第151話 星の墜落 - 06 -


「……何をおっしゃっているの?」


 なんとか出た声は、みっともないほどに掠れていた。オリアナが心配そうに、ヤナを見つめるが、視線を返す余裕も無い。


「アズラク、お前はわかっているね?」


 アズラクは視線と同時に頭を下げた。その様子から、シンラの決定を、突然の物とは思っていないことが窺える。


『このアズラクを、捨てるとおっしゃるか?』


 ヤナが試練の中断を受け入れたとき、アズラクは珍しく抗った。ヤナは、アズラクが護衛を外れるのは一時的なものだと信じ切っていたからこそ、受け入れた。

 しかしアズラクは、自身が離れている間に、試練を中止される可能性があることを、知っていたのだ。


「試練を中止したら、どうなるの」


 震える声で尋ねるヤナに、シンラが牙を隠した虎のような顔で笑う。


「どうも。お前は国に戻ってくるし、国に戻れば、元々の婚約者と添い遂げるだけだ」


 事情を知らないヴィンセントとミゲルが、僅かに驚きの表情を浮かべる。オリアナは、ハラハラとした顔で、ヤナとアズラクを見比べた。


(元々の、婚約者――)


 ヤナはすぐ隣に座る、アズラクを見た。アズラクはヤナの方をちらりとも見ない。小さな体は全力で拒絶しているようにも思えて、ヤナは喉を震わせる。


「それが嫌で、こんな場所にまで……試練まで始めたのを、兄様はご存じでしょう?!」


「なら、今すぐ他の男と結婚して、アズラクを解放してやりなさい」


 静かでいて、威圧的な声でシンラが言った。ヤナとよく似た深い闇色の瞳が、ヤナを貫く。


「その時は、お前の手がもう二度と届かないところに、兄様が責任を持ってアズラクを連れて行く」


「……冗談でしょう?」


「冗談でこんなところまで来るはずが無いだろう」


 ヤナは全身を震わせて、目の前の小さな体に縋り付いた。


 母が好きなアズラクと結婚するわけにはいかない。

 アズラクの傍に母がいるのも見たくない。


 けれど――アズラクともう二度と会えなくなるなんて、そんなこと耐えられるはずが無い。


「嫌、絶対に嫌。嫌よ、嫌」


 小さなアズラクの胸に手を回し、体をぎゅうと抱きしめる。困ったように、小さな手のひらがヤナの腕を撫でた。


「ヤナ様」

「お前は、私とずっと一緒にいてくれるんじゃ無かったの?」


 悲しみを堪えきれない顔を、アズラクの頭に顔を埋めて隠す。アズラクは何も言うことが出来なくなり、またヤナの手を撫でた。


「アズラク、お前にも責任があるよ。全く……だから手紙で散々言っただろう。こんな甘ったれには適当な男を見つけて、早く試練を終わらせてしまえと」


「シンラ様っ――!」


 兄の非道な言葉に、ヤナは一瞬で悲しみが引いた。

 代わりに、感じたことが無いほどの怒りで、体中の血が沸騰しそうだった。


 ヤナにとって、試練は人生よりもずっと大事な恋心をかけた、たった一つの正念場だった。


 どの試合も全て、怖かった。

 いつアズラクが負けてしまうのか、ずっと不安だった。


 けれどそれを乗り越えなければ、自分はアズラクから離れられないと、そう思ったからこそ試練を続けた。


 なのに――


『だから手紙で散々言っただろう。こんな甘ったれには適当な男を見つけて、早く試練を終わらせてしまえと』


 アズラクとシンラが、そんな手紙のやりとりをしていることすら、ヤナは知らなかった。


 シンラには小さな頃から、妹の中でも特に可愛がられていると思っていた。

 多少癖のある性格をしているが、シンラとは上手くやっていた。薬のことでさえ、兄を信頼する気持ちのほうが大きかった。


 けれど、本心では妹の立ち向かう試練など、どうでもいいと思っていたのだ。


 エテ・カリマ国の男は皆、女は男の所有物だと思っている。

 これほどヤナが心を殺して頑張っていることも全て、単なる子どもの、そして女の癇癪だと思われる。


 少しの価値も無い、全て男が盤上で操る遊戯でしかないと、見くびっている。


「いい候補者が見つかるまで待ってほしいというお前の言葉を信じて待ってやってるというのに。こんなに長く試練をしている王女など、前例も無い」


「シンラ様――どうぞ、どうぞヤナ様のお気持ちをお考えください」


 ――プツン、と。

 ヤナの心を保っていた一本の線が、切れたように感じた。


『いい候補者が見つかるまで待ってほしいというお前の言葉を信じて』


 アズラクは、兄の言葉に乗るつもりだったのだ。ヤナの気持ちなど無視して、自分らが許せる男が現れれば、わざと負けて――ヤナを譲るつもりだった。


(結局――アズラクも、エテ・カリマの男だってこと)


 ヤナはアズラクから腕を放すと、スクッと立ち上がった。そして、毅然と兄を見下ろす。


「兄様――」


「なんだい?」

 余裕綽々の兄の顔が、生まれて初めて、恨めしいと思った。


 ヤナはソファから離れた。そして、目の前で他家のお家騒動を見せられ、気まずそうに座っていたオリアナ達のもとへ行った。


 驚いているオリアナの前を通り過ぎ、赤毛の男の腕を掴む。


「へっ?」


 強制的にソファから立ち上がらされたミゲルが、素っ頓狂な声を出す。



「兄様。私、彼の事を愛しているんです」



「……はい?」


 アズラクと同じ身長で、ミゲルがヤナを見下ろす。その目は目一杯見開かれていて、彼の本気の驚愕が伝わってくる。


「だから、兄様とアズラクの望み通り、彼に試練を受けて貰います」


 それで、満足なんでしょう。


 ヤナは冷え切った声で言った。


 完全に、ぶち切れていた。




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