第128話 青嵐と忘れ物 - 04 -


「気をつけろ。あまりに難しいようなら僕が取るから」

「駄目! 絶対駄目! それだけは駄目!」


 梯子を押さえるヴィンセントが、地面からあり得ないことを言い放つ。用具入れから持ってきた梯子に登り、自分の下着に向けて手を伸ばしていたオリアナは、顔を赤らめて下を向いた。


「目を閉じて! 目を! 閉じる!」

「わかった。わかったから」


 ヴィンセントは元々下を向いてくれていたが、律儀に目も閉じてくれたようだ。


 なんでこんなことになってしまったのか――オリアナは朝から泣きたかった。


 ――何て事の無い朝だったはずだ。外に干していた洗濯物が、無くなっていることに気付くまでは。


 洗濯物は寮母が日々世話してくれているが、生徒によっては下着だけは自分達で洗う者もいる。オリアナは、そちら派だった。


 ここのところずっと雨が続いていたから、今日までに乾かしてしまいたいと功を焦り、窓の外に干してしまったのが運の尽き。オリアナが眠っている間に、一枚の下着が旅に出てしまっていた。


 焦ったオリアナは朝早くから学校中を走り回り、ようやく自分の下着の家出先を突き止めた。

 用務員を探したが見当たらず焦燥感に駆られながら、男子寮に助けを求めに行ったのだ。


(アズラクなら木くらい、ひょいひょいって上って貰えそうだと思って……!)


 アズラクを待っていようとも思ったのだが、男子生徒がちらほら活動し始めていることに気付き、居ても立ってもいられずに男子寮のドアをノックしたのだ。


(それなのに私は、寝ぼけた格好で、好きな人に梯子を持って貰いながら、自分の下着に手を伸ばしてる! ……泣きたい)


 オリアナの下着は、短めのドロワーズだ。その形状から、カボチャパンツとも呼ばれる。シルクで出来た着心地のいい下着は、なんと今日に限って、赤だった。


(普段は白とかなのに……! なんで今日……! いや何色だって嫌なんだけど……!!)


 男の色気はガンガンに出ているが、互いに全く異性とも、恋愛対象にも見ていないアズラクに頼むのは気が楽だった。こういうとなんだが、二十も三十も年の離れた教員に頼むような感覚だった。多少の気恥ずかしさはあるが、それだけだ。


(なんでアズラクならいいのかって……正直に言えるはず無いじゃん?!)


 それでは、ヴィンセントは恋愛対象に見ているから駄目だと、言っているようなものである。


「取れたか?」

「も、もうちょっとです!」


 声をかけられ正気に戻る。とりあえず、この下着を連れ戻さねばならない。我が家の安全なクローゼットまで。


 木の幹に手をつき、必死に手を伸ばす。あと少しで、持っている枝に引っかかってくれそうだった。

 ちょいちょいと持っている枝を動かしていると、下着に枝が引っかかった。


「あっ!」


 と驚く間に、下着は木から落ちてしまった。そのまま、ふわふわと漂いながら地面に落ちる。


「どうした?」

「待って! 目を開けないで!」


 ヴィンセントが目を開けたら、確実に視界に入る位置に落ちてしまった。下着を取ろうと慌てて降りようとしたオリアナは、梯子から足を踏み外す。


「っ――!」


 悲鳴を上げる暇も無く、オリアナは梯子から転げ落ちた。

 衝撃を覚悟したが、いつまでたっても痛みはやってこなかった。代わりに、温かなぬくもりに包まれている。


 柔らかい地面に倒れ込んだオリアナは、混乱のままに体を起こした。


「ごめっ――!」


 顔を上げると、抱き留めてくれていたヴィンセントは無の表情をしていた。


 梯子から落ちたオリアナを心配するでも無く、押し倒したオリアナに焦るでも無い。あまりにも場にそぐわぬ表情に、好きな人に抱き留めてもらったというのに、ドキドキを味わい尽くす前に、オリアナはぽかんとした。


