角度を変えて触れる。これで終わろうと思っているのに、止められなくて、更に三度、同じ事を繰り返した。
(可愛い……)
唇を離して、焦点が合うくらいに顔も離す。オリアナは赤らみ、涙で潤んだ目で、うっとりとヴィンセントを見つめていた。
(これで最後だから)
耐えきれず、もう一度口づけた。
(柔らかい……可愛い……)
微かに湿った唇に煽られる。
ヴィンセントが目を開くと、オリアナは目を閉じていた。
(目を開けばいいのに)
近くで見たかったし、自分を見ていてほしかった。
(今なら、どれほど僕がオリアナを好きか――きっと目を見るだけで通じたのに)
これほど好きにさせたことを、思い知ればいいのに。
最後にしようと決めていたのに、やはり最後には出来ずに、くっついては離してと、そのまま五度キスをした。
唇が離れた隙を見つけたオリアナが、浅い呼吸の中で口を開く。
「わ、私」
「ああ」
「こういうの、疎いけど、多分これは、ファーストキスとして、あんまり一般的じゃ無いと思う」
「僕もそう思う」
最後にもう一度口づけて、ヴィンセントはオリアナを解放した。オリアナはくったりと力が抜け、ヴィンセントにもたれ掛かっている。言い返す気力は無いようだ。
オリアナの柔らかな髪を撫でながら、ヴィンセントは「当ててもいいか?」と尋ねた。
「何を?」
「君は――僕が『ああ』と言うの、好きだろう?」
オリアナががばりと体を起こす。
真っ赤だった顔を更に赤くして、「なんで知ってるの」と震える声で言った。
「ははっ……あはっ、はは!」
その顔があまりにも可愛くて、ヴィンセントは大きな声をあげて笑う。
(ああ、オリアナ)
――おかえり。そして、
(ただいま)
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