第146話 星の墜落 - 01 -


 ひどくゆっくりと、時間が流れるようだった。

 大きな壁が、ヤナに向かって倒れて来ている。


「――ヤナ様ッ!」


 衝撃と共に抱きしめられた。

 力強い腕がヤナの体を締め付ける。


 この腕の中なら大丈夫だと、安堵と、喜びに身を委ねながら、


(あぁ……死ぬなら今がいいわ)


 なんて、真っ黒な視界の中でヤナは思った。




***




「ちまちました作業、あまり好きでは無いわね」


 魔法薬学の実習室で、ヤナは眉をひそめていた。

 オリアナから均等に切るよう指示されていた材料は、ヤナの前に置かれたまな板の上で、見るも無惨な姿になっている。


 オリアナはまな板の上を見てにこっと笑うと、ヤナの隣にいたアズラクを見上げた。


「……ここから、同じサイズになるように切れる?」

「善処しよう」


 アズラクが、ヤナに恭しく触れ、小さな手から包丁を放させる。ヤナは自分でこれ以上の成果を出すことを諦め、潔くアズラクに包丁を渡した。


 慣れた手つきでアズラクが包丁を動かす。数分も経たない内に、ヤナによってちぐはぐに切り分けられた巨大ヒルの一夜干しは、均等なサイズに切り揃えられることだろう。


「アズラクってば、料理もお上手そうなのですわねー」

「ヤナ様の身の回りの世話なら、一通り出来るように躾けられた」

 同じ班のコンスタンツェが感心したように言うと、アズラクは口角を上げた。


 ラーゲン魔法学校入学前、アズラクとの婚約を拒否したヤナは、すぐに試練を受けるための準備を始めた。国にアズラクに勝てる者がいなかったため、ヤナらが挑戦者を求めて国外に出る事は必然だった。


 警護の面も考えラーゲン魔法学校への入学が決まると、アズラクは護衛のみならず、従者としての仕事も学び始めた。入学後、男女で寮が別れることを知ったが、それまで二人は同室で生活するつもりでいたからだ。


 子どもの頃まで召し使いとしてハーレムで生活していたアズラクは、すぐに細々した仕事を覚えた。アズラクはヤナに必要な世話を一通りこなせる。


「お国では、さぞやモテたに違いありませんわね」


 コンスタンツェは恋愛に興味津々だが、疎いところがある。アズラクがモテているのは国だけでは無い。ヤナの知らないところでクラスメイトから求愛の証に蛍を貰っていたりと、ひたすらに隅に置けないのだ。


 コンスタンツェの言葉にアズラクは否定しなかった。太い指で包丁を握り、黙々と手を動かしている振りをして、聞き流している。


 面白くないヤナは、自分の手の匂いを嗅いだ。巨大ヒルの一夜干しは、なんとも言えない生臭い匂いを、ヤナの可憐な手に残していった。


「手を洗ってくるわ」

「ヒルってべたつくよね。いってらっしゃい」


 オリアナに手を振られ、ヤナは水道具すいどうぐのある洗い場までぷらぷらと歩いた。多少、やさぐれていた。


 ヤナにやきもちを妬く資格は無い。なんと言っても、アズラクとの婚約を蹴って、彼に五年に渡る奉仕をさせている。


 アズラクの気持ちが他のどの女生徒にも無いことを、ヤナは知っている。だからといって気分がいいものでは無いし、そのたびに自分の母の存在を思い出し、越えられない存在に、ぺしょんぺしょんになるまで自信を潰される。


 洗い場の蛇口を捻って水を出す。


「これかけてみたらいいじゃん」

「お前、まじやめろって!」


 丁寧にヤナが手を洗っていると、すぐ側の班の男子がはしゃぎながら近付いてきた。ヤナは蛇口を捻り、水を止める。ぶつかられでもしたら堪ったものでは無い。


 洗い場から離れようとしたヤナを避けようとしたのか、男子生徒がバランスを崩した。その拍子に、ヤナの隣にあった棚に激しくぶつかる。


 ビーカーや鉄製の小型鍋、魔法薬などを入れている棚が揺らいだ。


 棚が揺らいだ事に驚いた他の生徒が、薬草を煎じている鍋に向けるはずだった杖の矛先を、誤って棚に向けてしまった。杖から迸った魔法が、あろうことか棚に入っていた魔法道具にかけられてしまった。


 陣が発動した魔法道具は、棚の中で大きく暴れ回る。大きな音を立て、一瞬の内にガラスの試験管やビーカーを粉々に破壊する。

 扉の役目を果たしていた、薄い木の扉も破壊すると、魔法道具は魔力切れを起こして停止した。


 魔法道具が暴れたせいで、ぐらついていた棚がバランスを崩し、倒れかかってきた。

 棚の中で割れてしまったガラスや陶器の破片が、扉を無くした棚から降り注ぐ。


「――ヤナ様ッ!」


 ――ドンッ ガシャンッ


 耳障りな、大きな音と、悲鳴が教室に響き渡る。


 いつの間にヤナの側に来ていたのか、アズラクが身を挺してヤナをかばった。


 ヤナは寸前でアズラクに抱き締められていた。こんなに焦ったアズラクの声を聞いたのは、本当に久しぶりのことだった。


 引き締まったアズラクの体を伝い、ヤナの頬に生ぬるい液体が流れる。頬を伝う感触に、身の毛がよだった。重い棚と、棚から飛び出た破片を全て背面で受けたアズラクは、顔から血を滴らせながらヤナを見下ろした。


「お怪我は?」


(私のことなんか、かまっている場合では無いじゃないの!)