「……ヴィンセント?」

「……すまない。退いて貰えるか」

「あっ、はい」


 すすす、とオリアナはすぐに下敷きにしていたヴィンセントから離れる。


「怪我は無かったか?」

「はい。おかげさまで」

「よかった」


 抑揚の無い低い声だった。怒らせたのだろうか。怒らせたのかもしれない。今日のオリアナの態度は、それは酷いものだった。


 意図的に、抱きついたわけでは無い。でも、うるさく騒ぎ立てる好きでもない女の子に抱きつかれたら、誰だってこんな顔になるだろう。


「……ごめんなさい」

「ん?」


 神妙に謝るオリアナを、体を起こしたヴィンセントが見た。ヴィンセントのローブの背や肘が、泥で汚れている。連日の雨のせいでぬかるんでいたのだ。


「騒いじゃったし、こけちゃって……」

「ああ。危ないから、自分のためにも気をつけてくれ」


 声色は怒っているようでは無かった。オリアナはこっそりとヴィンセントの顔色を伺う。


「どうした?」

「あ、えーと、うーん」


 こっそり見たつもりが、完全にばれていた。オリアナは正直に告げた。


「怖い顔してたから……怒らせたなあ、って思って」

「怖い顔?」


 訝しむように自分の顔を触ったヴィンセントが「ああ」と言った。


「すまない。あの態勢には障りがあった。少しトラウマのあるポーズで」

「え?」

「一度、あの体勢で社会的に死んだことがあって」

「へ??」

「前の人生の話だ。出来れば忘れてくれ」


 心底嫌そうな顔をしてヴィンセントが言った。前の人生――あの下手な冗談を、またかぶせてくるとは思っていなかった。冗談を言われたということは、笑って流した方がいいんだろう。


「ははは」

 無理矢理笑ったオリアナを、ヴィンセントがねめつける。睨まれたのは初めてで、オリアナはびくりと震え上がった。


「君が笑うな」

「あっ、はい。すみません」


 すかさず謝る。ヴィンセントへの、冗談の対応の仕方がわからない。


「じゃあ、怒ってたんじゃない?」

「心配はしたが、怒ってはない」


 本心から言っているように聞こえて、オリアナは安堵した。その瞬間、思い出さなくてはいけなかったことをようやく思い出した。


(パンツ!)


「あった!」


 下着のことを完全に忘れていた。大慌てで、地面に落ちた下着を拾い上げる。多少泥がついていたが、飛んでいった時点で洗い直すつもりだったので問題は無い。下着を大事に、ローブの裾にしまった。


(よかった。またどこかに飛んでいく前で! 誰かに先に持って行かれたりしないで……!)


 取り返せた喜びを堪えきれず、オリアナはヴィンセントの方に走った。


「ヴィンセント!」


「ん?」


 泥を叩き落とすため、ローブを脱いでいたヴィンセントに、オリアナはぎゅっと飛びついた。多少よろめいたが、飛びついたオリアナをヴィンセントが抱き留める。


「どうし――」


「手伝ってくれてありがとう! 愛してる!」


 狼狽するヴィンセントに、オリアナは笑顔で言った。


 友達でも、「愛してる」ぐらい言い合うものだ。きっとそうだ。そういうものだって聞いたことがある気がする。

 このくらい許されるだろう。そのはずだ。そうだといい。


 いつまでも抱きついていたいが、あまりに長いと気持ちがバレる。


 ヴィンセントの体から離れると、オリアナは木に立てかけたままの梯子を取りに戻った。


「これ、用具入れに戻して、ご飯食べに行こっか」


(まあ、その前に私は支度しなきゃだけど)


 今日はパパッとメイクだな、なんて思いながら梯子を外す。ヴィンセントの方を見ると、ローブを持った格好のまま、微動だにしていない。


「ヴィンセント?」


 おーい、おーい? と呼びかけても、ヴィンセントはしばらく返事をしなかった。




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