 ヤナは叫びたい衝動を堪えた。


 たとえ頭を打ち、一時的に聞き取りにくい状況に陥っていても、彼の耳に血が溜まっていても、絶対にアズラクが聞き取れるよう、明瞭な声でハッキリと答える。


「無い」


 アズラクが僅かに顎を引いて頷く。切れそうなほどの緊張感を孕んでいた顔には、安堵が広がっていた。


 ――ピチャン ピチャン


 割れた薬瓶から零れた魔法薬を被ったアズラクの髪やローブから、水滴が垂れる。床には薬瓶と、アズラクの血が混ざったピンク色の水たまりが出来ていた。

 彼の背の痛みがどれほどなのか、いつもこうしてアズラクに守られているヤナには想像もつかない。


「ありがとう。お前のおかげよ」


 ヤナが言える最上限の労りの言葉を紡ぐ。小さなヤナの声は、アズラクにしか聞こえていなかっただろう。それほどに教室は騒然としていた。


「全員離れろ! お前らもだベルツ! コルテス!」


 ハインツ先生が怒鳴り、生徒に指示を出す。コンスタンツェとルシアンは、ハインツ先生の指示を無視して、ガラスが飛び散った床の上で踏ん張り、アズラクの背に倒れた棚を戻そうとしている。だが棚は重たく、二人がかりでようやくアズラクの背から少し浮かせる程度しか動かせない。


 アズラクは生まれたての雛を巣に戻すよりもそっと、ヤナを抱きしめていた腕を解く。ヤナが無事なことを確認すると、ヤナにガラスの破片一つ落とさないように注意しながら、自分の背に倒れていた棚を押し戻した。


 背に大小様々な切り傷を負い、巨大な棚に押しつぶされていたくせに、アズラクは何よりも先に、ヤナを優先する。


「ザレナの他に怪我した奴はいるか?」

「足、ちょこっとだけ切ったみたいです」

「僕も」

「お前らも後で来い! ザレナ、行くぞ」


 ハインツ先生は魔法で散らばったガラス片を片付け終えると、血だらけのアズラクを引きずって医務室に連れて行く。ヤナももちろん、後に続いた。


「ヤナ様はお戻りください」

「嫌よ」


 アズラクを一秒でも早く治療したくて、ヤナは強い口調で言い切った。

 痛々しい背中や、傷ついた自分を見て、ヤナがどう思うか知っているのだろう。けれどそんな、何の得にもならない優しさや愛は要らない。


 ヤナがこれ以上の問答は許すつもりが無いことを、アズラクは的確に読み取ったに違いない。ヤナを実習室に戻すことを諦め、隣を歩かせる。


 魔法薬学の施設は、医務室のある棟から遠く離れている。何故こんな場所に建てたのかと、ヤナは創設者に文句を言ってやりたい気分だった。


 アズラクは顔をしかめているものの、自力で歩行出来た。アズラクのローブの背は八つ裂きになり、布の隙間から見える褐色の肌は血に塗れている。アズラクが歩いたところに、ポタリポタリと血が滴り道を作る。


 異変が起きたのは、医務室まであと少しという廊下でだった。


「っ――!」


 点々と血を垂らしながらも、呻き声一つあげずに歩いていたアズラクが、突如蹲った。前を歩いていたハインツ先生と、隣を歩いていたヤナがびくりと体を震わせる。


「うっ……がっ、ぁっ――!」

「おいっ、ザレナ!」


 ハインツ先生が切羽詰まった表情で駆け寄る。ヤナは蹲ったアズラクの体に触れた。アズラクの体が小刻みに震える。これまでの人生で、アズラクが痛みに声をあげる場面を見たのは、初めてのことだった。


「アズラク、アズラクッ」


 言いようも無い不安がヤナを埋め尽くす。


(アズラクを、失うかもしれない)


 血の気が引き、呼吸が浅くなる。

 試練をさせていても感じたことの無いほどの恐怖を、ヤナは初めて感じた。


「ちょっ、アズラク、大丈夫なの……?」

「先生呼んでこようか?」


 後ろから歩いてきていた軽傷を負った生徒達が、アズラクを心配して覗き込もうとする。

 ヤナはガバリとローブを脱ぐと、蹲るアズラクを隠すために掛けた。嫌がらせと取られてもかまわなかった。


 アズラクはエテ・カリマ国の戦士だ。

 戦士の弱っている姿を、誰にも見せるわけにはいかない。


「お前達、先に行ってろ!」


 切迫した声を出すハインツ先生に、クラスメイト達は素直に従った。後ろ髪を引かれつつも、全員真っ直ぐに医務室に向かう。


「担架を持ってくる。マハティーンはここで声をかけてろ」


 意識を失わせないためだとわかり、ヤナは頷いた。

 ローブの下で、アズラクは目を見開き、滝のような汗を流している。


 魔法国アマネセルでも、魔法で出来ないことがある。

 それは、人や物を浮かすことだ。


 空を飛ぶことを許されているのは、翼を持つものの特権とされている。人は竜道を通る魔力を通じて、翼を持つものの恩恵に預かるのみ。


(これほどに辛そうなのに……アズラクを、魔法でヒュンと浮かせてあげられたらいいのに)


 泣きそうになりながら、けれど、自分のために怪我を負ったアズラクに涙だけは絶対に見せてなるものかと、ヤナは全身に力を込める。


 そして、異変に気付いた。


 ヤナのかけたローブの中から、アズラクの体が消えていたのだ。


 否、消えたように見えた。ヤナのローブからはみ出ていた、アズラクの巨体は消え失せていたのだから。


「――アズ、ラク?」


 震える指先で、ヤナは自分のローブを摘まむと、恐る恐るローブを引っ張る。


「っ――!」


 そして、悲鳴を飲み込んだ。




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